第22話 話しやすい人
午後のサロンは、少しだけ静かだった。
予約と予約の間にできた短い時間。
美咲は受付でカルテを整理しながら、次のお客様を待っていた。
やがて、入口のベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
美咲は顔を上げ、来店した女性に笑顔を向けた。
「こんにちは」
「こんにちは。お待ちしておりました」
「黒須です」
「黒須様ですね。こちらへどうぞ」
美咲は施術室へ案内した。
「本日は、どこか気になるところはありますか?」
「いつもの肩と首ですね」
「分かりました。最近、お疲れは溜まっていますか?」
「そうですね。ちょっと仕事が忙しくて」
「そうなんですね」
美咲はカルテを確認しながら、穏やかに頷いた。
「毎日、帰るのが遅くて」
「それは大変ですね」
「そうなんですよ」
黒須は苦笑した。
「最近は寝る前まで仕事のことを考えちゃって」
「なかなか頭が休まらないですね」
「そうなんです」
美咲はそれ以上、無理に言葉を続けなかった。
施術が始まる。
肩に触れ、張っているところを確かめる。
「少し張っていますね」
「やっぱりですか?」
「はい。今日はいつもより硬い感じがします」
「自分ではあまり分からないんですよね」
「毎日だと、慣れてしまいますからね」
「そうなんですよ」
黒須は小さく笑った。
美咲は力加減を確かめながら、ゆっくりと施術を続ける。
しばらくすると、黒須のほうから話し始めた。
「最近、仕事でちょっと嫌なことがあって」
「そうだったんですか」
「はい。別に大したことじゃないんですけど」
「大したことじゃないと思っていても、気になることってありますよね」
「そうなんです」
黒須の声が少しだけ柔らかくなる。
「上司に言われたことが、ずっと引っかかってて」
「何か納得できないことがあったんですか?」
「そう。こっちはちゃんとやってるつもりなのに、もっとできるでしょうって言われて」
「それは、ちょっとつらいですね」
「ですよね」
黒須は笑った。
「すみません。なんか愚痴みたいになっちゃって」
「大丈夫ですよ」
美咲は手を止めない。
「ここでは、気にしなくていいですから」
「……そう言ってもらえると、なんか話しやすいですね」
「そうですか?」
「はい」
そこから、黒須は少しずつ話した。
職場のこと。
最近任された仕事のこと。
上司とのやり取り。
うまくいかなかったこと。
美咲は、ときどき相槌を打ちながら聞いていた。
「それは嫌ですね」
「そうなんですよ」
「私だったら、ちょっと落ち込むと思います」
「ですよね」
「でも、それだけ任されているということでもあるのかもしれませんね」
「……そうなのかな」
「たぶん」
美咲は、それ以上は言わなかった。
励まそうとしすぎない。
答えを出そうともしない。
ただ、聞く。
やがて黒須の声が少しずつ穏やかになっていった。
施術が終わる。
「お疲れさまでした」
黒須はゆっくり身体を起こした。
そして、首を左右に動かす。
「あ……」
「どうしました?」
「軽いです」
「よかったです」
黒須は肩を回した。
「いつもより楽かも」
「今日はかなり張っていましたから」
「そうなんですね」
少し考えるようにしてから、黒須が言った。
「なんか……」
「はい?」
「美咲さんだと、話しやすいんですよね」
「え?」
美咲は少し驚いた。
「自分でも、こんなに話すつもりなかったんですけど」
「そうですか?」
「はい」
「私、聞いていただけですよ」
「それがいいんだと思います」
「そうなんですかね」
「なんか、話してもいいかなって思えるんです」
美咲は少し照れたように笑った。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
黒須は胸元に手を当てる。
「身体も楽になったんですけど、こっちも少し楽になりました」
「……よかったです」
黒須は笑った。
「また来てもいいですか?」
「もちろんです」
「じゃあ、またお願いします」
「お待ちしています」
黒須は受付へ向かった。
会計を済ませると、もう一度美咲に頭を下げてから、店を出ていった。
扉が閉まる。
美咲が受付へ戻ると、そこには紗英がいた。
「美咲さん」
「ん?」
「今のお客様、すごく話してましたね」
「そう?」
「はい」
「たまたまだよ」
「そうですか?」
紗英は少し首を傾げた。
「私が担当したときは、あんなに話していなかったですよ」
「お客様にも、その日の気分とかあるから」
「でも……」
紗英は少し考えるように言った。
「美咲さんって、話を聞くの上手ですよね」
「そうかな」
「はい」
「そんなこと、考えたことなかった」
「私、けっこう見てます」
「何を?」
「美咲さんがお客様と話しているところです」
美咲が少し驚いた顔をする。
「そんなに?」
「はい」
紗英は笑った。
「美咲さんが担当すると、お客様の表情が柔らかくなるんです」
「……そう?」
「はい」
「私、何もしてないけどな」
「そこなんじゃないですか?」
「え?」
「何かしようとしすぎてないんだと思います」
紗英は少し照れながら続けた。
「話してください、って感じじゃなくて。話してもいいし、話さなくてもいいっていう感じがするんです」
美咲は黙って聞いていた。
「だから、たぶん話しやすいんだと思います」
「そんなふうに見えてたんだ」
「はい」
紗英は少し笑った。
「私も、美咲さんの空気づくり、参考にしたいです」
「空気づくり?」
「はい」
「私、そんな大したことしてないよ」
「でも、私にはできないので」
紗英は少し考えてから続ける。
「私、お客様が話してくれないと、何か話題を探さなきゃって思っちゃうんです」
「うん」
「でも美咲さんは、無理に話さなくてもいいっていう空気があるから、お客様のほうから話したくなるんだと思います」
美咲は困ったように笑った。
「なんか、そんなに分析されると恥ずかしいな」
「すみません」
「いや、嬉しいけど」
二人で笑った。
そのとき、奥から未沙が出てきた。
「何の話?」
「美咲さんの話です」
紗英が答える。
「美咲ちゃんの?」
「はい。美咲さんって、お客様と話すの上手ですよねって」
未沙は美咲を見る。
「そうね」
美咲が少し照れる。
「未沙さんも、そう思います?」
「思うよ」
「……ありがとうございます」
未沙は受付のカウンターに軽く手を置いた。
「美咲ちゃんは、ちゃんと聞いているからね」
「聞いているだけですよ」
「それが難しいのよ」
美咲が顔を上げる。
未沙は少し考えてから続けた。
「人って、何か言ってほしいときもあるけれど、ただ聞いてほしいときもあるでしょう?」
「はい」
「美咲ちゃんは、そこをちゃんと見ているんだと思う」
美咲は返す言葉がなくなった。
紗英も静かに未沙の話を聞いている。
未沙は紗英を見る。
「紗英さんも、美咲ちゃんのやり方を参考にするのはいいと思うわ」
「はい」
「でも、同じになる必要はないよ」
「……はい」
「美咲ちゃんには、美咲ちゃんの良さがあるから」
未沙は少し笑った。
「紗英さんにも、紗英さんの良さがあるもの」
紗英は嬉しそうに頷いた。
「分かりました」
その言葉を聞きながら、美咲は少し不思議な気持ちになった。
以前なら、未沙のようになりたいと思っていた。
未沙の施術。
未沙の接客。
未沙の立ち振る舞い。
未沙がそこにいるだけで整っていく、あの空気。
自分にはないものばかりに思えていた。
けれど今は、少しだけ違って見える。
未沙には未沙の空気がある。
そして、自分には自分の空気がある。
同じでなくてもいい。
「美咲さん」
紗英が声をかける。
「ん?」
「今度、少し見ていてもいいですか?」
「何を?」
「美咲さんがお客様と話しているところです」
「そんなに見る?」
「勉強したいので」
美咲は笑った。
「いいよ。でも、私も紗英さんの施術、勉強してるからね」
「え?」
「技術とか、けっこう参考にしてる」
紗英が少し嬉しそうな顔をする。
「本当ですか?」
「本当」
「じゃあ、お互いですね」
「そうだね」
二人で笑った。
その様子を見ていた未沙が、静かに微笑む。
サロンでは、毎日いろいろな人が働いている。
経験も違う。
得意なことも違う。
お客様との向き合い方も違う。
それでも、それぞれが自分のやり方で誰かを楽にできる。
それが、この店の良さなのかもしれない。
午後の予約が始まる。
「次のお客様、いらっしゃいました」
スタッフの声がする。
「はい」
美咲が立ち上がる。
「行ってきます」
「お願いします」
紗英が笑う。
美咲は受付を離れ、入口へ向かった。
「いらっしゃいませ」
美咲はきちんと顔を上げて、お客様に笑顔を向ける。
「こんにちは」
「こんにちは。お待ちしておりました」
いつもの言葉。
いつもの笑顔。
特別なことをしているつもりはない。
けれど、その人が少しだけ肩の力を抜いてくれるなら。
少しだけ話してみようと思ってくれるなら。
それも、自分にできることなのかもしれない。
美咲はそんなことを思いながら、お客様を施術室へ案内した。




