恋する白翼と黒翼
◇王を忘れた王◇
ヴァルノアの街が夕暮れに包まれる頃、冒険者ギルドの2階にある一室では、少し奇妙な顔合わせが続いていた。
寝台に腰を下ろすベン。その隣には、看病を続けてきたシルヴィア。壁際では、ミラ=クローヴァンが腕を組んでいる。
そして、その3人と向かい合っているのは、突然現れた2人の訪問者だった。
白金色の長い髪を持つ女性、アマノテルシエ。
そして、人間の旅人に姿を変えた幻魔族の諜報員、レイビス。
アマノテルシエの背中には、本来、大きな純白の翼が生えている。しかし現在は、旅装に施した隠蔽魔法によって、その存在を完全に隠していた。
魔力の気配も抑えているため、一般人が見れば、清楚な雰囲気を持つ人間の神官にしか見えない。
一方、レイビスも幻術によって髪や瞳の色を変え、どこにでもいる旅人の姿を装っていた。
2人とも、本来の身分を明かすつもりはなかった。
少なくとも、帝国軍警の調査が続くこの街では。
「……それで、確認したいんだけどさ」
ベンが口を開いた。
「俺って、本当に王様だったの?」
アマノテルシエは、ゆっくりと頷いた。
「はい。ベン様は、かつてアークディアに君臨された50人の王の1人でいらっしゃいました」
「……50人も?」
「はい」
「随分と王様の多い国だな」
ベンは困ったように笑った。
ミラも小さく首をかしげる。
「普通、王ってのは1人じゃないのかい?」
「アークディアは、通常の国家とは少し異なる成り立ちをしております」
アマノテルシエは穏やかに答えた。
「50人の王が、それぞれ異なる役割を持ち、協力して築かれた都市なのです」
「……俺は何をしてたの?」
「剣術と召喚術に優れた王でございました」
ベンは、自分の手を見つめた。
見覚えのない過去。
しかし、大剣を握れば身体が動く。
そして、ラウゼン村では5,120名の天使を召喚した。
少なくとも、彼女の説明と現在の自分には、共通する点があった。
「じゃあ、あの天使たちは?」
「ベン様がかつて編成された、天使騎士団第一旅団である可能性が高いと考えております」
「……第一旅団」
「はい。編成人員は5,120名でございました」
ベンは目を見開いた。
「……やっぱり、5,120なんだ」
ラウゼン村で召喚した時、視界に現れた数字。
今も、その数字だけははっきり覚えている。
「……何か思い出されましたか?」
アマノテルシエが身を乗り出した。
「いや……」
ベンは首を振った。
「数字に覚えがあるだけで、何も思い出せない」
「……そう、ですか」
アマノテルシエの表情が、少しだけ曇った。
だが、すぐに微笑みを取り戻す。
「無理になさらないでください」
シルヴィアも頷いた。
「そうですよ。昨日も記憶を思い出そうとして、頭痛が強くなったでしょう?」
「……分かってるって」
ベンは苦笑した。
そのやり取りを見つめながら、アマノテルシエは胸の奥に温かいものを感じていた。
昔と変わらない。
無理をするなと注意されても、少し困ったように笑うところ。
心配をかけたくないからと、平気なふりをするところ。
すべてが、彼女の知るベンの姿と重なった。
しかし、彼の方は自分を覚えていない。
その事実が、どうしようもなく寂しかった。
「……ねえ、アマノテルシエさん」
ベンが声をかけた。
「はい!」
彼女は思わず背筋を伸ばした。
「そんなに緊張しなくても……」
「も、申し訳ございません」
ミラが小さく笑った。
「随分と懐かれてるじゃないか、ベン」
「いや、俺には全然分かんないんだけど」
「そうだろうね」
ベンはアマノテルシエへ向き直った。
「俺、あなたのことを覚えてない。それでも、昔のことを聞いていい?」
「……もちろんでございます」
彼女は、静かに微笑んだ。
「私が存じていることでしたら、何でもお話しいたします」
◇忘れられた50人◇
アマノテルシエは、アークディアについて語り始めた。
雲海の上に浮かぶ巨大な都市。
世界樹の近くに築かれた城塞。
そこに暮らす多くの種族。
かつて王たちが協力して築き上げた場所。
そして、王たちが姿を消した後も、住民たちが都市を守り続けてきたこと。
「……それが、2,000年?」
ベンが尋ねた。
「はい」
「……2,000年って、そんな馬鹿な」
ベンは思わず笑った。
しかし、アマノテルシエの表情は真剣だった。
「私たちにとっては、それだけの年月が流れたのです」
シルヴィアも目を丸くした。
「……そんなに長い間、待ち続けていらしたのですか?」
「はい」
アマノテルシエは静かに頷いた。
「いつか、王たちがお戻りになると信じておりました」
ミラは少し考え込んだ。
「……でも、ベンはそんな国があったことすら覚えていないんだろ?」
「……そうです」
アマノテルシエの声が小さくなった。
ベンは、自分の記憶を探った。
アークディア。
世界樹。
50人の王。
しかし、何も浮かんでこない。
弟のヨシマサと一緒にゲームをしていたことは覚えている。
元いた世界での暮らしも、ある程度は思い出せる。
だが、そのゲームの内容となると、記憶が完全に途切れてしまう。
「……ごめんな」
ベンが呟いた。
アマノテルシエは、はっと顔を上げた。
「……何が、でしょうか?」
「そんなに待っててくれたのに、俺、全然覚えてなくて」
その言葉を聞いた瞬間、アマノテルシエは首を横に振った。
「いいえ!」
思わず声が大きくなる。
「……謝らないでください」
彼女は静かに続けた。
「私たちが勝手にお待ちしていただけです。ベン様に責任などございません」
ベンは、しばらく彼女を見つめていた。
そして、小さく笑った。
「……ありがとう」
アマノテルシエの胸が、高鳴った。
その声。
その言葉。
かつて何度も聞いたことがあった。
それだけで、2,000年間の寂しさが少しだけ和らいでいくようだった。
「……それと」
ベンが顔を上げた。
「弟のことなんだけど」
「はい」
「パウルっていう人が、俺の弟かもしれないんだよな?」
アマノテルシエは頷いた。
「はい。アークディアにいらっしゃるパウル様は、ベン様の弟君として知られております」
「……ヨシマサ」
ベンは、小さく呟いた。
「本当に、ヨシマサなのかな」
「そのお名前は、私も存じませんでした」
アマノテルシエは正直に答えた。
「ですが、ご本人に確認することはできます」
レイビスが静かに頷いた。
「その件につきましては、私から本国へ確認を取ります」
ベンは顔を上げた。
「……頼める?」
「もちろんです」
レイビスは右拳を左胸へ当てかけたが、すぐに手を下ろした。
ここはアークディアではない。
今は、王としての正式な礼を行う場所でもなかった。
「……必ず、お返事をお持ちします」
ベンは小さく笑った。
「ありがとう」
その時、シルヴィアが静かに口を開いた。
「ベンさん。そろそろ、お休みになりませんか?」
「……もう?」
「ずいぶん長くお話しされましたから」
確かに、ベンの顔色は少し悪くなっていた。
本人は気づいていないようだったが、額には薄く汗が滲んでいる。
アマノテルシエは、心配そうに身を乗り出した。
「……ベン様?」
「いや、大丈夫だよ」
「ですが……」
シルヴィアは、少しだけ眉を寄せた。
「今は休養が必要です」
ミラも頷いた。
「続きは明日だね」
ベンは、観念したように笑った。
「……分かったよ」
アマノテルシエは、静かに立ち上がった。
「では、また明日、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「もちろん」
ベンは笑った。
「まだまだ聞きたいことがあるしな」
その一言に、彼女の表情が明るくなった。
「……はい!」
今度は、思わず声が弾んでいた。
◇姉の置き土産◇
同じ頃。
浮遊都市アークディア。
王城第2層、中央執務室。
「……お姉様は、一体何を考えていらっしゃるのですか」
静かな執務室に、苛立ちを抑えた声が響いた。
声の主は、アークディア執務室・内省課の課長を務める天使、アマノルシエ。
アマノテルシエの実の妹だった。
姉と同じ白金色の髪を持つものの、彼女は肩の少し下で髪をきちんと束ねている。
細い銀縁の眼鏡。
整った執務服。
背中には、姉と同じく純白の翼が生えていた。
普段から冷静で、数字にも規則にも厳しい女性だった。
そして何より、仕事が早かった。
姉が政務首席補佐官として都市全体の内政を統括する一方、妹は内省課長として、行政部門の監査、業務調整、内部規律の維持などを担当していた。
そのため、姉が突然いなくなれば、当然のように業務のしわ寄せが来る。
机の上には、書類の山ができていた。
「市場管理局からの申請書が18件。居住区の修繕計画が7件。各部門の予算調整が12件……」
アマノルシエは、書類を1枚ずつ確認していく。
「しかも、何の事前相談もなしに……」
眼鏡を指で押し上げる。
「……恋愛のために、政務を放り出すなんて」
その時、扉が叩かれた。
「失礼します」
入ってきたのは、内省課の若い職員だった。
「課長、政務首席補佐官室から追加の書類が届いております」
「……追加?」
「はい。代理決裁をお願いしたいとのことです」
「…………」
アマノルシエは、しばらく職員を見つめた。
そして、深く息を吐いた。
「……そこへ置いてください」
「はっ!」
職員が書類を置く。
その山を見て、アマノルシエのこめかみがわずかに動いた。
「……お姉様」
小さく呟く。
「2,000年間、真面目に仕事をしてきたと思ったら……」
眼鏡の奥の瞳が細くなる。
「……突然、恋する乙女ですか」
職員は、聞こえなかったふりをした。
アマノルシエは書類へ目を落とす。
内容を確認すると、素早く筆を走らせた。
「こちらは承認。こちらは予算の再確認。こちらは担当部局へ差し戻し」
判断そのものに迷いはなかった。
姉が不在でも、行政を止めるつもりはない。
それだけの能力と経験は持っている。
しかし、だからといって納得しているわけではなかった。
「……せめて、ひと言くらい相談してくださってもよかったでしょうに」
アマノルシエは、静かに呟いた。
姉がベンに恋心を抱いていることは知っていた。
むしろ、家族として長年見守ってきたからこそ、誰よりも気づいていた。
ベンの名前が出るたび、姉の表情が柔らかくなること。
肖像画の前で、長い時間を過ごしていたこと。
市場で美味しいパンを見つけるたびに、いつか一緒に食べたいと話していたこと。
そのすべてを知っている。
だから、再会を喜ぶ気持ちも理解できた。
けれど。
「……私は、お姉様の恋を応援するためだけに課長をしているわけではないのですが」
彼女は小さくため息をついた。
その時、扉が再び叩かれた。
「アマノルシエ」
聞き慣れた声だった。
「どうぞ」
ヤミノミコタマが入室した。
腰から伸びる漆黒の翼を畳み、静かに一礼する。
「少し、お時間をいただけるかしら」
「……ヤミノミコタマ様」
アマノルシエは立ち上がった。
「お姉様の件ですね」
「ええ」
ヤミノミコタマは、少しだけ苦笑した。
「話が早くて助かるわ」
「……早くもなります」
アマノルシエは、机の上の書類を見た。
「これだけの置き土産を残していかれたのですから」
ヤミノミコタマは、小さく息を吐いた。
「……ごめんなさいね」
「謝罪されるべきは、お姉様です」
即答だった。
ヤミノミコタマは、思わず口元を緩めた。
「……本当に、姉妹ね」
「どこがでしょう?」
「真面目なところ」
「……お姉様は、今まさに不真面目なことをなさっています」
アマノルシエは、眼鏡を押し上げた。
ヤミノミコタマは静かに頷いた。
「その点は、否定できないわ」
そして、正式な人事書類を差し出した。
「パウル様のご判断を仰ぐまで、あなたに内政部門の暫定的な調整をお願いしたいの」
アマノルシエは、書類を受け取った。
しばらく内容を確認し、ゆっくりと頷いた。
「……承知いたしました」
「引き受けてくれるの?」
「当然です」
アマノルシエは静かに答えた。
「お姉様がいらっしゃらないからといって、都市の行政を止めるわけにはまいりません」
ヤミノミコタマは、少しだけ微笑んだ。
「……ありがとう」
「ただし」
アマノルシエは顔を上げた。
「お姉様へ、お伝えください」
「何を?」
「戻られた際には、きちんと説明していただきます」
その声は、穏やかだった。
しかし、眼鏡の奥の瞳には、確かな怒りが宿っていた。
「……承知したわ」
ヤミノミコタマは苦笑した。
そして、心の中で呟いた。
――ティア。帰ってきたら、なかなか大変そうよ。
◇弟からの返事◇
その日の夜。
ヴァルノアの宿場街にある一室で、レイビスは通信水晶を起動していた。
幻術を解いた彼の髪は灰色に戻り、瞳には幻魔族特有の紫色が宿っている。
水晶の向こうに映し出されたのは、ヤミノミコタマだった。
『レイビス。状況は?』
「ベン陛下のご容体は、回復傾向にあるとのことです。また、アマノテルシエ様もご無事です」
『……そう』
ヤミノミコタマは安堵したように息を吐いた。
『ティアは、まだ帰る気がなさそう?』
「はい。むしろ、ベン陛下への同行を希望される可能性が高いかと」
『……でしょうね』
彼女は小さく苦笑した。
『それで、ほかに報告は?』
「はい。ベン陛下から、パウル陛下に関する確認を依頼されております」
ヤミノミコタマの表情が変わった。
『パウル様について?』
「ベン陛下は、現在も弟君をお探しです。しかし、我々が存じているお名前と異なる名前を口にされました」
『……何という名前?』
「ヨシマサ、です」
ヤミノミコタマは静かに繰り返した。
『……ヨシマサ』
「また、ベン陛下ご自身は、タカフミというお名前を覚えていらっしゃいます」
『……なるほど』
ヤミノミコタマは少し考えた。
王たちは、かつてゲームの世界から来た存在だった。
ベンとパウル。
それらがゲーム内で使用していた名前であることは、今では彼女たちも理解している。
しかし、現実世界での本名までは、すべて把握していたわけではなかった。
『その2つのお名前について、パウル様に確認するわ』
「お願いいたします」
『それと、レイビス』
「はい」
『あなた自身は、今後どうするつもり?』
「可能であれば、ベン陛下の冒険者パーティーへ加入したいと考えております」
『……随行するのね』
「はい。現状では、離れた場所から監視するよりも、同行者として安全を確保する方が適切かと」
ヤミノミコタマは静かに頷いた。
『分かったわ。パウル様へ許可を求めましょう。ただし、ベン様と既存のパーティーメンバーの同意が前提よ』
「承知しました」
『それから、現地では身元の秘匿を徹底して。ギルド登録には、正式な任務用の偽名を使用しなさい』
「……では、サムの名を使用いたします」
『サムね。了解したわ』
レイビスは右拳を左胸へ当てた。
「ヴァルクハイル!(承知しました!)」
通信が途切れる。
レイビスは、しばらく水晶を見つめていた。
ヨシマサ。
タカフミ。
もしパウルがその名前を知っていれば、ベンの身元について、ほぼ決定的な裏付けが得られる。
彼は静かに目を閉じた。
「……もう少しです、陛下」
一方、アークディア王城。
ヤミノミコタマは、報告書を手にパウルの執務室へ向かっていた。
「パウル様。ヤミノミコタマでございます」
「入ってくれ」
彼女が入室し、深く一礼する。
「ベン様について、追加の情報がございます」
「……何か分かったのか?」
「はい。ベン様は現在、弟君をお探しとのことでございます」
パウルは顔を上げた。
「……兄貴が?」
「はい。ただし、弟君のお名前として、我々の存じない名前を挙げられました」
「……何て名前だ?」
ヤミノミコタマは、静かに答えた。
「ヨシマサ、でございます」
パウルの動きが止まった。
「…………」
その名前を、何度も心の中で繰り返した。
ヨシマサ。
それは、ゲーム内の名前ではない。
自分自身の、本当の名前だった。
「……俺だ」
小さな声が漏れた。
ヤミノミコタマが顔を上げる。
「……では」
「ああ」
パウルは、ゆっくりと頷いた。
「俺の本名はヨシマサだ」
その声が、わずかに震えた。
「……兄貴」
パウルは椅子の背へ身体を預けた。
長い間、捜していた。
生きているのかも分からなかった。
この世界のどこにいるのかも分からなかった。
それが今。
兄は、自分の名前を覚えていた。
「……よかった」
パウルは顔を手で覆った。
そして、しばらく動かなかった。
ヤミノミコタマは、黙って待っていた。
やがて、パウルが顔を上げる。
「……それで、兄貴は自分のことを何て言ってた?」
「タカフミというお名前を覚えていらっしゃるそうです」
パウルは、ゆっくりと笑った。
「……間違いない」
そして、強く頷いた。
「俺の兄貴は、タカフミだ」
ヤミノミコタマは深く頭を下げた。
「……ベン様でいらっしゃるのですね」
「ああ」
パウルは、静かに答えた。
「本当に、兄貴なんだ」
しばらくして、彼は顔を上げた。
「ヤミノミコタマ」
「はい」
「兄貴には、俺が無事だって伝えてくれ」
「承知いたしました」
「それから、会える日を楽しみにしてるって」
パウルは少しだけ笑った。
「……でも、焦らせるなよ」
「はい」
「兄貴、今は身体が悪いんだろ?」
「療養中との報告がございます」
「だったら、まずは治してもらわないとな」
ヤミノミコタマは深く頷いた。
「確かに、お伝えいたします」
そして、もう1件の報告へ移った。
「……それと、アマノテルシエについてでございますが」
パウルは、少しだけ苦笑した。
「……帰る気がないんだろ?」
「はい」
「……やっぱりか」
パウルは頭を掻いた。
「2,000年も待ってたんだから、まあ、そうなるよな」
ヤミノミコタマは静かに頷いた。
「本人は、ベン様の旅への同行を望んでいるようです」
「内政は?」
「妹のアマノルシエが、現在は暫定的に調整しております」
「……妹?」
「はい。執務室内省課の課長を務めております。実務能力に問題はございません」
パウルは少し考えた。
「なら、正式に代理を任せよう。ただし、無理が出ないように人員も増やしてやってくれ」
「承知いたしました」
「ティアには、本人の希望を尊重すると伝えてくれ」
ヤミノミコタマが顔を上げた。
「……よろしいのでございますか?」
「ああ」
パウルは静かに頷いた。
「兄貴のそばにいたいんだろ? だったら、無理に戻す必要はない」
少しだけ、間を置く。
「もちろん、兄貴とその仲間たちが認めるなら、だけどな」
「承知いたしました」
「レイビスも、監視役として同行したいんだって?」
「はい」
「それも認めよう。ただし、兄貴の自由を奪うようなことはするな」
「ご意向、確かに承りました」
ヤミノミコタマは深く一礼した。
これで、レイビスとティアが現地に残るための許可が整った。
だが、彼女自身には、まだ1つだけ言い出せずにいる願いがあった。
◇恋心の告白◇
その翌朝。
ヴァルノアの冒険者ギルド。
ベンの部屋には、再びアマノテルシエとレイビスが訪れていた。
レイビスは、パウルから預かった返事を伝えた。
「……パウル様の本名について、確認が取れました」
ベンの表情が変わった。
「……本当か?」
「はい」
「……何て?」
「ヨシマサ、です」
「…………」
ベンは、しばらく動かなかった。
「……ヨシマサ?」
「はい。ご本人が、そうお答えになりました」
ベンは、ゆっくりと息を吐いた。
ヨシマサ。
自分の弟。
その名前を、確かに覚えている。
「……じゃあ、本当に生きてるんだな」
「はい」
「……同じ世界に」
「そのとおりです」
ベンは、しばらく俯いていた。
やがて。
「……よかった」
小さな声だった。
シルヴィアは、そっと微笑んだ。
「よかったですね、ベンさん」
「ああ」
ベンは、ゆっくりと頷いた。
「……本当に」
ミラも笑った。
「ようやく、探してた相手が見つかったじゃないか」
「……うん」
レイビスは、静かに続けた。
「パウル様からも、お言葉を預かっております」
「……何て?」
「ご自身は無事であり、再会の日を楽しみにしていると。ただし、今はご療養を優先していただきたいとのことでございます」
ベンは、少しだけ笑った。
「……あいつらしいな」
その表情を、アマノテルシエは嬉しそうに見つめていた。
彼が覚えていた弟。
その無事が、ようやく伝わった。
今は、それだけで十分だった。
しばらくして、ベンがアマノテルシエへ顔を向けた。
「……そういえば」
「はい?」
「あなたは、これからどうするんですか?」
アマノテルシエは、少しだけ緊張した。
「……私でございますか?」
「うん。アークディアってところに戻るの?」
彼女は、しばらく黙っていた。
そして、静かに首を横に振った。
「……いいえ」
ベンが目を丸くした。
「……え?」
「私は、アークディアへ戻るつもりはございません」
「……でも、仕事があるんじゃ?」
「はい。内政を担当しております」
「だったら、戻らなくていいの?」
アマノテルシエは静かに答えた。
「正式な代理体制を整えていただくことになりました」
ベンは少し困惑した。
「……何で、そこまで?」
その質問に、彼女はすぐには答えられなかった。
2,000年間、王城で政務を担当してきた。
都市の運営を支え、多くの人々の生活を守ってきた。
それは、誇りでもあった。
しかし。
ベンがいない2,000年間。
彼女は、ずっと1つの願いを胸に抱いていた。
もう1度、会いたい。
もう1度、声を聞きたい。
もう1度、一緒に笑いたい。
その願いが、今まさに叶おうとしている。
「……私は」
アマノテルシエは、ゆっくりと顔を上げた。
「ベン様のおそばに、いたいのです」
部屋が静まり返った。
ベンは、少しだけ目を瞬かせた。
「……俺の?」
「はい」
彼女の頬が、ほんのりと赤く染まる。
「以前の私は、ベン様にお仕えすることが何よりの喜びでございました」
そして、静かに続けた。
「ですが、今は……それだけではないのです」
シルヴィアは、アマノテルシエの表情を見つめていた。
彼女が何を言おうとしているのか、何となく分かった。
「……もう2度と、お会いできないと思っておりました」
アマノテルシエの声が震えた。
「ずっと、ずっと、お待ちしておりました」
その瞳が、少しだけ潤んでいた。
「ですから……」
彼女は、勇気を振り絞るように言った。
「もう、離れたくないのです」
ベンは、何も答えられなかった。
アマノテルシエは、少しだけ目を伏せた。
「もちろん、ベン様が私を覚えていらっしゃらないことは、理解しております」
静かに続ける。
「以前と同じように接していただけるとは思っておりません」
「……あの」
ベンが小さく声をかけた。
アマノテルシエは顔を上げた。
「……はい」
「それって……」
ベンは少しだけ顔を赤くした。
「……俺と、一緒に旅がしたいってこと?」
アマノテルシエは、一瞬だけ驚いた顔をした。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「……はい!」
その返事には、迷いがなかった。
ミラが小さく笑った。
「……なるほどね」
ベンが顔を向ける。
「……何が?」
「いや。あんた、随分と愛されてるねえ」
「……え?」
アマノテルシエの顔が、一気に赤くなった。
「ミ、ミラ様……!」
「おや、違うのかい?」
「そ、それは……」
アマノテルシエは、言葉に詰まった。
シルヴィアが、思わず小さく笑った。
ベンは3人の顔を見比べていた。
「……何の話?」
ミラは肩をすくめた。
「まあ、そのうち分かるさ」
「……何だよ、それ」
ベンは苦笑した。
アマノテルシエは、しばらく俯いていた。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「……ベン様」
「……はい」
「私が望んでいるのは、特別なことではございません」
彼女は、静かに続けた。
「一緒に食事をして、一緒に歩いて、時には笑い合って……」
少しだけ、間を置く。
「……そんな何気ない時間を、もう1度過ごしたいのです」
ベンは、しばらく彼女を見つめた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……正直に言うとさ」
「……はい」
「俺、あなたのこと、まだ何も覚えてない」
アマノテルシエは静かに頷いた。
「……承知しております」
「だから、昔みたいに接することはできないと思う」
「はい」
「……でも」
ベンは少しだけ笑った。
「これから知っていけばいいのかな、って思う」
アマノテルシエの瞳が、大きく開かれた。
「……ベン様?」
「昔の俺がどんな奴だったのか、あなたたちが知ってるなら、俺も聞きたいし」
彼は、ゆっくりと続けた。
「それに、俺のことをそんなに待っててくれた人を、追い返すのも嫌だしな」
アマノテルシエは、口元へ手を当てた。
涙が、再びこぼれそうになっていた。
「……ありがとうございます」
ベンは少し照れたように笑った。
「……いや、まだ俺だけで決められないけどな」
そして、ミラとシルヴィアへ顔を向けた。
「……どう思う?」
ミラは、少しだけ考えた。
「私は構わないよ。ただし、パーティーの決まりには従ってもらう」
アマノテルシエは、すぐに姿勢を正した。
「もちろんでございます!」
ミラは小さく笑った。
「そんなに緊張しなくてもいいよ」
そして、シルヴィアへ視線を向けた。
「あんたは?」
シルヴィアは、しばらくアマノテルシエを見つめていた。
この人は、ベンを大切に思っている。
それだけは、間違いなかった。
「……私も、賛成です」
シルヴィアは静かに微笑んだ。
「ただし、1つだけお願いがございます」
アマノテルシエが顔を上げた。
「……何でしょう?」
「ベンさんが無理をなさった時は、一緒に止めてください」
アマノテルシエは、一瞬だけ驚いた。
そして、嬉しそうに頷いた。
「……はい!」
ベンは、思わず頭を抱えた。
「……何か、俺だけ立場が弱くなってない?」
ミラが吹き出した。
「むしろ、あんたの味方が増えたんだよ」
シルヴィアも小さく笑った。
アマノテルシエは、そんな3人のやり取りを見つめていた。
その笑顔は、かつて王城で見せていたものとは少し違っていた。
2,000年間、主君を待ち続けていた臣下ではない。
好きな人の隣で、新しい毎日を始めようとしている女性の笑顔だった。
◇ティアという名前◇
「……さて」
ミラがレイビスへ視線を向けた。
「そっちの男は、どうするつもりだい?」
レイビスは姿勢を正した。
「私も、同行を希望しております」
「理由は?」
「ベン様の監視と護衛です」
ベンが目を丸くした。
「……監視?」
「はい」
レイビスは隠さず答えた。
「ベン様の安全を確保し、周辺の状況を把握するためです」
「俺を見張るってこと?」
「そのような役割もございます」
「……何か、嫌な響きだな」
ベンは困ったように笑った。
レイビスは静かに頭を下げる。
「申し訳ございません。しかし、監視と申しましても、ベン様を拘束するためのものではございません」
ミラが腕を組んだ。
「じゃあ、何を監視するんだい?」
「主に、ベン様の健康状態と周辺の危険です。また、今後も帝国軍警による調査が続く可能性がありますので、必要に応じて状況を確認いたします」
「……なるほど」
ミラは少し考えた。
「それで、誰に報告するんだい?」
「私の上官です」
「上官?」
「はい。国防軍の責任者でございます」
ベンは首をかしげた。
「……ってことは、あんた軍人なの?」
「そのとおりです」
「……そうだったのか」
ベンは少し驚いたようにレイビスを見た。
目の前の男は、普通の旅人にしか見えない。
細身の剣を携えているものの、軍人らしい装備は何も身につけていなかった。
しかし、ミラは納得したように頷いていた。
「やっぱりね。身のこなしが普通じゃないと思ってたよ」
レイビスは、控えめに微笑んだ。
「恐れ入ります」
「ただし、あんたにも条件がある」
「何でしょう?」
「勝手にパーティーの方針を決めないこと。ベン本人の意思を無視しないこと。それから、余計な戦闘を起こさないこと」
「承知しました」
「報告義務があるのは分かった。でも、私たちの知らないところでベンを連れ去るような真似をしたら、容赦しないよ」
ミラの声は、真剣だった。
レイビスも表情を引き締める。
「そのようなことはいたしません」
ベンは、少し考えてから口を開いた。
「……俺からも、1ついいか?」
「はい」
「昔の俺が王様だったとしても、今の俺にはその記憶がない」
彼は、まっすぐレイビスを見た。
「だから、何でも勝手に決められるのは困る」
レイビスは静かに頷いた。
「承知しております」
「俺がどうするかは、俺が決めたい。それでもいい?」
「もちろんでございます」
レイビスは右拳を左胸へ当てた。
「ヴァルクハイル!(承知しました!)」
ベンは目を瞬かせた。
「……何て?」
レイビスは、一瞬だけ動きを止めた。
「……失礼いたしました。承知しました、という意味でございます」
ミラが笑った。
「変わった挨拶だね」
シルヴィアも小さく笑った。
アマノテルシエは、その光景を懐かしそうに見つめていた。
かつてのアークディアでも、臣下たちは同じ礼を行っていた。
しかし、今のベンはそれを覚えていない。
王としてではなく、1人の冒険者として仲間を迎え入れようとしている。
それが、少しだけ嬉しかった。
「……じゃあ、決まりだね」
ミラが立ち上がった。
「2人とも、明日ギルドで登録手続きをしよう」
その言葉に、レイビスが口を開いた。
「1点、お願いがございます」
「何だい?」
「我々には、事情により本来の身分を明かせない理由がございます。そこで、冒険者としては別の名前を使用したいと考えております」
ミラは眉をひそめた。
「……偽名かい?」
「はい。ただし、必要な身元確認は正式に行います。登録記録を偽造するつもりはございません」
「……なるほどね」
ミラは少し考えた。
「だったら、ギルドの規則に従ってもらうよ。こちらで問題を抱えるのは御免だからね」
「承知しました」
「で、何て名前にするんだい?」
「サム、と」
レイビスは静かに答えた。
「現地で使用している名前でございます」
「……サムね」
ミラは頷いた。
「悪くないじゃないか」
続いて、アマノテルシエへ視線を向ける。
「あんたは?」
彼女は、少しだけ考えた。
そして、ベンの顔を見つめた。
「……ティア、と」
ベンが顔を上げた。
「ティア?」
「はい」
その声は、どこか嬉しそうだった。
「その名前で、登録したいと思います」
ミラは頷いた。
「いいね。アマノテルシエより、ずっと呼びやすい」
ベンも笑った。
「確かに。何か、可愛い名前だな」
「…………!」
アマノテルシエの顔が、一気に赤くなった。
「……あ、ありがとうございます」
シルヴィアが、不思議そうに首をかしげた。
「以前から、そう呼ばれていたのですか?」
「……はい」
アマノテルシエは、少し照れたように微笑んだ。
「実は……この名前をつけてくださったのは、ベン様なのです」
ベンの動きが止まった。
「……俺?」
「はい」
アマノテルシエは、懐かしそうに目を細めた。
「以前、ベン様が私のお名前をお聞きになった際、少し長いとおっしゃいまして」
彼女は、小さく笑った。
「それで、『ティアって呼んでもいいか?』と」
「……俺が?」
「はい」
ベンは少しだけ頭を掻いた。
「……何か、俺が言いそうなことだな」
ミラが笑った。
「確かにね」
アマノテルシエは、胸元へ手を当てた。
「その時から、私にとって大切なお名前になりました」
ベンは、しばらく彼女を見つめていた。
何も思い出せない。
自分がその名前をつけた記憶もない。
しかし、彼女がその呼び名を大切にしてきたことは、よく分かった。
「……じゃあ」
ベンは、少しだけ笑った。
「もう1回、そう呼んでもいい?」
アマノテルシエの瞳が、大きく開かれた。
「……はい」
小さな返事だった。
ベンは、静かに微笑んだ。
「よろしくな、ティア」
その瞬間、彼女の胸に温かなものが広がった。
かつてベンがつけてくれた名前。
何度も呼んでほしいと願った名前。
それを今、もう1度本人の声で聞くことができた。
「……はい」
アマノテルシエは、目元を少し潤ませながら答えた。
「よろしくお願いいたします、ベン様」
◇5人の冒険者◇
翌日の午後。
ヴァルノア冒険者ギルドでは、新たなパーティーメンバーの登録手続きが行われていた。
「……新規登録が2名ですね?」
受付嬢が確認した。
「そうだよ」
ミラが答えた。
「うちのパーティーに加えることになった」
受付嬢は書類へ視線を落とした。
「現在のメンバーは、ミラ=クローヴァンさん、ベンさん、シルヴィアさんの3名でお間違いありませんか?」
「ああ」
「では、新たに加入される方のお名前をお願いします」
アマノテルシエが、静かに答えた。
「ティアと申します」
「ティアさんですね」
受付嬢は頷いた。
目の前にいるのは、白金色の髪を持つ、清楚な雰囲気の女性だった。
落ち着いた旅装と、柔らかな物腰。
外見だけなら、人間の神官か、神殿に仕える治癒術師のように見える。
背中の翼は、隠蔽魔法によって完全に隠されていた。
強大な魔力量も抑えられており、受付嬢が彼女の正体に気づくことはなかった。
「ご職業は?」
「神官としての技能を持っております。治癒魔法や支援魔法を扱えます」
「承知しました。では、適性確認については後ほどご案内します」
受付嬢は書類を進めた。
続いて、レイビスが口を開く。
「サムです」
「サムさんですね。ご職業は?」
「斥候を希望します」
「探索や索敵が中心ですね」
「はい。必要に応じて護衛も担当いたします」
受付嬢は、2人の説明を聞きながら記録を進めた。
新規登録者としての本人確認や適性確認は必要だったが、2人とも特に問題なく手続きを進めている。
ただし、実際の能力をすべて明かしたわけではなかった。
ティアは天使としての上位権能を伏せ、サムも幻魔族としての能力や国防軍での階級を明かしていない。
彼らに必要なのは、帝国内で不自然に目立たず、ベンと行動を共にできる身分だった。
「……それでは、確認が完了しました」
受付嬢が書類を整えた。
「お2人の加入手続きを受理いたします」
ミラは、更新された登録内容を受け取った。
そこには、5名の名前が並んでいた。
ミラ=クローヴァン。
ベン。
シルヴィア。
ティア。
サム。
「……5人か」
ベンが小さく呟いた。
「随分と賑やかになったな」
ミラは笑った。
「いいじゃないか。これで、あんたが無茶をした時に止める人間が増えた」
「……またそれか」
シルヴィアも微笑んだ。
「私も少し安心しました」
「……何で?」
「ベンさんを止めてくださる方が増えましたから」
ティアが嬉しそうに頷いた。
「はい。これからは、私もお力になります」
ベンは、思わず頭を抱えた。
「……何か、俺だけ立場が弱くなってない?」
ミラが声を上げて笑った。
シルヴィアも口元へ手を当て、ティアも小さく笑う。
サムは、その光景を静かに見つめていた。
彼にとっては、王の安全を守るための任務だった。
しかし、今の様子を見る限り、護衛対象の方が周囲に振り回されることも多そうだった。
「……なかなか、賑やかな任務になりそうですね」
誰にも聞こえない声で、サムは呟いた。
◇帝国軍警の疑念◇
同日夕刻。
帝国軍警本部。
エドガー・ヴァイス大尉は、冒険者ギルドから届いた定期報告を確認していた。
ラウゼン村の事件に関与した3名の冒険者。
そのうち、ベンについては引き続き療養中。
体調は回復傾向にあるものの、まだ通常の冒険活動へ復帰できる状態ではないという。
そこまでは、これまでの情報と変わらなかった。
しかし。
「……2名、追加?」
エドガーは、報告書の末尾で手を止めた。
『パーティー構成変更』
『新規加入者:ティア』
『新規加入者:サム』
副官が頷いた。
「はい。本日、ギルドで正式な登録手続きが行われたとのことです」
「……出身地は?」
「現在、登録情報の照合を進めております」
「職業は?」
「ティアという女性は神官系の技能を持ち、サムという男性は斥候として登録されております」
エドガーは少し考えた。
「……妙な時期に仲間が増えたな」
「はい」
「ベンの過去を知っている人物なのか?」
「現時点では不明です」
「……なるほど」
エドガーは書類を閉じた。
ベン。
正体不明の召喚術師。
過去の記憶を一部失っているという男。
そのパーティーに、突然2名の人物が加わった。
偶然の可能性もある。
冒険者のパーティーでは、人数が増減することなど珍しくない。
しかし、時期としては気になった。
「……通常の範囲で身元を確認しておけ」
「はっ!」
「ただし、本人たちに無用な圧力はかけるな。現段階で、何か犯罪に関与した証拠があるわけじゃない」
「承知しました」
副官が退出する。
エドガーは、もう1度報告書へ目を落とした。
ティア。
サム。
どちらも、現在確認できているのは冒険者としての名前だけだった。
目の前の書類には、2人がアークディアに所属する人物だという記載はない。
まして、片方が2,000年間都市の内政を統括してきた天使であり、もう片方が国防軍の上級諜報員であることなど、知る由もなかった。
「……気になるな」
エドガーは小さく呟いた。
そして、机の上に新たな照会書を置いた。
帝国軍警の調査は、まだ終わっていなかった。
◇黒翼の渇き◇
同じ夜。
浮遊都市アークディア。
王城国防軍本部。
ヤミノミコタマは、レイビスから届いた最新の報告書を確認していた。
『ベン様のパーティーへの編入完了』
『アマノテルシエ様、冒険者登録名ティア』
『レイビス、冒険者登録名サム』
『対象者の健康状態:回復傾向』
『帝国軍警の調査:継続中』
彼女は静かに頷いた。
「……問題なく進んだようね」
腰から伸びる黒い翼を畳み、椅子の背へ身体を預ける。
国防軍の指揮官としては、これで一安心だった。
ベンの所在は確認できた。
弟であるパウルとの関係も、ほぼ確実になった。
ティアとレイビスが、身近で安全を確認できる体制も整った。
しかし。
「……っ」
突然、胸の奥に鈍い痛みが走った。
ヤミノミコタマは、思わず机へ手をついた。
呼吸が、少しだけ乱れる。
「……また」
小さく呟く。
身体の奥から、魔力が失われていくような感覚。
それは、以前から何度も経験してきたものだった。
彼女は、悪魔系種族であると同時に、サキュバスの血を引いていた。
その血統には、特殊な性質がある。
通常の食事や休息だけでは補いきれない生命力を、親密な相手との交わりを通じて得ることができるのだ。
それは単なる嗜好ではなかった。
血統に刻まれた、生存と成長の仕組みだった。
かつてゲームの世界にいた頃、王たちはその性質を理解していた。
任務を果たし、戦功を立てた際には、本人の希望に応じて王たちから特別な褒美が与えられることもあった。
それは、夜を共にするほど親密な時間だった。
高位の王から与えられる生命力は、通常の魔力補給とは比較にならないほど強い。
MPが回復するだけではない。
魔力の最大容量が増え、条件が整えばレベルそのものが上昇することさえあった。
しかし、王たちが姿を消してから2,000年。
そのような機会は、1度もなかった。
代替となる魔力補給の方法は存在する。
だから、彼女は今日まで生き延びることができた。
しかし、それは生命活動を維持するための最低限のものにすぎなかった。
本来の力を十分に取り戻すことはできず、長い年月をかけて少しずつ衰えていた。
相手を探そうと思えば、できなかったわけではない。
しかし。
「……私が、部下にそんなことを求められるわけがないでしょう」
ヤミノミコタマは、小さく呟いた。
彼女は国防軍の最高責任者である。
その地位を利用して、部下へ自分のための親密な関係を求めることなど、彼女の誇りが許さなかった。
まして、王たちに仕えていた頃の自分を知っている。
誰でもよいから満たしてほしい。
そんなことを言うつもりはなかった。
女としての矜持。
高位の悪魔としての誇り。
そして、王たちへ抱いてきた忠誠と憧れ。
それらが、彼女を2,000年間支えてきた。
しかし、パウルが帰還してから。
抑えていた感情が、少しずつ揺らぎ始めていた。
「……パウル様」
小さく、その名を口にした。
かつて仕えた王。
今も、自分が最も信頼する人物の1人。
彼が戻ってきたというだけで、心は満たされていた。
それなのに。
身体は、正直だった。
そして心もまた、彼との距離を縮めたいと願っていた。
ヤミノミコタマは、ゆっくりと息を吐いた。
「……困ったものね」
その時、扉が叩かれた。
「ヤミノミコタマ様」
軍務官の声だった。
「パウル陛下より、お呼び出しです」
彼女は姿勢を正した。
「……分かったわ。すぐに参ります」
黒い翼を静かに畳み、立ち上がる。
身体の痛みは、すでに治まっていた。
しかし、胸の奥に残る渇きだけは、消えていなかった。
◇王からの褒美◇
王城最上層。
パウルは、机の上に置かれた報告書を確認していた。
「……入ってくれ」
扉が開き、ヤミノミコタマが入室する。
「パウル様。お呼びでしょうか」
「ああ。少し話があってな」
彼女は静かに一礼した。
「何なりとお申し付けください」
パウルは、報告書を閉じた。
「まず、兄貴の件だ」
「はい」
「よくやってくれた」
ヤミノミコタマは顔を上げた。
「……恐れ入ります」
「レイビスの働きもある。でも、あいつらを動かして、ここまで持ってきたのはお前だろ?」
「……はい」
パウルは、小さく笑った。
「本当に助かった」
その言葉に、ヤミノミコタマの胸が温かくなった。
王からの労い。
彼女にとっては、何より嬉しい言葉だった。
「……ありがたきお言葉にございます」
深く頭を下げる。
しかし、パウルは少しだけ首をかしげた。
「……そうだ」
「はい?」
「何か、褒美でも欲しくないか?」
ヤミノミコタマの動きが止まった。
「……褒美、でございますか?」
「ああ。欲しいものがあるなら言ってみろよ」
パウルは気軽に答えた。
「兄貴の手掛かりを見つけてくれたんだ。何でも、とはいかないけどさ」
ヤミノミコタマは、しばらく黙っていた。
褒美。
その言葉には、覚えがあった。
かつて、王たちから何度も聞いたことのある言葉だった。
そして、彼女の血統にとっては、特別な意味を持つものでもあった。
「……パウル様」
「ん?」
「本当に、何でも申し上げてよろしいのでしょうか」
パウルは少し笑った。
「聞くだけならな。できることなら叶えるよ」
ヤミノミコタマは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、普段の冷静さとは違う感情が浮かんでいた。
「……では」
少しだけ、声が震えた。
「……1つ、お願いがございます」
「何だ?」
彼女は、両手を胸元で重ねた。
これまで、国防軍の責任者として数え切れないほどの命令を下してきた。
数万の兵を動かし、都市の安全を守り続けてきた。
しかし、今。
たった1つの願いを口にすることが、これほど難しいとは思わなかった。
「……今夜」
ヤミノミコタマは、静かに顔を上げた。
「一晩だけで構いません」
パウルは、黙って彼女を見つめていた。
「……私と、共に過ごしていただけませんか」
部屋が静まり返った。
パウルは、一瞬だけ目を丸くした。
「……ミア?」
その呼び方に、彼女の頬がわずかに赤くなった。
「……はい」
「それって……」
ヤミノミコタマは、ゆっくりと頷いた。
「……お察しのとおりでございます」
少しだけ、視線を落とす。
「私は、サキュバスの血を引いております」
パウルは静かに聞いていた。
「王たちがいらした頃は、その性質に見合った褒美をいただく機会もございました」
「……ああ」
「ですが、皆様が姿を消されてから、2,000年」
彼女は、小さく息を吐いた。
「……私には、誰にも求めることができませんでした」
パウルの表情が変わった。
「……どうして?」
「私が、国防軍を統括する立場にあったからです」
ヤミノミコタマは静かに答えた。
「部下たちは、私の命令に従います。しかし、その立場を利用して私的な関係を求めることは、決してしたくありませんでした」
少しだけ、間を置く。
「それに……」
彼女は、頬を赤くした。
「……誰でもよいわけでは、ございませんでしたから」
パウルは黙っていた。
ヤミノミコタマは、ゆっくりと続けた。
「私の血統は、生命力の交歓によって本来の力を取り戻す性質がございます」
「……生きるためにも必要なのか?」
「はい。代替手段で生命活動は維持してまいりましたが、十分ではございません」
「……そうだったのか」
パウルは、少しだけ眉をひそめた。
「何で、もっと早く言わなかった?」
ヤミノミコタマは困ったように微笑んだ。
「……誇りが、ございました」
「誇り?」
「はい」
彼女は静かに答えた。
「王が不在の間も、私は国防軍の最高責任者であり続けました。弱みを見せるわけにはまいりませんでした」
そして、わずかに声を落とした。
「……何より、女としての自分を、安易に扱いたくなかったのです」
パウルは、しばらく考え込んだ。
ヤミノミコタマ。
2,000年間、アークディアの安全を守り続けてきた女性。
その長い年月の中で、どれほど多くのものを我慢してきたのだろう。
「……ミア」
「……はい」
「それは、褒美として欲しいものなのか?」
ヤミノミコタマは、少しだけ目を伏せた。
そして、静かに答えた。
「……最初は、そう申し上げるつもりでございました」
「……最初は?」
「はい」
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
「ですが、こうしてお話ししているうちに、気づきました」
その瞳が、少しだけ潤んでいた。
「……私は、パウル様のおそばにいたいのです」
パウルは、黙って聞いていた。
「身体が求めていることも事実でございます。ですが、それだけではありません」
そして、小さく微笑んだ。
「……私自身が、あなたと共に過ごしたいと願っております」
パウルは、静かに息を吐いた。
「……分かった」
ヤミノミコタマの表情が変わった。
「……パウル様?」
「ただし、1つだけ」
パウルは、まっすぐ彼女を見つめた。
「命令でも、義務でもない。お互いが望むなら、ってことにしよう」
ヤミノミコタマは、しばらく動かなかった。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……はい」
その声が、少しだけ震えた。
「……ありがとうございます」
パウルは立ち上がり、彼女へ手を差し伸べた。
ヤミノミコタマは、その手を見つめた。
2,000年間、誰にも求めなかったもの。
ずっと胸の奥へしまい込んでいた願い。
それが、今。
自分の意思によって、叶おうとしている。
彼女は、静かにその手を取った。
腰から伸びる黒い翼が、ゆっくりと緩む。
その夜。
王城の最上層では、いつもより少し遅くまで灯りがともっていた。
誰にも命じられることなく、誰の役職にも縛られず。
2人は、互いの意思で夜を共にした。
◇2,000年ぶりの朝◇
翌朝。
ヤミノミコタマは、柔らかな朝日を感じながら目を覚ました。
窓の外には、白い雲海が広がっている。
身体が、驚くほど軽かった。
「……これは」
彼女は、ゆっくりと自分の手を見つめた。
昨日まで感じていた、胸の奥の鈍い痛み。
魔力が失われていくような感覚。
それらが、綺麗に消えていた。
代わりに、身体の奥から温かな力が湧き上がってくる。
ヤミノミコタマは、静かに意識を集中させた。
自身の状態を確認するため、魔力情報を展開する。
そして、思わず目を見開いた。
『生命力供給:正常』
『魔力循環:安定』
『最大MP:上昇』
『LEVEL UP:+1』
「…………」
ヤミノミコタマは、しばらく表示を見つめていた。
「……本当に」
小さな声が漏れた。
長い間、停滞していた成長。
どれほど魔力を蓄えても、変化しなかった身体。
それが、たった一晩で変わっていた。
MPの最大容量が増加し、レベルも1上昇している。
サキュバスの血統に備わる、王との親密な交歓による力の回復と成長。
その仕組みが、今も失われていなかったのだ。
「……2,000年ぶり、ね」
ヤミノミコタマは静かに呟いた。
しかし、何より嬉しかったのは、数字が増えたことではなかった。
自分が、まだ誰かに求められる存在であること。
そして、自分自身も素直に誰かを求めてよいのだということ。
それを、ようやく思い出せた気がした。
「……ミア?」
背後から、パウルの声がした。
ヤミノミコタマは、ゆっくりと振り返った。
「……おはようございます、パウル様」
「……おはよう。身体の調子は?」
彼女は、嬉しそうに微笑んだ。
「……とても、よろしゅうございます」
「そうか」
パウルも、少しだけ笑った。
「それなら、よかった」
ヤミノミコタマは、静かに頭を下げた。
「……心より、感謝申し上げます」
「そんなに改まらなくてもいいって」
パウルは苦笑した。
「昨日も言っただろ。お互いが望んだことなんだから」
ヤミノミコタマは、少しだけ頬を赤くした。
「……はい」
そして、静かに微笑んだ。
国防軍の最高責任者。
漆黒の翼を持つ、高位の悪魔。
2,000年間、都市の安全を守り続けてきた女性。
その彼女が今朝だけは、少し照れたような、穏やかな表情を浮かべていた。
「……パウル様」
「ん?」
「また、このようなお時間をいただくことは……」
そこまで言って、彼女は言葉を止めた。
パウルは、小さく笑った。
「……また今度、ゆっくり話そう」
ヤミノミコタマは、嬉しそうに頷いた。
「……はい」
そして、心の中で小さく呟いた。
――ティア。
あなたが、自分の気持ちに正直になったからでしょうか。
私まで、少しだけ勇気をいただいてしまいました。
◇白い翼の新しい日常◇
同じ朝。
ヴァルノアの冒険者ギルド。
ベンは、窓の外を見つめていた。
体調は、まだ完全には戻っていない。
しかし、昨日よりも身体は軽くなっていた。
窓から差し込む朝日が、部屋の中を明るく照らしている。
「……ベン様」
背後から、静かな声が聞こえた。
振り返ると、ティアが立っていた。
白金色の髪。
清楚な旅装。
そして、穏やかな微笑み。
隠蔽魔法によって翼を隠した彼女は、外から見れば普通の人間の神官にしか見えなかった。
「……おはよう、ティア」
ベンが笑った。
その言葉に、ティアの胸が高鳴った。
「……おはようございます、ベン様」
「早いな」
「はい。朝食の準備をお手伝いしておりました」
「……朝食?」
ベンは少し驚いた。
「ええ。シルヴィア様とご一緒に」
その時、扉が開いた。
「ベンさん、お食事をお持ちしました」
シルヴィアが盆を持って入ってきた。
その上には、温かなスープと焼きたてのパンが載っている。
「……おお」
ベンの顔が明るくなった。
「美味そうだな」
ティアは、嬉しそうに微笑んだ。
「……実は、パンは私が選ばせていただきました」
「そうなの?」
「はい」
彼女は、小さく頷いた。
「蜂蜜の香りがするパンでございます」
ベンは、目を丸くした。
「……蜂蜜?」
「はい」
ティアは、少し照れたように笑った。
「以前から、ベン様と一緒に食べたいと思っておりました」
ベンは、しばらくパンを見つめていた。
そして、小さく笑った。
「……じゃあ、一緒に食べようか」
ティアの瞳が、大きく開かれた。
「……よろしいのですか?」
「もちろん」
ベンは笑った。
「せっかく選んでくれたんだろ?」
ティアは、嬉しそうに頷いた。
「……はい!」
シルヴィアは、そんな2人を見つめながら微笑んだ。
ティアがどれほどこの時間を望んでいたのか。
昨日、聞いた言葉を思い出す。
――私は、ベン様のことが好きなのです。
その想いを、すべて理解できるわけではない。
しかし、今の彼女の笑顔を見れば、それがどれほど大切な時間なのかは伝わってきた。
「……そういえば」
ベンがパンを手に取りながら尋ねた。
「ティアって、今までもずっとそう呼ばれてたんだよな?」
「……はい」
「俺がつけた名前、だったんだっけ」
ティアは静かに頷いた。
「そのとおりでございます」
ベンは、少しだけ考えた。
「……何か、変な感じだな」
「……変、でございますか?」
「いや。自分がつけた名前なのに、覚えてないってのがさ」
ティアは、少しだけ目を伏せた。
しかし、ベンは続けた。
「……でも」
彼は、静かに笑った。
「いい名前だと思うよ」
「…………」
ティアは、しばらく動かなかった。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……ありがとうございます」
その声は、少しだけ震えていた。
2,000年間、大切にしてきた名前。
かつて、ベンが何気なくつけてくれた呼び名。
その本人が、今また同じ名前を気に入ってくれた。
それだけで、胸がいっぱいになった。
扉の向こうから、ミラの声が聞こえてきた。
「おーい、朝食はまだかい?」
続いて、サムの声。
「こちらの準備は整っております」
ベンが笑った。
「……何か、本当に賑やかになったな」
シルヴィアも微笑んだ。
「そうですね」
ティアは、ゆっくりと窓の外を見つめた。
2,000年間、アークディアの王城で待ち続けてきた。
毎朝、同じ政務室へ向かい、書類に目を通し、都市の運営を支えてきた。
それは、大切な仕事だった。
誇りでもあった。
しかし、今は違う。
これからは、冒険者として旅をする。
ベンと共に。
彼の仲間たちと共に。
そして、いつか。
もう1度、彼に自分のことを好きになってもらえたら。
「……ティア?」
ベンが声をかけた。
彼女は、はっと顔を上げた。
「……はい?」
「どうした? 何か考え事?」
ティアは、少しだけ頬を赤くした。
「……いいえ」
そして、穏やかに微笑んだ。
「少しだけ、幸せだと思っておりました」
ベンは、不思議そうに首をかしげた。
「……そっか」
そして、小さく笑った。
「なら、よかった」
その何気ない言葉に、ティアの胸が温かくなった。
遥か上空のアークディアでは、眼鏡をかけた妹が、姉の残した書類と格闘している。
国防軍本部では、ミアが久しぶりに取り戻した活力とともに、再び任務へ向かっていた。
そしてヴァルノアでは、5人の冒険者が新しい1日を迎えようとしていた。
ミラ=クローヴァン。
ベン。
シルヴィア。
ティア。
サム。
それぞれ異なる過去と目的を持つ5人。
失われた記憶を探す王。
その王を支える時計係。
仲間を導く熟練の冒険者。
恋心から城を飛び出した天使。
そして、王の安全を監視する諜報員。
彼らの旅が、どのような未来へ繋がるのかは、まだ分からない。
ただ、確かなことが1つだけあった。
2,000年間、王の帰還を待ち続けた天使は、もう城へ戻るつもりがなかった。
今度は、遠くから待つのではない。
好きな人の隣で、一緒に歩いていく。
それが、ティアの選んだ新しい人生だった。




