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第15話 見ている人

午後の店は、いつもと変わらなかった。


予約表を確認する美咲。


施術の準備をする紗英。


いつものようにお客さんを迎える未沙。


何も変わっていない。


そう思っていた。


けれど、美咲は朝から少しだけ気になっていた。


未沙の様子が、いつもと違う。


落ち着かないというほどではない。


仕事もいつも通りしているし、お客さんへの対応も変わらない。


ただ、ときどき入口のほうを見る。


時計を見る。


予約表を確認する。


そして、また仕事に戻る。


「美咲ちゃん」


「はい?」


「このタオル、そっちに置いてもらえる?」


「はい」


美咲が受け取る。


未沙はそのまま次の準備へ向かった。


美咲は、その背中を見ながら思った。


やっぱり、少し変だ。


「未沙さん」


「ん?」


「今日、何かあります?」


未沙は一瞬だけ美咲を見る。


「何かって?」


「なんとなく」


「そう?」


「はい」


未沙は少し笑った。


「ちょっと気になってることがあるだけ」


「何ですか?」


「あとで分かると思うよ」


それだけ言って、未沙は施術室へ向かった。


美咲はその後ろ姿を見送った。


そして、思い出した。


今日の予約表。


午後三時。


瀬戸。


美咲も知っていた。


瀬戸が来月、遠くへ引っ越すことを。


未沙から聞いていた。


だから、今日が最後の来店になる。


それなら、朝から落ち着かないのも分かる気がした。


午後三時。


入口のドアが開いた。


「いらっしゃいませ」


「こんにちは」


瀬戸が入ってくる。


「瀬戸さん、こんにちは」


未沙が笑顔で迎えた。


「今日もよろしくお願いします」


「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」


瀬戸はいつものように店内を見渡した。


何年も通っている店。


いつもの場所。


いつもの空気。


「こちらへどうぞ」


「はい」


瀬戸は未沙の案内で施術室へ向かった。


美咲は受付から、その様子を見ていた。


未沙はいつも通りだった。


いつも通り話して。


いつも通り施術をする。


特別なことは何もない。


だからこそ、美咲には分かった。


未沙は、今日を特別な日にしたくないのかもしれない。


いつも通りの時間として過ごしたい。


長く通ってくれたお客さんとの最後の時間だからこそ。


しばらくして、施術が終わった。


瀬戸が受付へ戻ってくる。


「ありがとうございました」


「こちらこそ、ありがとうございました」


美咲が笑顔で応える。


瀬戸は少しだけ店内を見回した。


「こうして見ると、今日が最後なんだなという感じがします」


「そうですか」


未沙が答える。


「来月には向こうに引っ越されるんですよね」


「はい」


「長く通っていただきましたから、なんだか寂しくなりますね」


「私もです」


瀬戸が笑う。


「こちらに来るのが、すっかり習慣になっていましたから」


「はい」


未沙も笑った。


「でも、こちらに来ることがあったら、また寄ってくださいね」


「もちろんです。そのときはよろしくお願いします」


「はい。いつでもお待ちしています」


瀬戸は美咲のほうを見る。


「美咲さんにも、本当にお世話になりました」


「こちらこそ、ありがとうございました」


「最初の頃は、まだ緊張されていましたよね」


「そうですね。今思うと、かなり緊張していたと思います」


「でも、今ではすっかり頼もしくなられましたね」


「ありがとうございます」


美咲は少し照れたように笑った。


瀬戸は紗英にも向き直る。


「紗英さん、これからも頑張ってね」


「はい。ありがとうございます」


「それでは、またこちらに来る機会がありましたら」


「はい。いつでもお待ちしています」


「ありがとうございました」


瀬戸が丁寧に頭を下げる。


「ありがとうございました」


未沙も頭を下げた。


瀬戸はもう一度店内を見回してから、ゆっくりとドアへ向かった。


「それでは、失礼します」


「お気をつけて」


「はい」


ドアが閉まった。


店の中が、少し静かになった。


未沙は、そのままドアを見ていた。


美咲も何も言わなかった。


しばらくして、未沙が小さく息を吐いた。


「……行っちゃったね」


「はい」


「分かってたんだけどね」


未沙はドアを見たまま、小さく笑った。


「今日が最後だって、ずっと前から知ってたのに」


「……はい」


「実際に帰っていくところを見ると、やっぱり寂しいね」


「そうですよね」


美咲は未沙の横に立った。


いつもの未沙なら、もう次の仕事を始めている。


けれど今日は、しばらくその場にいた。


「長かったからね」


「何年くらいですか?」


「十年近くになるかな、私がこのお店に入った頃から」


「そんなに」

「じゃあ、私よりずっと先輩ですね」


「そうだね」


未沙は少し笑った。


「瀬戸さんが来ると、昔の話をすることも多かったから」


「今日も少し話してましたね」


「うん」


未沙は少し黙った。


「いつも来てくれる人が、これからは来なくなるって」


「はい」


「頭では分かってても、やっぱり変な感じがするね」


美咲は何も言わなかった。


未沙はいつも、誰かを送り出す側だった。


店を辞める人。


遠くへ行く人。


来なくなったお客さん。


そんな人たちに、


「元気でね」


「またいつでも来てね」


と笑って送り出す。


美咲は、それが未沙にとって簡単なことなのだと思っていた。


でも、違った。


寂しくないわけではない。


ただ、相手の前ではそれを見せないだけだった。


「未沙さん」


「ん?」


「寂しいときもあるんですね」


未沙は美咲を見る。


「それはあるでしょ」


少し笑ってから、続けた。


「私だって、寂しいときはあるよ」


「いつも平気そうだから」


「そう見える?」


「はい」


「ふふ。じゃあ、うまく隠せてるのかな」


美咲も笑った。


「なんか、安心しました」


「もう、美咲ちゃんったら」


「だって、未沙さんって何でも大丈夫そうに見えるから」


「そんなことないよ」


未沙は少しだけ首を振った。


「私だって、寂しいときは誰かにそばにいてほしいし、ちょっと話を聞いてほしいこともあるよ」


「……そうなんですね」


「うん」


未沙は美咲を見て、柔らかく笑った。


「だから、今日は美咲ちゃんがいてくれてよかった」


「私でよければ、いつでも」


「ありがとう」


美咲は少しだけ笑った。


そして、ふと思った。


自分が入ったばかりの頃。


何も分からなくて。


何をするにも不安で。


そんな自分を、未沙はいつも見ていてくれた。


すぐに答えを教えるのではなく。


失敗しそうなときにはそっと手を添えて。


自分でできそうなときには、少し離れて見ていてくれた。


あの頃は、それが当たり前だと思っていた。


今になって、少し分かる。


見ていてくれる人がいるということが、どれだけ心強いことなのか。


「未沙さん」


「ん?」


「今日は、私が見てますね」


「……何それ」


未沙が笑った。


「いつも見てもらってるので」


「私が?」


「はい」


美咲は笑った。


「私が入ったばかりの頃、ずっと見てもらってたじゃないですか」


「そうだったね」


「だから今日は、私が未沙さんのこと見てます」


「何を?」


「何となくです」


未沙は少し笑った。


「変なの」


「そうですか?」


「うん」


それでも、未沙は嬉しそうだった。


そこへ紗英が戻ってきた。


「何の話ですか?」


「美咲ちゃんが、今日は私のこと見てくれるんだって」


「え?」


紗英が美咲を見る。


「どういうことですか?」


「未沙さん、今日はちょっと寂しいみたいだから」


「……なるほど」


紗英も少し笑った。


「じゃあ、私も見ます」


「紗英さんまで?」


「はい」


未沙が笑う。


「もう、二人とも」


「いいじゃないですか」


「そうだけど」


三人で笑った。


ほんの少しだけ。


いつもの店に、いつもの笑い声が響いた。


その後、未沙はいつものように仕事に戻った。


次のお客さんを迎える。


いつものように話をする。


いつものように笑う。


さっきまで寂しそうだったことが、嘘みたいだった。


でも、美咲は分かっていた。


寂しさがなくなったわけではない。


ただ、誰かと一緒にいることで、少しだけ軽くなったのだ。


夕方。


店が少し落ち着いた頃、未沙が美咲の隣に来た。


「美咲ちゃん」


「はい?」


「さっきはありがとう」


「何がですか?」


「見てくれて」


美咲は笑った。


「どういたしまして」


「なんか変な感じだったけどね」


「私もです」


二人で笑った。


「でも」


未沙が言った。


「嬉しかったよ」


「……はい」


美咲は少しだけ頷いた。


未沙が自分を見てくれていた五年間。


その時間が、少しずつ自分の中に残っている。


そして今、自分も誰かを見ることができる。


紗英を見る。


お客さんを見る。


そして、未沙を見る。


それはたぶん、教えてもらったことの一つなのだろう。


誰かを支えるということは、いつも何かをしてあげることではない。


ただ、そばにいる。


見ている。


それだけでいいときもある。


「美咲ちゃん」


「はい?」


「じゃあ今日は、もう少しだけ見ててもらおうかな」


美咲は笑った。


「もちろんです」


未沙も笑った。


店の外は、もう少しずつ暗くなっていた。


今日も一日が終わっていく。


何か大きなことが起きたわけではない。


ただ、一人のお客さんが、いつものように店を出ていった。


その「いつもの」が、これから少しだけ変わる。


そして、その寂しさを三人で少しだけ分け合った。


それだけの一日だった。


けれど美咲には、その一日が少しだけ大切なものに思えた。

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