第24話 手から手へ
その日は、サロンの休業日だった。
未沙と美咲、紗英の三人は、前回訪れた介護施設を再び訪れていた。
今回は、介護職員が自分たちで身体を気にかけられるように、簡単なケアの仕方を伝えることになっていた。
施設の一室には、数人の職員が集まっている。
「今日はありがとうございます」
「こちらこそ、お時間を作っていただいてありがとうございます」
未沙が丁寧に頭を下げる。
「今日は、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
前回顔を合わせた職員たちの姿もあった。
その中に、塚本もいる。
「前回は本当にありがとうございました」
「こちらこそ。少しでもお役に立てたなら、うれしいです」
未沙が穏やかに微笑む。
「今日は、難しいことはしません」
未沙が用意された椅子のほうを見る。
「まずは、ご自身の身体を知っていただくところから始めましょう」
「身体を知る?」
「はい」
未沙は塚本を見る。
「たとえば肩が凝っているとしても、ただ強く押せばいいというわけではありません」
「はい」
「どこが張っているのか。触れられて嫌なところはないか。どのくらいの強さなら心地よいのか」
未沙は自分の肩に手を置いた。
「そういうことを確かめながら触れていくことが大切です」
職員たちは真剣に聞いていた。
「マッサージというと、どうしても強く押すことを考えてしまうんですけど」
塚本が言う。
「そうですね。でも、強ければいいというものではありません」
「なるほど」
「大切なのは、相手がどう感じているかです」
未沙の言葉に、紗英が小さく頷いた。
紗英にとって、こうして誰かに伝える側に立つのは初めてだった。
サロンでお客様に施術することには慣れてきた。
けれど、人に教えるとなると、少し違う緊張がある。
「紗英さん」
「はい」
「少しお願いしてもいいかしら」
「はい」
未沙に促され、紗英が職員の一人と向かい合う。
「まず、肩に手を置いてみてください」
「こうですか?」
「はい。そのままで大丈夫です」
紗英がゆっくりと肩に触れる。
「まずは、押さなくてもいいですよ」
「触るだけですか?」
「はい。相手の身体の状態を感じることから始めてみましょう」
紗英は相手の肩に触れたまま、少しずつ手を動かした。
「ここ、少し張っていますね」
「そうなんです」
「痛くないですか?」
「大丈夫です」
「では、少しだけ圧をかけてみますね」
紗英がゆっくりと力を加える。
「これくらいはどうですか?」
「気持ちいいです」
「よかったです」
紗英の表情が少しやわらぐ。
その様子を見ながら、未沙が言った。
「今のように、相手に確認しながらやってみてください」
「はい」
「言葉を交わすことも、こういう時間の大事なところです」
塚本が頷く。
「たしかに、介護でも似ていますね」
「そうですね」
未沙が塚本を見る。
「触れることに慣れているからこそ、相手の反応を見落とさないことが大切なんだと思います」
「はい」
次に、美咲が別の職員の肩に触れる。
「力、強くないですか?」
「大丈夫です」
「少し弱くしてみましょうか?」
「そのくらいがいいです」
「分かりました」
美咲は相手の呼吸に合わせるように、ゆっくりと手を動かしていく。
職員たちも、互いに肩や腕に触れながら、少しずつ感覚を覚えていった。
「こういうのなら、仕事の合間にもできますね」
「そうですね」
「お互いにやってあげられますし」
「一人で我慢しなくていいんだ」
そんな声があちこちから聞こえる。
塚本も隣の職員の肩に触れながら、少し考えるように口を開いた。
「これ、職員同士だけじゃなくて……」
未沙が顔を向ける。
「はい?」
「介護を受けている方にも、できることがあるんじゃないですか?」
「そうですね」
未沙はすぐには答えず、少し考えた。
「ただ、相手の状態によっては、無理に触れないほうがいい場合もあります」
「はい」
「ですから、まずはその方が触れられることをどう感じるのかを大切にしていただいて」
「はい」
「できる範囲で、手や肩にそっと触れるだけでもいいと思います」
塚本が頷く。
「マッサージというより、触れてあげることから」
「ええ」
未沙は穏やかに微笑んだ。
「手を握るだけでもいいんです」
その言葉に、塚本の表情が少し変わった。
「それなら、できそうです」
「そう思っていただけるなら十分です」
「介護される方って、身体がつらいだけじゃなくて、気持ちが沈んでいることもありますから」
「そうですね」
美咲が静かに続ける。
「触れてもらうだけで、少し安心することもあると思います」
「はい」
紗英も頷いた。
「サロンでも、施術の前と後で、お客様の表情が変わることがあります」
「表情ですか?」
「はい。身体が楽になったからというのもあると思うんですけど、誰かに自分のために時間を使ってもらったっていうことも、あるのかなって」
未沙が紗英を見る。
「いいことを言うわね」
「ありがとうございます」
紗英は少し照れた。
しばらくして、塚本がふと思い出したように口を開いた。
「前回、サロンに行ったときに思ったんですけど……」
「どうされました?」
「施設の中も、もう少し落ち着く感じにできたらいいなって」
「落ち着く感じ、ですか?」
「はい」
塚本は少し考えながら話す。
「もちろん、同じようにはできないですけど」
「ええ」
「サロンって、入ったときから少し力が抜けるんですよね」
未沙は黙って聞いている。
「音楽が流れていて、照明もやわらかくて。スタッフの方の声も大きすぎなくて」
「ありがとうございます」
「前回行ったとき、施術を受ける前から、なんとなく落ち着いたんです」
塚本は笑った。
「だから、施設でも何かできないかなって」
「たとえば?」
美咲が尋ねる。
「音楽を流してみるとか」
「いいですね」
「今は業務の音やテレビの音が中心なので」
塚本は少し周囲を見回した。
「利用者さんが過ごす場所も、もう少しやわらかい空気にできたらいいのかなって」
「とても素敵な考えだと思います」
未沙が言った。
「ただ、サロンの真似をする必要はありませんよ」
「はい」
「その施設で過ごされる方にとって、何が心地いいのかを考えてみるといいと思います」
「なるほど」
「音楽が好きな方なら音楽を。静かなほうが落ち着く方なら、静かな時間を」
未沙は少しだけ微笑んだ。
「大切なのは、形より、その方が心地よく過ごせることですから」
塚本は何度も頷いた。
「それなら、考えてみたいです」
「ぜひ」
未沙の声はやわらかかった。
「サロンも、最初から今の形だったわけではありません」
「そうなんですか?」
「ええ。お客様がどうしたら落ち着いて過ごせるのか、スタッフと話しながら少しずつ作ってきたんです」
「そうだったんですね」
「ですから、皆さんの施設にも、皆さんにしか作れない空気があると思いますよ」
その言葉を聞いて、職員たちの表情が少し明るくなった。
「なんだか、やってみたくなりますね」
「私も」
「まずは音楽を変えてみようかな」
「利用者さんにも聞いてみたいですね」
いくつもの声が重なる。
未沙はその様子を静かに見ていた。
最初は、身体のケアの仕方を伝えることが今日の目的だと思っていた。
けれど、実際にはそれだけではなかった。
自分たちの身体を気にかけること。
互いに少し支え合うこと。
介護を受ける人にも、できる範囲で触れること。
そして、その人たちが過ごす場所の空気まで考えてみること。
どれも、大きなことではない。
けれど、そういう小さなことが重なっていくのだと思う。
「今日は、とても勉強になりました」
塚本が頭を下げる。
「こちらこそ、皆さんのお話を聞けてよかったです」
未沙も丁寧に頭を下げた。
「また何かあれば、いつでも相談してください」
「いいんですか?」
「もちろんです」
美咲が笑った。
「次は、私たちのほうが教わることもありそうですね」
「それ、いいですね」
塚本も笑う。
「お互いに勉強できたら、一番いいです」
「はい」
紗英も笑った。
帰り支度を終え、三人は施設を出る。
外へ出ると、午後の光が少し傾いていた。
「初めて教える側になって、どうだった?」
美咲が紗英に尋ねる。
「緊張しました」
「やっぱり?」
「はい。でも……」
紗英は少し考えてから笑った。
「楽しかったです」
「よかった」
「教えるって、自分が分かっていないとできないんですね」
「そうだね」
美咲が頷く。
「私も、前に同じこと思った」
少し前のことを思い出す。
教わる側だった自分。
今は、誰かに伝える側にもなっている。
「紗英さん」
未沙が声をかけた。
「はい」
「今日、きちんとできていたわよ」
「本当ですか?」
「ええ」
紗英の顔が明るくなる。
「ありがとうございます」
「ただ、これからもっと自分のやり方が見つかってくると思うわ」
「自分のやり方……」
「美咲ちゃんにも美咲ちゃんの空気があるように、紗英さんにも紗英さんの空気があるもの」
紗英は静かに頷いた。
「はい」
三人は並んで歩き出す。
今日伝えたことが、このあとどう使われていくのかは分からない。
けれど、ここで覚えた触れ方が、職員から職員へ渡っていくことはあるのかもしれない。
その先で、また別の誰かを少し楽にすることもあるのかもしれなかった。
「また、来られるといいですね」
紗英が言う。
「ええ」
未沙が答える。
「そうね」
美咲も小さく頷いた。
午後のやわらかな光の中を、三人はゆっくり駅のほうへ歩いていった。




