偏屈男の解剖学
「ルキウスの仮面を引っぺがす」
そう決意した私は、すぐさま行動を開始した。
相手は「恋愛は脳内物質のバグ」などとのたまう冷血無比な学者肌である。感情論でぶつかっても論破されるだけだ。ここはまず、彼という「人間」を基礎データから徹底的に洗い出す必要がある。彼が好きそうな物、幼少期の環境、クラウディウス公爵家という実家の内情。知らなければならないことは山ほどあった。
思えば、政略結婚で婚約してからというもの、私は彼のことを「冷たい本好きの変人」としか見ていなかった。彼を愛そうとする努力など、これまで一秒たりともしてこなかったのだ。
「私としたことが、不覚だったわ……」
自室のデスクで羊皮紙に羽根ペンを走らせながら、私は小さく溜息をついた。周囲のバカップルたちに辟易するあまり、「婚約者と向き合う」という最も基本的なプロセスを放棄していたのだ。まさに名剣、サビで折れるだ。
彼が裏でコソコソと『女心の解剖学』を読んでいるような男だと分かった以上、私から歩み寄れば、あの冷酷な殻にヒビを入れられるかもしれない。
私は手始めに、ヴァレリウス家が独自に収集している貴族名鑑や、社交界の過去の記録からルキウスに関する情報を集め始めた。彼の好物、趣味(本を読むこと以外に何があるのか)、交友関係、クラウディウス領での幼少期の逸話など。
しかし——。
調べれば調べるほど、私の眉間には深いシワが刻まれていった。
「……ん? 何これ、妙ね」
記録の中に、些細な、しかし確かな違和感がいくつも散らばっているのだ。
たとえば、ルキウスが十歳の頃。クラウディウス領で流行した風土病に関する記述。当時の領民の大半が発熱し、クラウディウス家の人々も次々と倒れたという記録がある。しかし、その当時のルキウスの主治医のカルテ(たまたま我が家の書庫に写しがあった)には、「ルキウス様は特段の症状なし、ただし体温が異常に低い状態が続いている」とだけ記載されていた。
体温が異常に低い? 十歳の子供が風土病の蔓延する屋敷にいて、発熱するどころか体温が下がるなんてことがあるだろうか。
さらに、彼の十五歳の社交界デビューの記録。
彼はその夜、誰ともダンスを踊らず、食事にも一切手をつけていない。当時の給仕の記録簿には「クラウディウス家の御曹司は、メインディッシュの肉料理を前にして、ひどく気分を悪くされた様子だった」とある。
彼が少食なのは知っているが、社交界の場で一切の食事を拒絶するのは、貴族としてあまりに不自然だ。
その他にも、「彼が滞在した別荘の周辺から、一時的に野生動物が姿を消した」だの、「彼が幼少期に可愛がっていた猟犬が、彼に一切懐かなかった」だの、どれもこれも「決定的な異常」ではないものの、積み重なると奇妙な薄気味悪さを感じる記録ばかりだった。
「……まあ、あの偏屈なルキウスのことだしね」
私は羽根ペンを置き、こめかみを揉んだ。
変人は幼少期から変人だったということだ。
動物に嫌われ、食事にも興味がなく、体温が低い。まるで爬虫類か何かではないか。深く考えるのはやめよう。今は彼の「秘密の顔」を探ることが優先だ。
───
書面での調査に限界を感じた私は、ついに実力行使に出ることにした。
名付けて「婚約者・相互理解促進のための密着視察という名の、ただのストーキング作戦」である。
私は自室の三重隠し金庫から、木箱に入った古びた首飾りを取り出した。
これは、ヴァレリウス家に代々伝わる魔道具であり、私の祖母から「本当に緊急時にだけ使いなさい」と密かに譲り受けたものだ。
名を『夜陰の涙』。これを身につけると、姿形が完全に不可視化されるだけでなく、体から発せられる魔力や足音、気配すらも隠匿できるという超一級品のエルフの秘術魔道具である。
首に冷たい宝石が触れると同時に、鏡に映っていた私の姿がフッと空間に溶け込むように消滅した。自分の手を見ても、何も見えない。
「完璧だわ……」
私は空中に浮いたように見える手袋をしっかり身につけ、誰にも見えない状態で屋敷を抜け出した。
ルキウスのいる邸宅に忍び込みながら、私の胸は激しく高鳴っていた。
(なんだか……すごく、いけないことをしている気がする……)
他人の私生活を覗き見するなど、淑女のすることではない。もしバレたら婚約破棄どころの騒ぎではないだろう。
しかし、私はすぐにその罪悪感を振り払った。
(いいえ、これは違うわ! 私は彼の一応の婚約者として、彼を深く知り、円満な結婚生活を送るための「公務」を行っているだけよ! そう、彼を愛するための努力の一環なのだから、何も恥じることはないわ!)




