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ナナ遂に怒る


◇ナナの新しい朝◇

 浮遊都市アークディアの朝は、雲海の向こうから差し込む陽光とともに始まる。

巨大な世界樹の枝が風に揺れ、その上空に広がる都市では、天使や悪魔、獣人たちがそれぞれの仕事へ向かっていた。

王城の下層にある孤児区画も、朝から賑やかだった。

「ナナお姉ちゃん! パンがない!」

「昨日の夜、3つも食べたのは誰ですか?」

「……ぼく」

「だったら、今日は2つで我慢してください」

「えーっ!」

ナナは笑いながら、子供の頭を軽く撫でた。

長机の上には、温かなスープと焼きたてのパンが並んでいる。厨房から運ばれてきた食事を、子供たちが順番に受け取っていた。

アークディアへ来てから、ナナの生活は大きく変わった。

かつては、明日の食べ物にも困っていた。

寝る場所を探し、子供たちを守り、どうすれば安全な場所へ辿り着けるのか、そればかり考えていた。

パウルと出会った頃も、そうだった。

彼は決して、最初から頼もしい英雄だったわけではない。

戦いのあとには疲れ果て、時には自分の弱さを隠そうともしなかった。

それでも、逃げなかった。

自分だけでなく、子供たちまで連れて行こうとしてくれた。

そして今。

あの青年は、アークディアの王として玉座に座っている。

「……何だか、不思議ですね」

ナナは小さく呟いた。

「何が?」

隣で食器を運んでいた子供が首をかしげる。

「何でもありません」

ナナは微笑んだ。

「ほら、食べ終わったらお勉強ですよ」

「えーっ! また文字の練習?」

「そうです。昨日の続きです」

「ナナお姉ちゃんも間違えてたじゃん!」

「……それは言わない約束です」

子供たちが声を上げて笑った。

ナナも、つられて笑った。

最近の彼女は、孤児区画の世話だけでなく、読み書きの勉強にも力を入れていた。

きっかけは、パウルだった。

彼の執務室へ食事を届けるたび、机の上には地図や報告書が広げられていた。

各国の情勢。

物資の輸送経路。

人口の推移。

軍の配置。

そして、兄を捜すための調査記録。

最初は、ほとんど理解できなかった。

しかし、少しずつ文字を覚え、地図を読み、数字の意味を理解するうちに、彼がどれほど多くの問題を抱えているのかが見えてきた。

最近では、子供たちの食事量や衣服の不足を簡単な表にまとめ、担当職員へ渡すようにもなっていた。

必要なものを、その場で口頭で頼むだけではない。

何が、どれくらい足りないのか。

誰が、いつまでに必要としているのか。

それを記録するようになった。

最初は慣れなかったが、今では少しずつ形になってきている。

「……よし」

ナナは、机に置かれた帳面を開いた。

昨日、子供たちが書き込んだ文字が並んでいる。

まだ形の崩れたものも多い。

それでも、以前は自分の名前すら書けなかった子供たちが、少しずつ読み書きを覚えている。

その成長を見ることが、ナナには嬉しかった。

「今日は、地図の読み方もやりましょう」

「地図?」

「はい。迷子になった時、自分がどこにいるか分かるようにです」

「でも、ナナお姉ちゃんがいるじゃん」

小さな女の子が言った。

ナナは一瞬だけ言葉を止めた。

そして、静かに微笑んだ。

「……私がいない時でも、ちゃんと帰ってこられるようになるためです」

その言葉には、彼女自身の経験が込められていた。

行く道を知っていることよりも、帰れる道を知っていること。

それが、命を守ることもあるのだから。

◇王様の役に立ちたい◇

 昼過ぎ。

ナナは孤児区画の仕事を終えると、城内の学習室へ向かった。

机の上には、各国の地図や行政資料が並んでいる。

「……ヴァルノア帝国」

ナナは、地図の一角を指でなぞった。

「南東方面。グロスタの丘。ラウゼン村……」

その名前を、最近は何度も見ていた。

パウルの兄が見つかった場所。

正確には、兄と極めて高い確度で一致する人物が確認された場所だった。

名前はベン。

現実世界での名前はタカフミ。

パウルの兄だという。

「……本当に、よかった」

ナナは小さく微笑んだ。

パウルが兄を捜していたことは、以前から知っている。

夜遅くまで地図を見つめていたことも。

調査報告を受け取るたび、期待と不安の間で揺れていたことも。

その兄が、ようやく見つかった。

今は療養中のため、すぐに再会できる状態ではないらしい。

それでも、生きていると分かっただけで大きな前進だった。

「……今夜は、お祝いですね」

ナナは少し考えた。

以前、パウルへ届けたスープ。

あの時は、彼が疲れているのを見て、何か温かいものを食べてほしいと思った。

今日は違う。

嬉しい出来事があったのだから、何か特別なものを用意したかった。

「……そうだ」

ナナは帳面を閉じた。

「リリスさんに、相談してみましょう」

リリス。

パウル専属のメイド。

料理も、身の回りの世話も、城内の作法も、何でもそつなくこなす女性だった。

ナナにとっては、少し複雑な相手でもある。

以前、彼女がパウルと親密な関係になったことを、ナナは察していた。

それを思い出すたび、今も少しだけ胸が痛くなる。

けれど、リリスを嫌いになれたわけではなかった。

彼女がどれほど真剣にパウルへ仕えていたかを、ナナは知っている。

努力してきたことも。

自分の意思で、彼のそばにいたいと望んだことも。

だからこそ。

「……私も、負けていられません」

ナナは、小さく拳を握った。

ただし、料理で競い合うつもりではなかった。

少なくとも、その時は。

◇メイドの微笑み◇

 王城中央厨房。

ナナが訪れると、リリスはちょうど夕食の準備をしていた。

「リリスさん」

「……ナナ様」

リリスは手を止め、静かに一礼した。

「いかがなさいましたか?」

「今日は、少しお願いがあって」

「何でしょう?」

ナナは、少し照れたように笑った。

「パウルさんに、何か美味しいものを作ってあげたくて」

リリスの表情が、少しだけ柔らかくなった。

「……ベン様が見つかった件でございますね」

「はい!」

ナナは頷いた。

「きっと、すごく嬉しかったと思うんです」

「そうでございましょうね」

「だから、私からも何かお祝いしたくて」

リリスは少し考えた。

「それでしたら、温かな料理と、甘いものを少し添えてはいかがでしょうか」

「甘いもの?」

「はい。パウル様は、執務中に甘味を召し上がることがございますので」

「……そうなんですね」

ナナは、少しだけ笑った。

こういうところは、やはり専属メイドの方が詳しい。

「……リリスさんって、本当に何でも知ってますね」

「長くお仕えしておりますので」

リリスは静かに答えた。

その言葉に、ナナは少しだけ胸を痛めた。

自分は、パウルと出会ってからまだ日が浅い。

リリスのように、彼の好みをすべて知っているわけではない。

「……ナナ様?」

リリスが顔を上げた。

「……いえ、何でもありません」

ナナは慌てて微笑んだ。

「それで、お料理を教えていただけますか?」

「もちろんでございます」

リリスは頷いた。

そして、作業台の前へナナを案内した。

しばらくして、2人は並んで野菜を切り始めた。

最初は、他愛のない会話だった。

孤児区画の子供たちのこと。

最近の勉強のこと。

パウルが兄を見つけたこと。

だが、やがて。

「……そういえば」

ナナが口を開いた。

「ヤミノミコタマさん、最近すごく元気そうですよね」

リリスの手が、わずかに止まった。

「……そうでございますね」

「この前までは、何だか疲れていらっしゃるように見えたんですけど」

「……はい」

「何か、いいことがあったのでしょうか?」

リリスは、すぐには答えなかった。

ナナは首をかしげた。

「……リリスさん?」

「……申し訳ございません」

リリスは静かに答えた。

「私から申し上げるべきことではないかと存じます」

ナナの表情が、少しだけ変わった。

その言い方。

どこか、聞き覚えがあった。

以前、リリス自身がパウルの部屋から出てきた時。

彼女も、同じように何かを隠していた。

「……何か、あったんですか?」

ナナは静かに尋ねた。

リリスは、少しだけ目を伏せた。

「……私には、詳細をお話しする立場にございません」

「……そうですか」

ナナは、ゆっくりと頷いた。

だが、その胸には小さな疑問が残った。

ヤミノミコタマが、急に元気になった。

リリスは、その理由を知っているような反応をした。

そして、何も話さない。

何かが、引っかかった。

しかし、ナナはそれ以上追及しなかった。

少なくとも、その場では。

◇黒い翼の変化◇

 夕刻。

王城の中央回廊。

ナナは完成した料理を盆に載せ、パウルの執務室へ向かっていた。

温かなスープ。

香草で味付けした肉料理。

そして、蜂蜜を使った小さな焼き菓子。

リリスに手伝ってもらいながら、何とか作り上げたものだった。

「……喜んでくれるかな」

ナナは、少しだけ微笑んだ。

その時だった。

回廊の向こうから、ヤミノミコタマが歩いてきた。

長い黒髪。

腰から左右へ伸びる、漆黒の翼。

いつもどおりの国防軍の制服。

しかし、今日はどこか雰囲気が違っていた。

「……あら、ナナさん」

ヤミノミコタマが声をかけた。

「ヤミノミコタマさん」

ナナは軽く頭を下げた。

「お仕事、お疲れさまです」

「ありがとう。あなたも、何か用事?」

「はい。パウルさんに、お食事を届けようと思って」

ヤミノミコタマは盆へ視線を向けた。

「……まあ。美味しそうね」

「リリスさんに教えていただいたんです」

「そう」

ヤミノミコタマは、少しだけ微笑んだ。

「きっと喜ばれるわ」

ナナも笑った。

しかし、ふと気づいた。

ヤミノミコタマの表情が、以前より柔らかい。

目元には疲労の色がなく、姿勢にも余裕がある。

そして、魔力の気配。

ナナは魔法の専門家ではないが、それでも何となく分かった。

以前よりも、ずっと強くなっている。

「……あの」

「何かしら?」

「最近、お身体の調子がよさそうですね」

ヤミノミコタマの動きが、わずかに止まった。

「……そう見える?」

「はい」

ナナは素直に頷いた。

「前よりも、ずっと元気そうです」

「……そう」

ヤミノミコタマは、少しだけ頬を赤くした。

その反応に、ナナは首をかしげた。

「……何か、いいことがあったんですか?」

ヤミノミコタマは、しばらく黙っていた。

そして、静かに微笑んだ。

「……ええ」

ナナが顔を上げる。

「……そうなんですね」

「とても、大切な時間をいただいたの」

その言葉を聞いた瞬間。

ナナの胸に、小さな違和感が生まれた。

大切な時間。

誰と?

何をして?

しかし、それを尋ねる前に、ヤミノミコタマが口を開いた。

「……ナナさん」

「……はい?」

「あなたには、いずれお話しした方がよいかもしれないわね」

ナナの表情が変わった。

「……何を、ですか?」

ヤミノミコタマは、少しだけ迷った。

そして、静かに首を横に振った。

「……いえ」

小さく息を吐く。

「まずは、パウル様とお話ししてきて」

「……え?」

「あなたが直接、確かめた方がいいと思うの」

ナナは、しばらく彼女を見つめていた。

その胸の奥で、嫌な予感がゆっくりと形になり始めていた。

リリスの反応。

ヤミノミコタマの変化。

そして、今の言葉。

何かが、繋がり始めていた。

ナナは、盆を持つ手に少しだけ力を込めた。

「……分かりました」

小さな声だった。

ヤミノミコタマは、静かに頷いた。

ナナがその場を離れた後、彼女はゆっくりと息を吐いた。

「……ごめんなさいね」

誰にも聞こえない声だった。

王との一夜を後悔しているわけではない。

自分の意思で望んだことだ。

そして、心から幸せだった。

しかし、ナナがパウルへ特別な想いを抱いていることも、ヤミノミコタマは知っていた。

だからこそ。

「……ちゃんと、話してあげてくださいね」

ヤミノミコタマは、静かに呟いた。

そして、国防軍本部へ戻っていった。

◇冷めていくスープ◇

 王城最上層。

ナナは、パウルの執務室の前で足を止めた。

いつもなら、何も考えずに扉を叩いていた。

しかし、今日は違った。

胸の奥が、落ち着かない。

何となく、聞きたくない答えが待っているような気がした。

「……ナナ?」

扉の向こうから、パウルの声がした。

どうやら、気配に気づいたらしい。

「……はい」

「入っていいぞ」

ナナは、ゆっくりと扉を開けた。

執務室では、パウルが机に向かっていた。

銀色の瞳。

少し乱れた髪。

その前には、ヴァルノア方面の地図と、国防軍からの報告書が広げられている。

「……おお、ナナ!」

パウルが顔を上げた。

「どうした? 今日は随分と豪華じゃないか」

「……はい」

ナナは盆を机へ置いた。

「お兄さんが見つかったので、お祝いしようと思って」

「……そうだったのか」

パウルの表情が柔らかくなった。

「ありがとう。嬉しいよ」

ナナは、小さく微笑んだ。

以前なら、その一言だけで十分だった。

パウルが喜んでくれる。

それが嬉しかった。

しかし、今は。

「……パウルさん」

「ん?」

「1つ、聞いてもいいですか?」

その声に、パウルは顔を上げた。

普段より、少しだけ真剣だった。

「……どうした?」

ナナは、しばらく黙っていた。

リリス。

ヤミノミコタマ。

2人の顔が、頭に浮かぶ。

「……ヤミノミコタマさんって」

「ミア?」

「はい」

ナナは、ゆっくりと口を開いた。

「……最近、すごく元気そうですよね」

「……ああ」

パウルは頷いた。

「そうだな。身体の調子もよくなったらしい」

「……どうしてですか?」

パウルの手が止まった。

「……え?」

ナナは、まっすぐ彼を見つめた。

「……パウルさんが、何かしてあげたんですか?」

部屋が静かになった。

パウルは、すぐには答えられなかった。

ナナが何を尋ねているのか。

ようやく、その意味を理解したからだ。

「……ナナ」

「……はい」

「ミアから、何か聞いたのか?」

「……いいえ」

ナナは首を横に振った。

「ただ、気になっただけです」

少しだけ、声が震えた。

「……何となく、分かってしまったので」

パウルは、しばらく黙っていた。

そして、静かに息を吐いた。

「……そうか」

ナナは、ゆっくりと問いかけた。

「……一緒に、寝たんですか?」

今度は、はっきりとした質問だった。

パウルは目を逸らさなかった。

「……ああ」

ナナの胸が、きゅっと締めつけられた。

「……そうですか」

小さな声だった。

予感はあった。

けれど、実際に聞くと、思っていた以上に苦しかった。

「……ナナ」

パウルが声をかける。

しかし、彼女は顔を上げなかった。

「……リリスさんとも、そうでしたよね」

「…………」

「今度は、ヤミノミコタマさん」

ナナは、ゆっくりと顔を上げた。

そして。

「……パウルさん」

「……何だ?」

「最近、女の人を抱きすぎじゃありませんか!?」

執務室に、ナナの声が響いた。

「……えっ!?」

パウルが思わず椅子から立ち上がった。

「ちょ、ちょっと待て、ナナ!」

「待ちません!」

ナナは、頬を赤くしながら続けた。

「リリスさんだけだと思っていました!」

「……いや」

「それなのに、今度はヤミノミコタマさんまで!」

「……ナナ、落ち着いて」

「落ち着けるわけないじゃないですか!」

ナナは、目に涙を浮かべた。

「……私だって」

そこまで言って、言葉を止めた。

パウルは黙っていた。

「……私だって、ずっと」

ナナは、拳を握りしめた。

「……パウルさんのことが、好きなのに」

その言葉に、パウルの表情が変わった。

「……ナナ」

彼女は、慌てて顔を背けた。

「……知りません!」

頬が、真っ赤になっていた。

「もう、知りません!」

パウルは、しばらく動けなかった。

机の上では、ナナが作ってきたスープから、まだ温かな湯気が立っている。

彼女がどれほど時間をかけて用意したのか。

そのことを、ようやく想像した。

◇一番近くにいたかった◇

「……ナナ」

パウルは、ゆっくりと声をかけた。

「……何ですか」

「ごめん」

ナナは、少しだけ目を上げた。

「……何に対して、ですか?」

パウルは、一瞬だけ言葉に詰まった。

その質問は、思っていたよりも難しかった。

「……お前の気持ちに、ちゃんと向き合ってなかった」

ナナは、黙っていた。

「リリスの時も、ミアの時も」

パウルは静かに続けた。

「自分たちの意思で決めたことだし、それでいいと思ってた」

「……そうですよね」

ナナは、小さく呟いた。

「私、恋人じゃありませんし」

パウルの胸が、少し痛んだ。

「……ナナ」

「別に、私に許可を取る必要なんてありません」

彼女は、少しだけ笑った。

しかし、その笑顔はどこか寂しかった。

「……分かってます」

ナナは視線を落とした。

「リリスさんが、パウルさんのことを大切に思っているのも知っています」

少しだけ、間を置く。

「ヤミノミコタマさんも、2,000年間ずっと頑張ってこられたんですよね」

「……ああ」

「その方が、パウルさんに何かお願いをしたとしても、悪いことじゃないと思います」

ナナは、ゆっくりと顔を上げた。

「……でも」

その声が、震えた。

「……羨ましいんです」

パウルは黙っていた。

「2人とも、自分の気持ちを伝えられて」

ナナは続けた。

「パウルさんも、それに応えてあげて」

涙が、頬を伝った。

「……私は、ずっと一緒にいたのに」

パウルの表情が曇った。

ナナは、静かに続けた。

「最初に一緒に旅をしたのは、私だったじゃないですか」

「……ああ」

「危ない場所も、一緒に通りました」

「……そうだな」

「ご飯がなくて困ったこともありました」

「……ああ」

「パウルさんが落ち込んでいる時、そばにいたかった」

彼女は、涙を拭った。

「……なのに」

少しだけ、声が強くなった。

「……王様になってから、どんどん遠くなってしまった気がするんです」

その言葉に、パウルは何も返せなかった。

アークディアへ帰還してから。

彼の周囲には、多くの人々が集まるようになった。

政務を支える者。

軍を指揮する者。

身の回りの世話をする者。

そして、自分を慕う女性たち。

それぞれが、長い時間をかけて彼の帰還を待ち続けていた。

しかし、ナナは違う。

彼女は、パウルが王だと知る前から、彼の隣にいた。

何の力も持たない青年としての自分を知っている。

失敗した時も。

弱音を吐いた時も。

誰かを守れなかったと落ち込んだ時も。

それでも、そばにいてくれた。

「……ナナ」

パウルは、静かに口を開いた。

「俺、お前がいてくれたから、ここまで来られたんだと思ってる」

ナナは、少しだけ顔を上げた。

「……本当ですか?」

「ああ」

パウルは頷いた。

「お前がいなかったら、途中で諦めてたかもしれない」

ナナは黙っていた。

「兄貴を見つけたいと思えたのも、お前が何度も背中を押してくれたからだ」

彼は、少しだけ苦笑した。

「……なのに、最近はそれに甘えてた」

ナナは、しばらく彼を見つめていた。

そして、小さく呟いた。

「……ずるいです」

「……え?」

「そういうことを言われたら、怒れなくなるじゃないですか」

パウルは、困ったように笑った。

「……いや、怒っていいよ」

ナナは、少しだけ眉を寄せた。

「……じゃあ、怒ります」

「……はい」

「パウルさんは、女の人に優しすぎます!」

「……はい」

「頼まれたら、何でも叶えてあげるんですか!?」

「いや、何でもってわけじゃ……」

「じゃあ、どうして2人ともなんですか!」

「……それは」

パウルは、しばらく考えた。

そして、静かに答えた。

「……リリスのことも、ミアのことも、大切だからだ」

ナナの表情が、少しだけ変わった。

「……そうですか」

「でも、それでお前が傷つかないと思い込んでたのは、俺が悪かった」

パウルは続けた。

「俺、お前がここにいるのを、当たり前みたいに思ってた」

ナナは、ゆっくりと顔を上げた。

「……当たり前?」

「ああ」

「……それって、どういう意味ですか?」

「お前はいつも、帰ってきたらそこにいてくれた」

パウルは静かに答えた。

「俺が王になっても、何も変わらずに話してくれる」

その言葉に、ナナは少しだけ目を伏せた。

「……それは」

「だから、その優しさに甘えてたんだと思う」

パウルは、まっすぐ彼女を見た。

「ごめん」

ナナは、しばらく黙っていた。

そして、ゆっくりと息を吐いた。

「……そういうところです」

「……ん?」

「そういうところが、好きなんです」

今度は、はっきりとした声だった。

パウルの動きが止まった。

「……ナナ?」

ナナは、顔を真っ赤にしたまま続けた。

「優しくて、少し不器用で、誰かが困っていたら放っておけなくて」

そして、少しだけ頬を膨らませた。

「……だから、みんな好きになっちゃうんです」

パウルは、何も言えなかった。

「……でも」

ナナは、ゆっくりと顔を上げた。

「私も、その中の1人なんですよ」

その言葉には、これまで隠してきた想いが込められていた。

◇ナナの居場所◇

 しばらく沈黙が続いた。

やがて、パウルが口を開いた。

「……最近、孤児区画で頑張ってるんだってな」

ナナは、少し驚いたように顔を上げた。

「……え?」

「担当職員から報告が来てる」

パウルは机の引き出しから、1枚の書類を取り出した。

「子供たちの食事量を記録して、必要な物資をまとめてるんだろ?」

「……はい」

「それと、文字の勉強も教えてる」

「……はい」

「地図の読み方まで」

ナナは、小さく頷いた。

「……だって」

少しだけ、言葉を探した。

「……私たち、以前は道が分からなくて困ったことがあったでしょう?」

「……ああ」

「だから、子供たちには、自分で帰れる道を覚えてほしいんです」

パウルは、静かに頷いた。

「……そうか」

「それに、私も勉強したくて」

ナナは少し照れたように笑った。

「パウルさんが毎日見ている報告書、前は何が書いてあるのか全然分からなかったので」

「……ああ」

「でも、最近は少しだけ分かるようになりました」

その声には、小さな誇らしさがあった。

「まだ難しい言葉は分かりません。でも、前よりは読めます」

パウルは、しばらくナナを見つめていた。

そして、静かに微笑んだ。

「……すごいじゃないか」

ナナは、少しだけ目を丸くした。

「……そうですか?」

「ああ」

パウルは頷いた。

「俺が知らない間に、随分と頑張ってたんだな」

その言葉に、ナナは少しだけ視線を落とした。

「……パウルさんの役に立ちたかったんです」

「……ナナ」

「王様のお仕事って、すごく大変そうだから」

彼女は続けた。

「私にも、何かできることがないかなって」

パウルは、静かに息を吐いた。

そして、机の上の書類を指さした。

「……実はさ」

「……はい?」

「孤児区画から届いた物資の報告、最近すごく分かりやすくなったんだ」

ナナの表情が変わった。

「……本当ですか?」

「ああ」

パウルは微笑んだ。

「何が足りないのか、数字で整理されてるから、承認する側も判断しやすい」

ナナは、しばらく動かなかった。

自分が一生懸命まとめた記録。

それが、ちゃんと役に立っていた。

「……よかった」

小さく呟いた。

パウルは続けた。

「ナナ。お前は、俺の役に立つためだけに頑張らなくてもいい」

彼女が顔を上げる。

「……でも」

「子供たちを守るために頑張ってる。それだけで、十分すごいことだよ」

ナナは、静かに彼を見つめた。

そして、小さく笑った。

「……ありがとうございます」

しかし、すぐに表情を引き締めた。

「……でも」

「……ん?」

「それと、さっきの話は別です」

「……はい」

パウルは、思わず姿勢を正した。

「まだ怒ってる?」

「……怒ってます」

ナナは、はっきりと答えた。

「かなり」

パウルは、深く息を吐いた。

「……そうだよな」

◇リリスの本心◇

 その夜。

王城の厨房では、リリスが食器を片付けていた。

ナナが作った料理は、きれいに食べられていた。

しかし、本人はまだ戻ってこない。

その時、扉が開いた。

「……リリスさん」

ナナだった。

「ナナ様」

リリスは静かに一礼した。

「お食事は、いかがでしたか?」

「……全部、食べてくれました」

「それは、ようございました」

リリスは微笑んだ。

しかし、ナナの表情を見て、少しだけ眉を寄せた。

「……何か、ございましたか?」

ナナは、しばらく黙っていた。

そして、静かに答えた。

「……パウルさんと、お話ししてきました」

「……そうでございますか」

「はい」

少しだけ、間を置く。

「……ヤミノミコタマさんのことも」

リリスの手が止まった。

「…………」

ナナは、静かに続けた。

「……私、怒っちゃいました」

リリスは、すぐには答えなかった。

そして、小さく頷いた。

「……そうでございましたか」

ナナは、少しだけ苦笑した。

「すごく、みっともなかったと思います」

「……いいえ」

リリスは、静かに首を横に振った。

「ご自分のお気持ちをお伝えになることは、決して恥ずかしいことではございません」

ナナは、少しだけ顔を上げた。

「……そうでしょうか」

「はい」

リリスは穏やかに微笑んだ。

「私も、以前は自分の想いを口にすることができませんでした」

その言葉に、ナナは静かに頷いた。

リリスがどれほど真剣にパウルを慕ってきたのか。

そのことを、彼女は知っている。

「……リリスさん」

「はい」

「……私、嫉妬しています」

リリスは、少しだけ目を見開いた。

「……私にも、ですか?」

「……はい」

ナナは、ゆっくりと頷いた。

「リリスさんは、パウルさんのことを昔から知っているし、何でもできるし……」

少しだけ、目を伏せる。

「……私より、ずっと大人の女性に見えるので」

リリスは、しばらく黙っていた。

そして、小さく微笑んだ。

「……ナナ様」

「……はい」

「私は、ナナ様が羨ましいと思うこともございます」

ナナの目が大きく開かれた。

「……え?」

「パウル様は、ナナ様の前では、とても自然にお話しになります」

リリスは静かに続けた。

「王としてではなく、1人の青年として」

ナナは、黙っていた。

「私には、長い時間をかけても得られなかった関係です」

リリスは、少しだけ寂しそうに微笑んだ。

「……ですから、私も羨ましいのです」

「……リリスさん」

ナナは、しばらく彼女を見つめていた。

そして、小さく笑った。

「……何だか、変ですね」

「……そうでございますね」

リリスも微笑んだ。

2人は、しばらく静かに向かい合っていた。

やがて、ナナが口を開いた。

「……でも」

「はい?」

「私、諦めるつもりはありませんから」

その声は、はっきりしていた。

リリスは、少しだけ目を丸くした。

そして、穏やかに微笑んだ。

「……承知いたしました」

ナナも笑った。

「リリスさんも、負けないでくださいね」

「……はい」

リリスは静かに頷いた。

「私も、譲るつもりはございません」

その言葉に、ナナは少しだけ頬を膨らませた。

「……やっぱり、強敵ですね」

リリスは、小さく笑った。

ナナも、つられて笑った。

恋の相手としては、複雑な関係だった。

しかし、互いを嫌いになる必要はなかった。

むしろ、同じ人を大切に思っているからこそ、理解できる気持ちもあった。

◇隣を歩くために◇

 翌朝。

ナナは、いつもどおり孤児区画へ向かった。

子供たちは元気に走り回り、食堂では朝食の準備が進んでいる。

「ナナお姉ちゃん!」

小さな女の子が駆け寄ってきた。

「おはようございます」

ナナは笑って頭を撫でた。

「昨日の文字の練習、できましたか?」

「できたよ!」

「では、あとで見せてくださいね」

「うん!」

子供は嬉しそうに走っていった。

ナナは、その背中を見つめながら微笑んだ。

昨日、パウルへ怒った。

嫉妬していることも、好きだという気持ちも、全部伝えてしまった。

思い返すと、今でも恥ずかしい。

けれど、不思議と後悔はなかった。

言わなければ、きっと何も変わらなかった。

王としてのパウル。

その周囲に集まる美しい女性たち。

自分は、その輪の外から見ているだけだったかもしれない。

しかし、今は違う。

少なくとも、自分の気持ちは伝えた。

「……よし」

ナナは、小さく拳を握った。

その時だった。

「……ナナ」

背後から、聞き慣れた声がした。

振り返ると、パウルが立っていた。

「……パウルさん?」

「おはよう」

「……おはようございます」

ナナは少しだけ驚いた。

「どうしたんですか? こんな朝早くに」

「……ちょっと、話があって」

パウルは、少し照れたように頭を掻いた。

ナナは首をかしげた。

「……何でしょう?」

パウルは、彼女の顔を見つめた。

「……昨日のこと、考えてた」

ナナの頬が、少し赤くなった。

「……そうですか」

「ああ」

パウルは頷いた。

「俺、お前にちゃんと向き合えてなかったと思う」

ナナは、黙っていた。

「だから、少しずつでも変えていきたい」

そして、静かに続けた。

「……今度、2人で出かけないか?」

ナナの目が大きく開かれた。

「……え?」

「城の外じゃなくてもいい。市場でも、庭園でも」

パウルは、少しだけ笑った。

「仕事抜きで、ゆっくり話したい」

ナナは、しばらく動かなかった。

2人で。

仕事ではなく。

ただ、一緒に過ごす時間。

それは、彼女がずっと望んでいたものだった。

「……本当ですか?」

「ああ」

パウルは頷いた。

「嫌じゃなければ」

ナナは、少しだけ俯いた。

そして、小さく笑った。

「……嫌なわけ、ないじゃないですか」

その声が、少しだけ震えていた。

「……でも」

ナナは、ゆっくりと顔を上げた。

「それで、昨日のことを全部許したわけじゃありませんからね」

パウルは苦笑した。

「……分かってる」

「ちゃんと、考えてください」

「ああ」

「それと……」

ナナは、少しだけ頬を赤くした。

「……私のことも、女の子として見てください」

その言葉に、パウルは一瞬だけ目を丸くした。

そして、静かに頷いた。

「……分かった」

ナナは、嬉しそうに微笑んだ。

「……約束ですよ」

「ああ」

パウルも笑った。

「約束だ」

その時、背後から子供たちの声が響いた。

「ナナお姉ちゃん!」

「パウルお兄ちゃんもいる!」

小さな子供たちが、2人の周囲へ集まってくる。

「何してるの?」

「……何でもありません」

ナナは、慌てて顔を背けた。

「えーっ、ナナお姉ちゃん、顔赤いよ!」

「……赤くありません!」

「絶対赤い!」

子供たちが声を上げて笑った。

パウルも、思わず吹き出した。

「……ナナ」

「……何ですか」

「やっぱり、お前といると落ち着くな」

その言葉に、ナナは少しだけ目を見開いた。

そして、静かに微笑んだ。

「……だったら」

彼女は、ゆっくりとパウルへ手を差し出した。

「これからも、ちゃんと隣にいてくださいね」

パウルは、その手を見つめた。

そして、静かに握った。

「……ああ」

ナナは、小さく笑った。

王様と、旅の少女。

以前は、それだけの関係だった。

しかし今。

2人は、少しずつ違う関係へ歩き始めていた。

もちろん、問題がすべて解決したわけではない。

リリスも、ミアも、パウルを大切に思っている。

そしてナナも、簡単に諦めるつもりはなかった。

だが、彼女はもう、ただ待つだけの少女ではない。

孤児区画で子供たちを支え、読み書きを学び、自分の意思で行動するようになった。

パウルの役に立ちたい。

その気持ちは、今も変わらない。

けれど、それだけではなかった。

彼女自身もまた、自分の望む未来を選びたいと思い始めていた。

「……パウルさん」

「ん?」

ナナは、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。

「……次に女の人と一夜を共にする時は、ちゃんと考えてくださいね」

パウルの表情が、固まった。

「……はい」

「本当に、分かってます?」

「……分かってます」

ナナは、満足そうに頷いた。

「……よろしい」

その様子を見て、子供たちが不思議そうに首をかしげた。

「……ナナお姉ちゃん、王様より偉いの?」

パウルが思わず笑った。

ナナも、小さく笑った。

「……そうですね」

そして、パウルを見上げる。

「少なくとも、今日だけは私の方が偉いです」

「……参ったな」

パウルは苦笑した。

ナナは、嬉しそうに笑った。

それは、久しぶりに見せる、心からの笑顔だった。

遠く離れたヴァルノアでは、ベンが新たな仲間とともに、失われた記憶を探し始めている。

アークディアでは、リリスが変わらず王の身の回りを支え、ミアが国防軍を統括している。

そして、ナナもまた。

自分にできることを探しながら、少しずつ成長していた。

ただし。

アークディアの王、パウルには。

どうやら、兄の捜索とは別に、解決しなければならない難題が増えたようだった。

それは、帝国との外交問題でもなければ、軍事的な危機でもない。

ナナの嫉妬である。

そして、この問題ばかりは、いかに強大な力を持つ王であっても、簡単には解決できそうになかった。

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