白い翼と、焼きたてのパン
雲海の上に、朝が来た。
二つの月が西の空へ沈み、薄紫色だった雲がゆっくりと金色に染まっていく。
浮遊都市アークディア。
世界樹の遥か上空を移動するこの巨大な城塞都市には、今日も変わらない朝が訪れていた。
第一層の市場では、商人たちが露店の準備を始めている。
石畳を掃く音。
焼きたてのパンの香り。
遠くの鍛冶場から響く、規則正しい槌の音。
空中回廊を行き交う天使たちの白い翼が、朝日に照らされて輝いていた。
その頃、王城第二層の政務室では。
「……終わりませんね」
一人の天使が、机の上に積み上げられた書類を見つめていた。
アマノテルシエ。
アークディアの政務首席補佐官にして、天使たちを統率する最高責任者の一人。
長い白金色の髪。
背中に広がる、純白の翼。
整った顔立ちと、どこか近寄りがたいほどの気品。
城の住民たちから絶大な信頼を寄せられる彼女にも、苦手なものがあった。
それは。
「……どうして、昨日より増えているのでしょう」
書類仕事だった。
正確には、書類仕事そのものが苦手なのではない。
終わらせても終わらせても、新たな書類が運び込まれてくることが問題だった。
特に、パウルが帰還してからは、以前よりも政務が増えている。
王の帰還に伴う制度の見直し。
居住区の管理。
新たな捜索部隊の編成。
そして、ヴァルノア方面への移動に伴う各種調整。
どれも必要な仕事だった。
しかし、必要だからといって、書類が自然に減るわけではない。
「失礼いたします」
扉の向こうから声がした。
「どうぞ」
若い天使の職員が、両手いっぱいに書類を抱えて入ってくる。
「本日の物資配分報告と、市場管理局からの申請書です」
「ありがとうございます。そちらへ置いてください」
「それから、第三層の設備点検報告書と、居住区の修繕計画書も」
「……はい」
「あと、パウル様より追加の確認事項が」
「…………」
職員が首をかしげた。
「アマノテルシエ様?」
「いえ。何でもありません」
アマノテルシエは穏やかに微笑んだ。
「今日も、よく晴れていますね」
「はい!」
職員は嬉しそうに答える。
「それでは失礼いたします!」
扉が閉まった。
アマノテルシエは、しばらくその扉を見つめていた。
そして。
「……本当に、よく晴れています」
もう一度だけ呟いた。
仕事が終わる気配は、まったくなかった。
◇
昼過ぎ。
午前の政務会議を終えたアマノテルシエは、久しぶりに第一層の市街区へ足を運ぶことにした。
名目は、市場の視察。
決して、書類仕事から逃げ出したわけではない。
少なくとも本人は、そのつもりだった。
「アマノテルシエ様だ!」
市場へ入ると、幼い天使たちが彼女を見つけて駆け寄ってきた。
「こんにちは!」
「こんにちは」
アマノテルシエは膝を折り、子供たちと視線の高さを合わせる。
「今日は何をしているのですか?」
「おつかい!」
「ぼくも!」
「そうですか。偉いですね」
すると、一人の少年が彼女の翼をじっと見つめた。
「ねえ、アマノテルシエ様」
「何でしょう?」
「どうしてそんなに羽がきれいなの?」
「……え?」
「ぼくの羽、いつも変な方向に曲がっちゃうんだ」
少年が小さな翼を広げる。
確かに、右側の羽根が一本だけ逆立っていた。
アマノテルシエは思わず微笑む。
「毎朝、丁寧に整えるとよいですよ」
「毎朝?」
「ええ」
「めんどくさい!」
「…………」
少年は元気よく言い切った。
隣にいた少女が笑う。
「だってこの子、顔だって洗わないんだよ!」
「洗ってるよ!」
「昨日洗ってない!」
「昨日は忘れただけ!」
アマノテルシエは口元に手を当てた。
小さく笑い声が漏れる。
「では、まずは顔を洗うところから始めましょうか」
「えー!」
少年は不満そうに唇を尖らせた。
その時だった。
「アマノテルシエ様!」
背後から、パン屋の店主が声をかけてきた。
「ちょうどよかった! 今朝焼いたパンが、まだ温かいんですよ!」
差し出された籠の中には、黄金色に焼き上がった丸いパンが並んでいた。
表面には蜂蜜が薄く塗られ、甘い香りが漂っている。
「まあ、美味しそうですね」
「よかったら、お一つどうぞ!」
「いえ、そのような――」
「いつも市場のことを気にかけてくださっているお礼です!」
店主が笑う。
「たまには仕事を忘れて、ゆっくりしてくださいよ」
「……仕事を忘れる、ですか」
アマノテルシエは差し出されたパンを見つめた。
二千年。
彼女はこの都市を守り続けてきた。
王のいない城。
帰るべき主を失った住民たち。
何百年も続く政務。
終わりの見えない責任。
いつしか、休むということさえ忘れかけていた。
「……ありがとうございます」
小さく頭を下げ、パンを受け取る。
一口かじると、柔らかな生地から蜂蜜の甘さが広がった。
「……美味しい」
思わず、素直な言葉が漏れた。
「でしょう!」
店主が胸を張る。
「今日は特別によく焼けたんですよ!」
その横から、先ほどの少年が顔を覗かせた。
「ぼくも食べたい!」
「こら、お前はおつかいの途中だろ!」
「一個だけ!」
店主と少年のやり取りを眺めながら、アマノテルシエは再び笑った。
平和だった。
驚くほど、平和な昼下がりだった。
この都市が今日もこうして動いている。
それだけで、二千年の月日が無駄ではなかったと思える。
「アマノテルシエ様」
少年が不意に尋ねた。
「ベン様って、どんな人?」
アマノテルシエの手が止まった。
「……ベン様、ですか?」
「うん! パウル様は帰ってきたけど、ベン様はまだなんでしょ?」
少年は純粋な瞳で彼女を見上げる。
「どんな王様だったの?」
アマノテルシエは少し考えた。
強い人。
優しい人。
誰よりも勇敢な人。
そのどれもが正しかった。
けれど。
「……そうですね」
彼女は、ゆっくりと微笑んだ。
「きっと、あなたと気が合う方ですよ」
「ほんと?」
「ええ」
「なんで?」
「少し、いたずら好きなところがありますから」
少年が目を輝かせた。
「じゃあ、一緒に遊んでくれるかな!」
「……ふふ。どうでしょう」
彼女は少年の頭を撫でた。
「でも、きっと退屈はしないでしょうね」
◇
午後のお茶の時間。
王城の小さな中庭では、三人の女性がテーブルを囲んでいた。
アマノテルシエ。
パウル専属のメイド、リリス。
そして、パウルと共にアークディアへやって来た少女、ナナ。
「本当に、私もご一緒してよろしいのですか?」
ナナが遠慮がちに尋ねる。
「もちろんです」
アマノテルシエが答える。
「今日は、少しゆっくりお話をしたかったのです」
「ありがとうございます!」
ナナは嬉しそうに微笑んだ。
リリスが手慣れた動作で紅茶を注いでいく。
白磁のカップから、柔らかな湯気が立ち上った。
「それにしても、珍しいですね」
リリスが言った。
「アマノテルシエ様が、昼間にお休みを取られるなんて」
「休暇ではありません」
「そうなのですか?」
「市民との交流も、政務の一環です」
「なるほど」
リリスはにっこりと微笑んだ。
「では、こちらのお菓子も政務に必要ですね」
皿の上には、色とりどりの焼き菓子が並べられていた。
「……ええ。そうですね」
アマノテルシエは一つ手に取った。
リリスの笑みが、少しだけ深くなった。
「おかわりもございますよ」
「……ありがとうございます」
ナナが小さく笑った。
それにつられるように、リリスも笑う。
アマノテルシエは少し困った顔をしたあと、結局、二人と一緒に笑った。
不思議な時間だった。
かつてのアークディアで、こんな午後があっただろうか。
王の帰還を待ち続けた長い歳月。
今日も城を守る。
明日も城を守る。
それだけを考えていた日々。
今は違う。
目の前には、紅茶を飲みながら笑う少女がいる。
誰かのために焼き菓子を選び、好みを気にするメイドがいる。
その何気ない光景を、アマノテルシエは心地よく感じていた。
「そういえば」
ナナがカップを置いた。
「パウルさん、今日も朝からお仕事なんです」
「……存じております」
アマノテルシエは少し眉を下げた。
「昨日も遅くまで執務をされていましたね」
「はい。ベンさんのこと、ずっと調べていて……」
ナナは心配そうに視線を落とす。
「ちゃんと休んでほしいんですけど」
「パウル様は、一度決めたことを簡単には曲げられませんから」
リリスが静かに頷く。
「ですが、お身体を壊されては困ります」
「そうですよね」
ナナは勢いよく頷いた。
「私、今日こそちゃんと休んでもらいます!」
「頼もしいですね」
アマノテルシエが微笑む。
「では、私もお手伝いしましょう」
「本当ですか!」
「ええ。午後の会議を一つ、明日に回しましょう」
リリスが目を丸くした。
「アマノテルシエ様が、会議を延期なさるのですか?」
「……何か問題が?」
「いえ」
リリスは優雅に頭を下げた。
「明日は雪でも降るのかと思いまして」
「リリス」
「冗談でございます」
ナナが声を上げて笑った。
アマノテルシエも、つい笑みをこぼしてしまう。
ふと、ナナの視線がリリスへ向いた。
パウルへの想いを口にした、あの日のこと。
リリスが自らの意思で彼に仕えることを選んだことも、ナナは知っている。
最初から、すべてを穏やかに受け止められたわけではなかった。
けれど、こうして一緒にお茶を飲んでいると、リリスがパウルを大切に思っていることも伝わってくる。
「……リリスさん」
「はい?」
「今度、お茶の淹れ方を教えてもらってもいいですか?」
リリスは少し驚いたように目を瞬かせた。
そして、柔らかく微笑む。
「もちろんでございます」
ナナも、小さく笑った。
その時だった。
「まあ、随分と楽しそうですこと」
中庭の入口から、聞き慣れた声がした。
黒い翼。
長い黒髪。
柔らかな微笑みを浮かべながら現れたのは、ヤミノミコタマだった。
「皆様でお茶会ですか?」
「ヤミノミコタマ」
アマノテルシエが振り返る。
「これは、市民との交流を目的とした――」
「政務、でしょう?」
「……ええ」
ヤミノミコタマは楽しそうに笑った。
「では、私も参加させていただこうかしら」
彼女は空いている椅子へ腰を下ろした。
「リリス、私にも紅茶をお願いできます?」
「かしこまりました」
ナナが焼き菓子の皿を差し出す。
「よかったら、こちらもどうぞ!」
「あら。ありがとう、ナナ」
ヤミノミコタマは一つ口に運んだ。
「……美味しいわ」
そして、隣に座るアマノテルシエへ視線を向けた。
「それで、ティア?」
アマノテルシエの眉がわずかに動いた。
「……何でしょう、ミア」
ナナが不思議そうに顔を上げる。
「ティア?」
「あら、ご存じなかった?」
ヤミノミコタマは楽しそうに微笑んだ。
「私たち、昔から二人きりのときはこう呼び合っているのよ」
「そうなんですか! 可愛いですね!」
ナナが嬉しそうに声を上げる。
アマノテルシエは少し困ったように微笑んだ。
「……本来、公務の場では使わない呼び名なのですけれど」
「ここはお茶会でしょう?」
ヤミノミコタマが首をかしげる。
「先ほどまで、政務だと仰っていたのでは?」
「……ティアったら、細かいわね」
「ミア」
「ふふ。ごめんなさい」
リリスが口元に手を当てた。
「お二人にも、そのような呼び方があったのですね」
「ええ。もう随分と昔から」
ヤミノミコタマは紅茶を一口飲んだ。
「それで、ティア。ベン様のことを考えていたのでしょう?」
アマノテルシエの翼が、ぴくりと動いた。
「なぜ、そう思うのですか」
「顔に書いてありますもの」
「……そんなことはありません」
「そう?」
ヤミノミコタマは、わざとらしく首をかしげた。
「市場からお戻りになってから、ずっと機嫌がよろしいようですし」
「市民の皆さんが元気だったからです」
「ええ、ええ」
「それに、今日のパンはとても美味しかったので」
「そうですか」
ヤミノミコタマは微笑む。
「では、ベン様には、帰還されたらそのパンをご馳走しないといけませんね」
「…………」
アマノテルシエは返答しなかった。
ただ、少しだけ頬が赤くなった。
「……ミア」
「何かしら?」
「あなたは本当に、昔から変わりませんね」
「お互い様でしょう?」
ナナとリリスは顔を見合わせる。
ヤミノミコタマは、満足そうに紅茶を口へ運んだ。
◇
夕刻。
アマノテルシエは、王城の最上部にある回廊を一人で歩いていた。
窓の外には、夕日に染まる雲海が広がっている。
今日も一日が終わろうとしていた。
市民たちの笑顔。
幼い天使との会話。
ナナやリリスとのお茶会。
ミアの、少し意地悪な冗談。
思い返せば、穏やかな一日だった。
そして。
不意に、一つの扉の前で足を止めた。
五十の王たちの肖像が並ぶ回廊。
その中に、一枚の絵があった。
召喚王ベン。
アマノテルシエは、静かに肖像を見上げた。
「……ベン様」
返事はない。
あるはずもなかった。
けれど、その名前を口にすると、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「今日は、とても良い一日でした」
彼女は穏やかに語りかけた。
「市場の皆さんはお元気です。子供たちも、毎日楽しそうに過ごしています」
少しだけ笑う。
「パウル様は相変わらず、お仕事を抱えすぎていらっしゃいますが……」
そこまで言って、言葉を止めた。
肖像画のベンは、何も答えない。
それでも彼女は続けた。
「……あなたが戻られたら、きっと驚かれますね」
二千年前とは違う街並み。
新しい世代の住民たち。
変わってしまったものも、失われたものもある。
それでも。
「私は、この街が好きです」
静かな声だった。
「あなたがいらっしゃらない間も、皆が大切にしてきた場所ですから」
夕日が白い翼を照らした。
「ですから……」
彼女は、少しだけ目を伏せる。
「どうか、お早くお帰りください」
言葉はそこで途切れた。
その願いを、何度繰り返したことだろう。
けれど、今はもう。
ただ待つだけの日々ではなかった。
◇5,120の翼◇
同日、夕刻。
アークディア王城、国防軍本部。
ヤミノミコタマは、自室の執務机に向かっていた。
腰から伸びる漆黒の翼を静かに畳み、目の前に積まれた報告書を確認している。
「……次」
短い声に応じ、控えていた軍務官が新たな書類を差し出した。
「ヴァルノア帝国方面からの情報であります」
「報告しなさい」
「はっ!」
軍務官は姿勢を正した。
「帝国領ラウゼン村において、大規模な武装襲撃事件が発生。現在、帝国軍警が現場の封鎖および調査を実施しております」
「武装襲撃?」
「はい。詳細な被害状況は不明ですが、村の周辺には広域結界が展開され、一般人の立入りが禁止されております」
ヤミノミコタマは報告書へ目を落とした。
「それで?」
「事件の際、現場上空に大規模な天使の軍勢が出現したとの情報がございます」
書類をめくっていた彼女の手が止まった。
「……天使?」
「はい」
「帝国軍の部隊ではないのね?」
「所属は確認できておりません。現地では召喚術によって出現したと噂されております」
「規模は?」
「目撃情報によれば、5,000名以上と推定されます」
ヤミノミコタマは顔を上げた。
「……5,000?」
「はい。なお、情報の一部には、5,120名という具体的な数字も記されております」
「…………」
室内が静まり返った。
5,120。
その数字には、覚えがあった。
かつてゲームの中で、ベンが指揮していた天使騎士団第一旅団。
その編成人員と一致する。
「その数字の情報源は?」
「現地の民間情報であります。ただし、正確に数えられたものかどうかは確認できておりません」
「……そう」
ヤミノミコタマは椅子の背へ身を預けた。
偶然の一致かもしれない。
召喚された軍勢の総数が、正確に5,120名だったという保証もない。
だが、無視できる数字でもなかった。
「召喚者の身元は?」
「不明であります」
「容姿は?」
「確認できておりません」
「召喚術式の解析は?」
「現場が封鎖されているため、実施できておりません」
ヤミノミコタマは静かに頷いた。
「ほかに情報は?」
「現地の商人や冒険者の間では、襲撃者と交戦した正体不明の剣士についても噂されております」
「剣士?」
「はい。村人を守るため、武装集団に立ち向かった人物がいたとのことです」
「召喚者と同一人物なの?」
「確認できておりません」
「……なるほど」
ヤミノミコタマは報告書を机へ置いた。
剣士と召喚者。
現時点では、それぞれの情報を結びつける証拠がない。
しかし、両者が同じ事件に関わっていたことは調査する価値があった。
「村の住民は?」
「全員、ヴァルノア市内の帝国軍管理下にある避難施設へ移送されております。施設周辺には軍警が配置され、面会も制限されている模様です」
「帝国側は、目撃者の証言を確保している可能性が高いわね」
「はい」
「現場への接近は?」
「広域結界が展開されており、監視体制の詳細は不明であります」
ヤミノミコタマは地図へ視線を移した。
帝国領内で発生した、大規模な召喚事件。
帝国軍警による現場封鎖。
隔離された目撃者たち。
そして、5,120という数字。
必要な情報は、まだ圧倒的に不足している。
だが、王室に報告すべき内容であることは明らかだった。
「この件は、機密扱いとしなさい」
「はっ!」
「情報の収集経路を再確認。特に、5,120名という数字の出所を調べて。それから、現段階では帝国軍警への接触を認めない」
「了解しました!」
「追加情報は、国防軍本部へ直接報告するよう徹底しなさい」
「はっ!」
軍務官が退出する。
ヤミノミコタマは、もう1度報告書を開いた。
『召喚された天使の数、推定5,120名』
その1行を、静かに見つめる。
「……ベン様」
小さく呟いた。
かつてゲームの中で仕えた王。
2,000年もの間、所在が分からなかった主君の1人。
もし、今回の召喚者が本当にベンだったとしたら。
アークディアは、再び王を迎えることができるかもしれない。
しかし、ヤミノミコタマはすぐに報告書を閉じた。
期待と事実は、分けて考えなければならない。
現段階では、ベン本人の存在を示す証拠は何もないのだ。
「……まずは、パウル様にご報告ね」
彼女は立ち上がった。
腰から生えた黒い翼が、静かに広がる。
そして、王の執務室へ向かった。
◇
王城最上層。
パウルは執務机に向かい、ヴァルノア帝国方面の地図を眺めていた。
扉が叩かれる。
「パウル様。ヤミノミコタマでございます」
「入ってくれ」
ヤミノミコタマが入室し、深く一礼した。
「お忙しいところ、失礼いたします。ヴァルノア帝国方面より、看過できない情報が届きましたので、ご報告に参りました」
「……何かあったのか?」
「はい」
彼女は報告書を差し出した。
「帝国領ラウゼン村にて、大規模な天使の召喚が確認されたとの情報がございます」
「天使の召喚?」
「はい。推定数は5,000名以上。一部の情報では、5,120名とされております」
「……5,120?」
パウルの表情が変わった。
その数字を、彼も知っていた。
「ちょっと待て。それって……」
「はい。ベン様がかつて編成された、天使騎士団第一旅団の総数と一致いたします」
パウルは報告書を受け取った。
そこに記された数字を、何度も確認する。
「……兄貴?」
思わず、声が漏れた。
ヤミノミコタマは姿勢を正した。
「ただし、現時点では召喚者の身元を確認できておりません。数字の正確性についても、引き続き検証が必要でございます」
「……そうか」
パウルは報告書の続きを読んだ。
武装集団による襲撃。
正体不明の剣士。
帝国軍警によるラウゼン村の封鎖。
避難施設へ移送された住民たち。
「現場には入れないのか?」
「はい。村の周辺には広域結界が展開され、帝国軍警が厳重に管理しております」
「目撃者は?」
「住民たちは全員、帝国軍の管理下にございます。現段階では、直接の証言を得ることが困難な状況です」
パウルは腕を組んだ。
「……なるほどな」
しばらく、沈黙が続いた。
やがて、パウルは顔を上げた。
「ヤミノミコタマ」
「はい」
「この件、詳しく調べたい」
「承知いたしました」
「ただし、帝国との面倒事は避けたい。兄貴だと確定したわけでもないしな」
「ごもっともでございます。帝国側に我が国の関与を察知されれば、調査そのものに支障をきたす可能性がございます」
「それを踏まえて、調査方法を考えてくれ」
ヤミノミコタマは深く一礼した。
「ご下命、謹んでお受けいたします。国防軍諜報局にて作戦案を立案し、改めてご報告いたします」
「頼んだ」
彼女は再び頭を下げ、静かに退出した。
扉が閉まる。
パウルは、机の上に置かれた報告書へ目を落とした。
5,120。
その数字だけが、頭から離れなかった。
「……兄貴」
窓の外には、夕闇に包まれた雲海が広がっている。
「本当に、お前なのか?」
返事はない。
しかし、この日。
アークディア国防軍は、行方不明の王に関する新たな手掛かりを得た。
その情報が、やがて100名の諜報員を動かす極秘作戦《月下の鼠》へと繋がっていくことになる。




