第16話 見るということ
仕事が終わったのは、いつもより少し遅い時間だった。
最後のお客さんを見送り、片付けを終える。
美咲がバッグを手に取った。
「未沙さん」
「ん?」
「このあと、時間あります?」
未沙が振り返る。
「あるよ」
「紗英さんは?」
「私も大丈夫です」
美咲は二人を見る。
「じゃあ、飲みに行きません?」
「飲みに?」
「はい。三人で」
未沙が少し驚いた顔をする。
「珍しいね。美咲ちゃんから誘うなんて」
「たまにはいいじゃないですか」
「私はいいよ」
紗英も笑った。
「私も行きたいです」
「じゃあ、決まりですね」
店を出る。
夜の街は、仕事中とは少し違った顔をしていた。
三人で並んで歩く。
「どこにします?」
「美咲ちゃんに任せるね」
「じゃあ、駅の近くにあるところでいいですか?」
「うん」
「はい」
少し歩いて、三人は駅近くの居酒屋に入った。
席に着くと、仕事中とは違う空気になる。
「とりあえず、生でいい?」
「はい」
「私も」
「じゃあ、三つお願いします」
注文を済ませる。
ほどなくして、グラスが運ばれてきた。
「じゃあ」
未沙がグラスを持ち上げる。
「お疲れさま」
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
三つのグラスが軽く触れた。
一口飲む。
「おいしいですね」
紗英が言う。
「仕事のあとの一杯はいいね」
未沙が笑う。
「未沙さん、今日はいつもより飲みそうですね」
美咲が笑う。
「そう?」
「はい」
「じゃあ、少しだけね」
未沙も笑った。
しばらくは、店の話や仕事の話をした。
紗英が最近担当したお客さんの話をして、美咲が笑う。
未沙も時々口を挟む。
仕事中ならもっと落ち着いた話し方をする未沙が、今日は少しだけくだけている。
それが美咲には新鮮だった。
しばらくして、話が途切れた。
美咲はグラスを見ながら、ふと思い出した。
「そういえば」
「ん?」
未沙が顔を上げる。
「前に、言ってましたよね」
「何を?」
「未沙さん、人一倍挫折した経験があるって」
未沙の動きが少し止まった。
「ああ……そんなこと言ったね」
「覚えてます」
「よく覚えてたね」
「気になってたんです」
紗英が二人を見る。
「何ですか、それ?」
未沙が紗英を見る。
「あれ? 紗英さんには話してなかったっけ」
「聞いてないです」
「そっか」
未沙が少し笑った。
「じゃあ、今日話そうかな」
美咲が少し嬉しそうに笑った。
「聞きたいです」
紗英も未沙を見る。
「私も聞きたいです」
「うん」
未沙はグラスを置いた。
「じゃあ、話そうか」
少しだけ考えてから、口を開く
美咲と紗英は黙って聞く。
「昔ね、自分でサロンをやろうって決めたの」
「その頃、付き合ってた人がいたんだけどね」
未沙はグラスを眺めた。
「どうしても、それに集中したかったんだよね」
「仕事も恋人も、どっちも大切にできるほど器用じゃなかったから」
少し笑う。
「だから、その人とは私から別れたの」
「そうだったんですね」
美咲が静かに言った。
「うん」
未沙は頷いた。
「独立する前から担当していたお客さんの中には、来てくれた人もいたよ」
「最初は、それなりに順調だった」
「これなら、ちゃんとやっていけるかもしれないって思ったんだよね」
未沙は少し笑った。
「でも、そんなに甘くなかった」
「少しずつ、新しいお客さんが増えなくなっていって」
「来てくれていた人も、だんだん間隔が空いていった」
「それでも、家賃も経費も毎月出ていくでしょう?」
「だから、だんだん通帳を見るのが怖くなっていった」
美咲は何も言わなかった。
未沙はグラスを指先でゆっくり回した。
「それでも、何とかしなきゃと思って」
「お客さんのためになるような施術メニューを作ったの」
「こういう施術なら、もっと楽になってもらえるんじゃないかとか」
「こういう組み合わせなら、喜んでもらえるんじゃないかとか」
「いろいろ考えた」
未沙は苦笑した。
「本当に、お客さんのためになると思ってたんだよ」
「でも、思ったほど成果が出なかった」
「新しいメニューを作っても、それでお客さんが増えるわけじゃない」
「来てくれる人も、思ったようには増えなかったの」
紗英は黙って聞いていた。
「眠れない日も増えていって」
未沙の声が少し小さくなる。
「朝まで眠れないこともあったし、少し眠ってもすぐ目が覚める」
「顔色も悪くなってきてね」
「自分でも分かるくらいだったの」
美咲が未沙を見る。
「でも、お店には立たないといけないから」
未沙は少し笑った。
「だから、隠した」
「メイクを変えたの」
「顔色が悪く見えないようにして、少し濃くして」
「それだけじゃなくて、話し方まで変えた」
「弱ってるように見られたくなかったから」
「できる女みたいにしてたの」
未沙は笑った。
「自信があるように話して、堂々として、何でも分かってますって顔をして」
「そうしてれば、お客さんも安心してくれるかもしれないと思って」
少し間があった。
「でも、何にも変わらなかった」
その言葉だけは、妙に静かだった。
「メイクを変えても、話し方を変えても、お客さんは増えなかった」
「新しいメニューを作っても、思ったようには来てくれない」
「自分が頑張れば何とかなると思ってたんだけどね」
未沙は小さく息を吐いた。
「何ともならなかった」
三人の間に、静かな時間が流れた。
「それで、店をたたんだの」
未沙は淡々と続けた。
「続けようと思えば、もう少し頑張れたのかもしれない」
「でも、家賃や経費を払うことまで心配になってきて」
「これ以上続けたら、本当に何もなくなるなって思った」
美咲は黙って聞いていた。
未沙は少しだけ笑う。
「悔しかったよ」
「自分で店を持って、失敗して」
「結局また、雇われる側に戻るんだって」
「でもね」
未沙はグラスを置いた。
「今のサロンに雇ってもらって、そこで働いて、やっと分かったの」
美咲が未沙を見る。
「何がですか?」
「私、ずっとお客さんのためにって言ってたでしょう?」
「はい」
「でも、本当は違ったんだと思う」
未沙は少し考える。
「私は、自分が良いと思うものを作って、それをお客さんに喜んでもらおうとしてた」
「お客さんを見るんじゃなくて、自分が作ったものを見てたんだよね」
未沙は苦笑した。
「それじゃ、うまくいかないよね」
紗英が静かに頷いた。
「今のサロンに入って、いろんなお客さんを見てたら、少しずつ分かってきたの」
「同じように見えても、みんな違うんだって」
「今日は話したい人もいるし、静かにしていたい人もいる」
「しっかり施術してほしい人もいれば、少しだけ楽になれればいい人もいる」
未沙は笑った。
「当たり前のことなんだけどね」
「あの頃の私は、それが見えてなかった」
美咲は少し俯いた。
「だから、今はまず見るようにしてる」
「その人が何を求めてるのか」
「何を言おうとしてるのか」
「何も言わないときは、何も言わないほうがいいのか」
未沙は少し笑った。
「それが分かるようになってから、仕事が楽しくなった」
「たぶん、あのとき失敗しなかったら、今の私はいなかったと思う」
美咲が顔を上げる。
「じゃあ、あの頃の失敗も無駄じゃなかったんですね」
「うん」
未沙は少し考えてから、笑った。
「今思えば、あのとき一度、自分のやり方を全部壊されたのは良かったのかもしれない」
「自分が正しいと思ってることをやるだけじゃ、人には届かないって分かったから」
少し間を置いて、未沙が小さく笑う。
「……まあ、もう二度と経験したくないけどね」
「それはそうですよね」
紗英が笑った。
美咲も笑う。
重かった空気が、少しだけ和らいだ。
「だから、美咲ちゃんのことも、できるだけ待とうと思ってたのかもね」
「私を?」
「うん」
「私、そんなに待たせました?」
「ふふ。結構ね」
「ええ……」
美咲が笑う。
紗英も笑った。
「でも、待ってもらってたんですね」
「そうだね」
未沙は柔らかく笑った。
「私も、昔たくさん待ってもらったから」
「誰にですか?」
美咲が聞く。
未沙は少し考えた。
「いろんな人に」
「自分で立ち直るまで、何も言わずに待ってくれた人もいたし」
「うまくいかないときに、仕事をさせてもらえたこともあった」
「今のサロンも、その一つなんですか?」
「そうだね」
未沙は頷いた。
「雇ってもらったとき、私はまだ全然自信がなかったから」
「そうだったんですか?」
紗英が驚く。
「うん」
「今の未沙さんからは想像できないです」
「そう?」
「はい」
未沙は笑った。
「今でも自信がなくなることはあるよ」
「そうなんですね」
「うん。でも、昔ほど怖くはないかな」
「どうしてですか?」
「失敗しても、全部が終わるわけじゃないって知ってるから」
美咲はその言葉を聞いて、少し黙った。
未沙は笑った。
「だからね」
「美咲ちゃんも、何か迷ったときに、すぐ答えを出さなくていいと思うよ」
「ちゃんと考えて、迷って、それでも分からなかったら、そのときに誰かに聞けばいい」
「はい」
「紗英さんもね」
「はい」
紗英が笑う。
「私も覚えておきます」
「うん」
未沙は二人を見た。
「私も、まだ分からないこといっぱいあるけどね」
「未沙さんでも?」
「もちろん」
「なんか、今日は意外なことばかり聞きました」
美咲が笑う。
「でも、聞けてよかったです」
未沙は少し照れたように笑った。
「そっか」
しばらくして、料理もだいぶ少なくなった。
最初より三人の会話もゆっくりになっている。
美咲がグラスを置いた。
「でも」
「ん?」
「未沙さんの元カレね」
美咲が少しいたずらっぽく笑った。
「五条さんに言っちゃいますよ」
未沙は一瞬だけ美咲を見る。
そして、何でもないことのように言った。
「言ってもいいよ。その元カレ、五条さんだから」
「…………え?」
美咲の動きが止まった。
紗英も目を丸くする。
「え?」
「だから、五条さん」
「……ええ?」
美咲は未沙の顔を見る。
「ちょっと待ってください」
「うん」
「五条さんが、その元カレ……」
「そうだよ」
美咲はしばらく黙った。
「……初めて聞きました」
「そう?」
「そうですよ!」
紗英が吹き出す。
「私も初めて聞きました」
「でしょ?」
美咲が笑う。
「だから、五条さんに言っちゃいますよって言ったのに……」
「旦那に言うことになるね」
「そういう意味じゃないですよ!」
未沙が笑う。
「ふふ」
「もう……」
美咲も笑った。
「びっくりしたなあ」
「そんなに?」
「そんなにです」
三人の笑い声が、夜の居酒屋に響いた。
店を出る。
夜風が少し気持ちよかった。
「今日は誘ってくれてありがとう」
未沙が言う。
「こちらこそ」
「美咲ちゃんから誘ってくれるなんて、ちょっと嬉しかった」
「また行きましょうよ」
「うん」
紗英も頷く。
「また三人で行きたいです」
「じゃあ、また行こうね」
未沙が笑う。
三人で並んで歩く。
昼間とは違う。
仕事のときとは違う。
ただ並んで歩いている。
美咲はふと思った。
未沙が自分を見てくれていた五年間。
その理由を、今日少しだけ知ることができた。
未沙もまた、誰かに見てもらっていた。
待ってもらっていた。
だから今度は、自分が誰かを見る。
誰かが立ち止まっているとき、無理に引っ張らない。
迷っているとき、すぐに答えを渡さない。
その人が自分で歩き出すまで、そばにいる。
そんな未沙のやり方が、少しだけ分かった気がした。
「美咲ちゃん」
「はい?」
「何か考えてる?」
「ちょっとだけ」
「そっか」
未沙は笑った。
「じゃあ、今日はそのまま考えてていいよ」
「はい」
「急がなくていいから」
美咲は笑った。
「未沙さんらしいですね」
「そう?」
「はい」
三人の笑い声が、夜の道に小さく響いた。
その夜、美咲は初めて知った。
人を支える人も、最初から強かったわけではない。
何度も転んで。
自分のやり方を疑って。
一度は、全部を手放して。
それでも誰かに待ってもらって、もう一度立ち上がった。
だから、未沙は待てるのだ。
だから、未沙は人を見るのだ。
そして美咲は思った。
いつか自分も、そんなふうになれるだろうか。
その答えは、まだ分からない。
でも、急がなくていい。
そう思えた。




