月下の鼠
◇王の決断◇
浮遊都市アークディア。
遥か地上を見下ろす雲海の上を、巨大な城塞都市が静かに進んでいた。
白亜の王城。その最上層に位置する執務室では、パウルが1枚の報告書を見つめていた。
机の上には、ヴァルノア帝国の地図が広げられている。
その一角には、赤い印が付けられていた。
ラウゼン村。
数日前、この小さな村で大規模な召喚術が行使されたという。
召喚されたのは、5,000を超える天使の軍勢。
しかも、その軍勢の特徴が、かつてベンの指揮下にあった天使騎士団第一旅団と酷似していた。
「……5,120、か」
パウルは報告書に記された数字を見つめた。
5,120。
あまりにも具体的で、聞き覚えのある数字だった。
ゲーム時代、ベンが編成していた天使騎士団第一旅団。
その総数と一致する。
「……兄貴なら、やりかねないな」
口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
だが、すぐに表情を引き締めた。
あくまで、可能性にすぎない。
天使の軍勢を召喚した人物がベンであるという確証はない。
ましてや、今もラウゼン村にいるとは限らなかった。
この世界へ転移して以来、兄の所在は分からないままだ。
ゲーム内であれば、連絡を取ることも、所在を確かめることも難しくはなかった。
しかし、今は違う。
かつて当然のように使えていた機能の多くが失われ、王たちは世界各地へ散り散りになっていた。
パウル自身も、アークディア国防軍の諜報員に発見されるまで、帰還の方法さえ分からなかったのだ。
扉が静かに叩かれた。
「パウル様。ヤミノミコタマでございます」
「入ってくれ」
扉が開き、1人の女性が入室した。
長く艶やかな黒髪。
落ち着いた眼差し。
そして、腰のあたりから左右へ伸びる1対の黒い翼。
その翼は背中ではなく、腰部から生えていた。
歩みに合わせてわずかに揺れる漆黒の翼が、彼女の人ならざる出自を物語っている。
ヤミノミコタマ。
アークディア国防軍を統括し、軍事・外交・諜報など、国家の対外的な活動を担う最高責任者だった。
彼女は闇に属する種族の出身である。
しかし、アークディア国防軍は闇の種族だけで構成された軍隊ではない。
悪魔族や幻魔族など、闇に親和性を持つ種族が多く所属しているものの、異なる種族の将兵も存在する。
国家の防衛を目的とした、アークディアの正式な軍事組織だった。
ヤミノミコタマ自身は、かつてゲーム内で王たちに仕えていたNPCの1人である。
ゲーム時代、彼女に与えられていた役割は、王たちの軍事活動を補佐し、都市の対外的な機能を管理することだった。
だが、この世界へアークディアが現れ、王たちが不在となってから2,000年。
彼女は自ら判断し、命令を下し、数え切れないほどの危機に対応してきた。
周辺国家との外交。
外敵の侵攻への備え。
国防軍の再編。
情報網の維持。
それらを積み重ねてきた2,000年間は、かつてのゲーム内には存在しなかった経験だった。
そして今、かつて仕えていた主君の1人が帰還している。
ヤミノミコタマはパウルの前へ進み、静かに一礼した。
「ラウゼン村の件につきまして、新たな報告がございます」
「聞かせてくれ」
「はい」
彼女は机へ資料を置いた。
「現在、ラウゼン村一帯はヴァルノア帝国軍警によって封鎖されております。村の周辺には広域結界が展開され、軍警による現場検証が続いている模様です」
「結界まで張ったのか」
「はい。さらに、村の住民は全員、ヴァルノア市内に設けられた避難施設へ移送されております」
パウルは地図を見つめた。
「つまり、現場にも目撃者にも簡単には近づけないわけか」
「おっしゃるとおりでございます。避難施設は帝国軍の管理下にあり、面会には許可が必要とされています」
「帝国側は、召喚者について何か掴んでいるのか?」
「現時点では確認できておりません」
ヤミノミコタマは淡々と答えた。
「武装集団による襲撃事件として捜査している可能性もございますが、大規模召喚の実態解明を目的としている可能性もございます。いずれにせよ、我が国の関与を察知されることは避けるべきと考えております」
「……そうだな」
パウルは腕を組んだ。
「兄貴の手掛かりを探してることが帝国に知られたら、余計に動きづらくなる」
「はい。帝国が我が国の動向を警戒すれば、情報の流通が制限され、調査対象の所在も把握しづらくなるおそれがございます」
「どう動くのがいいと思う?」
ヤミノミコタマは静かに一礼した。
「諜報局による非公然の調査を進言いたします」
「非公然か」
「はい。国防軍の所属を秘匿し、現地に情報収集網を構築いたします。まずは公開情報および民間から得られる情報を集め、召喚者の身元と移動経路の特定を進める方針です」
パウルは少し考えた。
「それがよさそうだな」
「恐れ入ります」
「調査は任せる。ただし、帝国軍警との衝突は避けてくれ。それから、最初から兄貴だと決めつけないこと」
「承知いたしました。確証のない情報を前提に調査対象を限定することは、任務の遂行に支障をきたします」
「うん。それでいい」
パウルは顔を上げた。
「誰を行かせるつもりだ?」
「上級諜報員レイビスを推薦いたします」
その名前を聞いた瞬間、パウルの表情が和らいだ。
「……あいつか」
「はい。先般、パウル様の所在を確認し、ご帰還に貢献した者でございます」
パウルは、かつて身を寄せていた廃墟の街を思い出した。
ナナと出会い、子供たちを守るために戦った日々。
そして、ようやく自分の前に現れたアークディアの諜報員。
レイビスは状況を慎重に分析し、帰還のために必要な手順を整えた。
派手な行動は取らず、与えられた任務を確実に遂行する男だった。
「確かに適任だな」
「ありがとうございます」
「人員は?」
「100名を選抜する予定でございます」
「100人も必要なのか?」
「はい。ただし、100名すべてを同一地点に投入するわけではございません。各地域へ分散配置し、情報の収集と照合を並行して進めます」
ヤミノミコタマは地図の数か所を指し示した。
「ヴァルノア市内、主要街道、交易拠点、周辺の宿場町。召喚者がすでに移動している可能性も考慮し、調査範囲を広く確保する必要がございます」
「なるほど。100人で、1人を探すってわけか」
「はい。ただし、全員が同じ情報を追うのでは効率が悪くなります。各員の能力に応じて任務を分担する予定でございます」
パウルは頷いた。
「分かった。人選と指揮は任せる」
ヤミノミコタマは姿勢を正し、深く一礼した。
「ご下命、謹んでお受けいたします」
彼女が退室したあと、パウルは報告書へ目を落とした。
村を守ったという、正体不明の剣士。
5,120名の天使。
そして、未だ行方の分からない兄。
「……兄貴」
パウルは小さく呟いた。
「本当に、お前なのか?」
◇王室特別功労章◇
翌朝。
アークディア王城、国防軍本部。
一般職員の立入りが禁じられた軍務区画の奥に、小さな儀礼室があった。
壁には、黒地に銀の王冠を配したアークディア国防軍の軍旗が掲げられている。
室内に集められたのは、わずか6名。
パウル。
ヤミノミコタマ。
諜報局の関係幹部3名。
そして、これから入室する1人の軍人。
この日の儀礼は、一般には公表されない。
授章の事実も、受章者の名前も、すべて機密として扱われる。
諜報員の身元が広まれば、今後の潜入任務に支障が生じるためだった。
「アークディア国防軍諜報局所属、上級諜報員レイビス。出頭しました!」
扉の向こうから、張りのある声が響いた。
「入室を許可する」
ヤミノミコタマが告げた。
扉が開く。
灰色の髪。
鋭い眼差し。
黒い軍装に身を包んだ男が、規律正しい足取りで入室した。
レイビス。
幻魔族ファントムに属する、アークディア国防軍の上級諜報員だった。
ファントム族は、幻術や擬態、気配の遮断を得意とする種族である。
その能力から、国防軍では諜報や潜入任務に適性を持つ者が多かった。
もっとも、レイビスが評価されている理由は種族能力だけではない。
冷静な判断力。
任務に必要な情報を正確に整理する能力。
そして、状況に応じて行動を変える柔軟性。
それらが、長年の任務で培われていた。
レイビスは室内中央で足を止めた。
踵を揃え、右拳を左胸へ当てる。
アークディア国防軍の正式な敬礼だった。
「上級諜報員レイビス、参りました!」
「直れ」
ヤミノミコタマの声が響く。
レイビスは姿勢を正した。
「本日は、貴官の功績に対する授章を執り行う」
普段の柔らかな口調とは異なる、厳格な声音だった。
「貴官は長年にわたり、行方不明となった王たちの捜索に従事し、先般、パウル陛下の所在確認および帰還任務を達成した」
室内は静まり返っていた。
「その功績を称え、王室特別功労章を授与する」
ヤミノミコタマが黒い小箱を開いた。
中には、銀色の王冠と2枚の翼を象った勲章が収められている。
中央には、小さな紫色の宝石が埋め込まれていた。
王室特別功労章。
アークディア王室に対し、特に重要な功績を挙げた者へ授与される勲章だった。
ただし、授章が公表されるとは限らない。
今回の受章記録は、国防軍の機密文書として保管される。
レイビスは前へ進んだ。
「レイビス。貴官に王室特別功労章を授与する」
ヤミノミコタマが勲章を差し出す。
レイビスは右拳を左胸へ当て、深く頭を下げた。
「ノクタール!(受領しました!)」
儀礼室に、力強い声が響く。
それは、アークディア国防軍に古くから伝わる儀礼語だった。
正式な授章や命令書の受領に際して用いられる、特別な応答である。
ヤミノミコタマは勲章をレイビスへ授けた。
「なお、本授章は機密扱いとする。貴官の所属、任務履歴および功績記録は、所定の権限を持つ者のみが閲覧できる」
「はっ!」
レイビスは再び敬礼した。
その時だった。
「レイビス」
それまで黙っていたパウルが口を開いた。
レイビスは即座に王へ向き直った。
「ナハトヴォール!(はい、陛下!)」
パウルは静かに微笑んだ。
「改めて礼を言わせてくれ。君のおかげで、俺はアークディアへ帰還できた」
「……身に余るお言葉であります」
「いや。本当に感謝してる」
パウルは椅子から立ち上がった。
「俺を発見したとき、君はすぐに行動を強制しなかった。俺の置かれていた状況を確認し、帰還に必要な条件を整理してくれた」
レイビスは黙って聞いていた。
「だからこそ、君を信頼している」
「光栄であります、陛下」
レイビスは深く頭を下げた。
その姿を、ヤミノミコタマは静かに見つめていた。
今回の授章は、単なる褒賞ではない。
これから命じる特別任務を託すにふさわしい人物であることを、国防軍上層部が正式に認める意味もあった。
◇月下の鼠◇
「続いて、貴官に新たな任務を命じる」
ヤミノミコタマが告げた。
レイビスの表情が引き締まった。
彼女は机の上に、ヴァルノア帝国の地図を広げた。
「帝国領ラウゼン村。先日、この地域で大規模な召喚事件が発生した」
地図の一角に、赤い光点が浮かび上がる。
「召喚された兵士の数は、5,000を超えるとされている」
レイビスの瞳が細くなった。
「召喚者は?」
「不明」
「所属勢力は?」
「不明」
「使用術式の解析状況は?」
「詳細は確認できていない」
レイビスは地図を見つめた。
「……ベン陛下の可能性がある、と」
「その可能性を検証するのが、今回の任務だ」
ヤミノミコタマは静かに続けた。
「現時点で確証はない。先入観による判断を禁ずる」
「了解しました」
「貴官を、本作戦の現地指揮官に任ずる」
彼女が1枚の命令書を差し出した。
「作戦遂行のため、アークディア国防軍諜報局から100名を選抜した。作戦期間中、全員を貴官の指揮下に置く」
レイビスは命令書に目を落とした。
幻魔族ファントム、30名。
幻術、擬態、潜入、情報工作。
影森族シャドウエルフ、25名。
偵察、追跡、監視。
夜獣人族ナイトセリアン、25名。
嗅覚・聴覚を利用した索敵、対象の追跡。
影精霊族シェイド、20名。
魔力反応の探知、通信、情報支援。
総勢100名。
いずれも、アークディア国防軍の異なる部門から選抜された専門要員だった。
「100名を投入する理由は、戦闘力の補強ではない」
ヤミノミコタマが告げる。
「帝国領内に複数の情報収集網を構築するためだ」
「……了解しました」
「召喚者がすでに現場を離れている可能性もある。街道、交易拠点、市街区、それぞれを並行して調査する必要がある」
レイビスは地図を見つめた。
「現地での人員配置について、裁量は与えられますか」
「貴官に委任する。ただし、作戦目的の変更と大規模な戦闘行動については本局の承認を要する」
「了解しました」
ヤミノミコタマは声を低くした。
「最重要事項を伝える」
レイビスが顔を上げた。
「本作戦では、我が国の関与を一切明かしてはならない」
彼女は地図上のラウゼン村を指した。
「帝国軍警は、すでに現場を結界で封鎖している。目撃者も管理下に置かれている。こちらの存在が露見すれば、警戒態勢が強化され、情報収集は困難になる」
レイビスは黙って聞いていた。
「現場の結界を力ずくで突破する必要はない。避難施設へ強引に侵入する必要もない。まずは相手の監視体制、指揮系統、情報管理状況を把握せよ」
「了解しました」
ヤミノミコタマはレイビスを真っ直ぐに見た。
「作戦名は――」
一瞬、沈黙が訪れた。
「《月下の鼠》」
レイビスは、その名前を静かに受け止めた。
「……鼠、でありますか」
「そうだ」
ヤミノミコタマは地図を指先でなぞった。
「鼠は城門を破らない。壁の隙間から入り、誰にも気づかれずに城の内側へ辿り着く」
彼女は静かに続けた。
「どれほど堅牢な城塞でも、すべての隙間を塞ぐことはできない」
そして、レイビスを見据えた。
「100名を率いようと、帝国には1匹の鼠――我々の存在すら悟らせてはならない」
室内が静まり返った。
「我々が求めるのは戦果ではない。召喚者の身元、所在、そしてベン陛下との関連を示す確かな情報だ」
ヤミノミコタマは命令書を差し出した。
「上級諜報員レイビス。貴官を《月下の鼠》作戦の現地指揮官に任ずる」
レイビスは命令書を受け取った。
「ノクタール!(受領しました!)」
「召喚者の身元を特定し、ベン陛下の所在および安否を確認せよ」
レイビスは右拳を左胸に当てた。
「ヴァルクハイル!(承知しました!)」
その声が、儀礼室に響き渡った。
ヤミノミコタマは静かに頷いた。
「期待している、レイビス」
「必ずや任務を遂行します」
レイビスは敬礼した。
こうして、アークディア国防軍による極秘捜索作戦《月下の鼠》が正式に発令された。
◇100名の諜報員◇
同日午後。
王城地下に設けられた国防軍諜報局の作戦室には、100名の軍人が集められていた。
壁一面には、ヴァルノア帝国の地図が投影されている。
その前に立つのは、レイビスだった。
黒い軍装。
灰色の髪。
鋭い眼差し。
胸元には、授与されたばかりの勲章はない。
王室特別功労章は、すでに機密保管庫へ収められていた。
その存在を、部下たちへ知らせる必要はなかった。
「諸君」
レイビスが口を開いた。
「今回の任務は、敵勢力の撃破ではない」
隊員たちは静かに前方を見つめていた。
「我々が捜索するのは、ある1人の人物だ」
地図上に、ラウゼン村の位置が示される。
「先日、この村で5,000を超える天使の軍勢が召喚された。召喚者の正体は不明。ただし、我が国の王族である可能性がある」
室内に、わずかな緊張が走った。
「だが、その可能性を事実として扱うな。必要なのは推測ではなく、証拠だ」
レイビスは机へ手を置いた。
「本作戦では、各員を専門能力に応じた班へ分ける」
新たな配置図が浮かび上がった。
「潜入班はヴァルノア市内へ。偵察班は周辺街道と交易路を担当。分析班は収集された情報の照合を行い、通信支援班は各部隊との連絡網を維持する」
ファントム族の隊員が手を挙げた。
「指揮官。ラウゼン村への潜入は?」
「現段階では認めない」
レイビスは即答した。
「村は帝国軍警によって封鎖されている。結界の構造も、監視体制も不明だ」
「結界突破能力を持つ隊員を投入することは可能ですが」
「可能かどうかを聞いているのではない」
レイビスの声が低くなった。
「その行動に、戦術上の利益があるかを問うている」
隊員は姿勢を正した。
レイビスは地図を指した。
「帝国軍警の戦力そのものは、我々にとって大きな脅威ではないだろう」
言葉に迷いはなかった。
「だが、帝国側の警戒態勢、結界の検知能力、情報管理体制はいずれも不明だ。現段階で侵入を試みれば、こちらの存在を認識させる危険がある」
別の隊員が尋ねた。
「指揮官。避難施設に保護されている村人への接触は?」
「当面は見送る」
「理由をお聞きしても?」
「村人たちは帝国軍の管理下にある。誰が接触したか、何を尋ねたか。その情報が軍警に記録される可能性が高い」
レイビスは淡々と続けた。
「我々が召喚者について調べていると帝国側に知られれば、調査対象を悟られる。それは作戦秘匿上、好ましくない」
「了解」
「人間の軍隊を相手に、力を誇示する必要などない」
レイビスは隊員たちを見渡した。
「我々が優位に立てるとしても、戦闘を始めれば記録が残る。目撃者が増え、警戒網が強化され、情報収集の難度が上がる」
彼は1拍置いた。
「圧倒できることと、戦うべきことは別だ」
誰も口を挟まなかった。
「情報のない段階で交戦するのは、勇敢なのではない。ただの失策だ」
レイビスは背後の地図へ向き直った。
「まずは帝国軍警の配置、指揮系統、情報管理体制を把握する。そのうえで、最も発覚の危険が低い接触方法を選定する」
隊員たちが頷いた。
「現地では、100名という数に意味はない」
レイビスは静かに続けた。
「1名が発覚すれば、残りの99名も危険にさらされる可能性がある。各班は独立して行動し、必要以上の接触を避けろ」
その言葉には、長年の諜報任務で培われた経験が込められていた。
「我々の任務は、情報を確保し、無事に持ち帰ることだ。独断による接触、威嚇、交戦を禁ずる」
「了解!」
100名の声が作戦室に響いた。
「各班、準備を開始。展開は段階的に行う。先遣要員以外は待機命令を維持しろ」
隊員たちは一斉に動き始めた。
こうして、100名の諜報員による作戦準備が始まった。
◇人間の顔◇
作戦室の奥。
小さな準備室に、1枚の大きな姿見が置かれていた。
レイビスはその前に立ち、自分の姿を確認した。
灰色の髪。
紫色を帯びた瞳。
黒い軍装。
アークディアの軍人としての姿だった。
「……さて」
レイビスは静かに目を閉じた。
周囲に、淡い紫色の魔力が立ち上る。
次の瞬間。
灰色の髪が、濃い茶色へと変化した。
瞳から紫の光が消え、顔立ちがわずかに変わっていく。
身体の輪郭が揺らぎ、軍装もまた、旅人が身につける質素な衣服へと変わった。
数秒後。
鏡の中に立っていたのは、どこにでもいるような、1人の人間の男だった。
これが、ファントム族の得意とする擬態術だった。
幻術によって外見だけでなく、声や魔力の気配まで偽装する。
ただし、その効果は絶対ではない。
強力な看破術や特殊な結界に触れれば、擬態が見破られる可能性もある。
だからこそ、今回の作戦では慎重な行動が求められた。
レイビスは鏡の中の自分を見つめた。
そこに、アークディアの軍人の面影はほとんどない。
「……悪くない」
低く呟く。
彼は机の上に置かれた旅人用の荷物を手に取った。
簡素な外套。
使い込まれた細身の剣。
最低限の生活用品。
冒険者として不自然ではない程度の装備だった。
潜入先で目立つ必要はない。
強そうに見える必要もない。
ましてや、王室特別功労章を授与された軍人であることなど、誰にも知られてはならない。
「……1匹の鼠、か」
レイビスは、小さく笑った。
「随分と、我々らしい名前だ」
そう呟くと、部屋の扉を開けた。
作戦《月下の鼠》。
その最初の鼠が、アークディアを発とうとしていた。
◇ヴァルノアの冒険者ギルド◇
ヴァルノア帝国。
大陸有数の規模を誇る都市には、今日も多くの人々が行き交っていた。
石造りの建物。
整備された街道。
空を横切る魔導式の運搬装置。
市場では商人たちが声を張り上げ、宿場では旅人たちが馬車を降りている。
その人混みの中を、1人の男が歩いていた。
濃い茶色の髪。
飾り気のない旅装。
腰には細身の剣。
誰も、彼がアークディア国防軍の諜報員だとは思わないだろう。
レイビスは、街の中心部にある冒険者ギルドへ足を踏み入れた。
内部には、多くの冒険者が集まっている。
討伐依頼を受ける者。
報酬の支払いを待つ者。
仲間と談笑する者。
レイビスはその光景を一瞥し、受付へ向かった。
「少し、尋ねたいことがある」
受付の女性が顔を上げた。
「はい。どういったご用件でしょうか?」
「人を捜している」
「捜索依頼でしょうか?」
「いや。まずは情報を集めたい」
レイビスは懐から1枚の紙を取り出した。
そこには、ラウゼン村で発生した事件について、公開情報をもとにまとめた簡単な記録が記されている。
「最近、この近くで大規模な召喚術が使われたという話を聞いた」
女性の表情がわずかに変わった。
「……ラウゼン村の事件ですね」
「知っているのか」
「ええ。冒険者の間でも、かなり噂になっています」
女性は周囲を気にしながら、声を落とした。
「5,000もの天使が現れた、なんて話もありますから」
「召喚者については?」
「詳しいことは分かっていません」
「目撃者は?」
女性は少し困った顔をした。
「それが……」
彼女は受付の奥に置かれた掲示板へ視線を向けた。
「事件のあった村は、今も帝国軍警が封鎖しているんです」
「封鎖?」
「はい。現場検証のため、村の周辺には結界が張られているそうです」
レイビスは静かに頷いた。
すでに把握している情報だった。
しかし、ここで知っていたことを表情に出す必要はない。
「村人たちは?」
「全員、ヴァルノア市内の避難施設に保護されていると聞いています」
「そこで話を聞くことは?」
「難しいと思います」
女性は首を振った。
「帝国軍警の管理下にありますから。面会には許可が必要ですし、今は関係者以外、ほとんど入れないそうです」
「……なるほど」
レイビスは考えるように顎へ手を当てた。
「事件のあと、現地から戻った冒険者はいるか?」
「村の中へ入れた方は、ほとんどいないはずです」
「そうか」
「ただ……」
女性が少し考え込んだ。
「村の近くで商売をしていた方や、避難物資を運んだ商人なら、何か聞いているかもしれません」
「紹介してもらえるか?」
その瞬間、女性の表情が少し曇った。
「……申し訳ありません。ギルドでは、依頼人や商人の個人情報を管理しておりますので」
「名前も教えられないのか?」
「登録者の承諾なしに、連絡先や滞在場所をお伝えすることは原則できません」
女性は申し訳なさそうに頭を下げた。
「それに、最近は帝国軍警の方も事件関係者を調べていますから……」
レイビスは黙って彼女を見つめた。
受付の奥には、商人や冒険者の登録情報が記された記録簿がある。
しかし、それを閲覧できるのはギルド職員だけだ。
安易に記録を見せるような受付なら、かえって信用できない。
「……そうか」
レイビスは小さく頷いた。
そして、懐から数枚の銀貨を取り出した。
そのうち2枚を、受付台の上へ静かに置く。
「手間を取らせた。これは、相談に乗ってもらった礼だ」
女性が銀貨へ視線を落とした。
「……え?」
「この国には、世話になった相手へチップを渡す習慣があると聞いている」
「ええ、それは……ありますけど」
女性は少し困ったように笑った。
「でも、情報を買うためのお金なら、受け取れませんよ」
「情報を買うつもりはない」
レイビスは穏やかに答えた。
「記録簿を見せてほしいとも言っていない。ただ、話を聞いてもらった礼だ」
女性は銀貨を見つめた。
その額は、通常のチップとしては少し多かった。
「……ありがとうございます」
彼女は周囲を確認してから、銀貨を受け取った。
レイビスは何も言わず、立ち去ろうとした。
「あの……少々お待ちください」
女性が声を掛けた。
レイビスが振り返る。
「登録情報はお見せできませんし、無断で住所をお教えすることもできません」
「分かっている」
「ただ……」
女性は少し考えた。
「事件について話している商人なら、心当たりがあります」
レイビスは静かに耳を傾けた。
「ジョージさん、という方です」
「ジョージ?」
「はい。ヴァルノアで長く商売をされている方で、ギルドにもよく顔を出されます」
「その人物が、避難物資を運んでいるのか?」
「ええ。軍警の指定する物資集積所へ、何度か荷物を運んでいるそうです」
「……なるほど」
「ただし、これは私が普段の会話で聞いた話です。ギルドの記録を調べたわけではありません」
女性は念を押した。
「滞在先をお教えすることはできませんが、ジョージさんがよく利用される酒場なら、一般にも知られています」
「どこだ?」
「西の宿場街にある《金の麦穂亭》です。商人の方々がよく集まるお店ですよ」
レイビスは小さく頷いた。
「助かった」
「ただ……」
女性は少し声を落とした。
「ジョージさんも、事件のことを詳しく知っているとは限りませんよ」
「承知している」
レイビスは軽く会釈した。
「もう1つ、聞いてもいいか?」
「はい」
「事件の際、村人たちを守った人物について、何か噂はないか?」
女性は首をかしげた。
「……剣士の話ですか?」
レイビスの視線が、わずかに鋭くなった。
「剣士?」
「ええ。武装集団に襲われた村を守るために戦った人がいた、という噂です」
「名前は?」
「分かりません」
「容姿は?」
「それも、はっきりとは」
女性は申し訳なさそうに頭を下げた。
「何しろ、話している方々も直接見たわけではないようで……」
「いや、十分だ」
レイビスは小さく頷いた。
剣士。
村を守るために戦った人物。
それが召喚者と同一人物なのかは分からない。
だが、調査の対象にはなり得る。
「情報に感謝する」
レイビスは受付を離れた。
その背中を見送った女性は、再び銀貨へ目を落とした。
「……気前のいい人ね」
小さく呟き、銀貨をしまう。
その時点で、彼女はまだ知らなかった。
つい先ほど応対した旅人が、100名の諜報員を指揮するアークディアの軍人だったことを。
◇帝国軍警の封鎖◇
ギルドを後にしたレイビスは、帝国軍警の詰所がある大通りへ向かった。
街の掲示板には、新しい布告が掲げられている。
『ラウゼン村周辺区域への立入りを禁ずる』
その下には、帝国軍警の紋章が刻まれていた。
現場検証の実施。
広域結界による周辺区域の封鎖。
無許可での侵入者に対する拘束措置。
そして、避難住民の保護について。
レイビスは布告を読み進めた。
「……予想どおりか」
周囲の様子を確認する。
出入りする兵士たち。
記録を運ぶ職員。
巡回を行う警備兵。
詰所の出入口には、複数の監視装置が設置されているようだった。
だが、これだけでは警備体制の全容は分からない。
無理に接近する理由はなかった。
レイビスは視線を外した。
帝国軍警が事件をどこまで把握しているのか。
召喚者について、どのような記録を保有しているのか。
村人たちの証言は、どこへ集約されているのか。
調べるべきことは多い。
しかし、それらの情報がすべて軍警の内部にあるとも限らない。
事件に関わった交易商。
宿場の主人。
物資輸送を担当する商人。
冒険者たち。
そうした民間の情報網から得られるものもあるはずだった。
「……まずは外からだな」
レイビスは人混みへ歩き出した。
その途中、指先で小さな通信術式を起動する。
視界の端に、部下からの報告が浮かび上がった。
『第一潜入班、指定位置へ到着』
『第二偵察班、街道北側に展開』
『通信支援班、連絡網確立』
先遣要員の配置が、順調に進んでいた。
残る隊員たちは、まだアークディア側の待機拠点にいる。
必要な情報が揃い次第、段階的に展開する予定だった。
レイビスは短い指示を返した。
『各班、予定どおり任務を継続。軍警との接触は避けろ。異常があれば報告せよ』
数秒後、応答が届く。
レイビスは術式を閉じた。
ヴァルノアの街は、いつもどおりの賑わいを見せている。
人々は買い物をし、食事を取り、仕事へ向かっていた。
その中に、アークディア国防軍の諜報員が紛れ込んでいる。
誰も、その存在を知らない。
それでよかった。
作戦《月下の鼠》は、まだ始まったばかりなのだから。
◇商人ジョージ◇
夕暮れ。
ヴァルノアの西側に広がる宿場街。
その一角にある酒場《金の麦穂亭》では、仕事を終えた商人たちが酒と食事を楽しんでいた。
木製の扉を開けると、温かな料理の匂いと賑やかな話し声が流れ込んでくる。
レイビスは店内を見渡した。
受付嬢から聞いた特徴を思い出す。
中年の男性。
商人。
物資輸送を請け負っている。
ジョージ。
奥の席に、帳簿を広げている男がいた。
少し恰幅がよく、顎には短い髭を蓄えている。
服装は質素だが、身につけた革製の鞄は上質なものだった。
レイビスは、その男へ近づいた。
「失礼。ジョージさん、で間違いないか?」
男が顔を上げた。
「……そうだが。あんたは?」
「旅の途中で、少し情報を集めている者だ」
「情報?」
「ラウゼン村の事件について、話を聞きたい」
その名前を聞いた瞬間、ジョージの表情が曇った。
「……あの村か」
「物資を運んでいると聞いた」
「ああ。だが、村まで入れるわけじゃないぞ」
ジョージは酒杯を置いた。
「今は軍警が指定した集積所までだ。そこから先は、軍の人間が運んでる」
「避難した村人たちには?」
「会ってない」
男は首を振った。
「全員、帝国軍の避難施設にいるそうだ。面会なんて簡単にはできんよ」
「……そうか」
レイビスは静かに頷いた。
「天使の軍勢については、何か聞いたか?」
「聞いたさ」
ジョージは声を潜めた。
「5,000もの天使が空を覆ったって話だろ?」
「召喚者については?」
「名前までは知らん」
「では、容姿は?」
「それも知らん」
ジョージは肩をすくめた。
「俺が直接見たわけじゃないからな」
レイビスは黙って耳を傾けた。
ジョージは少し考えたあと、続けた。
「ただ、妙な話は聞いた」
「妙な話?」
「村を襲った連中に、たった1人で立ち向かった剣士がいたらしい」
レイビスの視線が、わずかに鋭くなる。
「……剣士」
「ああ。逃げることもできたのに、村の連中を守ろうとしたって」
「その男が、天使を召喚したのか?」
「さあな」
ジョージは首を振った。
「そこまでは分からん。剣士の話と天使の話が、同じ事件として広まってるだけかもしれん」
「……なるほど」
「だが、もし本当なら、とんでもない奴だよ」
ジョージは酒杯を見つめた。
「普通なら、自分の命が惜しいだろうに」
レイビスは答えなかった。
その話を聞いて、1人の人物を思い出していた。
召喚王ベン。
かつてアークディアを築き上げた王の1人。
強大な力を持ちながら、周囲の制止を聞かず、自ら危険へ飛び込んでしまう男。
もっとも、似た性格の人間などいくらでもいる。
性格が似ているというだけで、捜索対象を特定することはできない。
「その剣士が、事件のあとどこへ向かったかは分かるか?」
ジョージは首を横に振った。
「知らん」
「そうか」
「本当に知りたければ、村の連中に聞くしかないだろうな」
ジョージは苦笑した。
「もっとも、今は軍警が厳重に守ってるから、そう簡単には会えんだろうが」
「……情報に感謝する」
レイビスは静かに立ち上がった。
そして、懐から銀貨を数枚取り出した。
そのうち3枚を、ジョージの前へ置く。
「……何だ、これは?」
「話を聞かせてもらった礼だ」
ジョージは銀貨を見つめ、目を丸くした。
「おいおい。ちょっと話しただけだぞ?」
「貴重な時間をもらった」
「……いや、だがな」
ジョージは少し困ったように笑った。
「これじゃ、料理代より高いじゃないか」
「構わない」
レイビスは静かに答えた。
「また何か思い出したら、話を聞かせてほしい」
ジョージは銀貨を手に取った。
「……なるほど。そういうことか」
彼は小さく笑った。
「分かったよ。何か分かれば教えてやる」
「助かる」
「ただし、俺も商売人だ。軍警に睨まれるようなことは御免だぞ」
「それで構わない」
レイビスは軽く頷いた。
「話せる範囲で十分だ」
ジョージは酒杯を持ち上げた。
「気前のいい旅人だな、あんた」
レイビスは小さく笑みを浮かべた。
「旅をしていれば、情報が金になることもある」
「違いない」
ジョージは笑った。
レイビスは軽く会釈し、酒場を後にした。
外へ出ると、ヴァルノアの空はすっかり茜色に染まっていた。
レイビスは歩きながら、今日得た情報を整理する。
受付嬢から得た、商人の名前。
ジョージから得た、事件に関する伝聞。
そして、帝国軍警による厳重な封鎖。
いずれも、決定的な情報ではない。
しかし、小さな情報を積み重ねることこそ、諜報活動の基本だった。
「……なるほどな」
レイビスは静かに呟いた。
「これが、人間の商売というものか」
アークディアの軍人にとって、銀貨数枚など大した価値はない。
だが、現地の人間にとっては違う。
適切な金銭を渡すことで、相手は時間を割き、次の情報を提供する意思を見せる。
それは、強制や威嚇よりも効率的な方法だった。
レイビスは懐の銀貨袋を軽く確かめた。
作戦費は十分にある。
必要なのは、それをどのように使うかだった。
◇国防軍への報告◇
その夜。
アークディア王城、国防軍本部。
ヤミノミコタマは執務室で1通の報告書を確認していた。
通信水晶が淡く光っている。
その中には、人間の姿に擬態したレイビスが映し出されていた。
『レイビス、報告します』
「聞かせて」
『ヴァルノア市内への潜入を完了。先遣要員の配置も、計画どおり進行しています』
「問題は?」
『現時点で、我が隊の所属が露見した形跡はありません』
「結構」
ヤミノミコタマは頷いた。
「召喚事件については?」
『冒険者ギルドおよび民間の商人から情報を収集しました。ただし、召喚者を直接目撃した者からの証言は、まだ得られていません』
「……そう」
『ラウゼン村は帝国軍警が封鎖中。村人たちは全員、ヴァルノア市内の避難施設で保護されています』
「こちらの把握している情報と一致するわね」
『はい。なお、現場の結界については、詳細な解析を実施しておりません』
「正しい判断よ」
ヤミノミコタマは静かに答えた。
「こちらの存在を知らせる必要はないわ」
『了解しました』
「それで、召喚者について何か手掛かりは?」
『不確かな情報ですが、村人を守るために戦った剣士がいたという噂があります』
「……剣士?」
『はい。ただし、その剣士が天使を召喚した人物と同一であるかは確認できていません』
ヤミノミコタマは椅子の背にもたれた。
「名前は?」
『不明です』
「容姿は?」
『未確認です』
「……そう」
彼女は少し考えた。
「レイビス」
『はい』
「あなたはどう判断する?」
通信水晶の向こうで、レイビスは一瞬だけ沈黙した。
『……ベン陛下を連想させる人物像ではあります』
「ええ」
『しかし、現段階で断定する根拠はありません。剣士と召喚者が同一人物かどうかも未確認です』
ヤミノミコタマは満足そうに頷いた。
「そのとおりよ」
彼女は机の上の地図へ視線を落とした。
「引き続き調査を続けなさい。まずは民間記録の収集を優先して。軍警の管理する情報に接触するかどうかは、その結果を見て判断しましょう」
『了解しました』
「それと、召喚者本人がすでに移動している可能性も考慮して」
『各班へ指示を徹底します』
「頼んだわ」
通信が途切れた。
ヤミノミコタマは、しばらく水晶を見つめていた。
「……さて」
彼女は新たな報告書を手に取った。
「パウル様にも、報告しなければなりませんね」
少しだけ考え込む。
そして、ふと口元を緩めた。
「ティアも、きっと気になるでしょうし」
アマノテルシエ。
彼女もまた、ゲーム時代には王たちに仕えていたNPCの1人だった。
アークディアがこの世界へ現れてから2,000年。
共に都市を維持し、数え切れないほどの問題を乗り越えてきた。
2人にとって、王の帰還は単なる国家的な出来事ではなかった。
かつて仕えていた主君が、再び戻ってきたのだ。
それだけで、長い歳月の意味が変わり始めていた。
ヤミノミコタマは報告書を持ち、執務室を後にした。
◇2,000年の希望◇
王城第二層。
政務室では、アマノテルシエが書類に向かっていた。
机の上には、今日も大量の報告書が積み上げられている。
「……終わりませんね」
小さく呟いた、その時だった。
扉が叩かれた。
「ティア、私よ」
聞き慣れた声。
アマノテルシエは顔を上げた。
「……ミア?」
「入ってもいいかしら」
「ええ、どうぞ」
ヤミノミコタマが入室した。
その手には、1通の報告書が握られている。
「お仕事中?」
「見れば分かるでしょう」
「ふふ。そうね」
ヤミノミコタマは机の上の書類を見渡した。
「相変わらず大変そうね」
「あなたの国防軍ほどではありません」
「まあ、そう言ってもらえると嬉しいわ」
「褒めていません」
2人は小さく笑った。
しかし、ヤミノミコタマの表情はすぐに真剣なものへ変わった。
「ティア」
「……何でしょう?」
「ヴァルノアから、最初の調査報告が届いたわ」
その一言で、アマノテルシエの手が止まった。
「……召喚事件の件ですか」
「ええ」
ヤミノミコタマは報告書を差し出した。
「現地へ派遣した諜報員が、聞き込みを始めているの」
アマノテルシエは記録を受け取った。
村の封鎖。
帝国軍警の結界。
避難施設で保護されている村人たち。
そして、正体不明の剣士に関する噂。
彼女は最後の1文で目を止めた。
『村人を守るため、危険を承知で戦った剣士がいたという』
「…………」
指が、わずかに震えた。
「……名前は?」
「まだ分からないわ」
「容姿は?」
「それも未確認よ」
「……そうですか」
アマノテルシエは報告書を見つめた。
それだけでは何も証明できない。
その剣士が召喚者本人である保証もない。
けれど。
「……ベン様」
小さく、その名が漏れた。
ヤミノミコタマは何も言わなかった。
ただ、隣に立っていた。
「ティア」
「……はい」
「まだ確証はないわ」
「分かっています」
「だから、慎重に調べるの。今回は100名の専門要員を選抜している。簡単に見逃すつもりはないわ」
アマノテルシエは顔を上げた。
「……100名も?」
「ええ。レイビスに指揮を任せたの」
その名を聞き、アマノテルシエの表情が少し和らぐ。
「パウル様を発見した、あの方ですね」
「そうよ」
ヤミノミコタマは静かに微笑んだ。
「今朝、王室特別功労章を授与したの」
「まあ……!」
アマノテルシエは目を丸くした。
「それは、おめでたいことですね」
「ええ。ただし、授章は非公開よ」
「もちろんです。諜報員ですものね」
アマノテルシエは小さく頷いた。
「今度、何かお祝いを用意しましょうか」
「ふふ。ティアらしいわね」
「……何ですか、その笑い方は」
「何でもないわ」
2人は小さく笑った。
そして、ヤミノミコタマが少しだけ意地悪な表情を浮かべる。
「それにしても」
「何でしょう?」
「もし本当にベン様だったら、あなた、どうするつもり?」
「……どうする、とは?」
「2,000年ぶりの再会よ?」
アマノテルシエの翼が、ぴくりと動いた。
「まずは、正式に帰還をお迎えします」
「それから?」
「長年の不在について、必要な報告を行います」
「それから?」
「都市の現状をご説明します」
「それから?」
「……ミア」
ヤミノミコタマは楽しそうに笑った。
「ふふ。ごめんなさい」
アマノテルシエは少し頬を赤くしながら、報告書を胸へ抱き寄せた。
「……それから」
小さな声だった。
「一緒に、パンを食べたいです」
ヤミノミコタマは、少しだけ目を丸くした。
そして、柔らかく微笑む。
「……そうね」
窓の外には、夜の雲海が広がっていた。
その向こうに、まだ見ぬヴァルノアの空がある。
そのどこかに、ベンがいるのかもしれない。
アマノテルシエは、静かに報告書を閉じた。
「……ミア」
「何かしら?」
「よろしくお願いします」
ヤミノミコタマは彼女を見つめた。
そして、小さく頷いた。
「ええ。任せて」
◇王への報告◇
その夜。
ヤミノミコタマは、王の執務室を訪れていた。
パウルは机に広げられた地図を見つめている。
「パウル様。レイビスより、最初の報告が届いております」
「聞かせてくれ」
ヤミノミコタマは調査の概要を伝えた。
ヴァルノアへの潜入成功。
先遣要員の配置。
帝国軍警によるラウゼン村の封鎖。
避難施設の厳重な管理。
そして、正体不明の剣士に関する噂。
「……剣士、か」
パウルは静かに呟いた。
「名前は?」
「現時点では確認できておりません」
「顔は?」
「こちらも未確認でございます」
「……そうか」
パウルは椅子の背にもたれた。
しばらく沈黙が続く。
「ヤミノミコタマ」
「はい」
「レイビスは、何て言ってた?」
「ベン様を連想させる人物ではあるものの、現時点では断定する根拠がない、と報告しております」
パウルは小さく笑った。
「……あいつらしいな」
「はい。慎重な情報分析こそ、彼の長所でございます」
パウルは地図へ視線を戻した。
「……帝国軍警か」
「現地での調査を進めるうえで、最大の障害となる可能性がございます」
「ああ」
パウルは頷いた。
「でも、今の段階で帝国と揉める必要はない。情報が取れなくなったら元も子もないからな」
「ごもっともでございます。その点につきましては、レイビスにも徹底しております」
「頼む」
パウルは地図のヴァルノアを指差した。
「調査範囲を1つの村に限定しないでくれ。召喚者がもう移動してる可能性もある」
「承知いたしました。調査区域を拡大し、関連情報の収集を進めさせます」
「それと……」
パウルは少しだけ言葉を探した。
「もし兄貴を見つけても、すぐに連れ戻そうとするな」
「……理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「兄貴は、きっと自分の判断で動いてる」
パウルは静かに答えた。
「仮に何かの事情を抱えていたとして、こちらが勝手に連れ戻せば、余計な混乱になるかもしれない」
ヤミノミコタマは頷いた。
「まずは安否確認と状況把握を優先する、というご指示でございますね」
「ああ。それでいい」
彼女は深く頭を下げた。
「ご意向、確かに承りました。レイビスにもそのように申し伝えます」
パウルは窓の外を見た。
アークディアは、静かに雲海を進んでいる。
「……待ってろよ、兄貴」
その声は、小さかった。
「今度こそ、見つけるからな」
◇最初の鼠◇
ヴァルノアの夜。
大通りから少し離れた宿の1室で、レイビスは机に向かっていた。
目の前には、今日1日で集めた情報が並んでいる。
冒険者ギルドで聞いた噂。
帝国軍警の布告。
商人ジョージの証言。
そして、先遣要員から届いた報告。
決定的な手掛かりは、まだない。
しかし、レイビスの表情に焦りはなかった。
調査は始まったばかりだ。
彼は1枚の地図を広げた。
ラウゼン村。
ヴァルノア市街。
周辺の宿場町。
主要な街道。
召喚者が事件後に移動していた場合、どの経路を通った可能性があるのか。
それを考えていた。
通信術式が、小さく光った。
『第一潜入班より報告。街道沿いの宿泊記録の収集を開始』
レイビスは短く返した。
『継続しろ。対象を限定するな。事件前後に移動した人物を広く調べろ』
『了解』
通信が途切れる。
レイビスは地図へ視線を戻した。
もし召喚者が本当にベン陛下だったなら。
なぜ、今になってこの世界で姿を現したのか。
なぜ、アークディアへ帰還していないのか。
そして、現在どこにいるのか。
調べるべきことは、山ほどあった。
「……必ず、見つけ出す」
低く呟く。
窓の外では、ヴァルノアの街に無数の灯りがともっていた。
人々は、いつもどおりの夜を過ごしている。
酒場では笑い声が響き、宿場では旅人たちが眠りにつこうとしていた。
そのどこかに、捜している人物がいるのかもしれない。
あるいは、すでに遠くへ旅立っているのかもしれない。
まだ分からない。
レイビスは、机の上に置かれた作戦命令書へ目を向けた。
そこには、短い文字が刻まれている。
『月下の鼠』
帝国には、1匹の鼠すら見せてはならない。
その言葉を思い出し、レイビスは小さく息を吐いた。
「……見せる必要など、最初からない」
彼は立ち上がり、部屋の灯りを消した。
窓から差し込む月明かりだけが、机の上の地図を照らしている。
100名の諜報員。
そのすべてが、同じ時刻に動いているわけではない。
まだ待機している者もいる。
すでに現地で潜入を開始した者もいる。
それぞれが異なる役割を持ち、必要な情報を少しずつ集めていた。
その全容を知る者は、限られている。
一方、遥か上空では、アークディアが静かに雲海を進んでいた。
帰還を待つ者。
行方を捜す者。
そして、自分が捜されていることさえ知らない者。
それぞれの運命が、少しずつ同じ場所へ近づいていた。
5,000を超える翼が、あの日の空に残した痕跡。
それを辿るために放たれた、100匹の鼠。
誰にも気づかれないまま、彼らは帝国の内側へ入り込んでいく。
月明かりの下で。
静かに。
確実に。




