第18話 里帰り
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
受付から顔を上げた美咲は、初めて見る女性に目を留めた。
予約表を確かめ、笑顔を向ける。
「お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
「藤原です」
「藤原様、お待ちしておりました」
受付を済ませると、美咲は施術室へ案内した。
「本日は未沙が担当いたします」
「よろしくお願いします」
女性は軽く頭を下げる。
美咲はそのまま未沙へ引き継いだ。
「未沙さん、藤原様です」
「はい」
未沙がやわらかく笑う。
「初めまして。今日はありがとうございます」
「こちらこそ、お願いします」
藤原は案内されるままベッドに横になる。
「今日は特にお辛いところはありますか?」
「肩と首が少し。あと腰も張っていて」
「分かりました。では、状態を見ながらやっていきますね」
施術が始まると、部屋の空気は静かに落ち着いていった。
未沙は必要なことだけを確かめながら、ゆっくりと身体の状態を見ていく。最初は少し緊張していた藤原も、時間が経つにつれて、少しずつ力を抜いていった。
「……気持ちいいですね」
「ありがとうございます」
しばらくして、藤原がぽつりと続ける。
「こういう感じ、日本に帰ってきたなって思います」
未沙の手つきは変わらないまま、その声だけがやわらかく返る。
「そうなんですか?」
「はい」
藤原は少し笑った。
「普段はロンドンに住んでいるんです」
「ロンドン?」
「はい。もう何年かになります」
「そうなんですね」
「今回は里帰りで」
その言い方に、少しだけほどけた響きがあった。
「久しぶりの日本ですか?」
「そうですね。今回は少し長めに帰ってきました」
未沙は穏やかに相槌を打ちながら、肩の張りに触れていく。
「やっぱり日本に帰ってくると、少しほっとします」
「そういうものかもしれませんね」
「空気なのか、言葉なのか、よく分からないんですけど」
「うん」
「なんとなく、力が抜ける感じがして」
未沙は小さく笑った。
「今、ちょうどそんなふうに見えます」
「本当ですか?」
「はい。最初より、だいぶ」
藤原もつられるように笑った。
少し間が空く。
静かな時間が戻り、その静けさの中で、藤原がまた口を開いた。
「でも、今回帰ってきて、いろんなサロンを見て回ってるんです」
「サロンを?」
「はい」
少し迷うような間を置いてから、藤原は続けた。
「実は、ロンドンで自分のマッサージサロンを作ろうと思っていて」
その言葉に、未沙の手がほんの一瞬だけ止まる。
けれど、それはすぐにいつものリズムへ戻った。
「ご自分で?」
「はい。まだこれからなんですけど、物件を探したり、どういう店にするか考えたりしていて」
「いいですね」
「それで今回、日本に帰ってきたついでに、気になるお店をいくつか見ていて」
「なるほど」
「その中で、ここも見つけたんです」
「ありがとうございます」
「ホームページを見て、雰囲気がいいなと思って」
未沙は小さく笑う。
「そう言っていただけると嬉しいです」
「でも、楽しみな反面、ちょっと不安で」
その言葉に、未沙の手つきが少しだけやわらぐ。
「そうですよね」
「ちゃんとやっていけるのかな、とか。考え始めると、きりがなくて」
「そういうお気持ちになるのは、自然なことだと思います」
藤原は少しだけ息をついた。
「始める前からこんなで、大丈夫なのかなって思ってしまって」
「そういう時期はあると思います」
未沙の声は、あくまでやわらかく落ち着いていた。
「以前、自分で店をやっていた時期があるんですけど、そのときも、思うようにいかないことはありました」
藤原が静かに聞いている。
「その中で、後から分かったことがあって」
「何ですか?」
未沙は少しだけ考えてから答えた。
「変えるべきだったのは、自分の見せ方じゃなくて、お客さんを見ることだったんです」
藤原が顔を上げる。
「お客さんを見ること」
「はい。自分がどんな店をやりたいかも大事なんですけど、それだけでは続かないんだと思います」
未沙は手を動かしながら、静かに言葉を重ねる。
「目の前の方が何を求めているのか、どう過ごしたいのか、そこをちゃんと見ていくことのほうが、たぶん大事で」
藤原はゆっくり頷いた。
「なるほど……」
「もちろん、最初から全部うまくできる方ばかりではないと思います」
未沙は少しだけ笑う。
「私もそうでしたし」
その一言は、励ましというより、相手の緊張をほどくためにそっと置かれたようだった。
「……すごく参考になります」
「参考になるかは分かりませんけど」
未沙はやわらかく続ける。
「もし何かひとつでも残るものがあれば、うれしいです」
藤原は小さく笑った。
「あります。たぶん、すごく」
しばらくして施術が終わる。
「お疲れさまでした」
「ありがとうございました」
藤原はゆっくり身体を起こした。
さっきまでより表情がやわらいでいる。
「すごく楽になりました」
「よかったです」
「それに……」
「はい?」
「やっぱり、来てよかったです」
未沙は少し笑った。
「ありがとうございます」
「ロンドンに戻ったら、もう一度ちゃんと考えてみます」
「はい」
「どんなサロンにしたいのかだけじゃなくて、そこに来る人がどう過ごしたいのか」
未沙は少し驚いたように藤原を見る。
「覚えていてくださったんですね」
「はい」
「大したことではないんです」
未沙は少しだけ笑った。
「でも、そう言っていただけると嬉しいです」
藤原も笑う。
「頑張ります」
「はい。応援しています」
藤原は立ち上がる。
受付へ戻ると、美咲が待っていた。
「ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
美咲が会計を済ませる。
藤原は少し迷ったあと、未沙を見た。
「また日本に帰ってきたら、こちらに来てもいいですか?色々お話しもしたいので」
「もちろんです」
未沙はいつものように笑った。
「いつでもお待ちしています」
「ありがとうございます」
藤原は頭を下げ、店を出ていった。
扉が閉まる。
美咲はしばらくその背中を見送ってから、未沙を見た。
「未沙さん」
「ん?」
「今日のお客さん、すごく嬉しそうでしたね」
「そう?」
「はい」
未沙は少しだけ入口のほうを見る。
「自分のお店、作れるといいね」
「きっと作りますよ」
「そうだね」
未沙は笑った。
「頑張ってほしいよね」
それだけ言って、未沙は次の仕事へ戻っていった。
美咲も受付へ戻る。
ロンドンで暮らす、まだ自分の店を持っていない一人の女性。
今日、初めてこのサロンを訪れた。
未沙にとっては、いつもの一人のお客さんだったのかもしれない。
けれど、美咲には何となく思えた。
今日ここで交わした言葉は、きっとあの人の中に残る。
施術の気持ちよさだけではなく、未沙がそっと手渡した言葉が、これから先のどこかでふと思い出される瞬間があるのかもしれない。
いつかロンドンで自分のサロンを作ったとき。
迷ったり、立ち止まったりしたとき。
今日のことを、あの人は思い出すのかもしれなかった。
そんなことを考えながら、美咲は次のお客さんを迎える準備を始めた。
「いらっしゃいませ」
いつもの一日が、また静かに続いていく。




