↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/38

第20話 手のひら

朝から、美咲は少し緊張していた。


今日は、オイルマッサージの研修がある。


これまでにも基本的な施術は教わってきた。

けれど、オイルを使った施術は少し勝手が違う。


手のひらの使い方。

身体の重心。

圧のかけ方。

そして、相手の身体を感じながら、手を止めずに動かしていくこと。


頭では分かっている。


けれど、実際にやってみると難しかった。


「では、一度やってみましょう」


講師の声に、美咲は小さく息を吸った。


「はい」


ペアになった相手の背中にオイルをなじませる。


手のひらを置く。

ゆっくり動かす。


「……」


思ったより難しい。


ただ滑らせればいいわけではない。

力を入れすぎてもいけない。

かといって、弱すぎれば物足りない。


美咲は何度も確かめるように手を動かした。


「美咲さん」


「はい」


「少し力が入っています」


「やっぱり……」


「頑張って動かそうとしなくて大丈夫ですよ」


「はい」


美咲は一度、小さく息を吐いた。


頑張らない。


そう言われても、何かを覚えようとすると、どうしても力が入る。


もう一度、手を置く。


今度は少しだけ力を抜いた。


「そうです」


講師の声が聞こえた。


「その感じです」


美咲は小さく息を吐いた。


少しだけ分かった気がした。


けれど、その感覚はまだ曖昧で、手の中に残りきらないままだった。


午後、美咲がサロンへ戻ってきた。


「ただいま戻りました」


「おかえりなさい」


受付にいた紗英が顔を上げる。


「研修、どうでした?」


美咲は靴を脱ぎながら、小さく息を吐いた。


「難しかったです」


「そんなに?」


「うん。思ってたより全然難しかった」


「オイルマッサージですよね?」


「そう」


美咲は少し苦笑した。


「手の使い方もそうだし、力加減も難しくて。力を抜いてって何度も言われました」


「へえ」


「頭では分かるんですけどね」


「実際にやると?」


「力入っちゃう」


紗英が笑った。


「美咲さんらしい」


「どういう意味?」


「真面目だから」


「……それ、褒めてる?」


「もちろん」


二人で笑う。


そこへ、奥から未沙が出てきた。


「おかえり」


「ただいま戻りました」


「どうだった?」


美咲は紗英に話したのと同じように答えた。


「難しかったです」


「何が?」


「力加減とか、手の使い方とか。手を止めないようにって言われたんですけど、どうしても途中で止まっちゃって」


未沙は少しだけ考えるように美咲を見る。


「そうなんだ」


「はい」


「今、時間ある?」


「あります」


「じゃあ、やってみようか」


「え?」


「実際にやったほうが分かると思う」


美咲は少し迷うように目を動かした。


「でも、モデルが……」


未沙は受付のほうを見る。


そこには紗英がいた。


「紗英さん、今時間ある?」


「はい。次のお客様まで少しあります」


「モデルやってもらえない?」


紗英はすぐに笑った。


「いいですよ」


「ありがとう」


「私でよければ」


「お願いします」


三人で施術室へ向かった。


紗英がベッドにうつ伏せになる。


「なんか、私まで研修みたいですね」


「付き合ってもらってごめんね」


「全然。私も興味あります」


美咲が準備を始める。


オイルを手のひらに取る。


「まず、温度を見て」


未沙が横から声をかける。


「はい」


美咲は両手を軽く合わせた。


「それから、いきなり動かさない」


「はい」


「最初に手を置いて」


美咲が紗英の背中にそっと手を置く。


「そのまま少し待って」


「……はい」


数秒、静かな時間が流れた。


「どう?」


「ちょっと緊張します」


美咲が正直に言うと、紗英が小さく笑った。


「私もです」


未沙も少しだけ笑う。


「じゃあ、ゆっくり動かしてみて」


美咲の手が、背中の上を滑っていく。


肩から背中へ。

ゆっくりと。


けれど途中で、ほんの少しだけ流れが止まった。


「今、止まったね」


「はい……」


美咲が小さくうなだれる。


「止めちゃいけないって思いすぎなくていいよ」


「え?」


「止めないことばかり気にすると、動きが硬くなるから」


美咲は顔を上げる。


「じゃあ、どうしたらいいですか?」


「次を考えすぎない」


「次……」


「今、触れてるところをちゃんと感じて。そのまま次にいけばいい」


美咲は黙って頷いた。


もう一度、手を動かす。


さっきより少しだけ、流れがやわらかい。


「そう」


未沙の声が落ちる。


「あと、腕だけで動かさない」


「はい」


「身体ごと」


美咲が重心を少し移す。


それだけで、手のひらの触れ方が変わった。


「どうですか?」


未沙が紗英に聞く。


紗英は少し考えてから答えた。


「さっきより、落ち着きます」


「どんなふうに?」


「最初は、手だけが動いてる感じだったんですけど」


紗英は言葉を探すように少し間を置いた。


「今は、手がちゃんとついてきてる感じがします」


美咲が顔を上げる。


「本当?」


「うん。さっきより好きです」


未沙も小さく頷いた。


「今の感じ」


美咲は自分の手のひらを意識しながら、もう一度ゆっくり動かした。


急がない。

力を入れすぎない。

手を置いて、触れているところを感じる。


そこから、次へ。


紗英の呼吸が、少しずつ深くなっていく。


未沙はしばらく何も言わなかった。


やがて、静かに口を開く。


「オイルって、効かせようとしすぎないほうがいいから」


美咲は手を動かしたまま聞いている。


「手のひらをちゃんと預ける感じ」


「預ける……」


「うん」


その言葉を、美咲は頭の中で繰り返した。


預ける。


押すのではなく。

動かすのでもなく。

触れたまま、相手に合わせていく。


その感覚を探すように、美咲はまた手を滑らせた。


「うん」


未沙が言う。


「今のほうが、ずっといい」


美咲が手を止める。


「どうでした?」


紗英がゆっくり顔を上げた。


「気持ちよかったです」


「本当?」


「はい」


紗英は少し考えてから続ける。


「最初は、ちょっと迷ってる感じがありました」


「やっぱり……」


「でも、途中から変わりました」


「どう変わった?」


「押されてる感じが減って」


紗英は自分の背中を思い出すように言った。


「ちゃんと触ってもらってる感じになりました」


美咲はその言葉を黙って受け止める。


「私は、そっちのほうが好きです」


ぱっと、美咲の表情が明るくなる。


「よかった」


未沙も頷いた。


「今日はそれで十分だと思う」


「はい」


紗英が起き上がる。


「美咲さん、すごいですね」


「いや、まだ全然……」


「でも、ちゃんと変わりましたよ」


紗英は笑った。


「受けてて分かりました」


美咲は少し照れたように笑う。


「未沙さんが教えてくれたからです」


「私は少し言っただけだよ」


「それでもです」


未沙は少しだけ笑った。


「じゃあ、あとは練習かな」


「はい」


美咲は自分の手を見る。


まだ慣れていない。

まだ思うようには動かない。


それでも、今日少しだけ分かったことがある。


ただ力を抜けばいいわけじゃない。

自分の手だけで何とかしようとしなくていい。


相手に触れて、そこから次へ行く。


その流れを、手のひらで覚えていくのだ。


「紗英さん、ありがとうございました」


「こちらこそ。気持ちよかったです」


「本当に?」


「はい」


紗英は笑った。


「またモデルやりますよ」


「お願いします」


三人の間に、やわらかい笑い声が広がった。


美咲はもう一度、自分の手のひらを見る。


まだ何も掴めていないようでいて、

さっきまでとは少しだけ違う気がした。


これから何度も迷って、何度もやり直すのだろう。


それでも今日、自分の手の中に、ほんの少しだけ残った感覚があった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。