婚約者の見解
翌日。私は意を決して、ルキウスの邸宅を訪れた。
彼の広大な屋敷の奥深く、陽の光もあまり差し込まない重厚な書斎。壁一面を埋め尽くす書棚には、調和語ではない怪しげな言語で書かれた古書がずらりと並んでいる。
ルキウスは大きな机に向かい、厚手の片眼鏡を鼻梁にのせ、見たこともないような奇妙な挿絵が描かれた本を食い入るように見つめていた。
「ルキウス」
私が声をかけても、彼は視線すら上げない。長い指が静かにページをめくる音だけが室内に響く。
「……ああ何だ、アウレリアか。騒がしくしないでくれ。今、東方の遠方国から取り寄せた非常に独特な視点を持つ医学書を読んでいる最中なのだ。人間の内臓の配置と、精神の異常状態に関する非常に興味深い論考が展開されている」
「こんにちは、ルキウス。相変わらず楽しそうですわね。ところで、私の話を聞いてくださるかしら?」
私は彼の向かいの椅子に腰掛け、優雅に脚を組んだ。ルキウスは面倒そうにチラリと私を見ると、すぐに視線を本に戻した。
「手短に頼む。私の集中力は今、東方の医術者が唱えた『胆汁分泌説』に注がれている」
「貴方、相変わらずね。……ねえ、ルキウス。貴方は『恋愛』についてどう思っていらっしゃるの?」
私がそう問いかけると、ルキウスは心底くだらないことを聞かれたと言わんばかりに、低く冷ややかな溜息をついた。
「恋愛? ああ、あの周囲の人間を滑稽かつ非効率的な行動に走らせる精神疾患のことか」
「……精神疾患?」
「そうだ。医学的、論理的に言えば、恋愛などというものは何の意味もない。遠方国の医学書にも書かれているが、あれは特定の他者に対して脳内で過剰なドーパミンやフェニルエチルアミンといった化学物質が分泌され、合理的な判断力が一時的に麻痺している状態に過ぎん。人間が子孫を残すための生物学的な欲求、あるいは脳の過剰反応だ」
彼は淡々と、まるで腐ったカボチャの成分分析でもするかのような口調で言い切った。
「つまり、我が国の貴族どもが政略結婚の後に陥っているあの『運命の恋』とやらは、環境の変化と社会的プレッシャーによる集団催眠、および脳内ホルモンの過剰分泌がもたらす錯覚だな。まったく、くだらない。そんな無意味な化学反応に人生の貴重な時間を費やすなど、愚者のすることだ」
言い終えると、彼は再び本に目を落とした。
完璧なまでに冷血。血も涙もない。
この男の胸の中に、熱い情熱や恋心などというものが芽生える余地は、一微粒子ほど存在しない。彼にとって私は「家格が釣り合うため便宜上確保された婚姻対象」であり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
周りの貴族たちが全員、脳内に謎のいかがわしい物質を大量放出し合って甘い世界に浸っている中で、私の婚約者だけは冷徹な学者気取りで脳の構造を分析している。
……なんだか、ものすごく虚しくなってきた。
私だって、乙女なのだ。一度くらいは「君なしでは生きていけない」なんて、神話の甘い恋物語の台詞を言われて、情熱的に抱きしめられてみたい。なのに、私の将来の夫は「君への執着は脳内物質の誤作動だ」とか言い出す男なのだ。
このままこの男と結婚して、一生脳内物質の話を聞かされながら、冷めきった冷戦のような夫婦生活を送るのか?
そして外に出れば、両親や友人たちの激甘バカップルぶりを見せつけられて、一人で悶々とストレスを溜め込むのか?
冗談ではない。私の人生は、一度きりなのだ。
ふつふつと湧き上がってきた怒りと開き直りが、私の頭の中で弾けた。
「ねえ、ルキウス」
「何だ。まだあるのか。私は今、第三章の『脳の異変と情動』に入ったところなのだが」
「私、貴方と結婚する前に……いいえ、結婚してからも含めて、一つ提案がありますの」
私は身を乗り出し、彼の読んでいる怪しい医学書の上から、ルキウスの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「私、愛人を作ってもよろしくて?」
静寂が書斎を支配した。
普通なら、ここで怒り狂うか、嫉妬に狂うか、あるいは婚約破棄を言い渡す場面だ。貴族の矜持として、婚約者から「愛人を作りたい」と言われて平気な男などいるはずがない。もし彼が少しでも私に執着を見せてくれれば、あるいは怒ってくれれば、それはそれで「男としての情熱」の証になるかもしれない。私は心のどこかで、少し、ほんの少し期待していた。
私は期待と恐怖が入り混じった心地で、ルキウスの反応を待った。
ルキウスはゆっくりとページをめくる手を止め、眼鏡の枠を指で押し上げた。
青い瞳が、私を凝視する。
一秒。二秒。三秒。
彼は……小さく息を吐くと、何事もなかったかのように視線を本に戻した。
「好きにしろ」
「……はい?」
「愛人でも何でも作ればいいと言ったのだ。我がクラウディウス家と君のヴァレリウス家の政治的・経済的な結びつきさえ維持され、跡取りとしての義務さえ果たされるのであれば、君が私生活で誰とどのような生物反応を起こそうと私の知ったことではない。君の脳がドーパミンを求めて他者に向かうというのなら、それは君の生物学的な自由だ」
本気でどうでもよさそうに、彼はページをもう一枚めくった。
怒りもしない。嫉妬もしない。ただの作業許可を与えるように、軽く承諾された。私の覚悟も、密かな期待も、すべて不発に終わったのだ。
私は開いた口が塞がらなかった。
「あ、貴方……本当にそれでいいのですの!? 私が他の男性と恋に落ちて、その方に熱烈な愛を囁かれても、貴方は何も感じないのですか!?」
「何も感じんな。むしろ、君が他の男に気を取られて私にくだらない雑談を挑んでこなくなるのなら、研究時間が増えて好都合だ」
ルキウスは淡々と言い放つと、ふっと口元の端を僅かに上げ、意地の悪い微笑を浮かべた。
「だが……アウレリア」
「な、何かしら」
「君に愛人など見つかるとは思えんがね」
私は思わず立ち上がった。
「なっ……! なんですって!?」
「言った通りだ。この帝国の貴族男どもを見ろ。全員が全員、自分の政略結婚の相手に脳を狂わされ、他の女性など目に入らない状態になっている。君は知らんかもしれんが、我が国の男の九割九分は、すでに自分の妻や婚約者に『過剰な愛情』という名の精神疾患を発症しているのだよ。そんな世界で、君のような扱いづらい性格の女を好き好んで愛人にする酔狂な男が、どこにいるというんだい?」
ルキウスは本から顔を上げ、冷ややかな瞳で私を上から下へと見分けるように眺めた。
「君はプライドが高く、社交界の甘ったるい雰囲気に悪態をつき、そのくせ心の奥では自分も特別扱いされたいという面倒な乙女心を抱えている。そんな複雑で面倒な物件をわざわざ愛人にして、自分の妻からの過剰な愛を捨てようとする男が存在すると思うか? 論理的に考えて、確率はゼロに等しい」
「くっ…………!」
言い返したい。激しく言い返したい。
しかし、こいつの言っていることが悲しいほど正論であったため、私は返す言葉を失ってしまった。
そうなのだ。この世界の男性貴族は、全員が自分の妻(または婚約者)に狂気的なまでの愛を捧げている。浮気や愛人を作る隙など、彼らの脳内には微塵も存在しないのだ。街を歩けば、妻のために珍しい花を買う貴族、妻の笑顔を見るためだけに領地を一回分破産させかねない勢いの貴族ばかり。
そんな世界で、フリーの魅力的な男性を探し出し、自分と「燃えるような愛人関係」になってくれる相手を見つけるなど、砂漠で一粒のダイヤモンドを探すようなものだった。
「ふん。言いたい放題言ってくれますわね、ルキウス」
私は両手を腰に当て、彼を睨みつけた。
「いいでしょう。そこまで仰るなら、証明してみせますわ! 私だって、本気の恋ができるということ! 私を心の底から愛し、情熱的な言葉を囁いてくれる素晴らしい愛人を、絶対に作ってみせます!」
「ほう。それは楽しみだ。もし見つかったら、ぜひその男の脳の構造を観察させてくれ。どのような異常をきたしているのか興味がある」
どこまでも人を馬鹿にした態度の婚約者に、私のこめかみの血圧は限界まで跳ね上がった。
「後悔しても知りませんからね! 私が素敵な愛人を見つけて、貴方のことなんて見向きもしなくなっても、絶対に泣きつかないでくださいませ!」
「安心してくれ。私はこの本を読むので忙しい」
ルキウスはもはや私を見ようともせず、再び「東方の医学書」の世界へと没入していった。
私はドレスの裾を激しくひるがえし、彼の書斎を飛び出した。廊下をドシドシと大きな音を立てて歩きながら、胸の中で煮えたぎる炎を感じていた。
見ていらっしゃい、ルキウス!
絶対に、絶対に作ってみせるわ。
友人の夫たちよりも情熱的で、私の両親よりも甘い言葉をささやいてくれて、私を一心に愛してくれる最高の愛人を!
そして、貴方に「アウレリア、頼むから僕のもとに戻ってきてくれ!」と床に膝をついて泣いて謝らせてやるんだから!
……こうして、私アウレリア・ヴァレリウスの、「過剰な愛に満ちあふれた世界での、難易度最高峰の愛人探し」という、愚かで、苛立たしくも、どこか切ない闘いが幕を開けたのだった。
まずは……明日のお茶会で、誰か独身で、まだ脳が狂っていない正常な男性が出席していないか、徹底的にリサーチすることから始めなければ。
私は固く拳を握り締め、ムカつくほど澄んだ空を見上げた。私の理想の情熱的な恋は、一体どこに転がっているのだろうか。




