第19話 おかあさん
未沙には、三歳になる娘がいる。
名前は未輝。
一歳児保育の頃から、今の保育園に通っている。
朝は未沙が送り、帰りは五条が迎えに行く。
それが、もう二年近く続いていた。
この日も、いつものように未沙が未輝を起こすところから一日が始まった。
「未輝、起きて」
布団の中から、小さな声が返ってくる。
「……まだねむい」
「もう時間だよ」
「あとちょっと」
「あとちょっとは、さっきも聞いたよ」
未沙が布団を少しめくると、未輝が顔だけ出した。
「おかあさん」
「なに?」
「だっこ」
未沙は少し困ったような顔をする。
「もう三歳でしょう?」
「さんさいでも、だっこ」
「……そう」
結局、未沙は未輝を抱き上げた。
「重くなったね」
「おかあさんがよわくなったんだよ」
「そうかもね」
未輝が笑う。
未沙も少しだけ笑った。
朝食を済ませ、未沙は未輝の髪を結んでいた。
「動かないで」
「いたい」
「ごめん」
少しだけ力を緩める。
「これでいい?」
「うん」
鏡の中で、未輝が自分の髪を見る。
「かわいい?」
「うん。かわいいよ」
「おかあさんも?」
未沙は手を止めた。
「……うん?」
「おかあさんもかわいい?」
一瞬だけ黙ってから、未沙は小さく笑った。
「そうね。かわいいんじゃない?」
「やった」
未輝は嬉しそうに笑った。
支度を終え、二人で保育園へ向かう。
玄関で靴を履きながら、未輝が未沙を見上げた。
「おかあさん、きょうおむかえ?」
「今日は違うよ」
「おとうさん?」
「うん。お父さんがお迎え」
「そっか」
未輝は少しだけ考えてから、手を伸ばした。
未沙はその手を握る。
小さな手だった。
一歳児保育の頃から、この手を握って歩いてきた。
最初は、保育園へ預けるだけでも心配だった。
泣いている未輝を先生に預けて、その場を離れるときには、何度も振り返った。
今では、未輝のほうが先に歩いていく。
それでも朝、こうして手をつなぐことだけは変わらない。
保育園までの道を、二人で歩く。
未輝は途中で何度も立ち止まる。
「あれなに?」
「お花」
「なんていうはな?」
「知らない」
「おかあさん、しらないの?」
「うん。知らないものは知らないよ」
「ふーん」
未輝は納得したのか、また歩き始める。
少し歩くと、今度は道端の小さな石を拾った。
「これ、きれい」
「そう?」
「うん」
「じゃあ、持っていく?」
「うん」
未沙はそれ以上何も言わない。
未輝は大事そうに石を握ったまま歩いていく。
保育園に着くと、先生が迎えてくれた。
「おはようございます」
「おはようございます」
未輝は先生の顔を見ると、少しだけ未沙の後ろに隠れる。
「未輝ちゃん、おはよう」
「……おはよう」
「今日は何持ってるの?」
未輝が手を開く。
小さな石。
「きれいなの」
「ほんとだね」
先生が笑う。
未輝も嬉しそうに笑った。
「いってらっしゃい」
「おかあさん、おしごと?」
「うん」
「がんばってね」
「未輝もね」
「うん」
未輝は先生に手を引かれて中へ入っていく。
少しだけ振り返る。
未沙も手を振った。
「またね」
「またね、おかあさん」
扉が閉まる。
未沙はしばらくその場に立っていた。
それから、小さく息を吐く。
「……行こう」
自分に言うように呟いて、仕事へ向かった。
その日のサロンは、いつも通りだった。
予約が入り、スタッフが動き、お客さんが来る。
未沙も、いつものように仕事をする。
家に帰れば母親だけれど、店に入れば施術者で、見るべき相手がいる。
その切り替えは、もう自然にできるようになっていた。
夕方、五条が保育園へ未輝を迎えに行く。
「おとうさん!」
「おかえり」
「きょうね、えをかいたの」
「へえ。何の絵?」
「あとでみせるね」
「楽しみだな」
五条が手を差し出すと、未輝はその手を握った。
二人で帰宅する。
玄関を開けると、猫のあわが足元へやってくる。
「あわ!」
未輝がしゃがみ込む。
あわは慣れたように未輝の足元をすり抜けた。
「まって。あわ」
未輝が追いかける。
「走ると転ぶぞ」
「だいじょうぶ」
「その言い方、たぶん大丈夫じゃないやつだな」
五条が笑う。
未輝も笑いながら、あわの後を追いかける。
あわは少し先まで逃げると、振り返った。
「まってよ」
未輝がまた追いかける。
家の中に、小さな足音と猫の足音が響く。
しばらくすると、未輝はテーブルに座って絵を描き始めた。
クレヨンを一本ずつ並べる。
「何描いてるの?」
「おかあさん」
「お母さん?」
「うん」
五条が覗き込む。
そこには、大きな丸い顔と、長い髪の女の人が描かれていた。
「これ、お母さん?」
「うん」
「上手だな」
「こっちは、おとうさん」
「俺?」
「うん」
隣には、少し大きな丸い顔。
その横に、大きな猫がいる。
「あわもいるのか」
「うん」
「俺より大きくない?」
未輝は絵を見つめる。
「おとうさん、おっきいから」
「じゃあ、なんで絵では俺のほうが小さいんだよ」
未輝は答えず、またクレヨンを動かした。
五条は笑った。
絵を描き終えると、未輝は絵本を一冊持ってきた。
「えほん、よむ?」
五条が手を伸ばす。
けれど未輝は首を振った。
「みき、よめるから」
「読めるの?」
「うん」
未輝は絵本を膝の上に広げた。
「むかし、むかし……」
たどたどしく、それでも一生懸命に文字を追っていく。
五条は口を挟まずに聞いていた。
「すごいな」
「すごい?」
「うん。ちゃんと読めてる」
未輝は嬉しそうに笑った。
「おかあさんにも、みせる」
「そうだな」
未輝はもう一度、ページをめくる。
自分で読めることが嬉しいらしい。
一ページ読むたびに、五条の顔を見る。
「よめた?」
「読めたよ」
「ここも?」
「うん」
「ここは?」
「そこも読めてる」
「みき、よめる?」
「読めるよ」
「すごい?」
「すごい」
未輝は満足そうに頷き、また次のページを読んだ。
やがて玄関の音がした。
「ただいま」
未沙の声。
未輝が顔を上げる。
「あ、おかあさん!」
絵本を置いて、走っていく。
未沙は靴を脱ぎながら振り返った。
「ただいま」
「おかえり!」
未輝が未沙のところまで来る。
「今日どうだった?」
「たのしかった」
「そう」
「え、かいたの」
「見せて」
「あとで」
「あとで?」
「うん」
未沙が少し笑った。
「分かった」
未輝はさっきの絵本を持ってくる。
「おかあさん」
「ん?」
「よんで」
未沙が絵本を見る。
「自分で読めるんじゃなかった?」
「よめるよ」
「じゃあ……」
「おかあさんがいい」
未沙は少しだけ目を瞬かせる。
「お父さんには?」
「みき、よめるから」
五条が横から笑った。
「俺には読ませてくれなかったのに」
「おとうさんは、だめ」
「なんで?」
「おかあさんがいいの」
五条が未沙を見る。
未沙は少しだけ照れたように目を逸らした。
「……じゃあ、読もうか」
「うん」
未輝が未沙の隣にぴったり座る。
未沙が絵本を開く。
読み始める。
仕事のときのような整った声ではない。
少し抑揚が足りなくて、ところどころ読む速さも揃っていない。
それでも未輝は、嬉しそうに聞いていた。
ページをめくるたびに、未輝が少しずつ未沙へ身体を寄せてくる。
あわもいつの間にかやってきて、二人の足元で丸くなった。
「ここ、みて」
「うん」
「ここ、おもしろい」
「そうね」
「もういっかい」
「もう一回?」
「うん」
未沙は少し笑った。
「分かった」
もう一度、最初のページへ戻る。
五条は少し離れたところから、その二人を見ていた。
読み終わる頃には、未輝は未沙の腕に寄りかかっていた。
「眠い?」
「うん」
「じゃあ、寝ようか」
「おかあさん」
「ん?」
「きょうも、かえってきてくれてありがとう」
未沙の手が止まる。
「……どういたしまして」
それしか言えなかった。
未輝はもう目を閉じている。
未沙はその小さな頭を、そっと撫でた。
少し離れたところから、五条が言う。
「未輝、お母さん好きだな」
未沙は眠っている未輝を見たまま、少しだけ笑った。
「そうね」
「未沙のこと、ちゃんと分かってるんだろうな」
「何が?」
「帰ってきたら、読むのは自分じゃなくてお母さんがいいとか」
五条は笑う。
「そういうの、ちゃんと決まってるんだよ」
未沙は答えず、未輝の頬に残ったクレヨンの跡を親指でそっとなぞった。
眠ったままの未輝が、小さく手を動かす。
何かを探すみたいに伸びてきた指を、未沙は自然に握った。
小さな手だった。
一歳児保育の頃から、何度も握ってきた手。
保育園へ送る朝も。
泣いている未輝を抱きしめた日も。
初めて歩いた日も。
今日みたいに絵本を読む夜も。
ずっと、この手を握ってきた。
未沙はその手を見つめる。
上手に言葉にできなくても。
甘えられるたびに、いつも完璧に応えられるわけじゃなくても。
こうして、帰ってきて、手を握ることはできる。
それだけでいいのかもしれないと、未沙は思った。
足元では、あわが小さく丸くなっている。
家の中には、もう誰の声もしなかった。
ただ、眠る未輝の小さな寝息と、あわのかすかな喉鳴らしだけが聞こえていた。




