新たなステージへ
「お怪我はありませんか、私の女神! ああ、神よ! 私にこの素晴らしい出会いを与えてくださったことを感謝します! どうか私のジャケットでそのお召し物を拭わせてください! そして私の今後の人生すべてを、貴女に捧げる許可を!!」
「えっ……? あ、あの、貴方は……?」
「カシウスと申します! 今日から貴女の忠実なる奴隷です!!」
「まあ! 素敵な方!」
数秒前まで「完全なフリー」だった男が、目の前で「脳内物質の過剰分泌」を起こし、一瞬で激重バカップルの一員へと変貌を遂げた。
周囲の貴族たちが「なんてドラマチックな出会い!」「素晴らしいわ、新たな愛の誕生ね!」と拍手を送り始める。
私は一人取り残された。
手に持った扇子が、パキリと嫌な音を立てて折れた。
「……帰る」
私は絞り出すような声で呟くと、誰にも気づかれないように園遊会の会場を後にした。
◈
「キーーーーッ!! あり得ないわ! 絶対にあり得ない!!」
私はクラウディウス公爵邸の重厚な扉を蹴り開け、その勢いで突入し、ルキウスの書斎へとなだれ込んだ。
バシャアアン!とデスクの上に手袋を投げつける。
ルキウスは相変わらず、薄暗い部屋の中で厚手の書籍を開いていた。今日彼が読んでいる本のタイトルは『脳における情動異常と恋愛錯覚の持続期間に関する考察』だった。嫌がらせか。
ルキウスはめんどくさそうに片眼鏡の位置を直し、私を一瞥した。
「静かにしてくれ、アウレリア。今、錯覚によって生じた恋愛感情が、結婚後いかにして永続的な依存症へと移行するかというメカニズムのページを読んでいる」
「聞く気ゼロじゃないの!! ねえルキウス、貴方の言った通りだったわよ! 男たちが、男たちが全員病気なのよ!!」
私は叫びながら、彼のデスクの前の椅子にドカリと座り込んだ。
「フリーの男を見つけたと思ったら、目の前でジュースをこぼした女に一目惚れして跪いたのよ!? 一秒前まで独身だった男が、一秒後には『今日から君の奴隷です』ですって!? なんなのこの国!? どうして誰も彼もが即落ちなの!? これはきっと悪魔の仕業よ! 神の祝福なんかじゃないわ! 愛をこじらせた悪魔が、卑劣に愛の呪いをばら撒いているのよ!」
息を荒くして憤慨する私を、ルキウスは冷ややかな瞳で見つめた。
「もう言っただろう。確率はゼロだと。我が国の男性貴族における『脳内化学反応の閾値』は異常に低いのだよ。環境的因子と社会的プレッシャーにより、特定のトリガー(例えば不器用な動作や特定の装い)を感知した瞬間、脳内で大量の多幸感物質が噴出するようにできている」
ルキウスは淡々と解説しながら、手元のメモ帳に何かを書き込んだ。
「つまり君の今日の実験は、私の仮説を完璧に証明したことになる。ご苦労だったな、アウレリア。サンプル数+1だ」
「私を実験材料にすんな!!」
私はデスクをバンと叩いた。
「い、痛い……。あ、あのね、私だって! 私だって乙女なのよ!? あんな風に、出会った瞬間に『君は僕の女神だ』なんて言われてみたいわよ! なのに、私に声をかけてくる男は分度器で角度を測ろうとするか、途中で別の女に乗り換える奴ばかり! そして私の本当の婚約者は、私の悔しさを『サンプル』として処理する冷血動物!! 一体何なのよ!」
言っているうちに、なんだか本当にかわいそうになってきて、胸がキュッと痛くなった。
別にルキウスのことが好きで好きでたまらないわけではない。けれど、世の中のすべての女性が「愛され、甘やかされ、世界の中心のように扱われている」中で、自分だけが冷たい学者の隣で放置されている事実は、やっぱり寂しいのだ。
私が俯いて沈黙すると、書斎に気まずい静寂が訪れた。
ルキウスはしばらくの間、無言で私を見つめていた。やがて、彼は小さく息を吐くと、椅子から立ち上がった。
(なによ……『泣くなら外で泣け』とでも言うつもり?)
私は身構えた。しかし、彼がした行動は予想外のものだった。
すっと私の隣まで歩いてくると、ルキウスは自分のデスクの上にあった温かいティーカップを取り上げ、私の手元に押し付けてきたのだ。
「……なにかしら、これ」
「カモミールティーだ。鎮静効果がある。君は今、交感神経が過剰に優位になっており、末梢血管が収縮している。手が冷えているだろう」
そう言って、彼は無造作に私の手を上から包み込んだ。
「っ……!?」
ルキウスの指先は、冷徹な彼の言葉とは裏腹に、驚くほど温かかった。無骨で、背が高く、彫刻のように綺麗な顔が、すぐ目の前にある。普段は本ばかり読んでいる男の、存外にしっかりとした男性特有の大きな手。
その不意打ちの距離感に、私の心臓がドクンと嫌な跳ね方をした。
「な、何をするのよ……!」
私が慌てて手を引こうとすると、ルキウスは特に力も込めずにあっさりと手を離した。
「血流の改善を確認しただけだ。勘違いするなよ」
「か、勘違いなんてしてないわよ!!」
「それは重々結構。……ただ、アウレリア」
ルキウスは再び自分の椅子に戻り、眼鏡を直しながら冷淡な声で言った。
「君がどれほど他者からの熱烈な情熱とやらを求めようと自由だが、私にそれを期待するのは無駄だぞ。私は君の感情的な暴走に付き合うつもりはないし、脳の誤作動で君を『女神』などと呼ぶつもりも毛頭ない」
「言われなくてもわかってるわよ!!」
せっかく一瞬だけキュンとしかけた自分がバカみたいだ!
この男はどこまでも理屈っぽくて、血が通っていなくて、私の乙女心を踏みにじる天才なのだ!
「いいでしょう、ルキウス! 今日の今日とて、よく分かったわ。貴族の男が全員病気なら、私は別のアプローチを考えるまでよ!」
「別のアプローチ?」
「ええ! 貴族がダメなら平民! あるいは他国の男! とにかく、この国にまだ存在するはずの『正常で、なおかつ私を情熱的に愛してくれる男』を絶対に探し出してみせるわ!」
私はカモミールティーを一気に飲み干し(熱くて少し舌を火傷した)、カップをガタンと置いた。
「見つかった時には、貴方の目の前で思いっきりイチャイチャして見せますからね! 覚悟しておきなさい!」
「……ふむ。異文化圏における脳内物質の分泌比較か。それはそれで興味深いサンプルだな。健闘を祈るよ、アウレリア。だが、度を越した火遊びは危険だぞ」
ルキウスはどこまでもマイペースに本へと視線を戻した。
「キーーーーーーッ!!」
私は叫びながら書斎を飛び出した。
絶対に、絶対にあの男を後悔させてやる。
私だって、愛される価値のある魅力的な女性なんだと、世界中に証明してみせる!
そして……そして……夢にまで見た甘い恋を絶対に叶えるのだ。
こうして、私の「愛人探し」は、貴族社会を飛び出し、さらなるカオスな領域へと足を踏み入れることになったのであった。




