第17話 呼吸
朝、いつもの時間に美咲がサロンへ入る。
「おはようございます」
「おはよう」
返ってくる声はいつもと変わらない。
けれど、美咲は入口を入ったその瞬間に、わずかな違和感を覚えた。
未沙は今日、休みだと前から聞いていた。私用で一日空けるだけのことだし、珍しいことでもない。サロンには他にもスタッフがいる。未沙がいなくても店が回らなくなることはないし、今日は真帆も出ている。実際、困ることなど何もないはずだった。
そして本当に、その通りだった。
予約は滞りなく並び、朝の準備もいつも通りに進んでいく。真帆は手際よく全体を見て、スタッフたちもそれぞれの持ち場を動いている。誰かが戸惑うこともなく、店は普段と変わらない調子で回っていた。
美咲も、自分の仕事をこなしていた。準備をして、お客さんを迎え、施術をして、また次のお客さんを迎える。ただそれだけの、慣れた流れだ。
なのに、自分だけがそこにうまく馴染めていない気がした。
忙しくて余裕がないわけではない。何かを忘れているわけでもない。それでも、胸の奥に薄い膜が張ったように呼吸が浅い。息苦しいほどではない。ただ、深く吸い込もうとすると、どこかで小さく引っかかるような感覚があった。
未沙がいない。
たったそれだけのことが、どうしてこんなふうに残るのだろうと、美咲は自分でも少しおかしく思った。
「美咲さん」
呼ばれて顔を上げる。
「はい」
「次のお客さん、いらっしゃいました」
「あ、はい」
受付へ向かい、いつもの笑顔をつくる。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
「小林さん、お待ちしていました」
「今日もお願いします」
「こちらへどうぞ」
小林を案内しながら、美咲はもう普段通りに戻っているつもりだった。会話をし、準備を整え、自然な手つきで施術に入る。その流れに乱れはない。
だからこそ、小林の何気ない一言に少し驚いた。
「なんとなく、いつもと少し雰囲気が違いますね」
美咲の手がほんの一瞬だけ止まる。
「そうですか?」
「はい。何が違うのかは、うまく言えないんですけど」
美咲は少し笑った。
「実は、未沙さんが今日お休みなんです」
「ああ」
小林は納得したように頷いた。
「それでかもしれません。いつもは受付に立っていたり、あちこち動いていたりする姿が自然と目に入るので」
「……そうかもしれません」
その言葉に、美咲は小さく息をついた。
自分でも気づかないうちに、未沙の姿を探していたのかもしれない。
施術が始まる。
時間はいつも通りに流れていく。小林もいつものように話をして、いつものように施術を受けている。美咲もまた、いつものように手を動かし、言葉を返す。
それでも、ふとした拍子に視線が向く場所があった。
受付のあたり。
通路の先。
鏡越しに見える店の奥。
いつもなら、そこに未沙の姿が自然に入ってくる。
けれど今日は、いない。
ただそれだけのことが、妙に胸に残った。
午後になると、サロンは忙しさを増した。スタッフが行き交い、電話が鳴り、予約の確認の声が飛ぶ。真帆は落ち着いた様子で全体を見ながら、必要なところに自然に手を伸ばしていた。
「その予約、私が確認しておくから」
「お願いします」
それで十分回る。誰かが困ることも、流れが滞ることもない。未沙がいなくても、この店はちゃんと成り立つ。その当たり前を、美咲は一日を通して何度も見せられていた。
それなのに、ふと顔を上げた先に、いるはずの姿がない。
意識して探しているつもりはない。それでも、目が自然に向く先がある。そこに未沙がいないことだけが、静かに呼吸を乱していた。
夕方、小林を見送ったあとで受付に戻ると、真帆がこちらを見て笑った。
「今日、ちょっと変じゃない?」
「え?」
「美咲ちゃん。朝から少しそわそわしてる」
苦笑すると、真帆はやっぱりというように目を細めた。
「分かります?」
「分かるよ」
「なんか……落ち着かないんです」
「未沙さんがいないから?」
思っていたよりもまっすぐ言い当てられて、美咲は少し驚いた。
「……はい」
「やっぱりね」
真帆は軽く笑ったあと、からかうような顔はしなかった。
「でも、店はちゃんと回ってるでしょ?」
「はい」
「私もいるし」
「はい」
「じゃあ、何が落ち着かないの?」
問われて、美咲は少し考える。けれど、言葉にしようとするとますます曖昧になる。
「分からないんです。仕事は普通にできますし、未沙さんがいなくて困ってるわけでもないんです」
「うん」
「でも……空気が薄いみたいな感じがして」
真帆の目が少しだけやわらいだ。
「空気?」
「ちゃんと息はできるんですけど、いつもより浅いっていうか」
胸元に手を当てながらそう言うと、真帆は小さく頷いた。
「……なるほどね」
その反応は否定でも冗談でもなく、むしろよく分かると言いたげだった。
「私も昔はそうだったよ」
「え?」
「未沙さんがここに入ってきたばかりの頃は、そんなことなかったけどね」
真帆は店の中を見渡す。
「私のほうが先輩だし、未沙さんが休んでも何とも思わなかった。店のことなら、今だって同じ。未沙さんがいなくても回せる」
「はい」
「でもね、いつの間にか、未沙さんがいるのが普通になったんだろうね」
その言葉は、不思議なくらい静かに胸に落ちた。
「未沙さんって、何か特別なことをしてるわけじゃないでしょう?」
「そうですね」
「ずっと指示を出してるわけでもないし」
「はい」
「でも、いると何となく落ち着く。そういう人っているよね」
美咲も小さく笑った。
ようやく、自分の中にあったものに名前がついた気がした。困るとか困らないとか、そういう話ではなかったのだ。未沙は店を動かすために必要不可欠な存在、というだけではない。いるだけで空気の流れを整えて、そこにいる人間の力まで自然に抜いてしまう。そういう存在になっていたのだ。
真帆が仕事に戻ったあとも、美咲はしばらくその場に立っていた。
窓から差し込む夕方の光はやわらかく、店の中は相変わらず普段通りに動いている。スタッフもいる。お客さんもいる。何ひとつ欠けていないように見える。
それでも、美咲にはもう分かっていた。
未沙さんがいる日は、もっと自然に息ができていたのだと。
意識しなくても、ゆっくり吸って、ゆっくり吐ける。その呼吸のリズムごと、この場所に馴染んでいられたのだと。
未沙が何か特別なことをしてくれているわけではない。ただ、そこにいる。それだけで、店の空気がきれいに整う。そして自分もその中で、知らないうちに肩の力を抜いていた。
その日の仕事が終わって帰り支度をしながら、美咲はもう一度店の中を見渡した。
やはり、何も問題はなかった。未沙がいなくても大丈夫。それは一日をかけてよく分かった。
けれど、大丈夫であることと、寂しくないことは同じではない。
その違いを、美咲は帰り際になってようやく素直に認められた気がした。
翌朝、いつもの時間にサロンへ入る。
「おはようございます」
「おはよう」
重なる声の向こう、いつも目に入る場所に、見慣れた姿があった。
未沙がいた。
「おはようございます」
自然に笑みがこぼれる。
未沙は荷物を置きながら、何でもない調子で聞いた。
「昨日、どうだった?」
「普通でした」
「そう?」
「はい。真帆さんがいたので」
「それなら大丈夫だね」
未沙も笑う。
「私がいなくても、この店はちゃんと回るから」
「はい」
それは本当だった。昨日一日で、十分すぎるほど分かったことだ。
けれど美咲は、少しだけ未沙を見る。
「でも」
「ん?」
「昨日、ちょっと寂しかったです」
未沙は一瞬だけ美咲を見返し、それからふっとやわらかく笑った。
「そっか」
それ以上、言葉は続かなかった。
美咲もまた、それ以上は言わなかった。
ただ、未沙がいる。
それだけで、今日は少しだけ深く息ができる気がした。
サロンの空気が急に変わったわけではない。誰かが特別なことをしたわけでもない。いつもと同じ場所で、いつもと同じように一日が始まっていく。
それなのに、美咲は確かに感じていた。
昨日より、少しだけ呼吸が楽だ。
未沙がいると、この場所はちゃんと整う。
そんな当たり前のようでいて、昨日まで言葉にならなかったことを、美咲はその朝はっきりと知った。




