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待ちきれなかった白い翼

◇翌日◇

 ヴァルノアの街に、朝が訪れた。

2つの月が西の空へ沈み、石造りの建物の間から柔らかな日差しが差し込んでくる。商人たちは店先へ商品を並べ、冒険者ギルドの前には、今日も依頼を求める人々が集まり始めていた。

その2階。宿泊区画の一室では、シルヴィアがベンの額に手を当てていた。

「……熱は、昨日より下がっていますね」

「だろ? もう普通に動けそうなんだけどな」

「昨日も同じことをおっしゃっていました」

「……覚えてたか」

「もちろんです」

シルヴィアは微笑み、寝台の脇に置かれた砂時計をひっくり返した。

ラウゼン村で5,120名もの天使を召喚して以来、ベンの体調は安定しなかった。高熱こそ治まりつつあるものの、激しい倦怠感と、時折起こる頭痛が続いている。

シルヴィアは、これまで薬草による治療や時間魔法による補助を行ってきた。しかし、今回の症状は通常の魔力枯渇とは異なり、根本的な原因を突き止められずにいた。

「今日は少し歩いてもいいか?」

「お部屋の中でしたら」

「外は?」

「まだ駄目です」

「ギルドの食堂くらいなら」

「……ベンさん」

「はい」

「昨日、軍警の方とのお話が終わった後、また少し熱が上がったでしょう?」

「……そうだったな」

「ですから、今日は無理をしないでください」

ベンは苦笑しながら、枕へ身体を預けた。

昨日、帝国軍警のエドガー・ヴァイス大尉から事情聴取を受けた。

その際、自分が天使を召喚したことを認めている。

どうやって召喚したのかは分からない。

天使たちに王と呼ばれた理由も分からない。

それに、自分には過去の記憶が欠けている。

そう説明したところで、昨日の聴取は終わった。

だが、帝国軍警にとっては、それで調査が完了するはずもない。

「……なあ、シルヴィア」

「はい?」

「昨日の大尉、また来ると思う?」

「そうですね。確認したいことは、まだたくさんあるでしょうから」

「……だよなあ」

ベンは天井を見上げた。

「でも、何度聞かれても、分からないものは分からないんだよな」

「でしたら、そのようにお答えすればよいと思います」

「……簡単に言うなあ」

シルヴィアは穏やかに微笑んだ。

「ベンさんは、何も悪いことをしていないのですから」

「……どうだろうな」

ベンは少しだけ表情を曇らせた。

確かに、村人たちを守るために戦った。

しかし、あれほどの軍勢を召喚してしまったことが、正しかったのかどうか。

自分でも、まだ答えは出せていなかった。

その時、扉が叩かれた。

「ベン。起きてるかい?」

ミラの声だった。

「おう。入っていいぞ」

扉が開き、ミラ=クローヴァンが姿を現した。

「昨日の大尉が、また来たよ」

「……やっぱりか」

「追加で確認したいことがあるらしい」

ミラは室内へ入り、椅子へ腰を下ろした。

「ただし、昨日の話を最初から聞き直すわけじゃない。捕虜の証言と、現場検証の結果が揃い始めたんだとさ」

ベンの表情が変わった。

「……白牙の連中か」

「ああ」

ラウゼン村を占拠した白牙傭兵団。

その第4隊長、ガルド・ベッカー。

彼らの行為を思い出すだけで、胸の奥に苦い感情が込み上げてくる。

「……分かった。行くよ」

「慌てるんじゃないよ」

ミラはベンの肩を軽く押した。

「まずは私たちから話を聞くように伝えてある。あんたは身体を休めておきな」

シルヴィアも頷いた。

「私も、体調のことは説明しておきます」

「……悪いな、2人とも」

「何を今さら」

ミラは肩をすくめた。

「私だって、あの村で一緒に戦ったんだ。最後まで付き合うさ」

ベンは少しだけ笑った。

その笑顔を見て、シルヴィアも表情を和らげる。

だが、彼女の胸には小さな不安が残っていた。

ベンは自分が何者なのか、まだ分かっていない。

それなのに、この世界の人々は、彼の力について答えを求めている。

そして、彼自身がその期待に応えようとして、また無理をしてしまうのではないか。

それが、シルヴィアには何より心配だった。

◇72名の捕虜◇

 午前10時。

冒険者ギルドの応接室では、帝国軍警のエドガー・ヴァイス大尉が新たな資料を広げていた。

その正面には、ミラが座っている。

隣にはシルヴィア。

立会人として、若い男性ギルド職員のミリアンも同席していた。

ミリアンは、ラウゼン村に派遣された最初の救援隊に同行した人物だった。

「昨日は協力してもらって助かった」

エドガーが口を開いた。

「今日は、昨日の供述を前提に、現場記録との照合を進めたい」

「ああ。構わないよ」

ミラが答えた。

「まず、確認された被害状況についてだ」

エドガーは書類へ視線を落とした。

「白牙傭兵団の拘束者72名。救出された村人23名。死亡者11名。重傷者4名。ギルド救援隊の初期報告では、こうなっている」

ミラは頷いた。

「間違いない」

「ただし、死亡者11名のうち、何名が君たちの到着前に殺害されたかは、まだ確定していない」

「そうだろうね。私たちも、戦闘が終わるまで全員の状態を確認できたわけじゃないから」

「そこで、君に確認したい」

エドガーは1枚の見取り図を差し出した。

「村の北側で発見された遺体についてだ。ギルドの報告では、救出作業が始まる以前から倒れていたと記されている」

ミラは図面を確認した。

「……ああ。あの場所か」

「覚えているのか?」

「覚えてる。村の北側へ回った時には、すでに何人かが倒れていた」

「傭兵たちと交戦していた様子は?」

「少なくとも、私たちが到着した時にはなかったよ」

「なるほど」

エドガーは記録係へ頷いた。

「検視記録と照合しておけ」

「はっ!」

続いて、別の資料を取り出した。

「次に、拘束された72名についてだ」

「……何だい?」

「捕虜の大多数が、光の鎖によって身体を拘束されたと証言している」

「ああ」

「この鎖を発生させたのは、召喚された天使たちで間違いないか?」

「私が見た範囲では、そうだった」

「ベンが直接命令したのか?」

ミラは少し考えた。

「全員に細かい指示を出していたわけじゃないね」

「というと?」

「天使たちは、ある程度自分たちで判断して動いているように見えた」

エドガーは筆を止めた。

「……興味深いな」

「何が?」

「召喚された兵士たちが、独自の判断能力を持っていた可能性がある」

エドガーは書類を指先で叩いた。

「通常の使い魔なら、術者の指示に従って行動する。しかし、あの軍勢は違ったのではないか」

ミラは腕を組んだ。

「私にも詳しいことは分からないよ。ただ、あいつらは単なる魔法の人形には見えなかったね」

「なるほど」

エドガーは頷いた。

「それと、ギルドへ救援を知らせた方法についても確認したい」

ミリアンが顔を上げた。

「そちらは、私からご説明いたします」

「頼む」

「救援隊の出動前、ラウゼン村の状況を知らせる連絡が届きました。最初は通常の通報とは異なる経路だったため、現場との照合に時間がかかりました」

「通報を届けたのは?」

「……天使です」

エドガーは静かに頷いた。

「南側の巡回隊からも、同様の報告が来ている」

そして、ミラへ視線を戻した。

「天使に伝令を託したのは、君か?」

「ああ。救援が必要だったからね」

「伝えた内容は?」

「ラウゼン村が白牙傭兵団に占拠されていたこと。多数の死傷者が出ていたこと。それから、医療班と護送要員が必要だということさ」

「天使は、君の依頼に従った?」

「そうだよ」

エドガーは少し考え込んだ。

「……つまり、召喚者本人ではない君の指示にも、対応したということか」

「そうなるね」

「その天使は、ベンへ確認を取っていたか?」

「私の見ている範囲では、取っていなかったよ」

「……なるほど」

エドガーは、ゆっくりと頷いた。

もし、この証言が正しければ。

あの天使たちは、術者の命令だけを待つ存在ではなかったことになる。

状況を理解し、必要な行動を自ら判断できる軍勢。

しかも、その総数は5,000名以上。

帝国軍警にとって、それは単なる召喚術の問題では済まなかった。

「……もう1つ」

エドガーは、ミラへ視線を向けた。

「ガルド・ベッカーについてだ」

ミラの表情が変わった。

「……あいつか」

「拘束時、重傷を負っていたという報告がある」

「ああ」

「誰が負傷させた?」

ミラは少し考えた。

「戦闘中のことだから、すべてを見ていたわけじゃない。ただ、ベンもあいつと戦っていた」

「天使の攻撃は?」

「受けていた可能性はある。でも、どの傷が誰によるものかまでは、私には判断できないね」

「分かった」

エドガーは頷いた。

「推測で答える必要はない」

そして、資料を閉じた。

「君たちの証言は、現場記録と大きく矛盾していない。引き続き、捕虜の供述と照合する」

ミラは小さく息を吐いた。

「……ようやく、まともに調べてもらえそうだね」

「我々も、事実を明らかにするのが仕事だからな」

エドガーは静かに答えた。

◇時間魔法の限界◇

 続いて、エドガーはシルヴィアへ視線を向けた。

「昨日、君はベンの体調について説明してくれたな」

「はい」

「魔力が回復しても、身体症状が改善しないことがあると言っていた」

「おっしゃるとおりです」

「その後、状態に変化は?」

「少しずつ回復しております。ただし、現在も頭痛と強い倦怠感が続いています」

シルヴィアは手元の小さな手帳を開いた。

そこには、看病を始めてから記録してきた体温や脈拍、薬草の使用量などが記されていた。

「召喚直後は高熱が続き、一時は40℃を超えていました。現在は平熱に近づいておりますが、少し動いただけで疲労が強く出ることがあります」

「通常の魔力枯渇とは異なるのか?」

「はい。魔力の回復と、身体の回復が一致していません」

「原因は?」

「……正確には分かりません」

シルヴィアは少しだけ目を伏せた。

「大規模召喚による負担が関係している可能性は高いと思います。しかし、私が扱える治療法では、根本的な原因を確認できていないのです」

エドガーは静かに頷いた。

「君は時間魔法の研究者でもあると聞いている」

「はい」

「時間を戻して、症状を改善することはできないのか?」

シルヴィアは少し考えた。

「……時間魔法は、万能ではありません」

「詳しく聞こう」

「私の魔法は、対象の時間に限定的な干渉を行うものです。しかし、すべての現象を自由に巻き戻せるわけではありません」

「例えば?」

「傷の状態を一時的に変化させたり、特定の現象の進行を遅らせたりすることはできます。ただし、対象が複雑になるほど必要な魔力量が増えます」

「つまり、身体全体を召喚前の状態へ戻すことは?」

「……少なくとも、私にはできません」

エドガーは腕を組んだ。

「なるほど」

シルヴィアは続けた。

「それに、仮に身体の状態を戻せたとしても、召喚術によって何が起きたのかを理解できなければ、再び同じ症状が現れる可能性があります」

「……根本的な問題が解決しない、ということか」

「はい」

エドガーは、しばらく考え込んだ。

「では、現在のベンに再び召喚術を使わせた場合は?」

シルヴィアの表情が変わった。

「……危険だと思います」

「どの程度?」

「正確には申し上げられません。ただ、前回の召喚後には、起き上がることも難しいほどの症状が現れました」

「生命に危険が及ぶ可能性も?」

「……否定できません」

エドガーは静かに頷いた。

「分かった。能力の再現実験は求めない」

シルヴィアは、小さく息を吐いた。

「……ありがとうございます」

「こちらも、調査対象に倒れられては困るからな」

エドガーは少しだけ表情を緩めた。

「それと、昨日話していた記憶障害についてだが」

「はい」

「召喚術との関係は、まだ不明という認識でいいか?」

「はい。ただし、記憶の欠落そのものは、召喚術を使う以前からあったと伺っています」

「……そうか」

エドガーは記録へ目を落とした。

ベンの記憶が欠けている。

それは、本人が昨日説明していた。

しかし、その原因も、失われている記憶の具体的な内容も、まだ分かっていない。

「記憶障害の診断は受けているのか?」

「医師による正式な診断は、まだ受けておりません」

「ならば、医療面からの確認も必要だな」

エドガーは記録係へ指示した。

「本人の同意を前提に、軍警の医療担当者による診察を提案するよう手配しておけ」

「はっ!」

シルヴィアは静かに頷いた。

彼女自身も、ベンの状態について専門的な見解を得たいと考えていた。

ただし、軍警の医療担当者がどこまで理解できるかは分からない。

それでも、何もしないよりはよいかもしれなかった。

「……1つ、お願いがございます」

シルヴィアが口を開いた。

「何だ?」

「ベンさんへ、無理に記憶を思い出させようとしないでいただけませんか」

エドガーは顔を上げた。

「……理由は?」

「記憶を思い出そうとすると、頭痛が強くなることがあるのです」

「なるほど」

「本人も、不安を抱えております。ですから……」

シルヴィアは少しだけ言葉を詰まらせた。

「今は、身体の回復を優先していただきたいのです」

エドガーは、しばらく彼女を見つめた。

そして、静かに頷いた。

「分かった。昨日も伝えたが、無理な聴取をするつもりはない」

「……ありがとうございます」

シルヴィアは深く頭を下げた。

それを見たミラが、小さく笑った。

「……あんた、本当にベンのことになると一歩も引かないね」

「……ミラさん」

シルヴィアは少し頬を赤くした。

エドガーも、わずかに表情を緩めた。

「では、ベン本人にも確認しよう」

◇5,120名の天使◇

 短い休憩を挟んだ後、ベンが応接室へ入ってきた。

シルヴィアが隣に付き添い、椅子へ腰を下ろすのを手伝う。

「昨日に続いて、すまないな」

エドガーが声をかけた。

「いえ。大丈夫です」

「今日は、昨日の供述と現場検証の結果を照合したい」

「……分かりました」

エドガーは、1枚の図面を広げた。

そこには、ラウゼン村の全体図と、魔力反応が確認された範囲が描かれていた。

「まず、召喚された天使たちについてだ」

「はい」

「君は昨日、自分が召喚したことを認めた。ただし、召喚方法は分からないと説明している」

「……はい」

「その点をもう1度聞くつもりはない。今日は、召喚後に何が起きたのかを確認したい」

ベンは静かに頷いた。

「まず、天使たちが現れた時の配置についてだ」

「……配置?」

「そうだ。目撃証言によれば、天使たちは村の上空へ一斉に出現した。その後、いくつかの集団に分かれて行動したらしい」

「……そうだったと思います」

「その配置を、君が細かく指示したのか?」

「……いえ」

「では、誰が?」

ベンは少し考えた。

「……分かりません」

「天使たちは、自分たちで判断して動いていた?」

「そう見えました」

エドガーは頷いた。

「ミラの証言とも一致するな」

続いて、別の資料を取り出した。

「傭兵たちの証言では、6枚の翼を持つ騎士が軍勢の中心にいたという」

ベンは少しだけ目を閉じた。

あの日の光景が、頭に浮かぶ。

白い光。

無数の翼。

金色の鎧。

そして、自分の前へ降り立った騎士。

「……いたと思います」

「その人物が指揮官だった?」

「……多分」

「君は、その人物を知っていたか?」

「……いいえ」

「名前も?」

「分かりません」

エドガーは静かに頷いた。

「昨日も、君は天使たちに王と呼ばれた理由が分からないと答えた」

「はい」

「だが、あの騎士は、君の命令に従っていたのだな?」

「……そうです」

「なぜ従ったのか、見当は?」

ベンは首を振った。

「……ありません」

エドガーは少し考え込んだ。

召喚者本人が、召喚対象について何も知らない。

しかも、召喚された軍勢は高度な判断能力を持っていた。

そのような召喚術は、帝国の魔法理論では説明できなかった。

「……次に、人数について確認したい」

エドガーは資料をめくった。

「現場では、5,000名以上の天使が出現したとされている。一部の情報では、5,120名という数字も報告されている」

ベンは、わずかに眉を動かした。

「……5,120」

「その数字に、覚えはあるか?」

ベンは少し考えた。

あの日。

召喚術を行使した後。

視界に、奇妙な文字が浮かんだことを覚えている。

自分の名前。

記憶の復元率。

そして、召喚権限。

しかし、それを帝国軍警にどう説明すればいいのか分からなかった。

そもそも、自分自身が理解できていないのだ。

「……正確な人数は、俺にも分かりません」

ベンは静かに答えた。

エドガーは頷いた。

「そうか。目撃者も正確には数えられていないからな」

それ以上、追及しなかった。

続いて、エドガーは質問を変えた。

「天使たちは、どのような命令を受けていた?」

「……村の人たちを守れ、と」

「傭兵たちについては?」

「襲ってきた連中を止めろ、と言いました」

「殺害を命じた?」

「……いいえ」

ベンは即答した。

「少なくとも、俺はそんな命令を出したつもりはありません」

「理由は?」

ベンは少しだけ表情を曇らせた。

「……殺したところで、何も戻らないと思ったからです」

エドガーは黙っていた。

「村の人たちは、もう何人も殺されていました」

ベンは続けた。

「怒ってました。正直、あいつらを許せないと思いました」

シルヴィアは、隣で静かに聞いていた。

「でも、だからって……」

ベンは自分の手を見つめた。

「……俺が勝手に、全員の命を奪っていいわけじゃないと思ったんです」

エドガーは静かに頷いた。

「……なるほど」

「罪を償わせるなら、ちゃんと生きたまま捕まえるべきだと思いました」

「それで、拘束を命じた?」

「……はい」

エドガーは記録係へ目配せした。

「召喚者の命令内容、確認」

「はっ」

続いて、最後の質問へ移った。

「天使たちが消えた時のことは覚えているか?」

「……はい」

「君が帰還を命じたのか?」

「……いえ」

「では、勝手に消えた?」

「そう見えました」

「消える前に、何か言葉を交わしたか?」

ベンは少し考えた。

しかし、はっきりとは思い出せなかった。

「……すみません。そこまでは」

「分かった」

エドガーは書類を閉じた。

「本日の聴取は、ここまでとする」

ベンは小さく息を吐いた。

「……ありがとうございました」

「いや。こちらこそ、協力に感謝する」

エドガーは立ち上がった。

「昨日も伝えたとおり、滞在先を変更する場合はギルドへ届け出てくれ」

「分かりました」

「それと、無理に召喚術を再現しようとしないことだ」

ベンは苦笑した。

「……使おうと思っても、使えるかどうか分かりませんけど」

「だからこそだ」

エドガーは、少しだけ表情を緩めた。

「次に5,000名の天使が現れたら、こちらの仕事が増えてしまう」

「……それは、すみません」

ミラが小さく笑った。

シルヴィアも、思わず口元を緩める。

エドガーは部下たちを連れ、応接室を後にした。

扉が閉まると、ベンは椅子へ深くもたれた。

「……疲れた」

「お疲れさまでした」

シルヴィアが、そっと肩へ手を添えた。

ミラも頷いた。

「昨日よりは、落ち着いて答えられてたじゃないか」

「……そうかな」

「ああ。あんたにしては上出来だよ」

「……それ、褒めてる?」

「もちろんさ」

ベンは苦笑した。

シルヴィアは、その様子を見て小さく微笑んだ。

しかし、彼女は知らなかった。

同じ頃。

この建物の外では、別の者たちがベンの所在を確認し続けていることを。

◇大尉の判断◇

 同日午後。

帝国軍警本部。

エドガーは、2日間の事情聴取記録を確認していた。

机には、ラウゼン村襲撃事件に関する資料が積み上がっている。

白牙傭兵団。

ガルド・ベッカー。

拘束された72名。

救出された23名の村人。

そして、11名の死者。

その数字の1つひとつに、人間の命が関わっていた。

「……大尉」

副官が声をかけた。

「召喚者について、いかがいたしましょうか」

「ベンのことか?」

「はい」

エドガーは報告書へ目を落とした。

『登録名:ベン』

『出身地:未確認』

『冒険者登録:比較的新しい』

『記憶障害の可能性あり』

『大規模召喚術の使用を認める』

『召喚術式および召喚対象の詳細:不明』

それが、現在確認できている情報だった。

「……妙な男だな」

エドガーは小さく呟いた。

「本人の証言がすべて真実なら、自分の能力も、召喚した軍勢の正体も知らないことになる」

「……はい」

「しかも、過去の記憶に欠落がある」

副官は腕を組んだ。

「偽装の可能性は?」

「当然、考慮している」

エドガーは静かに答えた。

「だが、昨日と今日の供述を比較しても、大きな矛盾は確認できない」

「……なるほど」

「同行者2名の証言とも、おおむね一致している」

エドガーは書類を閉じた。

「それに、現時点であの男が帝国へ敵対する意思を持っているという証拠はない」

「しかし、5,000名以上の軍勢を召喚できる人物です」

「そのとおりだ」

エドガーは頷いた。

「だからこそ、慎重に扱う必要がある」

副官は黙っていた。

「あの男を強引に拘束すれば、何が起きると思う?」

「……再び召喚術を使用する可能性がございます」

「そうだ。しかも、本人ですら能力を制御できるか分からないと言っている」

エドガーは窓の外へ目を向けた。

「市街地で5,000名の天使が出現するような事態は、絶対に避けなければならん」

「……では、身柄の確保は?」

「現段階では見送る」

エドガーは静かに答えた。

「事件の調査には協力している。逃亡の兆候もない。まずは、医療面での状態確認と身元調査を続ける」

「承知しました」

「それと、白牙傭兵団の件を優先しろ」

エドガーは、別の報告書を指した。

「今回の事件で11名の村人が命を落としている。その責任を明らかにすることが、我々の本来の仕事だ」

「はっ!」

副官が姿勢を正した。

エドガーは、もう1度ベンの資料へ目を落とした。

『召喚者を王と呼称』

その一文が、どうしても気になっていた。

5,120名という数字。

6枚の翼を持つ指揮官。

そして、王という呼び名。

もし、あの軍勢が本当にどこかの国家に所属していたのなら。

「……どこの王なんだ、お前は」

エドガーは、小さく呟いた。

しかし、その答えを知る者は、帝国軍警にはいなかった。

◇上級諜報員の確信◇

 ヴァルノア市内、西の宿場街。

レイビスは、宿の一室で報告書を整理していた。

茶色の髪。

平凡な顔立ち。

目立たない旅装。

幻魔族ファントムとしての能力を用い、人間の旅人へ擬態している。

昨夜、彼は冒険者ギルドの宿泊区画にいる青年を確認した。

その人物は、王城に残されたベンの肖像画と酷似していた。

部屋に置かれていた大剣も、かつて召喚王が使用していた武器によく似ている。

そして、何より。

ギルドの登録名が、ベンだった。

「……間違いないと思いたいところだが」

レイビスは、静かに呟いた。

軍人として、期待だけで判断することはできない。

直接の本人確認は、まだ済んでいない。

しかし、現在までに得られた情報は、すべて同じ人物を指し示していた。

5,120名の天使。

ラウゼン村を守った剣士。

ベンという名前。

王の肖像に似た顔。

そして、記録上の武器と酷似する大剣。

それらが、まったくの偶然である可能性は低い。

その時、通信術式が淡く光った。

『第3情報班より報告』

「聞こう」

『本日、帝国軍警が冒険者ギルドにおいて追加の事情聴取を実施しました』

「……対象は?」

『ベン、シルヴィア、ミラ=クローヴァンの3名とみられます』

レイビスは静かに頷いた。

『なお、ベンについては現在も療養中との情報があります』

「……病状は?」

『詳細は確認できておりません。ただし、同行者の女性が継続して看病している模様です』

「分かった」

レイビスは少し考えた。

「軍警による身柄の拘束は?」

『確認されておりません』

「警備の増強は?」

『ギルド周辺に目立った変化はありません。ただし、軍警による調査は継続中です』

「了解した」

レイビスは通信を閉じた。

まだ、無理に接触する段階ではない。

しかし、もはや捜索対象の所在が不明という状況ではなくなった。

王と極めて高い確度で一致する人物が、今も冒険者ギルドに滞在している。

その情報は、直ちに本国へ報告すべきだった。

レイビスは、通信水晶を取り出した。

淡い紫色の光が、室内へ広がる。

そして、静かに姿勢を正した。

「……上級諜報員レイビス。国防軍本部への報告を要請する」

数秒後。

水晶の向こうに、長い黒髪の女性が姿を現した。

◇黒い翼の報告◇

 浮遊都市アークディア。

王城国防軍本部。

ヤミノミコタマは、通信水晶の前に立っていた。

長い黒髪。

落ち着いた眼差し。

そして、腰から左右へ伸びる漆黒の翼。

闇に属する種族として生まれ、かつてはゲーム内で王たちに仕えていたNPCの1人。

現在は、アークディア国防軍を統括する最高責任者だった。

『上級諜報員レイビス、報告します』

「聞かせて」

『昨夜確認した対象者について、追加の情報を得ました』

「……ベン様の件ね」

『はい』

ヤミノミコタマは、静かに頷いた。

『対象者は、引き続きヴァルノア冒険者ギルドの宿泊区画に滞在しております』

「健康状態は?」

『療養中とみられます。同行者の女性が看病しており、長時間の活動は困難な様子です』

「……そう」

『また、本日も帝国軍警による事情聴取が実施されました』

「身柄の拘束は?」

『確認されておりません』

ヤミノミコタマは、少しだけ安堵した。

「……それで、本人確認については?」

『対象者の登録名、容姿、所持する武器、および召喚事件との関連を総合した結果、ベン陛下ご本人である可能性は極めて高いと判断しております』

ヤミノミコタマは、ゆっくりと息を吸った。

「……そう」

2,000年。

長い間、待ち続けた王の1人。

その所在が、ついに明らかになろうとしている。

しかし、喜びだけで判断することはできない。

「レイビス」

『はい』

「引き続き、対象の安全確認を最優先としなさい」

『承知しました』

「帝国軍警との不要な接触は避けること。宿泊区画への無断侵入も認めないわ」

『了解しました』

「それと、ベン様の体調について、可能な範囲で情報を集めなさい。ただし、看病している女性への直接接触は、現段階では控えること」

『はっ!』

「各班の報告は、引き続きあなたが取りまとめて。私を通じてパウル様へご報告する」

『承知しました』

レイビスは右拳を左胸へ当てた。

『ヴァルクハイル!(承知しました!)』

通信が途切れた。

ヤミノミコタマは、しばらく水晶を見つめていた。

「……ベン様」

小さく、その名を口にした。

かつて仕えた王。

ゲーム時代に、アークディアを築いた50人の王の1人。

その人物が、今は帝国の冒険者ギルドで療養しているという。

どのような経緯で、この世界へ来たのか。

なぜ、あれほどの軍勢を召喚したのか。

そして、何を考えているのか。

聞きたいことは山ほどあった。

しかし、今はまだ何も分からない。

「……まずは、パウル様へ」

ヤミノミコタマは報告書を手に取り、王の執務室へ向かった。

◇弟の決断◇

 王城最上層。

パウルは、机に広げられたヴァルノア帝国の地図を見つめていた。

扉が叩かれる。

「パウル様。ヤミノミコタマでございます」

「入ってくれ」

ヤミノミコタマが入室し、深く一礼した。

「《月下の鼠》作戦につきまして、重要な進展がございました」

「……何か分かったのか?」

「はい」

彼女は報告書を差し出した。

「レイビスが昨夜確認いたしました人物につきまして、追加調査を進めた結果、ベン様ご本人である可能性が極めて高いと判断しております」

パウルは報告書を受け取った。

そこに記された名前を見つめる。

『対象者登録名:ベン』

『滞在地:ヴァルノア冒険者ギルド』

『本人確認:高確度、未確定』

『健康状態:療養中』

「……兄貴」

パウルは、小さく呟いた。

タカフミ。

現実世界での兄の名前だった。

ゲームの中では、ベンと名乗っていた。

そして今、そのゲーム内の名前を使う人物が、異世界の街で発見されたという。

「……本当に、兄貴なのか?」

「最終的な本人確認はまだ完了しておりません。ただし、これまで得られた情報は、いずれもベン様と一致しております」

「……そうか」

パウルは、ゆっくりと椅子へ腰を下ろした。

弟として、今すぐ会いに行きたい。

しかし、王として、それが簡単ではないことも理解していた。

「……兄貴の体調は?」

「現在も療養中との報告がございます」

「原因は?」

「詳細は不明でございます。ただし、ラウゼン村での大規模召喚後から、体調を崩されている可能性がございます」

パウルの表情が曇った。

「……あの5,120名か」

「はい」

天使騎士団第一旅団。

かつて、ベンが編成していた軍勢だった。

もし本当に兄が召喚したのなら、それほどの力を行使した理由があったのだろう。

それでも。

「……無茶しやがって」

パウルは小さく呟いた。

昔から、そういう兄だった。

誰かが困っていると、自分のことを後回しにする。

考えるより先に身体が動く。

そして、あとから苦労する。

「……変わってないな、兄貴」

パウルは、少しだけ笑った。

ヤミノミコタマは、その表情を静かに見つめていた。

「パウル様」

「ん?」

「今後の対応について、ご指示をお願いいたします」

パウルは少し考えた。

「……まずは、安全確認を続けてくれ」

「承知いたしました」

「兄貴が危険な状態なら助けたい。でも、帝国と揉めるようなことは避けたい」

「はい」

「それから、無理に連れ戻すな」

ヤミノミコタマは顔を上げた。

「……よろしいのでございますか?」

「ああ」

パウルは静かに頷いた。

「本人が何を考えてるのかも、まだ分からないからな」

そして、少しだけ表情を曇らせた。

「……それに、兄貴が俺たちのことを覚えてるかも分からない」

ヤミノミコタマは黙っていた。

その可能性は、まだ検証できていなかった。

「……まずは、本人の意思を確かめてからだ」

パウルは続けた。

「そのための接触方法を、レイビスに考えさせてくれ」

「承知いたしました」

ヤミノミコタマは深く頭を下げた。

「ご意向、確かに承りました」

パウルは、もう1度報告書へ目を落とした。

そして、ふと顔を上げた。

「……そうだ」

「はい」

「アマノテルシエには、もう伝えたのか?」

「いえ。まだでございます」

「……そうか」

パウルは少し考えた。

「知らせてやってくれ」

ヤミノミコタマは目を上げた。

「よろしいのでございますか?」

「ああ」

パウルは静かに頷いた。

「ティアだって、ずっと兄貴を待ってたんだろ?」

「……はい」

「だったら、知るべきだと思う」

ヤミノミコタマは深く一礼した。

「承知いたしました。ただし、情報の機密性については十分に説明いたします」

「ああ」

パウルは少しだけ笑った。

「……それと、勝手に飛んで行ったりしないように、ちゃんと言っといてくれよ」

ヤミノミコタマも、控えめに微笑んだ。

「……かしこまりました」

しかし、その時の彼女はまだ知らなかった。

その心配が、決して冗談では済まなくなることを。

◇2,000年待った名前◇

 王城第2層。

アマノテルシエは、今日も政務室で書類に向かっていた。

机の上には、居住区の修繕計画や市場管理局からの申請書が積み上げられている。

「……あと、こちらを確認すれば」

彼女は最後の書類へ手を伸ばした。

その時だった。

「アマノテルシエ。ヤミノミコタマです」

扉の向こうから、聞き慣れた声がした。

「どうぞ」

扉が開く。

長い黒髪。

腰から左右へ伸びる、漆黒の翼。

ヤミノミコタマが入室した。

「少し、お時間をいただけるかしら」

「……ええ」

アマノテルシエは書類を置いた。

その表情から、ただの雑談ではないことが分かった。

ヤミノミコタマは、室内の職員たちへ視線を向けた。

「申し訳ないけれど、少し席を外していただける?」

職員たちは一礼し、退出した。

扉が閉まる。

室内には、2人だけが残された。

「……ミア?」

アマノテルシエが、小さく呼びかけた。

「どうしたのですか?」

ヤミノミコタマは、少しだけ微笑んだ。

「ティア」

「……はい」

「あなたに、伝えたいことがあるの」

アマノテルシエは姿勢を正した。

「……何でしょう?」

ヤミノミコタマは、静かに答えた。

「ベン様が、見つかったわ」

「…………」

アマノテルシエの手が止まった。

そのまま、しばらく動かなかった。

「……今」

小さな声だった。

「何と……?」

「ヴァルノアで、ベン様と極めて高い確度で一致する人物が確認されたの」

ヤミノミコタマは静かに続けた。

「レイビスが、そのお姿を直接確認しているわ」

「……ベン様?」

「ええ」

「……本当に?」

「最終的な本人確認はまだだけれど、名前も、容姿も、武器も一致している。5,120名の天使を召喚した人物も、その方である可能性が非常に高いわ」

アマノテルシエは、ゆっくりと立ち上がった。

背中の白い翼が、小さく震えている。

「……そんな」

彼女は、両手を胸元で重ねた。

「……ベン様が」

声が震えた。

2,000年。

王たちが姿を消してから、あまりにも長い時間が流れた。

何度も捜索隊を送り出した。

何度も、手掛かりが途絶えた。

何百年も経つうちに、帰還などあり得ないのではないかと考える者も現れた。

それでも、待ち続けてきた。

帰ってくる場所を守り続けた。

そして今。

その王の1人が、見つかったという。

「……ミア」

「何かしら?」

「……会えるのですか?」

ヤミノミコタマは、少しだけ表情を引き締めた。

「まだ、直接接触する段階ではないわ」

「……なぜですか?」

「帝国軍警が、ベン様の召喚事件を調査しているの。今はこちらの存在を明かすわけにはいかない」

「でも……」

「ティア」

ヤミノミコタマの声が、少し強くなった。

「ベン様は現在、療養中とみられているわ。しかも、帝国軍警が動向を確認している可能性もある」

アマノテルシエは、はっと顔を上げた。

「……療養中?」

「ええ」

「……お怪我を?」

「詳細は分からない。ただ、大規模召喚のあとから体調を崩されている可能性があるの」

アマノテルシエの顔から、血の気が引いた。

「……そんな」

ヤミノミコタマは彼女を見つめた。

「レイビスが、引き続き安全確認を進めているわ」

「……はい」

「だから、今は待っていて」

アマノテルシエは、ゆっくりと頷いた。

「……分かりました」

しかし、その声には、どこか力がなかった。

ヤミノミコタマは少しだけ表情を和らげた。

「ティア」

「……はい」

「私も、嬉しいのよ」

アマノテルシエが顔を上げた。

「2,000年ぶりに、ベン様のお姿を確認できたのですもの」

ヤミノミコタマは静かに微笑んだ。

「でも、今は慎重に動かなければならない。ベン様を安全にお迎えするためにもね」

アマノテルシエは、目を伏せた。

「……ええ」

しばらく沈黙が続いた。

やがて、彼女は小さく尋ねた。

「……ベン様は、今どちらに?」

ヤミノミコタマは一瞬、考えた。

極秘作戦の情報を、どこまで伝えるべきか。

しかし、アマノテルシエは長年にわたり国家の内政を支えてきた最高責任者の1人だった。

情報を扱う責任の重さについては、十分に理解しているはずだった。

「ヴァルノアの冒険者ギルドよ」

「……冒険者ギルド」

「そこの宿泊区画で療養されているそうよ。ただし、詳しい部屋までは伝えられないわ」

アマノテルシエは、その言葉を静かに繰り返した。

「……ヴァルノア」

ヤミノミコタマは、彼女の様子を見つめた。

「ティア。くれぐれも、勝手な行動はしないでね」

「……はい」

アマノテルシエは、ゆっくりと頭を下げた。

ヤミノミコタマは、少し安心したように微笑んだ。

「では、私は国防軍へ戻るわ」

「……分かりました」

扉が閉まる。

室内には、アマノテルシエだけが残された。

彼女は、しばらく立ち尽くしていた。

「……ベン様」

小さく、その名を口にした。

胸の奥が、苦しいほどに高鳴っていた。

会いたい。

その気持ちは、2,000年間、何度も抱いてきた。

けれど、今までは会いに行く場所すら分からなかった。

今は違う。

どこにいるのかが分かっている。

しかも、身体を壊して療養しているという。

「……どうして」

彼女は、机へ手を置いた。

「どうして、今すぐお迎えに行ってはいけないのでしょう……」

もちろん、理由は理解していた。

帝国軍警。

国防軍の極秘作戦。

国家間の外交問題。

それらが、どれほど重要なのかも分かっている。

2,000年間、この都市の内政を支えてきたのだ。

国家運営の難しさは、誰よりも理解しているつもりだった。

しかし。

理屈では、抑えられないものがあった。

「……会いたい」

アマノテルシエは、小さく呟いた。

白い翼が、静かに震えた。

◇王の肖像◇

 その夜。

王城の上層回廊には、静かな月明かりが差し込んでいた。

アマノテルシエは、50人の王たちの肖像が並ぶ廊下を歩いていた。

その中の1枚。

召喚王ベン。

彼女は、その肖像画の前で足を止めた。

「……ベン様」

返事はない。

当然だった。

それでも、今日はいつもと違った。

以前は、肖像画に向かって語りかけることしかできなかった。

しかし、今は。

「……本当に、お戻りになっていたのですね」

アマノテルシエは、ゆっくりと微笑んだ。

そして、ふと思い出した。

先日、市場で食べたパン。

蜂蜜の甘い香り。

幼い天使たちの笑顔。

あの時、ベンが帰還したら、一緒にパンを食べたいと思った。

ただ、それだけだった。

豪華な宴会も。

盛大な式典も。

長い演説も。

今は、何もいらない。

ただ、元気な姿を見たい。

そして。

「……ご無事なのか、確かめたいのです」

小さな声だった。

アマノテルシエは、肖像画へ手を伸ばした。

指先が、額縁へ触れる。

その時、頭の中にヤミノミコタマの言葉が浮かんだ。

――今は待っていて。

アマノテルシエは目を閉じた。

分かっている。

分かっているのに。

「……ミア」

彼女は、小さく呟いた。

「ごめんなさい」

そして、ゆっくりと踵を返した。

2,000年間、自分の感情よりも都市の責任を優先してきた。

けれど、今夜ばかりは、それができそうになかった。

◇政務首席補佐官の失踪◇

 深夜。

王城第2層、政務室。

アマノテルシエは、机の上に積まれた書類を整理していた。

翌日の政務予定。

市場管理局との協議。

居住区の修繕計画。

物資配分に関する承認。

どれも重要な仕事だった。

しかし、緊急性の高い案件はすでに代理責任者へ引き継ぐことができるよう、準備を進めていた。

「……これで、大丈夫ですね」

アマノテルシエは小さく頷いた。

そして、机の上に1枚の紙を置いた。

『所用により、しばらく政務室を離れます。緊急案件は代理責任者へお回しください』

そこまで書いて、少しだけ手を止める。

そして、別の紙を取り出した。

『ミアへ。

あなたの判断が正しいことは理解しています。

それでも、私はベン様にお会いしたいのです。

どうか、お許しください。

ティア』

書き終えると、しばらくその文字を見つめていた。

「……絶対に、怒られますね」

小さく呟く。

脳裏に、ミアの呆れた表情が浮かんだ。

きっと、長いお説教を受けることになる。

それでも。

「……帰ってきたら、きちんと謝りましょう」

アマノテルシエは立ち上がった。

王城の儀礼服を脱ぎ、目立たない旅装へ着替える。

背中の白い翼を折り畳み、その上から大きな外套を羽織った。

さらに、翼の輪郭を目立たなくするため、簡易的な隠蔽魔法を施した。

強力な看破術には通用しない。

しかし、街中を歩く程度であれば、周囲の視線を集めにくくなる。

「……これなら」

彼女は鏡の前へ立った。

長い白金色の髪。

質素な旅装。

そして、どこか上品な雰囲気を漂わせる顔立ち。

完全に別人へ変装したわけではなかったが、少なくとも王城での姿とは印象が違っていた。

アマノテルシエは、静かに扉を開けた。

廊下には、夜間警備の天使たちが立っている。

「アマノテルシエ様?」

警備兵の1人が驚いたように声を上げた。

「このような時間に、どちらへ?」

「少し、外部施設の確認へ」

「護衛をお付けしましょうか?」

「いいえ。必要ありません」

アマノテルシエは、いつもの穏やかな微笑みを浮かべた。

「私1人で大丈夫です」

「……かしこまりました」

警備兵たちは一礼した。

彼女が無断で都市を離れようとしているなど、誰も思わなかった。

アマノテルシエは静かに廊下を進んだ。

階段を下り、物資輸送用の通路を抜ける。

やがて、外部との輸送に使用される転移施設へ辿り着いた。

アークディアには、地上との補給や人員輸送に利用する転移設備が存在する。

ただし、転移先はあらかじめ登録された拠点に限られ、任意の都市へ直接移動できるわけではなかった。

通常、使用には申請と承認が必要となる。

しかし、アマノテルシエは都市の内政を統括する最高責任者の1人である。

設備の管理権限も有していた。

彼女は端末へ手をかざした。

淡い光が浮かび上がる。

『利用者認証』

『アマノテルシエ』

『管理権限確認』

『転移先を指定してください』

アマノテルシエは、少しだけ迷った。

使用記録は残る。

ミアが調べれば、すぐに分かるだろう。

それでも。

「……ヴァルノア方面の中継拠点へ」

端末が光った。

『転移先確認』

『転移準備開始』

床に、大きな魔法陣が浮かび上がる。

アマノテルシエは、その中央へ足を踏み入れた。

そして、小さく呟いた。

「……待っていてください、ベン様」

光が、彼女の身体を包み込んだ。

次の瞬間。

白い翼の天使は、アークディア王城から姿を消した。

◇残された手紙◇

 翌朝。

王城第2層の政務室では、ちょっとした騒ぎが起きていた。

「……アマノテルシエ様が、いらっしゃらない?」

若い職員が、困惑した声を上げた。

「はい。昨夜から、お姿が確認できておりません」

「お部屋には?」

「いらっしゃいませんでした」

「……外出の予定は?」

「確認できておりません」

職員たちは顔を見合わせた。

アマノテルシエが、連絡もなく政務を離れることなど珍しかった。

その時だった。

「何があったの?」

入口から、聞き慣れた声が響いた。

ヤミノミコタマだった。

「ヤミノミコタマ様!」

職員たちが一斉に頭を下げる。

「……アマノテルシエ様が、昨夜から行方不明なのです」

ヤミノミコタマの表情が変わった。

「……何ですって?」

「こちらに、書き置きが」

職員が1枚の紙を差し出した。

ヤミノミコタマは、それを読んだ。

そして。

「…………」

静かに目を閉じた。

「……ティア」

小さな声だった。

彼女には、すぐに分かった。

昨夜の会話。

ベンが見つかったという報告。

療養中だと伝えた時の表情。

そして、現在の所在を尋ねられたこと。

「……まさか」

ヤミノミコタマは、急いで通信水晶を取り出した。

「転移施設の使用記録を確認して」

『かしこまりました』

数秒後。

『昨夜、アマノテルシエ様の管理権限による転移記録が確認されました』

ヤミノミコタマは額へ手を当てた。

「……やっぱり」

『転移先は、ヴァルノア方面の中継拠点です』

「…………」

ヤミノミコタマは深く息を吐いた。

「……あの子、本当に行ってしまったのね」

職員たちは、不思議そうに顔を見合わせた。

しかし、ヤミノミコタマはそれ以上説明しなかった。

「アマノテルシエの不在については、私からパウル様へご報告します。政務は代理責任者を中心に継続してください」

「承知いたしました!」

職員たちが動き始める。

ヤミノミコタマは、再び通信術式を起動した。

相手は、ヴァルノアにいるレイビスだった。

『上級諜報員レイビス、応答しました』

「レイビス」

『はい』

「緊急の連絡よ」

彼女は静かに告げた。

「アマノテルシエが、そちらへ向かった可能性が高いわ」

『……アマノテルシエ様が?』

「ええ。昨夜、王城を無断で離れているの」

通信の向こうで、短い沈黙があった。

『……承知しました』

「ヴァルノアの冒険者ギルド周辺を確認しなさい。すでに到着している可能性もあるわ」

『了解しました』

「ただし、帝国軍警の警戒を招くような行動は避けて」

『はっ!』

「発見した場合は、まず私へ報告。アマノテルシエには、独断でベン様へ接触しないよう伝えなさい」

『承知しました』

通信が途切れた。

ヤミノミコタマは、しばらく水晶を見つめていた。

「……まったく」

小さく呟く。

「あなたは、いつからそんなに大胆になったのかしら」

しかし、その声には、怒りだけではなく、どこか懐かしさも混じっていた。

かつてのゲーム時代。

与えられた役割を遂行していたNPCたち。

その1人だったティアが、今は自らの意思で行動している。

しかも、国家の規則を破ってまで。

「……本当に、変わったわね」

ヤミノミコタマは小さく微笑んだ。

だが、すぐに表情を引き締めた。

「……パウル様にも、ご報告しなければ」

彼女は立ち上がり、王の執務室へ向かった。

◇ヴァルノアに降りた天使◇

 その頃。

ヴァルノア帝国の街道を、1台の乗合馬車が進んでいた。

荷台には、数名の旅人が乗っている。

その中に、1人の女性がいた。

長い白金色の髪。

白い外套。

そして、どこか高貴な雰囲気を漂わせる整った顔立ち。

アマノテルシエだった。

昨夜、中継拠点へ転移したあと、彼女は街道沿いの宿でわずかな休息を取っていた。

そして夜明けとともに、ヴァルノアへ向かう乗合馬車に乗ったのだった。

帝国領内で不用意に飛行すれば、巡回する軍警や警備兵の注意を引きかねない。

ましてや、自分の大きな白い翼は、人目につきやすかった。

だからこそ、彼女はできる限り普通の旅人として行動することにした。

しかし、胸の高鳴りだけは抑えられなかった。

「……もう少し」

小さく呟く。

ベンがいる。

この先の街に。

ずっと会いたかった人がいる。

しかも、体調を崩しているという。

ただ、その顔を見たい。

声を聞きたい。

無事であることを、自分の目で確かめたい。

それだけだった。

「お嬢さん」

隣に座っていた年配の女性が、声をかけてきた。

「ヴァルノアへは、観光かい?」

アマノテルシエは顔を上げた。

「……いえ」

少し考えたあと、微笑んだ。

「人に、会いに行くのです」

「そうかい」

女性が笑った。

「大切な人なんだね」

「……はい」

アマノテルシエは静かに頷いた。

「とても、大切な方です」

その声には、迷いがなかった。

馬車は、ゆっくりと街道を進んでいく。

やがて、ヴァルノアの城壁が見えてきた。

高くそびえる石造りの壁。

その向こうに、目的の人物がいる。

アマノテルシエは、そっと胸元へ手を当てた。

「……ベン様」

小さく、その名を呟いた。

2,000年間、何度も呼んできた名前だった。

しかし、今回は違う。

もうすぐ、その本人へ届くかもしれない。

◇受付嬢の困惑◇

 ヴァルノアの冒険者ギルド。

建物の内部は、午後になっても賑わっていた。

依頼を探す冒険者。

報酬の受け取りを待つ者。

商談を行う商人たち。

アマノテルシエは、その人混みの中を静かに進んだ。

普段の彼女であれば、周囲の視線を集めることなど気にしなかった。

しかし、今は身分を隠している。

目立つ行動は避けなければならない。

彼女は外套の襟元を整え、受付へ向かった。

「すみません」

受付嬢が顔を上げた。

「はい。どのようなご用件でしょうか?」

「こちらに、ベンという方が滞在されていると伺ったのですが」

受付嬢の表情が、わずかに変わった。

「……ベンさん、ですか?」

「はい」

「失礼ですが、お知り合いでしょうか?」

アマノテルシエは、一瞬だけ言葉に詰まった。

知り合い。

その言葉だけでは、あまりにも足りない。

かつて仕えた王。

2,000年間、帰還を待ち続けた主君。

そして、今も大切に思い続けている人。

「……はい」

アマノテルシエは、静かに答えた。

「以前、お世話になった方です」

受付嬢は少し考えた。

「申し訳ありませんが、ご本人の許可なく滞在先やお部屋の番号をお教えすることはできません」

「……そうですか」

「特に、現在は帝国軍警が事件の調査を進めておりますので」

アマノテルシエの表情が、少しだけ曇った。

ミアが言っていたとおりだった。

帝国軍警の調査は、まだ続いている。

ここで無理に情報を求めれば、不審に思われるかもしれない。

「……分かりました」

彼女は静かに頭を下げた。

「では、伝言をお願いできますか?」

「伝言、ですか?」

「はい」

アマノテルシエは少し迷った。

そして、小さく答えた。

「……アマノテルシエという者が、お会いしたがっていると」

受付嬢は頷いた。

「承知しました。ただし、ご本人が面会を希望されない場合は、お取り次ぎできません」

「……はい」

アマノテルシエは静かに答えた。

受付嬢は伝言用の用紙を取り出した。

「お待ちいただく場所はこちらでよろしいでしょうか?」

「はい」

アマノテルシエは、受付の横にある長椅子へ腰を下ろした。

白い外套の下で、畳んだ翼が小さく震える。

ベンが、ここにいる。

この建物のどこかに。

そう思うだけで、胸が苦しくなった。

2,000年間待ち続けた再会が、今は受付嬢の取り次ぎを待つ時間に変わっている。

そのことが、どこか不思議だった。

◇知らない女性◇

 しばらくして。

冒険者ギルドの2階では、シルヴィアがベンの薬を片付けていた。

その時、扉が叩かれた。

「失礼します」

若い男性の声だった。

ギルド職員のミリアンである。

「どうぞ」

シルヴィアが答える。

扉が開き、ミリアンが顔を覗かせた。

「ベンさんに、面会を希望されている方がいらっしゃいます」

「……俺に?」

ベンが顔を上げた。

「はい。アマノテルシエと名乗る女性です」

「……アマノテルシエ?」

ベンは少し考えた。

聞き覚えのない名前だった。

「……誰だろう」

シルヴィアも首をかしげた。

「お知り合いではないのですか?」

「いや……多分」

ベンは少し困ったように笑った。

「俺、昔の記憶が抜けてるからな」

その言葉に、ミリアンは少し表情を曇らせた。

「先方は、以前お世話になった方だとおっしゃっています」

「……そうか」

ベンはしばらく考えた。

記憶がない自分にとって、過去を知る人物と出会うことは貴重な機会かもしれない。

しかし、相手がどのような人物なのかは分からない。

「……シルヴィア」

「はい?」

「会ってみてもいいと思う?」

シルヴィアは少し考えた。

「……私も同席してよろしいのでしたら」

「もちろん」

ベンは小さく頷いた。

「ミラにも声をかけておこう」

「そうですね」

ミリアンは一礼した。

「では、先方へお伝えしてまいります」

扉が閉まる。

ベンは、もう1度その名前を口にした。

「……アマノテルシエ」

しかし、何も思い出せなかった。

ゲームの中で何をしていたのか。

自分がどのような人物だったのか。

その記憶は、今も完全に失われている。

アークディアという国の名前も。

50人の王たちも。

かつて自分に仕えていた天使たちのことも。

何1つ、思い出せなかった。

「……本当に、知り合いなのかな」

ベンは小さく呟いた。

シルヴィアは、静かに微笑んだ。

「お会いすれば、何か分かるかもしれません」

「……そうだな」

ベンは頷いた。

そして、寝台の上で少しだけ姿勢を正した。

◇2,000年ぶりの再会◇

 午後。

冒険者ギルドの宿泊区画。

ミリアンに案内され、アマノテルシエはベンの部屋の前へ辿り着いた。

「こちらです」

ミリアンが小さく声をかけた。

「ただし、ベンさんは現在療養中ですので、長時間の面会はお控えください」

「……はい」

アマノテルシエは静かに頷いた。

「ありがとうございます」

ミリアンは扉を叩いた。

「ベンさん。面会の方をお連れしました」

「……どうぞ」

部屋の中から、男性の声が聞こえた。

アマノテルシエの身体が、わずかに震えた。

その声。

聞き覚えがあった。

2,000年という長い時間が流れても、忘れることのできなかった声だった。

ミリアンが扉を開ける。

部屋の中には、3人の人物がいた。

金色の髪をした若い女性。

経験豊富な冒険者と思われる女性。

そして。

寝台に腰を下ろした、1人の青年。

「…………」

アマノテルシエは、言葉を失った。

ベンだった。

かつての姿と、ほとんど変わっていない。

髪。

顔立ち。

そして、少し困ったような表情。

何度も夢に見た姿が、目の前にあった。

「……ベン様」

小さな声が漏れた。

ベンは顔を上げた。

「……はい?」

アマノテルシエは、ゆっくりと1歩踏み出した。

「……本当に」

声が震えた。

「本当に……ご無事で……」

その瞳から、涙がこぼれ落ちた。

シルヴィアは、思わず息を呑んだ。

ミラも少しだけ目を細めた。

ベンは、戸惑ったように彼女を見つめている。

知らない女性だった。

美しい白金色の髪。

涙を浮かべた瞳。

そして、自分を知っているかのような表情。

しかし、記憶のどこを探しても、その顔は出てこなかった。

「……すみません」

ベンは、ゆっくりと口を開いた。

「……どこかで、お会いしましたっけ?」

アマノテルシエの動きが止まった。

「…………え?」

ベンは申し訳なさそうに笑った。

「俺のこと、知ってるみたいですけど……」

少しだけ、間を置いた。

「……誰ですか、あなた?」

その瞬間。

アマノテルシエの表情が、凍りついた。

2,000年間、待ち続けた再会。

何度も夢に見た瞬間。

ようやく辿り着いた、愛しい主君。

しかし。

その王は、彼女のことを覚えていなかった。

「……ベン、様……?」

ベンは、困惑した表情のまま彼女を見つめている。

アマノテルシエは、震える唇を開いた。

「……アマノテルシエです」

その名前を聞いても、ベンの表情は変わらなかった。

「……アマノテルシエ?」

「……はい」

彼女は、ゆっくりと頷いた。

「……お久しゅうございます」

その目から、また1粒の涙がこぼれ落ちた。

「……ようやく、お会いできました」

ベンは、何も答えられなかった。

目の前の女性が、なぜ泣いているのか分からない。

自分を知っているようだった。

しかも、ただの知人ではない。

その表情からは、長い時間をかけて積み重ねられた想いが伝わってくる。

だが、記憶にはない。

アマノテルシエ。

その名前を、いくら思い出そうとしても、何も浮かばなかった。

「……すみません」

ベンは静かに答えた。

「俺、昔の記憶が少し抜けてて……」

アマノテルシエは、ゆっくりと顔を上げた。

「……記憶?」

「はい」

ベンは少し困ったように笑った。

「だから、もし知り合いだったとしても……覚えてないかもしれません」

「…………」

アマノテルシエは、その場に立ち尽くした。

ミアから聞いた、療養中という情報。

レイビスが確認した、王の姿。

しかし、記憶の欠落については、まだ知らされていなかった。

彼女は、ゆっくりと息を吸った。

「……そう、なのですね」

ベンは小さく頷いた。

「……ごめんなさい」

その言葉を聞いた瞬間、アマノテルシエは首を横に振った。

「……いいえ」

涙を拭いながら、微笑む。

「謝らないでください」

そして、静かに頭を下げた。

「……私の方こそ、突然お訪ねしてしまい、申し訳ございません」

シルヴィアは、2人を交互に見つめていた。

目の前の女性は、ただの知人には見えない。

ベンを見つめる眼差し。

その名前を呼ぶ声。

そして、涙。

いったい、どのような関係なのだろう。

「……あの」

シルヴィアが静かに口を開いた。

「失礼ですが、ベンさんとは、どのようなご関係なのでしょうか?」

アマノテルシエは、少しだけ迷った。

かつて仕えた王。

自分たちが守り続けてきた国。

アークディア。

すべてを話したかった。

しかし、この部屋へ来る前、廊下には何人もの冒険者がいた。

帝国軍警の調査も続いている。

今ここで、すべてを明かしてよいものだろうか。

アマノテルシエは、ゆっくりと答えた。

「……昔、ベン様にお仕えしておりました」

シルヴィアの目が大きく開かれた。

「……お仕え?」

ミラも表情を変えた。

ベンは、少し困ったように頭を掻いた。

「……俺に?」

「……はい」

アマノテルシエは静かに頷いた。

「ずっと以前のことでございます」

ベンは、しばらく彼女を見つめていた。

そして、静かに口を開いた。

「……あのさ」

「……はい」

「俺、あなたのことを覚えてないんですけど」

少しだけ、言葉を探した。

「……何か、知ってるんですか?」

アマノテルシエの表情が変わった。

「……何を、でしょう?」

「俺の昔のことです」

ベンは、自分の手を見つめた。

「どうしてこの世界に来たのか。何で、あんな天使たちを呼べたのか」

そして、顔を上げた。

「……俺が、何者だったのか」

アマノテルシエは、息を呑んだ。

知っている。

彼女は知っている。

ベンが、かつて何者だったのか。

どのような国を築いたのか。

誰と共に戦ってきたのか。

そして、どれほど多くの者が、その帰還を待ち続けていたのか。

しかし、なぜ記憶を失ったのか。

なぜ、この世界へ来たのか。

その答えまでは、彼女自身も知らなかった。

「……はい」

アマノテルシエは、静かに答えた。

「私が存じていることでしたら、お話しできます」

ベンの目が大きく開かれた。

「……本当に?」

「はい」

彼女は、涙を拭った。

「ですが、私にも分からないことはございます。それでも、よろしいでしょうか」

ベンは、少し考えた。

そして、小さく頷いた。

「……お願いします」

◇忘れられた城◇

 アマノテルシエは、ベンの向かいに腰を下ろした。

シルヴィアとミラも、その場に残った。

2人とも、突然現れた女性のことをまだ信用しきってはいなかった。

それでも、ベンが話を聞きたいと言う以上、無理に追い返す理由もなかった。

「……まず、お尋ねしてもよろしいでしょうか」

アマノテルシエが静かに口を開いた。

「はい」

「ベン様は、ご自分が以前どのような場所にいらしたか、覚えておいでですか?」

ベンは首を振った。

「……ほとんど、覚えてません」

「……そうですか」

「覚えてることもあるんですけど、何をしてたのかが分からなくて」

アマノテルシエは静かに頷いた。

「では……」

彼女は少しだけ言葉を選んだ。

「アークディアという名前に、お聞き覚えはございませんか?」

ベンは、ゆっくりと顔を上げた。

「……アークディア?」

「はい」

その名前を、彼は何度か心の中で繰り返した。

アークディア。

しかし、何も思い出せなかった。

「……いや」

ベンは首を振った。

「聞いたことないです」

アマノテルシエの胸が、少しだけ締めつけられた。

王が、自分の国を覚えていない。

その事実は、想像していた以上に苦しかった。

「……そう、なのですね」

彼女は静かに答えた。

そして、少しだけ微笑んだ。

「では、無理に思い出そうとなさらないでください」

「……え?」

「今は、お身体を休めることが大切です」

ベンは、少し驚いた顔をした。

「……シルヴィアと同じこと言うんですね」

シルヴィアが小さく笑った。

「それだけ、ベンさんが無理をなさるからです」

アマノテルシエは、そんな2人を見つめた。

この女性が、ベンの看病を続けている。

ミアから聞いていたとおりだった。

「……シルヴィア様」

アマノテルシエが静かに呼びかけた。

「……はい?」

「ベン様のお世話をしてくださっているのですね」

「……はい」

シルヴィアは少し戸惑いながら頷いた。

「大規模な召喚術を使われてから、体調が安定しませんので」

「……そうですか」

アマノテルシエは、深く頭を下げた。

「……ありがとうございます」

シルヴィアは目を丸くした。

「……え?」

「ベン様を、お守りくださって」

その声は、静かだった。

しかし、言葉には深い感謝が込められていた。

「……いえ」

シルヴィアは、少し頬を赤くした。

「私も、ベンさんに助けていただきましたから」

アマノテルシエは顔を上げた。

「……助けて?」

「はい」

シルヴィアは、少しだけ微笑んだ。

「以前、私が危険な目に遭った時に、ベンさんが助けてくださったんです」

「……そうなのですね」

アマノテルシエも、小さく微笑んだ。

やはり。

何も変わっていない。

目の前に困っている人がいれば、考えるより先に手を差し伸べる。

それは、彼女の知るベンそのものだった。

「……ベン様」

アマノテルシエは、静かに呼びかけた。

「はい?」

「あなたは、以前も多くの方をお守りになっていました」

ベンは、少し驚いたように目を瞬かせた。

「……俺が?」

「はい」

アマノテルシエは、ゆっくりと頷いた。

「とても多くの方が、あなたを慕っておりました」

ベンは、しばらく黙っていた。

その言葉は、あまりにも現実味がなかった。

自分には、そんな記憶がない。

それでも、目の前の女性は嘘をついているようには見えなかった。

「……何か、すごい話ですね」

ベンは小さく笑った。

「自分のことなのに、他人の話を聞いてるみたいだ」

アマノテルシエは、少しだけ目を伏せた。

「……そう、かもしれませんね」

彼女は、もう1度ベンを見つめた。

「ですが、ベン様」

「……はい」

「あなたを待っている方々が、今も大勢いらっしゃいます」

ベンは顔を上げた。

「……俺を?」

「はい」

その言葉には、2,000年分の想いが込められていた。

「……ずっと、お待ちしておりました」

◇弟の名前◇

 しばらく、静かな時間が流れた。

ベンは、アマノテルシエの話を聞きながら、自分の失われた記憶について考えていた。

アークディア。

かつて自分に仕えていたという女性。

そして、自分を待っている人々。

そのどれもが、初めて聞く話だった。

しかし、1つだけ、どうしても聞いておきたいことがあった。

「……あの」

ベンが口を開いた。

「はい?」

「俺、弟を探してるんです」

アマノテルシエが顔を上げた。

「……弟君、でございますか?」

「はい」

ベンは静かに頷いた。

「ヨシマサっていうんですけど」

アマノテルシエは、その名前を初めて聞いた。

ヨシマサ。

しかし、ベンに弟がいることは知っている。

かつて共にアークディアへ君臨した、もう1人の王。

パウル。

「……ヨシマサ様」

アマノテルシエは、静かに繰り返した。

「はい」

「……その方は、ベン様の弟君でいらっしゃるのですね」

「そうです」

ベンは少しだけ表情を和らげた。

「俺より年下で、昔から一緒に遊んでたんです」

「……そうなのですね」

アマノテルシエは、少し考えた。

パウル。

ベンの弟として、自分たちが仕えてきた王。

しかし、ヨシマサという名前は初めて聞く。

同じ人物なのか、今の段階では断定できなかった。

それでも、彼女には確かな情報があった。

「……ベン様」

「はい?」

「私が存じている限り、あなたには弟君がいらっしゃいました」

ベンの表情が変わった。

「……え?」

「その方は、かつてパウル様と呼ばれておりました」

「……パウル?」

ベンは、ゆっくりとその名前を繰り返した。

パウル。

聞き覚えはない。

ヨシマサと一緒にゲームをしていたことは覚えている。

しかし、そのゲームの中身も、そこで使っていた名前も、何も思い出せなかった。

「……パウル」

もう1度、呟いた。

だが、頭の中には何も浮かばなかった。

「……ごめんなさい」

ベンは首を振った。

「俺、その名前も覚えてないです」

アマノテルシエは静かに頷いた。

「……そうですか」

しかし、次の瞬間。

彼女は、少しだけ微笑んだ。

「ですが、その方は……」

そこまで言いかけた時だった。

扉が叩かれた。

ミラが顔を上げる。

「……誰だい?」

扉の向こうから、落ち着いた男性の声がした。

「失礼。こちらに、アマノテルシエという女性がいらっしゃると伺ったのですが」

アマノテルシエの表情が変わった。

その声。

聞き覚えがあった。

ミラは立ち上がり、扉へ近づいた。

「……どちらさん?」

「旅の者です。少し、確認したいことがありまして」

ミラは、少しだけ目を細めた。

そして、ゆっくりと扉を開けた。

そこに立っていたのは、茶色の髪をした平凡な顔立ちの男性だった。

飾り気のない旅装。

腰には細身の剣。

レイビスだった。

しかし、今の彼は幻術によって姿を変えている。

アマノテルシエは、彼の顔を見ただけでは正体を確信できなかった。

だが、視線が合った瞬間。

男は、ほんのわずかに頭を下げた。

アークディアで用いられる、臣下としての礼。

アマノテルシエは、はっとした。

「……レイビス?」

小さな声だった。

男は、静かに頷いた。

「……お迎えに参りました」

その言葉を聞いた瞬間。

アマノテルシエは、ゆっくりと目を閉じた。

「……やはり、見つかってしまいましたか」

レイビスは、静かに答えた。

「はい」

そして、ベンへ視線を向けた。

かつての主君。

2,000年もの間、捜索し続けた王の1人。

その人物が、今、目の前にいる。

レイビスは、思わず膝をつきそうになった。

しかし、ここは帝国領内だった。

王に対する正式な礼を行えば、周囲に不審な印象を与えかねない。

彼は、静かに頭を下げるだけに留めた。

「……失礼いたします」

ベンは、不思議そうに彼を見つめた。

「……あんたも、俺の知り合い?」

レイビスは、一瞬だけ言葉に詰まった。

アマノテルシエが、静かに口を開く。

「……はい」

ベンが顔を上げた。

「……え?」

アマノテルシエは、ゆっくりと微笑んだ。

「この方も、以前あなたにお仕えしていた方です」

ベンは、目を丸くした。

「……マジか」

シルヴィアとミラも、驚いたように顔を見合わせた。

突然現れた2人の人物。

しかも、どちらもベンの過去を知っているという。

ミラは腕を組んだ。

「……あんたたち、どういう関係なんだい?」

レイビスは、静かに答えた。

「……少し、長い話になります」

その言葉を聞き、ベンは小さく笑った。

「……長い話なら、今の俺にはちょうどいいかもな」

アマノテルシエは、そんな彼を見つめた。

記憶を失っている。

自分のことも、アークディアのことも覚えていない。

それでも。

この人は、確かにベンだ。

彼女は、静かに微笑んだ。

その目には、まだ涙が残っていた。

そして、心の中で呟いた。

――お帰りなさいませ、ベン様。

まだ、アークディアへ帰還したわけではない。

まだ、すべてを思い出したわけでもない。

それでも。

2,000年間、待ち続けた再会は、確かに果たされた。

その頃、遥か上空。

浮遊都市アークディアでは、ヤミノミコタマが新たな通信を受け取っていた。

『……ヤミノミコタマ様』

「レイビス? どうしたの?」

『アマノテルシエ様を確認しました』

ヤミノミコタマの表情が変わった。

「……場所は?」

『ヴァルノア冒険者ギルドの宿泊区画です』

「……まさか」

レイビスは、一瞬だけ言葉を選んだ。

『すでに、ベン陛下と接触されております』

通信の向こうで、沈黙が訪れた。

そして。

『……ティア』

ヤミノミコタマの深いため息が、通信越しに聞こえた。

『……本当に、あなたって子は』

レイビスは黙っていた。

ヤミノミコタマは、少し間を置いてから告げた。

『レイビス。作戦は継続よ。ただし、現状を踏まえて行動方針を見直す必要があるわ』

『承知しました』

『アマノテルシエを、決して1人にしないで。それと、ベン様の安全を最優先に』

『はっ!』

『……私も、パウル様へご報告してくるわ』

通信が途切れた。

ヤミノミコタマは、ゆっくりと息を吐いた。

月下の鼠。

誰にも知られず、帝国の内側へ入り込んだ100名の諜報員。

その作戦は、ついに捜索対象へ辿り着いた。

しかし、最初に王へ声をかけたのは、彼らではなかった。

2,000年間、待ち続けた白い翼の天使だった。

そして、その再会が何をもたらすのか。

まだ、誰にも分からなかった。

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