レイビス喜ぶ
◇砂時計の朝◇
ヴァルノアの街に、朝が訪れた。
石造りの建物の間から柔らかな日差しが差し込み、街道を行き交う荷馬車の音が聞こえ始める。
冒険者ギルドの2階。
宿泊区画の一室では、シルヴィアが静かに砂時計を見つめていた。
小さな木製の砂時計。
時計塔で働いていた頃から、彼女が大切にしているものだった。
さらさらと落ちていく砂。
それがすべて下へ落ちると、シルヴィアは砂時計をひっくり返した。
「……そろそろですね」
彼女は椅子から立ち上がり、寝台へ近づいた。
そこには、1人の青年が横になっていた。
ベン。
ラウゼン村で5,120名もの天使を召喚した人物である。
しかし、今の姿からは、それほどの軍勢を従えた人物だとは想像しづらかった。
顔色はまだ悪い。
呼吸は落ち着いているものの、額には薄く汗が滲んでいた。
シルヴィアは水で濡らした布を絞り、そっと額に当てた。
「……ん」
ベンの眉が動いた。
「……シルヴィア?」
「おはようございます、ベンさん」
「……おはよう」
ベンは薄く目を開けた。
窓から差し込む朝日が眩しかったのか、目を細める。
「今、何時だ?」
「朝の8時を少し過ぎたところです」
「……8時?」
「はい」
「結構、寝たな」
「昨夜は熱が上がりましたから。今朝は少し落ち着いていますよ」
シルヴィアは布を取り、額へ手を当てた。
昨日ほどの熱さはない。
「……よかった」
思わず声が漏れた。
ベンはそれを聞き、小さく笑った。
「心配かけたな」
「本当ですよ」
シルヴィアは少しだけ頬を膨らませた。
「昨日、もう大丈夫だっておっしゃったのに、夜にはまた熱が出たんですから」
「……それは、俺も予想外だった」
「だから、無理をしないでくださいと言っているんです」
「分かったよ」
「本当ですか?」
「……多分」
「ベンさん」
「はい。分かりました」
シルヴィアはようやく微笑んだ。
ラウゼン村から戻って以来、彼女はベンの看病を続けていた。
高熱。
激しい疲労。
魔力の消耗。
そして、時折起こる頭痛。
いずれも、大規模な召喚術を行使した影響と考えられた。
しかし、一般的な魔力枯渇とは異なる点も多かった。
魔力そのものは、時間の経過とともに回復している。
それなのに、身体の不調はなかなか消えない。
シルヴィアにとっても、初めて見る症状だった。
「お水、飲めますか?」
「ああ」
ベンが身体を起こそうとした。
だが、その瞬間。
「……っ」
顔をしかめ、動きを止める。
「ベンさん!」
「大丈夫。ちょっと頭が……」
「無理をしないでください」
シルヴィアは背中へ手を添え、ゆっくりと身体を起こすのを手伝った。
枕を背中に重ね、水の入った器を渡す。
「ゆっくり飲んでくださいね」
「ああ。ありがとう」
ベンは少しずつ水を飲んだ。
シルヴィアは、その様子を見守りながら小さく息を吐いた。
砂漠で巨大なサソリと戦い、毒に侵されながら時計塔まで辿り着いた青年。
自分が危険な目に遭った時には、迷わず助けに来てくれた人。
そして、ラウゼン村では、数千の天使を呼び出した。
そんな人物が、今は水を飲むことさえ慎重に行っている。
彼女には、まだその事実が信じられなかった。
「……少しずつ、よくなっています」
「本当か?」
「はい。昨日より、脈も呼吸も安定していますから」
「なら、もうちょっとしたら動けそうだな」
「動くのは、まだ早いです」
「……ですよね」
ベンは苦笑した。
シルヴィアは空になった器を受け取り、机へ置いた。
その時だった。
「……なあ、シルヴィア」
「はい?」
「ちょっと、聞いてもいいか?」
ベンの表情が、いつもより真剣だった。
「……何でしょう?」
彼は少し迷ったあと、静かに口を開いた。
「俺ってさ……本当は、何者なんだろうな」
◇タカフミとヨシマサ◇
シルヴィアは、思わず手を止めた。
「……何者、ですか?」
「ああ」
ベンは窓の外を見つめた。
「前にも少し話しただろ。俺、どうやってこの世界に来たのか分からないって」
「はい」
「それだけじゃないんだ」
ベンはゆっくりと言葉を探した。
「覚えてることと、覚えてないことが、めちゃくちゃなんだよ」
シルヴィアは椅子へ腰を下ろした。
「……よかったら、聞かせてください」
ベンは頷いた。
「まずさ。俺には弟がいるんだ」
「以前、お話しされていましたね」
「ああ。名前はヨシマサ」
ベンの表情が、少しだけ和らいだ。
「俺より年下で、昔から一緒に遊んでた」
「……ヨシマサさん」
「そう」
ベンは静かに頷いた。
「俺とヨシマサは、よく一緒にゲームをしてたんだ」
「ゲーム……でしたね」
「ああ。俺が元いた世界には、そういう遊びがあったんだよ」
ベンは、指先で宙に四角を描いた。
「画面っていうものの中に、別の世界が映ってさ。そこで自分の分身を動かしたり、冒険したりするんだ」
シルヴィアは興味深そうに首をかしげた。
「魔法によって作られた世界、ということでしょうか?」
「……うーん。似てるのかな」
ベンは苦笑した。
「でも、俺のいた世界には魔法なんてなかったんだよ」
「……そうなのですか?」
「ああ。少なくとも、普通に生活していて魔法を見ることなんてなかった」
シルヴィアは、少し驚いたように目を瞬かせた。
魔法の存在しない世界。
彼女にとっては、想像することさえ難しかった。
「……不便ではありませんでしたか?」
「いや、別に?」
ベンは少し笑った。
「電気とか、車とか、便利なものは色々あったしな」
「……デンキ?」
「まあ、そこは今度説明するよ」
シルヴィアも小さく微笑んだ。
しかし、ベンの表情はすぐに曇った。
「……でさ」
「はい」
「俺とヨシマサが一緒にゲームをしてたことは、覚えてるんだ」
「……はい」
「でも、そのゲームの中身が分からない」
シルヴィアは黙って聞いていた。
「何をしてたのか。どんな世界だったのか。誰と戦ってたのか。どんな場所に行ったのか」
ベンはゆっくりと首を振った。
「……何も思い出せないんだ」
弟と一緒に遊んでいた。
そんな記憶は、確かに残っている。
隣から聞こえてくる笑い声。
何かに勝って喜んだこと。
負けて悔しがったこと。
くだらないことで言い争ったこと。
その時のヨシマサの顔さえ、はっきりと思い出せる。
しかし、何のゲームをしていたのかだけが分からなかった。
「……なんか変なんだよな」
ベンは呟いた。
「ヨシマサと一緒に遊んでる記憶はあるのに、画面の中だけ真っ黒なんだ」
「真っ黒……?」
「そう。思い出そうとしても、そこに何が映ってたのか分からない」
シルヴィアは、少し考え込んだ。
「……記憶の一部分だけが、失われているのでしょうか」
「多分な」
ベンは頷いた。
「しかも、変なことにさ。自分の本当の名前は覚えてるんだよ」
「……本当の名前?」
「ああ」
ベンは少し気まずそうに笑った。
「タカフミ」
「……タカフミ?」
「それが、元いた世界での俺の名前だ」
シルヴィアは目を丸くした。
「では、ベンというお名前は……?」
「それが、俺にもよく分からない」
ベンは頭を掻いた。
「気がついた時から、頭に残ってた名前なんだ。それに、俺にしか見えない妙な画面にも、そう表示されてる」
「……画面?」
「そう。俺の名前が、ベンって」
ベンは小さく息を吐いた。
「だから、こっちに来てからはベンって名乗ってる。でも、どうしてその名前が出てくるのかは分からない」
シルヴィアは静かに頷いた。
「……なるほど」
「変だろ?」
「……少し、不思議ですね」
ベンは苦笑した。
だが、彼自身にも説明できなかった。
タカフミという現実世界の名前。
ヨシマサという弟の名前。
そして、2人でゲームをしていた記憶。
それらは残っている。
しかし、ゲームの内容は何1つ覚えていない。
アークディアという国の名前も。
自分が王の1人だったことも。
かつて共に戦った仲間たちも。
自分に仕えていたNPCたちのことも。
そのすべてが、彼の記憶から失われていた。
「……気がついたら、砂漠にいたんだ」
ベンは静かに続けた。
「そこからは、覚えてる」
焼けつくような日差し。
広大な砂漠。
巨大なサソリとの戦い。
毒に侵され、朦朧とする意識の中で歩き続けたこと。
そして、シルヴィアと出会ったこと。
それらの記憶は、はっきりしている。
「でも、何であそこにいたのかが分からない」
ベンは自分の手を見つめた。
「どうやってこの世界に来たのかも、何でヨシマサと離れ離れになったのかも」
少しだけ、間を置いた。
「……本当に、何も分からないんだ」
シルヴィアは、しばらく黙っていた。
彼が抱えている疑問を、自分が解決できるとは思わなかった。
魔法についてなら、ある程度は知識がある。
時間に関する研究も続けてきた。
しかし、異なる世界から人間が現れるという現象は、彼女の知識を大きく超えていた。
「……ベンさん」
「ん?」
「その記憶は、いつから失われているのでしょうか」
「……さあ」
ベンは首を振った。
「気がついた時には、もう思い出せなかった」
「そうですか……」
シルヴィアは少し考えた。
「何か、きっかけがあれば思い出せるのでしょうか」
「……どうだろうな」
ベンは苦笑した。
「それが分かれば、苦労しないんだけど」
「……そうですよね」
彼女も小さく笑った。
その時、シルヴィアの視線が、部屋の隅へ向いた。
そこには、ベンの大剣が立てかけられていた。
「……でも、1つだけ」
「ん?」
「ベンさんが、はっきり覚えているものがありますよね」
ベンは彼女の視線を追った。
大剣。
この世界へ来た時から、自分の手元にあった武器だった。
「……ああ」
ベンは静かに頷いた。
「あれは、俺の剣だ」
◇忘れなかった剣◇
「……不思議ですね」
シルヴィアは、大剣を見つめた。
「どこで手に入れたのかは、覚えていらっしゃらないのですよね?」
「ああ」
ベンは頷いた。
「どこで手に入れたのか。誰が作ったのか。どうして俺が持っていたのか」
少しだけ、間を置く。
「……何も分からない」
「それなのに、自分の剣だということは分かるのですか?」
「そうなんだよ」
ベンは苦笑した。
「変だよな」
シルヴィアは首を横に振った。
「いいえ。そういう記憶の残り方も、あるのかもしれません」
「……そうなのか?」
「少なくとも、記憶と身体の動きが、必ずしも同じように失われるとは限りません」
シルヴィアは少し考えながら続けた。
「例えば、長年楽器を演奏してきた人が、曲の名前を忘れても、指の動きだけは覚えていることがあります」
「……なるほど」
「剣術も、似たようなものなのかもしれません」
ベンは、自分の手を見つめた。
確かに、あの剣を持つと、不思議と身体が動く。
最初に砂漠で魔物と戦った時もそうだった。
相手の攻撃を避けるタイミング。
剣を振る角度。
踏み込む距離。
考えるより先に、身体が反応していた。
「……そう言われると、そんな気もするな」
ベンは小さく笑った。
「でも、何であんな大きな剣を使ってたんだろうな」
「……重いですものね」
「ああ。普通なら、持ち歩くだけでも大変だ」
ベンは剣を見つめた。
ゲーム時代。
彼は、その大剣を幾度となく振るっていた。
強大な魔物。
城塞を守る敵軍。
他の王たちとの戦闘。
その刃は、数え切れないほどの戦場を潜り抜けてきた。
しかし、ベンは何1つ覚えていない。
ただ、目の前の剣を見るたびに、不思議な安心感があった。
「……あれを持ってるとさ」
ベンが呟いた。
「ん?」
「何となく、大丈夫な気がするんだよな」
シルヴィアは微笑んだ。
「……お守りのようなものですね」
「まあ、そんな感じかな」
ベンは、もう1度剣へ目を向けた。
「……昔の俺は、どんな奴だったんだろうな」
シルヴィアは少し考えた。
そして、穏やかに答えた。
「昔のベンさんのことは、私には分かりません」
「……だよな」
「でも、今のベンさんのことなら、少し分かります」
ベンが顔を上げた。
「砂漠で、毒に侵されながら時計塔まで辿り着いた人です」
「……ああ」
「私を助けてくださった人です」
「それは……」
「それから、ラウゼン村で、村人たちを守るために戦った人です」
シルヴィアは静かに微笑んだ。
「過去のことをすべて覚えていなくても、今のベンさんがどんな人なのかは、少しずつ分かってきました」
ベンは、しばらく黙っていた。
そして。
「……ありがとう」
小さく答えた。
シルヴィアは笑顔を返した。
彼女には、失われた記憶を取り戻す方法が分からない。
それでも、今できることはあった。
彼が自分の足で歩けるようになるまで、回復を手助けすること。
少なくとも、今はそれで十分だった。
◇LV15◇
「……そうだ」
しばらくして、ベンが何かを思い出したように声を上げた。
「どうしました?」
「ちょっと確認したいことがある」
彼は右手を持ち上げ、何もない空間を見つめた。
シルヴィアには、その行動の意味が分からなかった。
「……ベンさん?」
「ちょっと待って」
ベンは意識を集中させた。
この世界に来てから、何度か視界に現れた奇妙な表示。
自分に関する情報を示す、半透明の画面。
ゲームの内容は思い出せない。
それなのに、この表示だけは、どういうわけか見えることがあった。
以前は思うように開けなかったが、今回は違った。
視界の端に、淡い光が浮かび上がる。
「……出た」
ベンは小さく呟いた。
STATUS WINDOW PARTIAL ACCESS
BEN
LV 15
Previous confirmed level: 5
MEMORY RESTORATION RATE 7.4%
SUMMONING AUTHORITY: PARTIAL RESTORATION
Additional information unavailable.
「……15?」
ベンは目を丸くした。
最初にこの世界で目覚めた頃、自分のレベルは5だった。
それが、いつの間にか15になっている。
「……10も上がってる」
「……何がですか?」
シルヴィアが首をかしげた。
「あ、いや。俺にしか見えないものがあるんだ」
「見えないもの?」
「そう。自分の強さみたいなものを、数字で表したやつ」
「……数字?」
シルヴィアは興味深そうに身を乗り出した。
「魔力の測定値でしょうか?」
「うーん。それとも違う気がする」
ベンは画面を見つめた。
LV15。
確かに、数字は上がっている。
砂漠で戦った巨大なサソリ。
その後に経験した戦闘。
そして、ラウゼン村での激しい戦い。
それらによって、何らかの経験が蓄積されたのだろうか。
しかし、レベルが上がる仕組み自体は思い出せない。
ゲーム時代、自分がどれほどのレベルだったのかも分からなかった。
「……強くなったってことなのかな」
ベンは自分の腕を見つめた。
以前よりも、身体の奥に何かが増えているような感覚はある。
ただし。
「……今は全然、強くなった感じがしないな」
身体を起こすだけで、頭が痛む。
少し歩けば、足元がふらつく。
とても戦える状態ではなかった。
「数字が上がったからといって、身体が回復したわけではないんですね」
シルヴィアが静かに言った。
「……みたいだな」
ベンは苦笑した。
そして、表示の下部へ目を向けた。
『MEMORY RESTORATION RATE: 7.4%』
「……7.4%」
その数字は、以前にも見たことがあった。
ラウゼン村で天使を召喚した時だ。
あの瞬間、視界に現れた不可解な表示。
今も、同じ数字が残っている。
「……何が7.4%なんだ?」
ベンは眉をひそめた。
記憶の復元率。
言葉の意味は理解できる。
しかし、何の記憶を基準にした数字なのか分からない。
自分の人生の記憶なのか。
ゲームに関する記憶なのか。
それとも、まったく別の何かなのか。
表示は、その答えを教えてくれなかった。
さらに下には、見慣れない文字が並んでいる。
『SUMMONING AUTHORITY: PARTIAL RESTORATION』
「……召喚権限、一部復元?」
ベンは小さく呟いた。
「ベンさん?」
「ああ、ごめん」
彼は顔を上げた。
「どうやら、俺には何か召喚する力があるらしい」
「……ラウゼン村の天使たちですね」
「ああ」
ベンは頷いた。
「でも、どうして呼び出せたのか、分からないんだよな」
あの時。
村を守らなければならなかった。
傭兵たちを止めなければならなかった。
ただ、それだけを考えていた。
すると、突然、頭の中に言葉が浮かび上がった。
その言葉を口にした瞬間、空を覆い尽くすほどの天使が出現したのだ。
なぜ、その言葉を知っていたのか。
どこで覚えたのか。
何も思い出せない。
それでも、天使たちは自分の命令に従った。
「……意味分かんねえな」
ベンは小さく笑った。
「自分のことなのに、さっぱりだ」
その時、シルヴィアがそっと手を伸ばした。
ベンの額へ触れる。
「……まだ少し熱があります」
「……え?」
「考えすぎですよ」
彼女は穏やかに微笑んだ。
「今は、記憶よりも身体の回復を優先してください」
「……そうだな」
ベンは画面を閉じた。
淡い光が消える。
残されたのは、静かな部屋と、窓から差し込む朝日だけだった。
LV15。
10レベルも上がった。
だが、自分が何者なのかという疑問は、何1つ解決していなかった。
◇看病する理由◇
昼前。
シルヴィアは、宿泊区画に設けられた小さな調理室で薬草を煎じていた。
木製の鍋から、独特の香りが立ち上っている。
隣には、砂時計。
彼女は落ちていく砂を確認しながら、薬の状態を確かめていた。
「……あと少し」
ゆっくりと火を弱める。
そして、指先に淡い光を灯した。
砂時計の中で、落ちかけていた砂が一瞬だけ逆流する。
時間魔法。
シルヴィアが長年扱ってきた、特殊な魔法だった。
ただし、何でも自由に時間を戻せるわけではない。
対象。
範囲。
経過時間。
それらによって、必要な魔力量は大きく変わる。
以前、ベンが毒に侵された時も、この力を使って症状の進行を抑えた。
しかし、今回の状態は少し違っていた。
目に見える傷があるわけではない。
体内に毒が残っているわけでもない。
大規模な魔力行使によって、身体そのものに負担がかかっているようだった。
時間魔法で一時的に症状を和らげても、根本的な回復にはならない。
だからこそ、シルヴィアは薬草と休養を中心に看病していた。
「……よし」
薬を器へ移す。
その時、背後から声がした。
「ずいぶん熱心だね」
振り返ると、ミラ=クローヴァンが入口に立っていた。
腰には、使い慣れた武器が提げられている。
「ミラさん」
「薬かい?」
「はい。ベンさんの分です」
「今朝の具合は?」
「昨日よりは、よくなっています」
「そりゃよかった」
ミラは棚へ背を預けた。
「それにしても、あんたも少しは休みなよ」
「……私ですか?」
「そうさ」
ミラは呆れたように笑った。
「ここ数日、まともに寝てないだろ」
「そんなことは……」
「あるだろ」
即答だった。
シルヴィアは少し目を伏せた。
「……夜中に、何度か様子を確認していただけです」
「その何度かが多すぎるんだよ」
ミラは腕を組んだ。
「ベンの状態は、もう危険な段階を抜けたんだろ?」
「……おそらくは」
「だったら、あんたも休みな」
シルヴィアは器を見つめた。
しばらく沈黙が続いたあと、小さく答える。
「……心配なんです」
ミラは黙っていた。
「ベンさんが、また無理をするんじゃないかって」
「……まあ、あいつならやりかねないね」
ミラは苦笑した。
シルヴィアは続けた。
「砂漠で出会った時も、そうでした」
巨大なサソリの毒に侵され、満身創痍で時計塔へ辿り着いた青年。
あの時は、自分が治療した。
けれど、その後。
自分が危険な目に遭った時、今度はベンが助けに来てくれた。
そして、ラウゼン村でも。
彼は自分の身を顧みず、村人たちを守ろうとした。
「……あの人は」
シルヴィアは小さく呟いた。
「誰かが困っていると、自分のことを後回しにしてしまうんです」
ミラは静かに頷いた。
「そうだね」
「だから、せめて今は、休んでほしくて」
シルヴィアは、薬の入った器を両手で包んだ。
「ちゃんと元気になるまで、私が見ていようと思ったんです」
ミラはしばらく彼女を見つめていた。
そして、小さく笑った。
「……あんたも、似たようなところがあるね」
「……え?」
「自分のことを後回しにしてるってことさ」
シルヴィアは目を丸くした。
「……そうでしょうか」
「そうだよ」
ミラは肩をすくめた。
「まったく。世話の焼ける2人だね」
シルヴィアは少し困ったように微笑んだ。
「……すみません」
「謝ることじゃないさ」
ミラは入口へ向かった。
「とりあえず、その薬を届けたら、あんたも少し休みな」
「はい」
「午後は私が様子を見るよ」
そう言い残し、ミラは部屋を出ていった。
シルヴィアは小さく息を吐いた。
確かに、自分も少し疲れている。
時間魔法を使いすぎないように気をつけていても、看病には体力が必要だった。
「……ミラさんの言うとおりですね」
彼女は薬を盆へ載せた。
そして、ベンのいる部屋へ戻ろうとした。
その時だった。
廊下の向こうから、重い靴音が聞こえてきた。
◇軍警の訪問◇
冒険者ギルドの正面入口。
帝国軍警の馬車が、石畳の上で止まった。
扉が開き、数名の軍警が降りてくる。
その先頭に立つのは、エドガー・ヴァイス大尉だった。
灰色の軍装。
胸元には帝国軍警の紋章。
厳しい表情の男だった。
「ここか」
エドガーはギルドの建物を見上げた。
「はい。ラウゼン村の救援活動に関わった冒険者たちが、こちらに滞在しているとのことです」
副官が答えた。
「担当職員は?」
「ミリアンです。現在、ギルド長が面会を調整しております」
「分かった」
エドガーは頷いた。
「まずは担当職員から事情を確認する。その後、冒険者たちに話を聞こう」
「はっ!」
軍警たちは建物へ入っていった。
その頃。
2階の廊下では、シルヴィアが足を止めていた。
階下から聞こえてくる複数の足音。
軍靴が床を叩く、規則正しい音だった。
「……軍警?」
シルヴィアは少し表情を曇らせた。
昨日、ミラから聞いていた。
ラウゼン村の事件について、帝国軍警が事情聴取を行う予定だと。
しかし、実際に訪れると、やはり緊張する。
ベンはまだ回復途中だった。
長時間の聞き取りに耐えられる状態ではない。
シルヴィアは盆を持ち直し、急いで部屋へ戻った。
「ベンさん」
「ん?」
ベンは寝台の上で、窓の外を眺めていた。
「軍警の方々が、いらしたようです」
「……ああ」
ベンは頷いた。
「昨日、ミラから聞いた」
「はい」
「話を聞きたいんだろ?」
「そうだと思います」
シルヴィアは薬を机へ置いた。
「でも、無理はしないでくださいね」
「大丈夫だよ」
「……ベンさん」
「分かってるって」
ベンは苦笑した。
シルヴィアは、しばらく彼を見つめた。
そして、少しだけ真剣な表情になった。
「……私も、ご一緒します」
「え?」
「体調のことは、私から説明します」
「いや、そこまでしなくても……」
「必要です」
シルヴィアは、はっきりと言った。
ベンが少し驚いた顔をする。
彼女は続けた。
「ベンさんは、まだ長時間お話しできる状態ではありません。そこは、きちんと伝えなければいけません」
ベンは、しばらく黙っていた。
そして、小さく笑った。
「……頼りになるな」
「……そうでしょうか?」
「ああ」
シルヴィアは少し頬を赤くした。
「……ありがとうございます」
その時、扉が叩かれた。
「ベン。入るよ」
ミラの声だった。
「おう」
扉が開き、ミラが顔を覗かせた。
「軍警が来た。ギルド長と話してる」
「俺たちのところにも?」
「ああ。ただ、すぐじゃない」
ミラは椅子へ腰を下ろした。
「最初にギルドの職員から話を聞くらしい」
「そうか」
「それと、ベン」
「ん?」
「聞かれたことには、分かる範囲で答えな」
「……分かってる」
「無理に説明しようとするなよ」
ベンは小さく頷いた。
「それも、分かってる」
ミラは彼の顔を見つめた。
少しだけ、目を細める。
「……あんた、本当に分かってる?」
「……多分」
「やっぱりね」
ミラはため息をついた。
シルヴィアが小さく笑った。
その笑い声を聞き、ベンも少しだけ表情を和らげた。
だが、胸の奥には、不安が残っていた。
軍警は、何を聞いてくるのだろう。
そして、自分は何を答えられるのだろう。
なぜ、この世界に来たのか。
なぜ、あの剣を持っているのか。
なぜ、5,120名もの天使を召喚できたのか。
そのどれも、自分には分からない。
ベンは、窓の外へ視線を向けた。
通りを行き交う人々は、いつもどおりの朝を過ごしている。
その光景が、今は少しだけ遠く感じられた。
◇王と呼ばれた男◇
それからしばらくして。
ベンたちは、ギルド内に用意された小さな応接室へ通された。
ベンの体調を考慮し、事情聴取は短時間に限定されることになった。
机を挟んで座っているのは、エドガー大尉。
その隣には、記録係の軍警が控えている。
ベンの隣には、シルヴィア。
少し離れた場所に、ミラが座っていた。
「まず、協力に感謝する」
エドガーが口を開いた。
「私は帝国軍警のエドガー・ヴァイス大尉だ。ラウゼン村襲撃事件の調査を担当している」
「ベンです」
ベンは答えた。
「こちらは、シルヴィア。それと、ミラ」
「承知している」
エドガーは頷いた。
「3名とも、事件現場にいたということで間違いないな?」
「はい」
ミラが答えた。
エドガーは記録係へ目配せした。
「では、順番に確認していこう」
まず、グロスタの丘への依頼について。
次に、ラウゼン村へ立ち寄った経緯。
そして、村で何が起きていたのか。
ミラが中心となって説明し、シルヴィアが必要に応じて補足した。
ベンも、自分が見た範囲について答えた。
エドガーは時折質問を挟みながら、淡々と記録を進めていく。
やがて。
「……では、次の質問だ」
エドガーはベンを見た。
「現場上空に出現した天使の軍勢について、確認したい」
ベンは小さく頷いた。
「はい」
「召喚したのは、君か?」
部屋が静まり返った。
ベンは少し考えた。
そして、答えた。
「……俺です」
記録係の手が止まった。
エドガーの目が細くなる。
「……間違いないか?」
「はい。俺が呼び出しました」
ベンは静かに頷いた。
「ただし、どうやって呼び出したのかは、よく分かりません」
エドガーは表情を変えなかった。
「詳しく説明してくれ」
「……はい」
ベンは、あの日のことを思い出した。
村を襲った傭兵たち。
倒れた人々。
自分の力では、すべてを守りきれないと思った瞬間。
「……何とかしなきゃって、思ったんです」
ベンはゆっくり話し始めた。
「そしたら、頭の中に言葉が浮かんできて」
「言葉?」
「はい。それを口にしたら、天使たちが現れました」
エドガーは少し身を乗り出した。
「その言葉は?」
ベンは首を振った。
「……思い出せません」
「何?」
「すみません。あの時は分かったんですけど、今は……」
ベンは額へ手を当てた。
思い出そうとする。
しかし、頭の奥が重くなるだけだった。
「……っ」
ベンの顔が歪む。
「ベンさん!」
シルヴィアが、すぐに背中へ手を添えた。
「無理をしないでください」
「……悪い」
エドガーも動きを止めた。
「体調が悪いのか?」
シルヴィアが顔を上げた。
「はい。ベンさんは、大規模な魔力行使の影響と思われる症状で、現在も療養中です」
「……なるほど」
「長時間の聞き取りは、身体に負担がかかります」
エドガーは静かに頷いた。
「承知した。無理に答える必要はない」
ベンは小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます」
エドガーは別の書類を開いた。
「もう1つ、確認したい」
「……はい」
「召喚された天使たちは、君を王と呼んでいたそうだな」
ベンの表情が変わった。
「……王?」
「そうだ」
エドガーは記録へ目を落とした。
「複数の目撃者が、6枚の翼を持つ騎士から、そのように呼ばれていたと証言している」
ベンは、しばらく黙っていた。
王。
そんな呼び名に、覚えはない。
自分が王だった記憶もない。
どこかの国を治めた覚えもない。
「……すみません」
ベンは静かに答えた。
「どうしてそう呼ばれたのか、分かりません」
エドガーの眉がわずかに動いた。
「君自身が召喚した軍勢なのだろう?」
「はい」
「それなのに、相手が君を王と呼んだ理由も分からない?」
「……そうです」
ベンは視線を落とした。
「自分でも、変だと思います」
シルヴィアは、そんな彼を静かに見つめていた。
エドガーは少し考え、質問を変えた。
「君は、どこで召喚術を学んだ?」
「……分かりません」
「出身地は?」
「それも、説明が難しいです」
「……難しい?」
ベンは自分の手を見つめた。
「俺、記憶が抜けてるんです」
「記憶?」
「はい」
エドガーは記録係へ目配せした。
「続けてくれ」
「……昔のことは覚えてるんです。でも、ある時期の記憶が、すっぽり抜けてるみたいで」
ベンは言葉を選びながら答えた。
シルヴィアとミラには、すでに元いた世界について話している。
しかし、帝国軍警にそのすべてを説明する必要があるのかは分からなかった。
そもそも、自分自身が何も理解していないのだ。
「気がついた時には、砂漠にいました」
「砂漠?」
「はい。それより前のことが、どうしても思い出せないんです」
エドガーは少し考え込んだ。
「……記憶喪失、ということか?」
「多分、そうだと思います」
「医師の診断は?」
「まだ受けていません」
そこで、シルヴィアが口を開いた。
「記憶の欠落については、私も確認しております。ただし、原因は不明です」
「君は医療に詳しいのか?」
「薬草学と時間魔法について、研究をしております」
「……時間魔法?」
エドガーはわずかに眉を上げた。
「珍しい術式だな」
「はい」
シルヴィアは静かに頷いた。
「ただ、今回の記憶障害について、私の魔法で治療できるとは限りません」
「なるほど」
エドガーは記録係へ視線を向けた。
「記憶障害の可能性あり、と記録しておけ」
「はっ!」
記録係の筆が動く。
エドガーは再びベンへ向き直った。
「最後に確認したい。あの天使たちは、君の命令に従っていたのか?」
「……はい」
「では、再び召喚することは可能か?」
ベンは少し考えた。
そして、首を振った。
「……分かりません」
「分からない?」
「はい。そもそも、呼び方も思い出せないんです」
エドガーは、しばらくベンを見つめていた。
5,000名を超える軍勢。
通常の召喚術では考えられない規模。
それだけの力を持ちながら、本人は自分の能力を理解していないという。
嘘をついている可能性はある。
重要な情報を隠している可能性もある。
だが、少なくとも今の様子は、余裕を持って虚偽の証言をしている人物には見えなかった。
「……分かった」
エドガーは報告書を閉じた。
「本日の聞き取りは、ここまでにしよう」
シルヴィアは小さく息を吐いた。
「ありがとうございます」
「ただし、調査はまだ終わっていない」
エドガーはベンを見た。
「君の証言には、確認しなければならない点が多い。体調が回復したら、改めて話を聞きたい」
「……はい」
「それまで、所在を変更する場合はギルドへ届け出てくれ」
ベンは頷いた。
「分かりました」
エドガーは立ち上がった。
「協力に感謝する」
そう告げると、記録係と共に部屋を出ていった。
扉が閉まる。
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて。
「……疲れた」
ベンが小さく呟いた。
ミラは腕を組んだ。
「そりゃそうだろうさ」
シルヴィアは、そっと彼の肩へ手を置いた。
「お部屋へ戻りましょう」
「……ああ」
ベンは、小さく頷いた。
◇帰る場所のない兄◇
夕方。
ベンは再び寝台へ横になっていた。
事情聴取が終わってから、少し熱が上がったものの、シルヴィアが用意した薬を飲むと、次第に落ち着いていった。
部屋の中には、柔らかな夕日が差し込んでいる。
シルヴィアは椅子に座り、砂時計を見つめていた。
さらさらと落ちる砂。
その音は、ほとんど聞こえない。
けれど、彼女には時間が進んでいることが分かった。
「……シルヴィア」
ベンが静かに声をかけた。
「はい?」
「今日は、ありがとうな」
シルヴィアは顔を上げた。
「……何がですか?」
「軍警の人たちに、体調のことを説明してくれただろ」
「ああ……」
彼女は小さく微笑んだ。
「当然のことです」
「そうかな」
「そうですよ」
シルヴィアは椅子を少し近づけた。
「ベンさんは、まだ回復途中なんですから」
「……そっか」
ベンは窓の外を見つめた。
空には、少しずつ夕闇が広がり始めていた。
「……なあ」
「はい」
「俺、ヨシマサに会いたいんだ」
その声は、静かだった。
シルヴィアは、黙って聞いていた。
「弟がどこにいるのか、分からない」
「……はい」
「そもそも、同じ世界に来てるのかも分からない」
ベンは少しだけ笑った。
「でも、会いたいんだよな」
シルヴィアは、ゆっくりと頷いた。
「……そうですよね」
「俺が覚えてることって、そんなに多くないんだ」
ベンは、天井を見つめた。
「ヨシマサとゲームをしてたことは覚えてる。でも、何をしてたのかも、どんなゲームだったのかも分からない」
少しだけ、間を置いた。
「この世界に来た理由も、分からない」
シルヴィアは、彼の横顔を見つめていた。
「……でもさ」
ベンは、ゆっくりと顔を向けた。
「ヨシマサが弟だってことは、絶対に忘れたくない」
シルヴィアの胸が、少しだけ締めつけられた。
彼には、帰る場所が分からない。
この世界に来た理由も分からない。
かつて自分が何をしていたのかも、思い出せない。
けれど、会いたい人の名前だけは覚えている。
「……きっと」
シルヴィアは静かに言った。
「きっと、会えますよ」
ベンは小さく笑った。
「……根拠ある?」
「……ありません」
シルヴィアは正直に答えた。
ベンが思わず吹き出した。
「ないのかよ」
「……はい」
シルヴィアも、小さく笑った。
「でも、そう思いたいんです」
ベンは、しばらく彼女を見つめていた。
そして、静かに頷いた。
「……俺もだ」
少しだけ、沈黙が続く。
窓の外では、ヴァルノアの街に灯りがともり始めていた。
シルヴィアは立ち上がり、机の上の砂時計をひっくり返した。
「……そろそろ、お薬の時間ですね」
「またか」
「またです」
「……苦いんだよな、あれ」
「効きますから」
「もうちょっと甘くならない?」
「……考えておきます」
シルヴィアは微笑んだ。
ベンも、小さく笑った。
そんな何気ないやり取りが、今は少しだけ心地よかった。
彼女は薬の器を手に取り、ベンへ差し出した。
「はい。ゆっくり飲んでください」
「……分かったよ」
ベンは器を受け取り、顔をしかめながら薬を飲んだ。
「……苦っ」
「ふふ」
シルヴィアは笑った。
その笑顔を見て、ベンも少しだけ表情を和らげた。
自分の過去は分からない。
帰る場所も分からない。
それでも、今はこうして、隣に誰かがいる。
そのことが、少しだけありがたかった。
シルヴィアは空になった器を受け取った。
「少し、窓を開けましょうか」
「ああ。頼む」
彼女は窓へ近づき、木製の留め具を外した。
夕方の涼しい風が、部屋の中へ流れ込んでくる。
「……気持ちいいな」
ベンは小さく呟いた。
「ええ」
シルヴィアは微笑んだ。
「今日は、よく眠れそうですね」
「……そうだな」
ベンはゆっくりと目を閉じた。
窓の外には、ヴァルノアの街並みが広がっている。
そして、その向こう側。
遥か上空には、浮遊都市アークディアが存在していた。
自分がかつて王として君臨していた場所。
弟と共に、ゲームの中で過ごした場所。
しかし、ベンはその存在を知らない。
アークディアという名前すら、思い出せない。
ただ、弟の名前だけを覚えていた。
ヨシマサ。
その名前だけが、失われた記憶の中で、確かに残っていた。
◇王を知る者◇
同じ頃。
ヴァルノアの西の宿場街。
レイビスは、宿の一室で新たな報告を確認していた。
机の上には、事件に関する記録が並んでいる。
冒険者ギルドの依頼情報。
グロスタの丘への移動経路。
ラウゼン村の封鎖状況。
そして、帝国軍警の動向。
いずれも、部下たちが現地で集めた情報だった。
「……ミリアン」
レイビスは、小さく呟いた。
事件直後に現場へ入った、冒険者ギルドの職員。
帝国軍警も、彼の報告書に注目している。
だが、その内容はまだ把握できていない。
無理に接触すれば、こちらの存在を悟られる危険がある。
レイビスは、引き続き民間の情報網を利用する方針だった。
その時、通信術式が淡く光った。
『第1潜入班より報告』
「聞こう」
『本日、帝国軍警が冒険者ギルドにて事情聴取を実施しました』
「……対象は?」
『ラウゼン村の事件に関与した冒険者、3名とみられます』
レイビスの目が細くなった。
「3名……」
『はい。うち1名は、男性の剣士との情報です』
「名前は?」
『現在、確認中です』
レイビスは少し考えた。
グロスタの丘へ向かった3名の冒険者。
その後、ラウゼン村で起きた襲撃事件。
村人を守ったという、正体不明の剣士。
それらが、同じ人物に関係している可能性がある。
しかし、まだ確証はない。
「……引き続き調べろ」
『了解』
「ただし、軍警の調査対象への直接接触は認めない。周辺の公開情報と民間の証言を優先しろ」
『承知しました』
通信が途切れた。
レイビスは椅子から立ち上がり、窓の外を見た。
夕暮れのヴァルノア。
人々が行き交う街道。
荷馬車の音。
酒場から響く笑い声。
そのどこかに、捜している人物がいるのかもしれない。
あるいは、すでに街を離れているのかもしれない。
まだ分からない。
「……焦るな」
レイビスは自分に言い聞かせるように呟いた。
情報のない段階で動けば、作戦そのものが危険にさらされる。
帝国軍警との衝突は避ける。
我が国の関与を悟らせない。
それが、ヤミノミコタマから命じられた最重要事項だった。
その時だった。
通信術式が再び光った。
『第3情報班より、緊急報告』
レイビスは顔を上げた。
「……何だ?」
『冒険者ギルドの関係者について、新たな情報を確認しました』
「内容は?」
『本日、帝国軍警が事情聴取を行った男性冒険者の名前が判明しました』
レイビスの瞳が、わずかに鋭くなる。
「……名前は?」
通信の向こうで、短い沈黙があった。
そして。
『……ベン、です』
「…………」
レイビスの動きが止まった。
ベン。
その名前を、彼は知っていた。
かつてアークディアに君臨した、50人の王の1人。
召喚王ベン。
2,000年もの間、行方不明となっていた主君。
その名前だった。
「……もう1度、言え」
『はい。男性冒険者の登録名は、ベンとされています』
レイビスは、静かに目を閉じた。
同じ名前の人間がいる可能性はある。
名前だけで、本人と断定することはできない。
しかし。
ラウゼン村で出現した5,120名の天使。
村人を守るために戦った剣士。
そして、ベンという名前。
偶然として片付けるには、あまりにも多くの情報が重なっていた。
「……現在の所在は?」
『冒険者ギルドの宿泊区画に滞在しているとの情報があります』
「……ギルドの?」
『はい』
レイビスは、ゆっくりと顔を上げた。
数日前、自分が訪れた建物。
受付嬢から情報を聞き、商人ジョージの名前を教えてもらった場所。
その2階に。
捜している人物がいるかもしれない。
「……容姿は確認できるか?」
『現在、外部からの目視確認を進めています』
「無理に接近するな」
『了解』
レイビスは静かに指示を続けた。
「本人確認を最優先とする。ただし、我が国の関与を悟らせる行動は一切禁ずる」
『承知しました』
通信が途切れた。
レイビスは、しばらく窓の外を見つめていた。
心の奥に、何かが込み上げてくる。
しかし、それを表情に出すことはなかった。
彼は軍人だった。
必要なのは、確かな情報。
推測や期待ではない。
「……まだだ」
小さく呟く。
「まだ、確証が足りない」
彼は外套を手に取り、部屋を出た。
◇月下の鼠、王を見つける◇
ヴァルノアの夜。
冒険者ギルドの向かいにある建物の上層階で、レイビスは静かに窓の外を見つめていた。
人間の姿に擬態したまま、遠くの建物を観察している。
その視線の先には、冒険者ギルドの宿泊区画があった。
窓のいくつかには、まだ灯りがともっている。
そのうちの1室。
窓が開かれ、白いカーテンが夜風に揺れていた。
「……あそこか」
レイビスは小さく呟いた。
部下からの報告によれば、ベンという男性冒険者は、その部屋に滞在している可能性が高い。
しかし、名前だけでは本人確認にはならない。
レイビスは小さな観測用の鏡筒を取り出した。
魔力を使わない、光学式の観測器具だった。
結界の検知方式が不明な以上、余計な魔力反応を発生させる必要はない。
彼は鏡筒を覗き込んだ。
窓の向こう。
室内には、1人の女性がいた。
長い金色の髪。
薬の入った器を片付けている。
その奥。
寝台に横たわる、1人の青年の姿が見えた。
「…………」
レイビスの呼吸が、わずかに止まった。
見覚えのある顔だった。
アークディア王城に掲げられた肖像画。
かつてゲーム時代、何度も目にした王の姿。
そして、今。
その顔が、目の前にあった。
「……まさか」
レイビスは、ゆっくりと鏡筒を下ろした。
心臓が、強く脈打っている。
もう1度、覗き込む。
寝台の青年は、ゆっくりと身体を起こそうとしていた。
その横で、金髪の女性が慌てて近づき、肩へ手を添える。
青年は小さく笑った。
その表情。
その仕草。
レイビスの記憶にある、かつての王と重なった。
さらに、部屋の隅には、大剣が立てかけられていた。
独特の形状をした、巨大な剣。
アークディアの記録に残る、召喚王ベンの武器と酷似している。
「…………」
レイビスは、しばらく動かなかった。
名前。
容姿。
武器。
そして、5,120名の天使。
複数の情報が、同じ人物を指し示していた。
それでも、軍人としての判断は失わなかった。
現時点で、完全な本人確認が済んだわけではない。
だが、もはや単なる噂として扱う段階ではなかった。
レイビスは静かに通信術式を起動した。
『第1潜入班』
『はい』
『対象の所在について、確認した』
『……結果は?』
レイビスは、一瞬だけ目を閉じた。
2,000年。
王たちが不在となってから、長い時間が流れた。
その間、アークディア国防軍は、数え切れないほどの捜索任務を続けてきた。
広大な大陸。
周辺国家。
未知の領域。
そして、異世界へ転移した王たちの所在。
そのすべてを調べることなど、不可能に近かった。
しかし。
今。
確かに、その姿を見つけた。
「……第一級捜索対象」
レイビスは静かに告げた。
「召喚王ベン陛下と、極めて高い確度で一致する人物を確認した」
通信の向こうで、短い沈黙が訪れた。
『……ベン陛下、でありますか?』
「ああ」
レイビスは、もう1度窓の向こうへ目を向けた。
寝台に横たわる青年。
その横で、静かに看病を続ける金髪の女性。
そして、部屋の隅に置かれた大剣。
かつての王は、今も確かにそこにいた。
「……対象への接触は、まだ行わない」
『了解』
「所在の確認を継続。周辺の警戒状況を把握し、本局への報告準備を進めろ」
『承知しました』
通信が途切れた。
レイビスは、静かに鏡筒を下ろした。
窓の外では、2つの月が夜空に浮かんでいた。
その光が、ヴァルノアの街並みを淡く照らしている。
遥か上空。
浮遊都市アークディアでは、今もパウルが兄の帰還を待っている。
そして、目の前の青年は。
その弟が、同じ世界にいることさえ知らない。
レイビスは右拳を、ゆっくりと左胸へ当てた。
アークディア国防軍の敬礼。
誰にも見られることのない、静かな敬礼だった。
「……ベン陛下」
その声は、小さかった。
「ようやく、お姿を確認いたしました」
月明かりの下。
帝国軍警の監視が続く街で。
誰にも知られず進められていた作戦《月下の鼠》は、ついに行方不明の王へ辿り着いた。
だが、再会はまだ果たされていない。
ベンは、自分が王だったことを覚えていない。
アークディアという国の存在も知らない。
そして、彼を捜す者たちがすぐ近くまで来ていることにも、気づいていなかった。
レイビスは、もう1度だけ窓の向こうを見つめた。
そして、静かに呟いた。
「……見つけました、ベン陛下」




