四つの翼を持つ光
寒さで歯がガチガチと音を立てて噛み合わない。
私は寒さを紛らわせるためと、現状を少しでも把握するために、ふらつく足取りで右側の巨大な窓ガラスへと歩み寄った。
外に何か建物はないか。ここはどこなのか。街の灯りは見えないのか。
私は両手を額にかざして日よけのような形を作り、窓ガラスに顔をぺたりとくっつけるようにして、激しい吹雪の向こう側を必死に凝視した。
狂暴な風が窓を叩き、激しい音を立てる。白い暗闇の向こうには、何も見えない。ただ、永遠の凍土が広がっているだけのように思えた。
(駄目……何も見えない……)
諦めて顔を離そうとした、その時だった。
吹雪を映す暗い窓ガラスに、ふっと「誰かの顔」が浮かび上がった。
それは窓の外にいるのではない。窓ガラスの表面、まさに私が顔をくっつけていたすぐ目と鼻の先の位置に、裏側から浮き出るように「見知らぬ影」が投影されたのだ。
ひっ、と喉が鳴った。
その直後、私の右耳のすぐ後ろで、氷のように冷たく、地獄の底から響くような男の声が低くささやいた。
『——秘密を嗅ぎ回る奴から、順に息の根が止まる』
「いやああぁぁぁぁぁぁっっっ!??!?」
私は喉が裂けんばかりの悲鳴を上げ、弾かれたように振り返った!
鼓動が破裂しそうだった。心臓が跳ね上がり、血液が逆流する。耳元に吹きかけられた冷気は本物だった。誰かが、すぐ後ろにいたのだ!
慌てて振り返り、床に後ずさりした私の視界に躍り出たのは——人間ではなかった。
そこに「それ」は鎮座していた。
巨大だった。
部屋の天井に届かんばかりの巨躯を誇る、圧倒的な存在感。
背中から生え出ているのは、白銀の鱗粉を散らす四つの巨大な白い翼。それは鳥の羽ではなく、紛れもなく「巨大な蛾」の翼だった。
「ひ……あ……っ……!?」
言葉が出ない。息ができない。
その巨大な白い蛾は、全身から凄まじいまでの絶対的な『光』を放ち始めたのだ。
ズシャアアアアアン……!!
光。ただの光ではない。目が潰れるほどの熱量を持った、純白の光の海が部屋全体を一瞬で呑み込んだ。
黒と金の荘厳な大理石も、巨大な窓も、吹き荒れる吹雪も、すべてが圧倒的な光の濁流の中に消し飛び、何も見えなくなった。
世界が、白に塗りつぶされる。
しかし——異常なことが一つだけあった。
部屋全体が視界を奪うほどの光の海に包まれているというのに、なぜか私の正面、私の身体が位置する狭い領域だけ、光が届いていなかったのだ。
まるで、私の頭上にだけ見えない傘が差しだされ、強い光から私を庇う影が落ちているかのように。
だが、そんな現象に気づく余裕など、今の私にあるはずもなかった。
「お……おた……お助け……っ! お助けくださぁぁぁいっ!!」
恐怖の限界を迎えた私は完全に腰が抜け、優雅な公爵令嬢のプライドなど一微塵もなく、床に四つん晴れになって這いながら必死で逃げようとした。
ドレスの裾を踏みつけ、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、光の届かない床を必死に手で掻いて前へ進む。
化け物だ。悪魔だ。怪異だ。
ルキウスはこんな恐ろしい化け物を屋敷の裏に飼っていたのか、あるいはルキウス自身がこれなのか! どちらにせよ、私の人生はここで終わりだ! 愛人を探すどころか、化け物の餌になって骨も残らず消化されるんだわ!
その時だった。
光の海の中から、静かで、しかし聞き覚えのある声が頭の中に直接響いた。
『——アウレリア。私だ。ルキウスだよ』
「え……?」
私は這い進む手を止め、恐怖に震えながら、恐る恐る振り返った。
光の遮られた影の領域、私の目の前の空間に——ふわりと、半透明の淡い光で構成された「人間」の造形が浮かび上がっていた。
それは、眼鏡をかけ、不機嫌そうに眉をひそめた、間違いなく私の婚約者・ルキウスの姿だった。
(ル……ルキウス……!?)
私が息を飲んだ瞬間、その半透明のルキウスの造形は、まるで水泡が弾けるように、儚くフッと消え去ってしまった。
幻覚……? それとも、彼の念思……?
混乱する私を前に、正面に鎮座する巨大な白い蛾が、その四つの翼を静かに揺らした。
蛾の頭部と思われる場所(二本の美しい触角が揺れている)から、魔法の光が収束し、拳ほどの大きさの「白く光る玉」が一個、生成された。
コロン……コロン……。
その白く光る玉は、滑らかな黒い大理石の床を転がり、四つん四つん這いになっている私のすぐ手前まで転がってきた。
(な、なに……!? 攻撃……!?)
私は身構えた。しかし、その光の玉が私の膝に触れた瞬間——。
ぽわん、と温かな熱が全身を駆け巡った。
先ほどまで私を苦しめていた、骨まで凍るような恐ろしい寒さが、嘘のようにスッと引いていったのだ。まるで真冬の雪山から、ポカポカと温かい暖炉のある部屋へと一瞬で移動したかのような、包み込むような優しく快適な暖かさ。体温が急速に戻り、ガタガタと震えていた手足の不快な緊張が解けていく。
「あ……温かい……?」
私は自分の手を見つめた。
冷たさで感覚を失っていた指先に、血が通い、じんわりと温もりが戻ってくる。
命の危険が去ったことを察し、荒くなっていた呼吸が次第に整っていくのを感じた。
恐怖でパニックになっていた脳が、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
(……ルキウスが……私を暖めてくれたの……?)
あの光の玉は、私を攻撃するためのものではなく、寒さに凍える私を守るための保温の魔法だったのだ。
「アウレリア、私だ」という声。半透明の彼の姿。そして、この温かな光。
私は着物の裾を整え、意を決して、四つん四つん這いの姿勢からゆっくりと立ち上がった。
まだ膝は少し笑っていたけれど、ヴァレリウス公爵家の令嬢としての意地と、婚約者としての強い好奇心が、私の背中を押した。
立ち上がった私は、涙を指で拭い、目の前に鎮座する存在を正面から見据えた。
そこには——凄まじい光をその身から放ちながら、四つの巨大な美しい翼を静かに休ませている、圧倒的なスケールの「巨大な白い蛾」がいた。
部屋を埋め尽くしていた暴力的発光は、いつの間にか柔らかく温かな光へと変化しており、光の海の中で、私と巨大な蛾だけが静かに向かい合っていた。
私は息を呑みながら、目の前に君臨するその神々しくも不気味な姿を、じっと見上げた。
「……ルキウス……なのね……?」
私の問いかけは、静寂に包まれた異空間の大殿堂の中に、小さく、けれどはっきりと響き渡った。




