仮面を着けた婚約者
私が彼を凝視していると、突然、露地の奥からガタガタと嫌な音が響いた。
「おいおいおい! お前さん、この街で商売したけりゃ、俺たち『黒蜥蜴組』にショバ代を払ってもらおうか!」
数人の行儀の悪い男たちが、テラス席に乱入してきたのだ。いわゆる下町のチンピラである。彼らはターゲットを探すように周りを威嚇し、そして……運悪く、私とハーブティーに目をつけた。
「おい、そこ見ねえ顔の姉ちゃん。一人でお茶かい? 可愛い顔してんじゃねえか。俺たちと遊ぼうぜ」
チンピラの一人が、私のテーブルに汚い手を置いた。
(絶好の……絶好のチャンス到来!!!)
私は内心でガッツポーズをした。
これは王道! 吟遊詩人が唄うロマンス物語の金字塔! 『ピンチに陥ったヒロインと、それを助ける他国のヒーロー』の構図ではないか!
私は怯えた可憐な少女を演じるべく、わざとらしく両手を胸の前で組み、弱々しい声を絞り出した。
「あー! やめてくださいませー……! 私、ただお茶を飲んでいただけでー……きゃっ!?」
チンピラが私の腕を掴もうとした、その時!
ドゴォン!!
猛烈な衝撃音が響き、チンピラの手が払いのけられた。
見れば、先ほどの褐色の男が、立ち上がっていた。彼は曲刀の柄に手をかけ、鋭い鋭利な視線でチンピラたちを射抜いている。
「そこまでにしてもらおうか、ならず者ども」
その声の低い響き! 重厚感!
チンピラたちは彼の圧倒的な気迫に気圧され、「ひ、ひえっ……なんだこの威圧感は!」「くそっ」と捨て台詞を残して蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
完璧。完璧すぎる。
ここに王道を広めた吟遊詩人がいるのなら、金一封を贈りたいほどの完璧なヒーローの登場だ!
男は曲刀から手を離すと、ゆっくりと私に向き直った。そして、大きな手で私の肩を優しく支え、低く甘い声で問いかけてきた。
「大丈夫だったかい、お嬢さん。怪我はなかったか?」
「あ……はい。ありがとうございます……! 貴方様のおかげで助かりましたわ……」
私は上目遣いで男を見つめた。
男の瞳に、私の姿が映っている。彼の表情が、ゆっくりと和らいでいく。
きた……! ついにきたわ!
この胸の高鳴り! これこそが私が求めていた「情熱的な恋の予感」!
見ているかしらルキウス! 私は今、他国のワイルドな英雄と運命の出会いを果たしたのよ!
「お礼をさせてくださいな。私、何か温かい飲み物でもご馳走……」
私が甘い微笑みを浮かべて提案しようとした、その瞬間。
男はふっと遠くを見るような目をし、私の手を両手で力強く握りしめた。
「いや、礼などいらない。むしろ感謝したいのは私の方だ、お嬢さん」
「え……? 私に……?」
「そうだ。君のその……麦わら帽子から覗く、少しウェーブがかった金色の髪。それを見た瞬間、私は遠く離れた故郷の『婚約者』を思い出して、胸が熱くなったのだよ」
……はい?
私の脳内で、カチリと嫌なスイッチが入る音がした。
「こ、婚約者……様、でございますか?」
「そうだ!」
男は熱っぽく語り始めた。その瞳には、先ほどのチンピラを倒した時の鋭さは微塵もなく、どこかドロドロとした怪しい光が宿っていた。
「私の故郷にいる婚約者、アリアだ! 彼女の髪も君と同じように美しい金色でね……ああ、思い出すだけで狂いそうだ! 私は彼女の髪の毛一本一本に名前をつけて愛でているのだよ! 一本目が『アリア一号』、二本目が『アリア二号』……今朝方、手紙で『アリア千二百号が抜け落ちました』と報告があってね! 私はその抜け毛を宝箱に保管するために、今すぐ国へ帰りたいのだ!!」
「………………」
「君のおかげで、私がどれほどアリアの髪の毛を愛しているか再確認できた! ありがとう、お嬢さん! 私は今から全速力で本国へ帰還する! アリアぁぁぁぁぁ!!」
男は涙を流しながら港の方角へと猛ダッシュで走り去っていった。
テラス席に、静寂が訪れる。
私は握られたままだった自分の手をじっと見つめ、それから空を見上げた。
「……髪の毛一本一本に名前……?」
無理だ。
もう無理だ。
この世界は病気だ。
帝国人だろうが異国人だろうが、男という生物は全員「特定の女性に対する激重変態溺愛思考」を脳内に植え付けられて生まれてくるのだ。
大陸最高峰の剣聖も、遠い異国から来たワイルドな英雄ですら、婚約者の抜け毛にナンバーをつけて愛でている変態だったのだから。
私はがっくりと膝をつき、カフェのテラスで燃え尽きた真っ白な灰となった。
──
「……何をしているんだ、アウレリア」
頭上から、聞き覚えのある呆れを含んだ声が降ってきた。
ハッと顔を上げると、そこに立っていたのは……
質の良い紺色のコートを身にまとい、腕に何冊もの分厚い古書を抱えた、私の一応婚約者・ルキウスだった。
彼は片眼鏡の枠を押し上げながら、地べたにへたり込んでいる私を、怪訝そうな目で見下ろしていた。
「ル……ルキウス!? なぜ貴方がこんな下町のカフェに!?」
「なぜも何も、私はこの近くの古本屋に、数百年前の解剖学書が入荷したと聞いて取りに来たんだ。……それより、その格好は何だ。質素な町娘の変装のようだが、髪型と立ち振る舞いが雑すぎて、ヴァレリウス家の令嬢であることが丸わかりだぞ」
ルキウスは溜息をつき、抱えていた本を片腕で持ち直すと、空いた手を私に差し出してきた。
「立ち上がれ。公爵家の令嬢が地べたに座り込むな。魂まで地に堕ちるぞ」
「っ……!」
私は悔しさに唇を噛み締めながら、彼の手に捉まった。ルキウスはぐっと腕に力を入れ、私を軽々と引き引き上げた。相変わらず、無骨で温かい手だった。
「……わ、笑えばいいわ」
私は俯いたまま、絞り出すような声で言った。
「笑えばいいじゃない! 笑いなさいよ、ルキウス。『ほら見ろ、確率はゼロだったろう』って! 平民も、他国の男も、全員頭がおかしかったわよ! この世界には、私を普通に愛してくれるまともな男なんて一人もいないのよ!!」
ヤケクソになって叫ぶ私。
当然、ルキウスはいつものように「サンプル数がさらに増えたな」とか「人間の脳の錯覚は普遍的だ」とか、冷酷な論理で追撃してくるものだと思っていた。
だが。
「……ふむ」
ルキウスは私から手を離すと、静かに私のかぶっていた麦わら帽子の位置を直してくれた。指先が私の額に触れ、少しだけくすぐったい。
「なぜ君を笑わねばならんのだ」
「はっ……!?」
「私は最初から言っているはずだ。『君に愛人など見つかるはずがない』とね。実験結果が予測通りであったことに、いちいち嘲笑するほどの感情的余波は持ち合わせていない」
ルキウスは淡々と、しかしどこか落ち着いた声で言った。
「それに……アウレリア。君は以前、『私を普通に愛してくれる男』になって欲しいと言ったが」
「言ったわよ! 私だって、誰かの特別になりたいのよ! 周りのバカップルみたいに狂った愛じゃなくていい、でも、私だけを見てくれる情熱的な愛が欲しいのよ!」
私が訴えると、ルキウスは眼鏡の奥の青い瞳をわずかに細め、私を凝視した。
「……君は実に面倒な女だな」
「な、なんですって!?」
「言っただろう。君はプライドが高く、社交界の甘ったるさを嫌い、そのくせ自分だけは特別扱いされたがる。そんな面倒で複雑な条件を満たす男が、その辺に転がっているはずがない。それに、すぐ女に言い寄るような男で、本当に満足なのか?」
ルキウスはそう言い捨てると、くるりと背を向けた。
「帰るぞ。馬車を回してある。君のその貧相な変装につきあうのも限界だ」
「ちょっと! 婚約者が真面目に悩んでいるのに、最後までそんな冷たいの!?」
私はプンプンと怒りながら、彼の後を追って歩き出した。
しかし、歩きながら彼の背中を見ていて、私はふと違和感を覚えた。
(……待って?)
ルキウスが抱えている、何冊もの重そうな古書。
その一番上にある、一冊の小さな本。
他の本はすべて調和語や難解な医学用語で書かれた分厚い書物なのに、その一冊だけ、妙に新しく、変わった装丁が施されていた。
タイトルがチラリと見えた。
だが、意味不明な言語ですべては読めない。
……ん?
『女心の解剖学』……??
「ねえ、ルキウス」
「何だ」
「貴方が持っているその本、一番上のやつ……何かしら?」
私が指をさすと、ルキウスの体がわずかに一瞬だけ跳ねた。
彼は目にも留まらぬ速さでその本を他の分厚い医学書の下へと滑り込ませ、何事もなかったかのようにすまし顔で振り返った。
「ニッチな心理学書だ。人間の脳が引き起こす不可解な行動パターンに関する考察が書かれている。気にするな」
「ふーん……? 心理学書ねぇ」
私は目を細めた。
まさか……あの冷血で、血も涙もない、恋愛を「脳の過剰反応」と切り捨てる男が……?
『女心の解剖学』なんていう、怪しさ満点の恋愛指南書のような本を、わざわざ下町の古本屋で買っていたの……?
「なんだその目は。はっきり言え」
「何も言ってませんわよ?」
私は、ふっと口元に笑みを浮かべた。
完璧に冷血で、私になんの興味もないと思っていたこの男。
もしかして……もしかすると?
「さあ、帰りましょうルキウス! 私、お腹が空いてしまいましたわ!」
「喜怒哀楽が激しいな。君の脳内ホルモンの動きは実に歪だ」
文句を言うルキウスの隣を歩きながら、私は胸の中で小さな、けれど確かな勝利の予感を感じていた。
この国の男たちが全員「激重溺愛病」に侵されているなら……
私の目の前にいる、この「理屈っぽすぎる変人」だって、本当はすでに手遅れなのかもしれない。
ただ、彼の病状の発現の仕方が、著しく「捻くれていて分かりにくい」だけで。
(見ていらっしゃい、ルキウス。貴方が私に降参して『アウレリア、君は私のすべてだ!』なんて叫ぶ日まで、私は絶対に諦めないんだから!)
こうして、私の「愛人探し(仮)」は、いつしか「冷徹な婚約者の仮面を剥ぎ取る戦い」へと、静かに姿を変えていくのであった。




