極寒の地
月光の差し込む埃っぽい倉庫の中。私の心臓は早鐘のように打ち鳴らされていた。
口元から覗く白く鋭い牙。赤く不気味に蠢く小瓶。
ルキウスが「吸血鬼」か何かの怪異であったなら、これまでの食事を摂らない理由も、体温が異常に低い理由も、動物たちが本能的に恐怖して逃げ出す理由も、すべて説明がついてしまう。私の婚約者は冷血な学者どころか、人間ですらないというのか。
私が恐怖と混乱で金縛りにあっていた、まさにその時だった。
ルキウスは自身の口元を覆うように小さく咳払いをすると、手にした小瓶を床へ置いた。そして、倉庫の奥に積み上げられていた古い木箱——白い布が被せられた大型の木箱の上から、一枚の巨大な絵画をすっと持ち上げた。
それはキャンバス地にフレームだけが嵌められた、奇妙な額縁だった。
ルキウスはその絵画を、隣に積み重なっている別の木箱の側面へと雑に立てかけた。
まるで、最初からそこに置く予定であったかのように。
(な、何をしているの……? 絵模様の模様替え……?)
私が隠れ場所で呆気に取られていた、その次の瞬間だった。
ルキウスが、パチリと一つ、深く瞬きをした。
——フッ。
気配が、消えた。
冗談ではなく、文字通り音も無く、残像すら残さず、ルキウスの身体が空間から削り取られたかのように一瞬で消滅したのだ。
「……え?」
思わず、声が漏れそうになった。慌てて手で口を覆う。
いま、何が起きた?
ルキウスはそこに立っていた。確実に立っていたのだ。それが、瞬きという一瞬の隙の間に、影も形もなく消え去ってしまった。空間転移? 消滅魔術? あるいは私の目が狂ったとでもいうのだろうか。
静まり返る倉庫の中、聞こえるのは自分の荒い息遣いと、遠くで風が木々を揺らす音だけだった。
「……な、何なのよ、一体……何が起きているの……!?」
頭の中が真っ白になり、混乱と恐怖が混ざり合った泥のような感情が渦を巻く。
見間違いではない。彼は牙を生やし、怪しい液体を手にし、そして一瞬で姿を消した。
見間違えるはずがないのだ。しかし、目の前で起きた現象があまりに荒唐無稽すぎて、人間の常識がそれを拒絶しようとする。私の理性が「夢でも見ていたのではないか」とささやき、私の本能が「今すぐ逃げろ」と警鐘を鳴らす。
だが、私はヴァレリウス公爵家の令嬢アウレリアだ。
ここで尻尾を巻いて逃げ出せば、私は一生あの男の掌の上で「世間知らずの愚かなお嬢様」として転がされることになる。
私は震える脚に必死で力を込め、不可視化の首飾りが作動していることを何度も確認しながら、恐る恐るルキウスが直前まで立っていた場所へと歩み寄った。
「落ち着きなさい、アウレリア……。公認の公務よ、これは彼を知るための調査なのよ……」
自分に意味不明な言い聞かせをしながら、彼が残していった「痕跡」へと視線を落とす。
まず目に飛び込んできたのは、彼が床に置き去りにしたあの小瓶だった。
月光に照らされた小瓶の中身を、私は息を殺して覗き込んだ。
「ひっ……!?」
私は咄嗟に悲鳴を噛み殺した。
赤い液体——トマトジュースか葡萄液だと思っていたものは、液体などではなかった。
透明なガラス瓶の中で蠢いていたのは、まるで生きているかのように複雑に絡み合い、蠢く、ドロドロとした『黒い触手』の群れだったのだ。
それらはガラスの内壁をペタペタと舐めるように蠢き、私という目に見えない存在を感知したかのように、瓶の底から立ち上がって蠢いていた。
(ナニコレ!? トマトジュースどころか、食べ物ですらないじゃないの!! あいつ、夜な夜なこんな不気味な小触手スープ(仮)を嗜んでいたの!?)
食欲が完全に失せるどころの話ではない。正気を疑う光景だった。ルキウスの胃袋はどうなっているのだ。やはり人間ではないのか。
私は引きつった顔で小瓶から目を逸らし、次に向き直った。
ルキウスが消える直前、なぜか木箱に立てかけたあの「奇妙な絵画」だ。
キャンバスに描かれていたのは、風景でも肖像でもなかった。
様々な色の絵の具——漆黒、深紅、コバルトブルー、そして不気味な毒々しい黄色が、秩序なく叩きつけられたようにぶちまけられていた。
抽象画……と呼ぶにはあまりに不気味で、不快な波長を放っている。
さらに異常だったのは、そのぶちまけられた絵の具が、まるで熱湯でも煮立たせているかのように、ブクブクと泡立っていたことだった。
(絵の具が……泡立ってる……?)
粘性の高い絵の具の表面から、大きな気泡が浮かんではブクブクと弾け、中から謎の蒸気のようなものが極微量に立ち上っている。絵画の中に、生きた何かが閉じ込められているかのような、狂気的な光景だった。
私は吸い寄せられるように、そのブクブクと沸き立つキャンバスの表面をじっと見つめた。
何が描かれているのか。なぜこれが泡立っているのか。なぜルキウスはこれをここに立てかけ、そして姿を消したのか。
思考がその泡に囚われ、時間の感覚が曖昧になっていく。
——その時だった。
フッと、世界から音が消えた。
「……え?」
次の瞬間、全身の毛穴という毛穴が激しく収縮するほどの、凄まじい「冷気」が私を襲った。
寒い。そんな生易しい言葉ではない。
血液が瞬時に凍りつき、骨の芯まで氷漬けにされるような、物理的な暴力としての極寒。呼吸を吸い込むと、肺胞が凍りついて破裂しそうなほどの激痛が走る。
「くっ……あ……っ!?」
あまりの寒さに膝がガクガクと震え、私は激しく抱きかかえるように自分の体を腕で擦った。不可視化の首飾りを着けているはずなのに、寒さは容赦なく私を苛む。
何が起きたのかと、私は慌てて辺りを見渡した。
そこに、もうあの木造の古い倉庫の景色はなかった。
埃っぽいカビの匂いも、積み上げられたアンティーク家具も、壊れた木箱も、すべてが消え去っていた。
私が立っていたのは、黒と金を基調とした、息を呑むほど荘厳で、同時に広大すぎる巨大な薄暗い部屋の中だった。
黒漆黒の磨き上げられた大理石の床には、細かな金の装飾が細密画のように張り巡らされている。天井は見上げるほど高く、漆黒の梁が果てしなく続いている。
前方は、どこまで続いているのか先が見えないほど広く、深々とした暗闇の中に吸い込まれるように消えていた。
「なに……ここ……? どこなの……!?」
私は自分の声が寒さで震えていることに気づいた。
パニックになりながら周囲を観察する。
右側の壁一面には、巨大な窓ガラスが連なっていた。その窓は城の壁一面を丸ごとガラスにしたかのような途方もない大きさで、外の景色を映し出していた。
外は——地獄のような光景だった。
恐ろしく激しい吹雪が、まるで怒り狂った獣の悲鳴のような轟音を立てて吹き荒れていた。視界を遮る真っ白な地雪と氷片の嵐。窓のすぐ外は完全な白銀の狂気であり、吹雪以外には何も、文字通り何も見えなかった。
(なんなのよこれ……! 私、帝都にいたはずでしょう!? どうしてこんな雪山みたいな場所に……!?)




