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王城奪還

夜明け前の空は、まだ群青色を残していた。


山肌を吹き抜ける冷たい風が、リンクスの銀色の髪を揺らす。


振り返れば、王都ヴァルノアは朝靄の向こうに静かに横たわり、その中心には王城オルグハルが黒い影となってそびえていた。幼い頃から何度も見上げてきた城。しかし今日ほど遠く感じた日はなかった。


腰に下げた金属製の鍵へ、静かに手を添える。


ドルガンから託された黒と銀の鍵は、冷たいはずなのに、不思議と体温を持っているようだった。


「ここから先は、本当に戻れないかもしれない。」


誰へ向けるでもなく呟く。


隣を歩くミレイが静かに微笑んだ。


「戻るために来たんじゃない。」


「……そうだったな。」


リンクスも小さく笑う。


クルサが鉄棒を肩へ担ぎ直す。


「教官を助ける。それだけだ。」


ラウドも短く頷いた。


「考えるのは、そのあとだ。」


五人は山道を下り、城壁沿いへ向かった。


朝日が昇り始める頃には、王城の正門は既に兵士たちで埋め尽くされていた。


白銀の鎧をまとった騎士。


見張り台を巡回する兵。


荷馬車を検査する門兵。


以前より明らかに警備が増えている。


リンクスは石壁の陰から様子を窺った。


「正門は無理だ。」


「最初からそのつもりじゃない。」


ミレイが答える。


ドルガンから聞かされた地下水路。


旧鍛冶棟の地下へ続く排水路。


正規の兵ですら知らない、古い搬入口。


リンクスは王城を見つめた。


「あの地下に教官がいる。」


「行こう。」


五人は人目を避け、城壁の外周へ回り込んだ。


雑草に覆われた排水口は、人が入れるとは思えないほど狭かった。


鉄格子には長年の錆が浮き、近づくだけで湿った臭いが鼻を刺す。


ラウドが工具を取り出した。


「ドルガンさん、こういう準備だけは完璧だな。」


「感謝しよう。」


錆びたボルトを一本ずつ外す。


最後の一本が抜けると、重たい鉄格子が静かに外れた。


「先に行く。」


リンクスは身を屈め、暗闇へ潜り込んだ。


冷たい水が足首を濡らす。


湿った空気。


石壁に染みついた苔。


頭上からは王都の喧騒が微かに聞こえてくる。


だが地下へ進むにつれ、その音も次第に遠ざかっていった。


全員が中へ入り終えると、ラウドが鉄格子を元に戻した。


「これで追跡されにくくなる。」


クルサが笑う。


「つまり逃げ道もなくなった。」


「今さらだ。」


リンクスは前だけを見た。


地下水路は迷路のように枝分かれしていた。


何本もの通路が交差し、地下水が静かに流れている。


普通なら迷う。


だがリンクスには覚えがあった。


地下施設で見た古い配管図。


ドルガンが何度も見せてくれた王城地下の見取り図。


石壁には、小さな刻印が残されている。


誰にも気付かれないほど小さな印。


「右だ。」


リンクスは迷わず進む。


やがて流れる水の音が変わった。


狭い水路は広い空間へ繋がり、天井も高くなる。


壁には古びた照明器具が並び、青白い光が今も微かに灯っていた。


「まだ動いてるのか……。」


ミレイが驚く。


「二千年近く前のものとは思えない。」


リンクスも息を呑んだ。


この場所は王国が築いたものではない。


もっと昔。


王国という国が生まれる以前から存在していた何か。


その空気だけが、この地下には今も残っていた。


広間の奥。


黒い金属で作られた巨大な扉が現れる。


表面には見たことのない紋章。


地下施設で見た紋様と同じだった。


リンクスは腰の鍵を取り出す。


黒と銀の鍵が、微かに青白く輝いた。


「これか。」


中央には小さな窪み。


ゆっくりと鍵を差し込む。


カチリ。


小さな音が響いた。


次の瞬間。


重い振動が地下全体を震わせる。


低い駆動音。


長い眠りから目覚めるように、巨大な扉がゆっくり左右へ開いていった。


誰も言葉を発しない。


その先には、石造りの長い階段が続いていた。


踏み固められた石段。


中央だけが丸く擦り減っている。


何百年、何千年もの間、人が歩いた証だった。


「行こう。」


リンクスは先頭に立った。


階段を下りるたび、空気が変わる。


冷たく、静かで、どこか神聖な空気。


やがて円形の広間へ辿り着く。


壁一面には古代文字のような模様。


中央には巨大な石の台座。


近づいたリンクスは息を止めた。


台座の表面には、小さな窪みが円を描くように並んでいる。


一つ。


二つ。


三つ。


数えていく。


「……五十。」


ミレイが呟く。


「五十人の王……。」


リンクスは台座へ静かに手を置いた。


王国の歴史書には伝説としてしか残らない存在。


だが今、自分の目の前には、その痕跡が確かに存在している。


「ここは何なんだ……。」


誰にも答えは分からない。


その時だった。


クルサが奥を指差した。


「灯りだ。」


広間のさらに奥。


薄暗い通路の先に、青白い光が漏れている。


リンクスは台座から手を離した。


「教官は、この先だ。」


五人は再び歩き始めた。


まだ誰も知らない。


この地下で見つけた台座が、後に世界そのものを揺るがす真実へ繋がる入口になることを。


そして、その頃。


遥か天空の彼方。


雲海の上を静かに漂う浮遊都市アークディアでは、誰にも気付かれることなく、一人の監視役が静かに目を開いていた。


彼は何も語らない。


ただ、世界のどこかで生じた僅かな揺らぎを見つめるだけだった。


その視線は、王城地下の奥深くへと向けられていた。


 円形の広間の奥には、さらに深い闇が続いていた。


 五十の窪みが刻まれた石の台座を背に、リンクスは青白い灯りの点る通路へ足を踏み入れる。


 床は乾いていた。


 先ほどまで歩いていた地下水路とは違い、ここには水の流れる音も、湿った土の臭いもない。


 代わりに漂っていたのは、鉄と石が長い年月をかけて冷え切ったような、重く息苦しい空気だった。


 壁には一定の間隔で古い照明が埋め込まれている。


 炎ではない。


 小さな結晶の内部に青白い光が閉じ込められ、かすかな明滅を繰り返していた。


 誰が造ったのか。


 何のために、王城の地下深くへこれほど大きな施設を築いたのか。


 考えれば考えるほど分からないことばかりだった。


 だが、今は立ち止まっている時間はない。


「この先だ。」


 リンクスは声を抑えた。


 後ろを歩くミレイが、小さく頷く。


 クルサは鉄棒を両手で握り、ラウドは通路の後方を何度も振り返っていた。


 王権の鍵を使って扉を開いた時の振動は、決して小さくなかった。


 王城の誰かが異変に気付いていてもおかしくない。


「足音は聞こえない。」


 ラウドが囁く。


「だが、見張りがいないとは限らない。」


「地下牢なら、少なくとも兵はいるはずだ。」


 ミレイの言葉に、リンクスは剣の柄へ手を掛けた。


 訓練校で何度も繰り返した潜入訓練。


 音を立てずに進む方法。


 角の向こうを確かめる方法。


 仲間の位置を意識しながら動く方法。


 あの時は、すべて作られた状況だった。


 失敗しても怒鳴られるだけで済んだ。


 今は違う。


 一つの判断を誤れば、仲間が死ぬ。


 捕らえられれば、二度と地上へ戻れないかもしれない。


 リンクスは自分の呼吸が大きくなっていることに気付き、ゆっくり息を吐いた。


 怖くないわけではない。


 むしろ、怖かった。


 それでも進む。


 ゲルマンドは、自分たちを逃がすために王城へ残った。


 あの時、背中を向けなければならなかった悔しさを、リンクスは一日たりとも忘れていない。


 通路が二つに分かれていた。


 右側からは、わずかに風が流れてくる。


 左側からは、金属が擦れるような音が聞こえた。


 リンクスは左を指した。


 全員が壁に沿って進む。


 通路の先に、鉄格子が見えた。


 その手前には小さな詰所があり、二人の兵が机を挟んで座っている。


 一人はうつむき、もう一人は壁にもたれていた。


 眠っているようにも見える。


 だが、腰には剣がある。


 机の上には鍵束。


 正面から近付けば、すぐに気付かれる。


 リンクスは仲間へ視線を送った。


 クルサが自分を指差し、それから兵の背後へ回り込む仕草をする。


 ラウドは反対側を示した。


 ミレイは小さな石を拾い、通路の奥へ投げた。


 乾いた音が響く。


「何だ。」


 壁にもたれていた兵が顔を上げた。


 もう一人も立ち上がる。


「見てこい。」


「お前が行け。」


「俺は扉を見ている。」


 言い争いながら、一人が通路へ出た。


 その瞬間、ラウドが背後から口を塞ぎ、腕を取った。


 兵が剣へ手を伸ばす前に、クルサが脇腹へ鉄棒の柄を押し当てる。


 声を上げる暇もなく、兵は膝から崩れた。


 詰所に残っていた兵が異変に気付く。


「誰だ!」


 剣を抜き、通路へ飛び出した。


 リンクスは正面から踏み込んだ。


 刃と刃がぶつかり、甲高い音が地下へ響く。


 兵の剣は重かった。


 王城を守る兵だけあり、訓練校の候補生より明らかに力がある。


 リンクスは一歩下がり、相手の二撃目を受け流す。


「侵入者だ! 誰か――」


 叫び切る前に、ミレイが横から足を払った。


 体勢を崩した兵の手首を、リンクスが剣の腹で強く打つ。


 剣が床へ落ちた。


 クルサが背後から腕を回し、兵を押さえ込む。


「殺すな。」


 リンクスが低く言った。


「分かってる。」


 クルサは兵の首筋へ短く打撃を入れた。


 兵の身体から力が抜ける。


 静寂が戻った。


 だが、先ほどの剣戟は確実に響いた。


「急ぐぞ。」


 ラウドが詰所の鍵束を取る。


 鉄格子の向こうには、石造りの廊下が続いていた。


 左右に並ぶ独房。


 どの扉にも小さな覗き窓があり、その奥は暗く見えない。


「教官!」


 リンクスは声を抑えながら呼んだ。


 返事はない。


 もう一度呼ぶ。


「ゲルマンド教官!」


 しばらくして、奥の方から微かな物音がした。


 鎖が床を擦る音。


 続いて、低く掠れた声が返ってくる。


「……その呼び方をする馬鹿は、一人しかおらんな。」


 リンクスの胸が大きく脈打った。


「教官!」


 廊下の最奥。


 右側の独房。


 覗き窓から中を確かめると、石壁に背を預けて座る男の姿が見えた。


 髪も髭も伸び、頬は痩せている。


 手首には鎖。


 衣服は汚れ、肩には乾いた血の跡があった。


 それでも、その目だけは衰えていなかった。


 リンクスの顔を見た瞬間、ゲルマンドは深いため息をついた。


「なぜ戻ってきた。」


「助けに来ました。」


「見れば分かる。」


「なら聞かないでください。」


「お前は昔から、聞かれたことに素直に答えん。」


 掠れた声だった。


 それでも、確かにゲルマンドだった。


 リンクスは胸の奥に溜まっていたものが少しだけほどけるのを感じた。


「鍵を。」


 ラウドが鍵束を順番に試す。


 一つ目。


 合わない。


 二つ目。


 違う。


 三つ目を差し込んだところで、錠の内部から小さな音がした。


 重い扉が開く。


 リンクスはすぐに中へ入った。


「立てますか。」


「誰に言っておる。」


 ゲルマンドは壁へ手をつき、ゆっくり立ち上がろうとした。


 だが、膝に力が入らない。


 身体が傾く。


 リンクスが咄嗟に肩を支えた。


「無理をしないでください。」


「無理をしてここまで来た奴に言われたくない。」


 ゲルマンドは苦笑する。


 近くで見ると、衰弱は想像以上だった。


 腕には打撲の跡があり、唇も乾いている。


 食事も水も十分に与えられていなかったのだろう。


 ミレイが水袋を差し出す。


「少しずつ飲んでください。」


 ゲルマンドは一口だけ飲み、すぐに水袋を下ろした。


「他に捕らえられた者がいる。」


「オーウェンさんですか。」


「ああ。」


 ゲルマンドは廊下の反対側を顎で示した。


「二つ先だ。」


 一行は隣の独房へ向かう。


 覗き窓の奥で、誰かが床に倒れていた。


「オーウェンさん。」


 返事はない。


 リンクスが扉を強く叩く。


「オーウェンさん!」


 ようやく影が動いた。


 ゆっくりと顔を上げる。


「……リンクスか。」


 声は弱い。


 だが意識はあった。


 鍵を開け、扉を押し開く。


 オーウェンは片足を引きずりながら立ち上がった。


「まさか、本当に来るとは思わなかった。」


「教官も同じことを言いました。」


「なら、私たちの考えは正しかったということだ。」


「何がです。」


「お前は、止めても来る。」


 オーウェンは弱々しく笑った。


 ゲルマンドが独房の入口にもたれながら言う。


「笑っている場合か。歩けるのか。」


「あなたよりは。」


「口だけは元気だな。」


 二人のやり取りを聞き、リンクスは少しだけ安心した。


 だが、その時だった。


 遠くから鐘の音が響いた。


 一度。


 二度。


 短い間隔で三度。


 王城内の警報。


 ラウドが振り返る。


「気付かれた。」


 通路の奥から足音が聞こえる。


 複数。


 鎧が擦れる音。


「何人だ。」


 クルサが鉄棒を構える。


「少なくとも六人。」


 ミレイが答える。


「もっと増えるかもしれない。」


 ゲルマンドがリンクスから身体を離した。


「剣を貸せ。」


「無理です。」


「命令だ。」


「今は教官の命令を聞きません。」


「ほう。」


「立つのがやっとでしょう。」


 リンクスはゲルマンドの前へ出る。


「今度は、俺たちが守ります。」


 足音が近付く。


 通路の角から兵たちが現れた。


 先頭の兵が剣を抜く。


「侵入者だ! 捕らえろ!」


 リンクスは剣を構えた。


 狭い通路。


 横に並べるのは二人が限界。


 敵の数が多くても、一度に相手をする人数は限られる。


 ゲルマンドなら、この地形をどう使う。


 リンクスは考える。


「クルサ、前へ。俺と二人で止める。」


「了解。」


「ミレイとラウドは、教官たちを詰所まで下げてくれ。」


「でも――」


「早く!」


 リンクスとクルサが通路を塞ぐ。


 最初の兵が踏み込んだ。


 剣が振り下ろされる。


 リンクスが受け流し、クルサの鉄棒が兵の肩を打つ。


 鎧が衝撃を吸収する。


 兵は倒れず、そのまま体当たりしてきた。


 リンクスは壁へ押し付けられる。


 息が詰まった。


 二人目の兵が横から剣を突き出す。


 クルサが鉄棒で刃を弾く。


「リンクス!」


「大丈夫だ!」


 リンクスは相手の足を踏み、身体を入れ替えた。


 肘を胸当てへ当て、距離を作る。


 剣の柄で顎を打つ。


 一人目がよろめいた。


 だが、後ろから別の兵が押し出してくる。


 通路が狭い分、敵も動きにくい。


 その代わり、一度押し込まれれば逃げ場がない。


「下がるな!」


 クルサが叫ぶ。


「分かってる!」


 リンクスは兵の剣を受けた。


 腕が痺れる。


 相手は訓練校の教官ではない。


 こちらの成長を待ってくれない。


 隙を見せれば、本気で斬られる。


 怖い。


 それでも、後ろには仲間がいる。


 リンクスは歯を食いしばった。


 兵が大きく剣を振り上げる。


 その瞬間、リンクスは一歩踏み込んだ。


 刃が勢いに乗る前に、相手の腕へ肩をぶつける。


 剣筋が逸れ、壁へ火花が散った。


 リンクスは相手の手首を掴み、身体を回す。


 兵が床へ倒れた。


「今だ!」


 クルサの鉄棒が床を叩く。


 倒れた兵の剣を弾き飛ばし、後続の足を止めた。


 だが、通路の奥からさらに兵が現れる。


「きりがない!」


 クルサが叫ぶ。


 その時、背後から低い声がした。


「右へ退け。」


 ゲルマンドだった。


「教官!」


「一度しか言わん。退け。」


 リンクスとクルサが反射的に左右へ身を引く。


 ゲルマンドはラウドの肩を借りながら前へ出ていた。


 手には、先ほど倒した兵の剣。


 立っているだけでも苦しいはずなのに、剣を構えた瞬間、空気が変わった。


 肩の力は抜けている。


 剣先はわずかに下がっている。


 一見すれば隙だらけ。


 それでも、向かい合った兵たちが足を止めた。


「ゲルマンド……。」


 誰かがその名を呟く。


 王城兵の中にも、元英雄の名を知らぬ者はいない。


「剣を捨てろ。」


 先頭の兵が言う。


「あなたまで反逆者になるつもりか。」


「反逆者を決めるのは、お前ではない。」


「命令に背けば、そうなります。」


「命令が誤っていてもか。」


「我々は判断する立場ではない。」


「それが、お前たちの弱さだ。」


 兵が踏み込んだ。


 ゲルマンドは動かない。


 刃が届く直前、ほんの少し身体を傾ける。


 兵の剣が空を切った。


 次の瞬間、ゲルマンドの剣先が兵の喉元へ止まっていた。


 誰も動けなかった。


 速かったわけではない。


 力強かったわけでもない。


 相手がどこへ踏み込み、どこへ剣を振るのか。


 すべてを最初から知っていたかのような動きだった。


「退け。」


 ゲルマンドがもう一度言う。


 兵は歯を食いしばる。


 だが後ろにいる指揮官らしき男が叫んだ。


「怯むな! 相手は負傷している!」


 兵たちが一斉に前へ出る。


「馬鹿者が。」


 ゲルマンドは小さく息を吐いた。


 一人目の剣を弾く。


 二人目の手首を打つ。


 三人目の足を払う。


 ほとんどその場から動いていない。


 それでも兵たちは次々と体勢を崩した。


 リンクスは目を見開く。


 訓練校では何度もゲルマンドの剣を見た。


 だが、今の動きはまるで違う。


 候補生へ教えるための剣ではない。


 戦場を生き抜いた者の剣。


 相手を殺さず、それでも確実に戦う力を奪う。


 元英雄と呼ばれた理由が、言葉ではなく一太刀ごとに示されていた。


 しかし、長くは続かなかった。


 ゲルマンドの膝が僅かに揺れる。


 呼吸が乱れる。


 剣先が下がった。


 兵の一人がその隙を見逃さない。


 横薙ぎの刃がゲルマンドへ迫る。


「教官!」


 リンクスが間へ飛び込んだ。


 剣を受け止める。


 衝撃で腕が痺れる。


 だが、今度は下がらなかった。


「無茶をするなと言ったでしょう。」


「お前にだけは言われたくない。」


 ゲルマンドが苦く笑う。


「ここからは一緒です。」


「……勝手にしろ。」


 リンクスとゲルマンドが並ぶ。


 クルサも前へ出る。


 ミレイとラウドはオーウェンを支えながら、詰所へ続く格子を開けていた。


「退路を確保した!」


 ラウドが叫ぶ。


「下がりながら戦うぞ!」


 リンクスが言う。


 ゲルマンドがすぐに答える。


「違う。順番に下がれ。」


「え?」


「全員で動けば背中を見せる時間が長くなる。二人が止め、二人が下がる。交代しながら進め。」


 短い言葉で、やるべきことが明確になる。


 リンクスとクルサが前を守る。


 ゲルマンドが一歩下がる。


 次にリンクスが下がり、ゲルマンドとクルサが兵を止める。


 狭い通路を少しずつ戻る。


 兵たちは数で押そうとするが、一度に前へ出られる人数は限られていた。


 それでも警報は鳴り続けている。


 別の通路から増援が来るのは時間の問題だった。


 詰所まで戻ると、オーウェンが机の下から古びた図面を引き出していた。


「何をしているんです。」


 ミレイが尋ねる。


「この牢は、元々牢ではない。」


「どういうことですか。」


「古い保管区画を改造したものだ。記録に間違いがなければ、裏側に搬出路がある。」


 オーウェンは壁を探り、石の継ぎ目へ指を入れる。


 しかし何も動かない。


「場所が違うのか。」


 兵たちの足音が近付く。


 リンクスたちは格子を閉め、鍵を掛けた。


 すぐに反対側から剣が鉄格子を叩く。


「開けろ!」


「破城槌を持ってこい!」


 時間がない。


 オーウェンは壁を叩きながら記憶を辿る。


「保管庫の印……三本線の下に円……。」


 ラウドが床へ膝をついた。


「これじゃないですか。」


 机の脚に隠れる位置。


 床石の一枚に、擦り減った小さな印があった。


 オーウェンが手を当てる。


 押しても動かない。


 リンクスは王権の鍵を取り出した。


 鍵の指輪部分が、再び青白く光っている。


「これを使えないでしょうか。」


「試せ。」


 床石の中央に、小さな窪みがあった。


 鍵の先端を差し込む。


 低い振動。


 床石がわずかに沈み、そのまま横へ滑った。


 冷たい風が吹き上がる。


 下へ続く細い階段が現れた。


「行け!」


 ゲルマンドが叫ぶ。


 オーウェンを先頭に、ミレイとラウドが階段へ入る。


 クルサも続く。


 鉄格子が大きく歪んだ。


 兵たちが破城槌を打ち付けている。


「リンクス、先に行け。」


「教官が先です。」


「また同じことを言わせるな。」


「今度は置いていきません。」


 リンクスはゲルマンドの腕を肩へ回した。


「一緒に行くって決めたんです。」


 ゲルマンドは何か言おうとした。


 だが、鉄格子が外側へ大きく曲がる。


「頑固者め。」


「教官に教わりました。」


 二人は階段へ飛び込んだ。


 リンクスが鍵を抜くと、床石がゆっくり元の位置へ戻る。


 直後、上から鉄格子の砕ける音が聞こえた。


 暗闇。


 足元しか見えない細い階段。


 全員が壁へ手をつきながら下る。


 背後から、床を叩く音が響く。


 兵たちは隠し通路の入口を探している。


「この先はどこへ続く。」


 クルサが尋ねる。


「旧搬出路だ。」


 オーウェンが息を切らしながら答える。


「王城の建設資材を運んだ道だと記録にはあった。今も外へ繋がっていれば、城壁の北側へ出られる。」


「繋がっていなかったら。」


「全員で戻って謝るしかないな。」


「冗談を言えるなら大丈夫そうですね。」


 ミレイが言う。


「そう聞こえたか。」


 階段の先に、横穴が続いていた。


 天井は低く、ところどころ崩れている。


 古い木材が支柱として残っているが、腐食が進み、触れれば崩れそうだった。


 一行は慎重に進む。


 ゲルマンドの足取りは次第に重くなっていた。


 リンクスは肩へ掛かる体重が増えていくのを感じる。


「少し休みますか。」


「止まるな。」


「でも。」


「追手は諦めん。」


 ゲルマンドの言葉通り、遠くで石が動く音がした。


 入口を見つけられた。


「急ごう。」


 ラウドが先を照らす。


 通路は何度も曲がり、少しずつ上り坂になっていた。


 空気に土と草の臭いが混じり始める。


 外が近い。


 だが、その直前で道が崩れていた。


 岩と土砂が通路を塞ぎ、人一人が通れる隙間もない。


「嘘だろ。」


 クルサが岩を押す。


 動かない。


 後方から足音。


 兵たちの声。


「いたぞ!」


「逃がすな!」


 ミレイが周囲を見回す。


「別の道は?」


「図面にはない。」


 オーウェンの顔から血の気が引く。


 リンクスは崩落した岩へ手を当てた。


 隙間から風が流れている。


 完全に塞がれているわけではない。


「向こうは外です。」


「なら壊すぞ。」


 クルサが鉄棒を岩の間へ差し込む。


 ラウドも加わる。


 ミレイは小さな石を取り除く。


 リンクスはゲルマンドを壁へ座らせ、剣を構えて後ろを向いた。


「ここは俺が止めます。」


「一人でか。」


 ゲルマンドが立ち上がろうとする。


「教官は休んでください。」


「できると思うか。」


「できなくても、休んでください。」


 兵たちの灯りが見えた。


 リンクスは通路の中央へ立つ。


 幅は一人分しかない。


 ここなら、後ろへ通さずに済む。


 最初の兵が剣を突き出した。


 リンクスは壁際へ避け、柄で腕を打つ。


 二人目が続く。


 剣を受ける。


 狭すぎて大きく振れない。


 だからこそ、短い動きが重要になる。


 ゲルマンドの剣を思い出す。


 速さではない。


 相手が動く前に、その先を読む。


 兵の肩が上がる。


 上段。


 足が外へ開く。


 横薙ぎ。


 視線が一瞬リンクスの後ろへ向く。


 仲間を狙う。


「行かせない。」


 リンクスは前へ踏み込んだ。


 相手の懐へ入り、剣の柄を胸当てへ打ち込む。


 兵がよろめく。


 後続とぶつかり、通路が詰まる。


「今だ、押せ!」


 クルサの声。


 岩が僅かに動く。


 外の光が一本、暗い通路へ差し込んだ。


「もう少し!」


 ラウドが叫ぶ。


 兵の一人が仲間を押し退けて進んでくる。


 体格の大きな男だった。


 狭い通路でも構わず盾を前へ出し、リンクスを押し潰そうとする。


 剣が届かない。


 リンクスは盾を受け止めた。


 靴底が土を滑る。


 一歩。


 二歩。


 後ろへ押される。


「リンクス!」


 ミレイの声。


 このままでは、作業している仲間まで押し込まれる。


 リンクスは盾の上端へ手を掛けた。


 力では勝てない。


 相手の重心を見る。


 前へ押すことだけに集中し、身体が傾いている。


 リンクスは突然抵抗を止めた。


 盾兵の身体が前へ流れる。


 その横へ回り込み、膝裏を蹴る。


 巨体が地面へ落ちた。


 リンクスは盾を奪い、通路へ斜めに押し込んだ。


 即席の障壁。


 兵たちが盾をどかそうとする。


「開いた!」


 背後で風が吹き込んだ。


 人一人が通れる穴。


 ミレイが先に外へ出る。


 続いてオーウェン。


 ラウド。


 クルサ。


「教官!」


 ゲルマンドは自力で立ち上がっていた。


 リンクスが肩を貸し、穴へ向かう。


 盾が大きく揺れる。


 兵たちが突破しようとしている。


「急げ!」


 クルサが外から手を伸ばす。


 ゲルマンドを先に押し出す。


 リンクスが最後に穴へ身体を滑り込ませた瞬間、盾が倒れた。


 兵の剣が背中をかすめる。


 熱い痛み。


 だが止まらない。


 外へ転がり出る。


「崩せ!」


 ラウドとクルサが支えを抜いた。


 入口周辺の土が崩れ、岩が再び穴を塞ぐ。


 内側から兵たちの怒号が聞こえる。


 しかし、すぐには出てこられない。


 一行が辿り着いたのは、王城北側の斜面だった。


 空はまだ暗い。


 東の端だけが薄く白んでいる。


 見上げれば、城壁が木々の向こうに高くそびえていた。


 地上の空気。


 湿った草。


 遠くで鳴く鳥。


 リンクスは初めて、自分たちが本当に地下から出たのだと実感した。


「止まるな。」


 ゲルマンドが言う。


「城壁から離れるまで走れ。」


 全員が森へ入った。


 枝が顔を打つ。


 木の根に足を取られる。


 疲労で身体が重い。


 それでも走った。


 背後では王城の警報が鳴り続けている。


 見張り台に松明が灯る。


 城門が開く音。


 追跡隊が出る。


 リンクスはゲルマンドの腕を肩へ回し、何度も足をもつれさせながら進んだ。


「教官、しっかりしてください。」


「お前の方こそ、背中から血が出ておるぞ。」


「浅いです。」


「見てもいないのに分かるのか。」


「痛いだけなので大丈夫です。」


「それを大丈夫とは言わん。」


 木々の間を抜ける。


 やがて王城の姿が見えなくなる。


 警報の音も遠ざかる。


 誰も口を開かない。


 ただ前へ。


 夜明け前の森を、一行は駆け続けた。


*****


 その頃、世界の頂上では。


 朝日がまだ届かない高度で精霊たちの街があった。


 巨大な樹の最上層。


 いくつもの尖塔に囲まれた監視区画では、夜も昼も変わらない青白い光が満ちている。


 中央の部屋には、壁一面を覆う透明な結晶板が並んでいた。


 山脈を越える旅人。


 海を渡る船。


 砂漠を進む隊商。


 人々の暮らす都市。


 魔物の潜む森林。


 世界各地の光景が、音もなく映し出されている。


 その中の一枚だけが、強く明滅した。


 王城地下。


 長い年月、沈黙を保っていた遺構。


 その内部で、閉ざされていた通路が開き、複数の生命反応が地上へ移動している。


 監視役の青年は、結晶板の前に立っていた。


 白い長衣。


 背中まで伸びた銀髪。


 感情を読ませない静かな瞳。


 指先を結晶板へ触れると、光が波紋のように広がった。


 王城地下の立体図が浮かび上がる。


 崩れた搬出路。


 閉じられた独房。


 森へ向かって移動する小さな光点。


 その一つは弱く、もう一つはさらに不安定に明滅していた。


 扉が静かに開く。


 同じ装束をまとった女性が、足音も立てずに入ってきた。


「反応がありましたか。」


「ああ。」


 青年は結晶板から目を離さない。


「旧い扉が開かれた。」


「誰が。」


「地上の者だ。」


「許可を受けずに?」


「彼らに、我々の許可という概念はない。」


 女性は結晶板に映る光点を見つめた。


 森の中を進む者たち。


 追跡する別の光。


 両者の距離は少しずつ縮まっている。


「追われています。」


「ああ。」


「介入しますか。」


 青年は答えなかった。


 監視区画の中央にある巨大な結晶盤が、ゆっくりと光を放つ。


 盤面には世界の輪郭が描かれている。


 大陸。


 海。


 山脈。


 無数の都市。


 その一角で、王城を離れた小さな光が西へ動いていた。


「このままでは、捕まる可能性があります。」


 女性がもう一度言う。


「助けられます。」


「助けることはできる。」


「なら。」


「だが、まだその時ではない。」


 青年は静かに首を横へ振った。


「彼らは、自ら扉を開いた。」


「自ら仲間を救い。」


「自ら地上へ戻った。」


 結晶板の中で、一つの光が倒れそうになり、隣の光がそれを支える。


「彼らはまだ、自ら歩ける。」


 女性は黙ってその様子を見つめた。


「見守ることも、我らの役目だ。」


「どこまで見守るのです。」


「自ら歩く意思を失うまで。」


「それでは遅いのでは。」


「早すぎる救いは、選ぶ力を奪う。」


 青年の声は穏やかだった。


 だが、その言葉の奥には、長い時間を見続けてきた者だけが持つ重さがあった。


 女性はしばらく何も言わない。


 やがて、結晶盤の上で追跡側の光が止まった。


 森の地形に遮られ、進路を見失ったのだろう。


 逃げる者たちの光は、さらに西へ進んでいく。


「危機は遠ざかりました。」


「一時的にな。」


「彼らは、どこへ向かうのでしょう。」


 青年は西へ動く光を見つめた。


 その先には山脈がある。


 さらに向こうには、王国の地図には詳しく記されていない土地が広がっている。


 そして、遥か遠く。


 世界のどの地図にも正しく記されていない空の都市。


「いずれ、ここへ辿り着く。」


 青年が小さく呟いた。


「彼らが望めば。」


「望まなければ。」


「別の道を歩くだけだ。」


 監視塔に静寂が戻る。


 世界は今日も、誰かの選択によって少しずつ形を変えている。


 監視役たちは、その流れへ手を伸ばさない。


 ただ見届ける。


 必要な時が訪れるまで。


*****


 王城の地下通路を抜けた一行は、夜明け前の森を駆け続けていた。


 東の空は、ようやく薄い青へ変わり始めていた。


 夜が終わる。


 だが、リンクスたちの逃亡は、まだ始まったばかりだった。


王城の地下通路を抜けた一行は、夜明け前の森を駆け続けていた。


枝葉を踏みしめる音だけが静かな森に響く。


誰も口を開かない。


立ち止まれば、追手に追いつかれる。


その思いだけが全員を前へ進ませていた。


やがて山道へ入り、王都を見下ろせる尾根まで辿り着く。


リンクスはようやく足を止めた。


遠くには王城オルグハルが朝日に照らされ、その周囲では兵たちが慌ただしく動いているのが見えた。


「もう気付かれたか……。」


ラウドが息を整えながら言う。


「地下牢の異変も、地下施設の扉が開いたことも、全部知られたはずだ。」


クルサは苦笑した。


「俺たち、もう立派なお尋ね者だな。」


「笑い事じゃない。」


ミレイは肩で息をしながら王都を見つめる。


「もう訓練校にも戻れない……。」


その言葉に誰も返事ができなかった。


候補生だった日々。


仲間たちと剣を振るった訓練場。


教官に叱られながらも夢を語り合った時間。


その全てが、一夜で遠いものになってしまった。


ゲルマンドが静かに歩みを止めた。


「すまなかった。」


突然の謝罪に、全員が顔を上げる。


「わしがもっと早く動いていれば、お前たちは巻き込まれずに済んだ。」


リンクスは首を振った。


「違います。」


「……。」


「教官がいたから、俺たちはここまで来られたんです。」


ゲルマンドは何も言わなかった。


ただ、その表情だけが少しだけ柔らかくなった。


オーウェンが近くの倒木へ腰を下ろす。


逃げ続けた疲労が色濃く残っていた。


「少し休もう。」


リンクスも隣へ座る。


「オーウェンさん。」


「何だ。」


「地下のあの場所……知っていたんですか。」


オーウェンは少し考え、小さく首を横へ振った。


「存在は知っていた。」


「存在だけ?」


「記録院には、王城地下に古い遺構があるという文献だけが残されていた。」


「入ったことは?」


「ない。」


オーウェンは苦く笑う。


「王直属の許可なく入れば反逆罪だ。」


リンクスは地下で見た巨大な台座を思い出していた。


五十の窪み。


古代文字。


王国では到底造れない構造。


「あれは王国のものじゃない。」


オーウェンも同じ考えだった。


「少なくとも、今の王家が築いた施設ではない。」


ゲルマンドも静かに口を開く。


「騎士団でも地下施設の存在は噂程度だった。」


「教官も知らなかったんですか。」


「知らん。」


ゲルマンドは苦笑する。


「昔、地下へ近付くなと言われたことはある。理由は誰も教えてくれなかった。」


沈黙が流れる。


誰も真実を知らない。


知れば知るほど、王国の歴史には空白が多すぎた。


その時だった。


ラウドが耳を澄ませる。


「誰か来る。」


全員が一斉に身構えた。


森の奥から聞こえてくる足音。


兵士ではない。


一定の速さで、一人だけが歩いてくる。


リンクスは剣へ手を添えた。


やがて木々の間から現れたのは、一人の老人だった。


粗末な外套を羽織り、背中には大きな荷袋を背負っている。


老人は一行を見ると足を止めた。


「……騎士様か。」


リンクスは警戒を解かない。


「あなたは。」


老人はゆっくりと笑った。


「旅商人じゃ。」


荷袋を下ろし、水筒を差し出す。


「追われておる顔をしている。」


クルサは受け取ろうとしたが、ゲルマンドが静かに制した。


老人はその様子を見て苦笑する。


「警戒するのも無理はない。」


そして王都を振り返った。


「今朝から兵が騒いでおる。」


「何かあったんですか。」


リンクスが尋ねる。


「城へ賊が侵入したそうじゃ。」


老人は肩をすくめた。


「街では銀髪の若者が首謀者だと噂になっておる。」


リンクスは思わず拳を握った。


もう、自分たちは王国中の追われる身なのだ。


老人は荷袋を背負い直した。


「西へ向かうなら、古い街道を使うといい。」


「なぜ教えてくれるんですか。」


老人は少しだけ笑う。


「昔、この人に助けられたことがある。」


そう言って、ゲルマンドを見る。


ゲルマンドは驚いたように目を細めた。


「……覚えておらん。」


「英雄というのは、そういうものじゃ。」


老人は軽く頭を下げると、そのまま森の中へ消えていった。


静寂が戻る。


クルサが呟く。


「教官、やっぱり有名人なんですね。」


ゲルマンドは照れくさそうに鼻を鳴らした。


「昔の話だ。」


しかしリンクスは思った。


訓練校では厳しい教官だった。


だが、それ以前のゲルマンドは、多くの人を救い、王国中を駆け回った英雄だったのだ。


その背中を、自分はまだ何も知らない。


リンクスは立ち上がる。


「行きましょう。」


ゲルマンドも静かに頷く。


「ああ。」


一行は再び歩き始める。


王国を離れるためではない。


真実へ近づくために。


そして、その旅の先で、ゲルマンドが語ることになる"英雄時代"の物語を、この時のリンクスたちはまだ知らなかった。



王都を離れて二日が過ぎた。


一行は老人から教えられた西街道を進んでいた。


かつて交易路として栄えた道だったが、今では利用する者も少なく、石畳は雑草に覆われ始めている。


左右には深い森が広がり、時折、荷馬車の轍だけが昔の賑わいを物語っていた。


「今日はここまでにするか。」


ゲルマンドが空を見上げる。


日が傾き始めていた。


「この先は街まで距離がある。夜道を進むより、ここで野営した方が安全だ。」


誰も異論はなかった。


ラウドは慣れた手つきで薪を集め、クルサは近くの沢へ水を汲みに向かう。


ミレイは荷物を整理しながら、簡単な食事の準備を始めた。


リンクスは火を起こすゲルマンドの隣へ腰を下ろした。


「教官。」


「どうした。」


「俺たち、本当にこのまま王国を出るんですか。」


焚き火に火が灯る。


乾いた薪が小さく音を立てた。


ゲルマンドは炎を見つめたまま答える。


「今は戻れん。」


「……。」


「王都へ戻れば、お前たちは罪人として捕らえられる。」


リンクスも分かっていた。


王城へ侵入した事実は消えない。


地下施設を見たことも、王国にとっては知られてはならないことだった。


「だが、逃げ続けるつもりもない。」


ゲルマンドは静かに続けた。


「世界を知る。」


「世界を……。」


「王国の外には、お前たちが知らない歴史がある。」


リンクスは地下で見た五十の窪みを思い出す。


「あの台座も、その一つなんですか。」


「分からん。」


ゲルマンドは首を振った。


「だが、あれは王国だけで生まれたものではない。」


「じゃあ、どこで。」


「それを探すのが、これからのお前たちの旅になる。」


その言葉に、リンクスは少しだけ胸が高鳴った。


訓練校では教わらなかった世界。


王都の外に広がる未知。


そこに、自分の知らない答えがある。


食事を終えた頃には、空一面に星が広がっていた。


クルサは草の上へ寝転び、大きく息を吐く。


「こうしてると、逃亡中って感じしないな。」


「油断するな。」


ラウドは周囲へ視線を向けたままだった。


「追手が来てもおかしくない。」


「分かってるって。」


クルサは笑ったが、その手は鉄棒から離れていなかった。


その夜。


リンクスは一人、少し離れた岩場に座っていた。


王都の方角を見つめる。


遠くに灯る明かりは、もう小さくしか見えない。


「眠れないか。」


振り返ると、ゲルマンドが立っていた。


「少しだけ。」


ゲルマンドは隣へ腰を下ろす。


「昔、わしも同じ景色を見た。」


「教官も。」


「ああ。」


短い返事だった。


「英雄なんて呼ばれる前の話だ。」


リンクスは初めて、その言葉に興味を持った。


「教官は、どんな旅をしたんですか。」


ゲルマンドは少しだけ笑う。


「今度話そう。」


「今じゃないんですか。」


「長くなる。」


二人は顔を見合わせ、小さく笑った。


「一つだけ教えてやる。」


ゲルマンドは星空を見上げる。


「英雄っていうのはな。」


「はい。」


「誰より強い奴のことじゃない。」


リンクスは黙って聞いていた。


「何度倒れても、立ち上がる奴のことだ。」


静かな夜風が森を吹き抜ける。


その言葉は、リンクスの胸に深く刻まれた。


その頃――。


遥か上空。


雲海の彼方を漂う浮遊都市アークディア。


中央区画にある監視室では、アークディア所属の工作員。潜入や調査任務を担当しているリエラが静かに水晶盤を見つめていた。


盤面には世界各地の光が映し出され、その中で一つだけ、小さな揺らぎが西へと移動している。


「……動き始めたか。」


リエラは小さく呟く。


隣に立つもう一人の監視役が尋ねた。


「報告しますか?」


「まだ必要ない。」


「しかし。」


「この世界の情報収集が我らの役目だ。」


リエラは静かに目を閉じた。


「彼らが選ぶ道に、今は干渉しない。」


再び水晶盤へ視線を戻す。


そこには、王国を離れ、西へ歩き続ける五人の小さな光が映っていた。


朝霧が森を包んでいた。


鳥のさえずりだけが静かに響き、昨夜の焚き火は白い煙を細く上げている。


リンクスは早くから目を覚まし、一人で剣を振っていた。


何度も。


何度も。


同じ型を繰り返す。


王都を離れてから、初めて剣を握る。


教官を救い出した安心よりも、自分の未熟さの方が心に残っていた。


王城では何もできなかった。


地下施設の謎も。


王国の真実も。


結局、自分は教官に守られていただけだった。


「肩に力が入りすぎだ。」


後ろから声がした。


振り返ると、ゲルマンドが腕を組んで立っていた。


「教官……。」


「剣は腕で振るものじゃない。」


ゲルマンドはリンクスの剣を受け取ると、ゆっくりと構えた。


力は入っていない。


だが、隙もない。


ほんの一歩踏み込んだだけで、圧倒的な存在感が伝わってくる。


「敵を見るな。」


「え?」


「敵だけを見れば、視野が狭くなる。」


ゲルマンドは剣を下ろした。


「風も、地面も、仲間も見る。」


「全部ですか。」


「全部だ。」


リンクスは改めて構える。


言われた通り周囲へ意識を広げる。


鳥の羽音。


木々の揺れ。


ミレイたちが朝食の準備をする音。


今まで聞こえていなかったものが、不思議とはっきり耳へ届いた。


「そうだ。」


ゲルマンドは満足そうに頷いた。


「剣は目だけで振るものじゃない。」


そのやり取りを見ていたクルサが笑う。


「始まったな。」


「教官の朝稽古。」


ミレイも微笑んだ。


「訓練校みたい。」


その言葉に、全員が少しだけ黙る。


訓練校。


もう戻れない場所。


その名前を聞くだけで胸が締め付けられる。


食事を終えた後、一行は再び西へ歩き始めた。


昼過ぎ、小高い丘へ差しかかった時だった。


遠くに王都が見える。


城壁も。


訓練校の白い建物も。


山の上からなら、小さくだが見渡すことができた。


リンクスは思わず立ち止まった。


「オルグハル……。」


毎日通った訓練場。


仲間と笑い合った食堂。


叱られた教室。


すべてが、あの都市にある。


ゲルマンドも静かに立ち止まる。


しばらく何も言わず、その景色を見つめていた。


やがて小さく息を吐く。


「長かったな。」


誰へ向けた言葉でもなかった。


騎士として戦い続けた日々。


英雄と呼ばれた時代。


そして訓練校で教官として過ごした年月。


その全てを思い返しているようだった。


リンクスが静かに尋ねる。


「教官。」


「なんだ。」


「また……戻れますか。」


ゲルマンドは王都から目を離さなかった。


長い沈黙が流れる。


風だけが草原を渡っていく。


「いや。」


その一言には迷いがなかった。


「戻らん。」


ミレイが驚いて顔を上げる。


「教官……。」


「騎士団にも。」


「訓練校にも。」


ゲルマンドは静かに笑った。


「わしが教えられることは、あそこで教え切った。」


リンクスは何も言えない。


ゲルマンドは続けた。


「だが、お前たちにはまだ教えなければならんことが山ほどある。」


「世界のことですか。」


「ああ。」


「王国の外には、まだ見ぬ国がある。」


「様々な文化がある。」


「様々な戦い方がある。」


「様々な生き方がある。」


「訓練校だけでは、それは学べん。」


リンクスはゆっくりと頷いた。


ゲルマンドの言葉には、不思議と迷いがなかった。


「だから。」


ゲルマンドは四人を見渡す。


「これから先は、教官としてではなく、一人の旅人として、お前たちと歩こう。」


クルサが笑う。


「俺は今まで通り教官って呼びますけどね。」


「好きにしろ。」


ゲルマンドも珍しく笑みを浮かべた。


その表情は、訓練校で見せていた厳しい教官の顔ではなかった。


一人の旅人として、新しい道を歩き始める男の顔だった。


その日の夕暮れ。


丘を越えた先に、小さな街道宿が見えてきた。


王国西部へ向かう旅人たちが立ち寄る、古びた宿場町。


リンクスは初めて王都以外の街へ足を踏み入れる。


これまで世界は王国だけだと思っていた。


しかし、その外にはまだ見ぬ景色が広がっている。


そして、その景色の先に、自分たちが追い求める答えがある。


リンクスは夕日に染まる街道を見つめながら、小さく拳を握った。


「行きましょう、教官。」


「ああ。」


五人は歩き出す。


王国へ戻るためではない。


世界を知るために。


そして、いつの日か、自分たちの信じる答えを見つけるために。


宿場町で一夜を明かした翌朝、一行は夜明けとともに出発した。


街はまだ静かだった。


パンを焼く香りが路地に漂い、商人たちが荷馬車の準備を始めている。


王都では当たり前だった朝の景色も、ここではどこか穏やかだった。


「今日は国境まで行けそうですね。」


ミレイが地図を広げる。


オーウェンが頷いた。


「この街道を真っ直ぐ進めば、西の関所がある。」


「そこを越えれば王国の外ですか。」


「いや。」


オーウェンは首を横に振る。


「関所を越えてもしばらくは王国領だ。本当の国境はさらに西にある。」


リンクスは地図を覗き込む。


訓練校では王国の地理しか教わらなかった。


地図の端に描かれた隣国の名前も、名前を覚えた程度だった。


「こんなに広かったのか……。」


ゲルマンドが静かに笑う。


「世界は、お前が思っているよりずっと広い。」


街道を歩き続けること数時間。


丘を越えると、大きな石造りの関所が姿を現した。


高い城壁。


左右に並ぶ見張り台。


荷馬車の列。


旅人や商人が順番を待っている。


ラウドの表情が険しくなる。


「様子がおかしい。」


普段より兵士の数が明らかに多い。


関所の入口では、一人ひとりの荷物まで確認している。


「王都から連絡が来たんでしょうね。」


ミレイが小さく呟く。


クルサがため息をつく。


「俺たち、有名人だな。」


リンクスは兵士たちの様子を見つめていた。


入口の壁には、一枚の紙が貼られている。


距離があって内容は読めない。


だが、兵士たちが何度もその紙を指差している。


「手配書か。」


ゲルマンドが静かに言った。


リンクスは拳を握る。


「もう顔まで知られてるかもしれません。」


「慌てるな。」


ゲルマンドは落ち着いた声で言う。


「正面から行く必要はない。」


オーウェンが地図を広げた。


「関所の北側には古い山道があります。」


「使えるんですか。」


「昔、記録院の調査で一度だけ通りました。」


ラウドが地形を確認する。


「荷馬車は通れないでしょうが、人なら行けそうです。」


「決まりだな。」


一行は街道を外れ、山の斜面へ向かった。


人の手がほとんど入っていない細い獣道。


足場は悪く、所々で崩れている。


クルサが前を歩き、倒木をどかしながら進む。


ミレイは後ろから周囲を警戒する。


その時だった。


遠くから角笛が聞こえた。


関所の方角だ。


兵士たちの怒号も風に乗って届く。


ラウドが木の陰から様子を窺う。


「見つかったわけじゃない。」


「じゃあ何だ。」


「関所を出る隊がいる。」


数十人規模の騎兵隊が街道へ出ていくのが見えた。


リンクスはその姿を見つめる。


「王国中を捜すつもりなのか……。」


ゲルマンドは騎兵隊を見送りながら静かに言った。


「これから先、お前たちは追われ続ける。」


「怖いか。」


突然の問いだった。


リンクスは少しだけ考えた。


「……怖いです。」


正直な答えだった。


ゲルマンドは満足そうに頷く。


「それでいい。」


「え?」


「恐怖を知らん者は、生き残れん。」


リンクスは教官の横顔を見る。


英雄と呼ばれた男も、恐怖を知っている。


だからこそ、何度も戦場から生きて帰ってきたのだ。


夕方。


一行は関所を見下ろす尾根へ辿り着いた。


ここまで来れば、兵士の姿も見えない。


振り返ると、王国の景色が夕日に染まっていた。


リンクスは静かに頭を下げる。


「また戻ってきます。」


その言葉は王国への別れではない。


真実を知ったその先で、自分の意志で帰ってくるという決意だった。


ゲルマンドは何も言わなかった。


ただ、その言葉を聞いて、小さく頷いた。


五人は再び西へ歩き始める。


王国の歴史しか知らなかった若者たちは、ようやく世界への第一歩を踏み出した。


その旅路の先で待つものが希望か、それとも新たな試練か――まだ誰にも分からなかった。


西へ向かう街道は、少しずつ表情を変え始めていた。


王都周辺では整然と並んでいた畑も、今では起伏のある丘陵へと変わり、森の色も深くなる。


街道を歩く旅人の服装も様々だった。


商人。


傭兵。


巡礼者。


王都では見かけなかった人々が同じ道を行き交っている。


リンクスは周囲を見回しながら歩いていた。


「こんなに人がいるんですね。」


オーウェンが微笑む。


「西街道は昔から交易路です。王国の外と繋がる数少ない道ですから。」


「訓練校では教わりませんでした。」


「王国の外へ出る騎士は、それほど多くありませんからね。」


その言葉を聞いたゲルマンドは苦笑した。


「魔物討伐に行ったことがあったな」


「魔物討伐?」


「何度もある。」


クルサは思わず足を止めた。


「え?」


ゲルマンドは前を向いたまま話し始める。


「英雄と呼ばれる前だ。」


「騎士になって間もない頃、わしも何度か国境を越えた。」


「何をしにですか。」


「主にドラゴンを倒しに行った」


「他国との共同任務。」


どれも訓練校では詳しく聞いたことがない話だった。


「その頃は、今より国同士の交流も多かった。」


ゲルマンドは少しだけ懐かしそうに笑う。


「外へ出て初めて、自分がどれほど狭い世界しか知らなかったか思い知った。」


リンクスはその言葉を胸の中で繰り返した。


自分も今、同じ場所に立っているのかもしれない。


昼過ぎ、一行は小さな町へ到着した。


町を囲む石壁は低く、王都のような威圧感はない。


門番も二人だけだった。


「ここは?」


「ベルトス。」


オーウェンが答える。


「王国西部では一番大きな宿場町です。」


町へ入ると、様々な言葉が飛び交っていた。


聞き慣れた王国の言葉だけではない。


リンクスには意味の分からない言葉も聞こえてくる。


「他国の人ですか。」


「ああ。」


ゲルマンドが頷く。


「この辺りは昔から交易が盛んだった。」


市場には珍しい果物や布、見たこともない細工品が並んでいた。


クルサは目を輝かせる。


「すげぇ……。」


ミレイも興味深そうに店を見回す。


「こんなの初めて見た。」


リンクスは市場を歩きながら思った。


同じ世界なのに、自分は何も知らなかった。


その時だった。


ゲルマンドが一軒の武器屋の前で立ち止まる。


店先には様々な剣が並んでいた。


王国の剣とは形が違う。


細身のもの。


幅広のもの。


片刃のもの。


一本一本が異なる特徴を持っている。


「全部、剣なんですか。」


リンクスが尋ねる。


「そうだ。」


ゲルマンドは一本の剣を手に取った。


「国が違えば戦い方も違う。」


「だから剣も違う。」


「これが正しいという形はない。」


そう言って静かに剣を戻す。


「リンクス。」


「はい。」


「剣を学ぶということは、人を学ぶということだ。」


「人を……。」


「生き方が違えば、剣も違う。」


「守るものが違えば、戦い方も変わる。」


リンクスは店先の剣を見つめた。


訓練校では王国式の剣術だけを学んできた。


それが全てだと思っていた。


だが世界には、まだ知らない剣が無数にある。


知らない国がある。


知らない人々がいる。


ゲルマンドは歩き出した。


「急ぐ旅ではある。」


「だが、焦る必要はない。」


「お前たちは、これから少しずつ世界を知ればいい。」


リンクスは静かに頷いた。


王城から始まった逃避行は、いつの間にか旅へと姿を変え始めていた。


そして、その旅はリンクスたちだけのものではない。


元英雄ゲルマンドもまた、自ら選んだ新しい道を歩き始めていた。


ベルトスで一夜を明かした翌朝、一行は町外れの広場へ向かっていた。


宿の主人から、「朝になると旅人や傭兵が集まる」と聞いたからだった。


広場では荷馬車の点検をする商人や、武器の手入れをする傭兵たちが思い思いに朝を迎えている。


その様子を眺めながら歩いていると、不意に一人の老人がゲルマンドの前で足を止めた。


老人はしばらく顔を見つめると、目を大きく見開いた。


「……まさか。」


ゲルマンドは不思議そうに首を傾げる。


「どこかでお会いしたかな。」


老人は震える手で胸に拳を当てた。


「忘れられても無理はありません。」


「ですが、私は忘れたことがありません。」


周囲の旅人たちも足を止める。


老人は静かに頭を下げた。


「あの時、国境の砦で私たちを助けてくださった騎士様ですね。」


リンクスたちは顔を見合わせた。


ゲルマンドは少し考え、小さく笑った。


「……西の砦か。」


「はい。」


「魔物の群れに囲まれた村です。」


「ああ……。」


ようやく思い出したようだった。


「全員無事だったか。」


その一言に老人は目を潤ませる。


「村は今もあります。」


「孫もおります。」


「あなたが来てくださらなければ、あの日で終わっていました。」


ゲルマンドは照れくさそうに頭を掻いた。


「わし一人の力ではない。」


「仲間がおったから勝てた。」


老人は何度も頭を下げると、静かに去っていった。


その姿を見送りながら、クルサが小さく口を開く。


「教官。」


「なんだ。」


「英雄って、本当に英雄だったんですね。」


ゲルマンドは苦笑した。


「昔の話だ。」


「でも、誰も教えてくれませんでした。」


リンクスも同じ気持ちだった。


訓練校で見てきたのは、厳しく剣を教える教官の姿だけだった。


「教官は、どうして訓練校へ行ったんですか。」


ゲルマンドは少しだけ歩みを止めた。


「戦い続けるだけでは、何も変わらんと思った。」


静かな声だった。


「魔物を倒しても、争いを止めても、次の世代が育たなければ意味がない。」


「だから剣を教える道を選んだ。」


リンクスは胸の奥が熱くなるのを感じた。


ゲルマンドは最初から英雄だったわけではない。


戦い、悩み、考えた末に、教官という道を選んだのだ。


町を出て再び街道へ戻る。


歩きながら、ゲルマンドは突然リンクスへ言った。


「剣を抜け。」


「え?」


「稽古だ。」


リンクスは慌てて剣を構える。


「ここでですか。」


「旅に出れば、訓練場などない。」


「戦う場所を選べるとも限らん。」


ゲルマンドは枝を一本拾い、それを剣代わりに構えた。


「来い。」


リンクスが踏み込む。


速さには自信があった。


だが次の瞬間には、手首を軽く打たれ、剣先が大きく逸れていた。


「甘い。」


再び踏み込む。


今度は足元を軽く払われる。


体勢を崩しながらも何とか踏みとどまる。


「敵は目の前だけではない。」


ゲルマンドは枝を下ろした。


「地面も敵になる。」


「風も敵になる。」


「疲労も敵になる。」


リンクスは荒く息を吐いた。


訓練校でも何度も教わったはずなのに、旅へ出てから聞くその言葉は、まるで重みが違って聞こえた。


「これから旅の間、毎日稽古をつける。」


ゲルマンドは静かに言った。


「訓練校では教えられなかったことも、全部だ。」


リンクスは剣を握り直す。


「お願いします、教官。」


ゲルマンドは頷いた。


「王国を出たからこそ始まる鍛錬もある。」


その言葉とともに、一行は再び西へ歩き出した。


旅はまだ始まったばかりだった。


ベルトスを出発して三日。


街道は徐々に細くなり、やがて石畳は土の道へと変わっていった。


左右には深い森が広がり、時折、野生動物の鳴き声だけが静寂を破る。


「もう王都の巡回騎士は来ませんね。」


ミレイが辺りを見回した。


オーウェンが頷く。


「ここまで来れば、王国軍の巡回も月に数回程度でしょう。」


「ようやく落ち着けるな。」


クルサが大きく背伸びをした。


しかし、ゲルマンドだけは警戒を解いていなかった。


「追手だけを警戒すればいい場所ではない。」


「どういうことですか。」


リンクスが尋ねる。


「街道の外には魔物も出る。」


「盗賊もおる。」


「そして、この辺りは土地勘のない旅人ほど迷いやすい。」


ゲルマンドは地面へ目を向けた。


「旅は敵と戦うだけじゃない。」


「無事に目的地へ着くことも技術だ。」


リンクスたちは黙って頷いた。


訓練校では剣を教わった。


だが、生きて旅を続ける方法までは教わっていない。


昼過ぎ、一行は川辺で休憩を取ることにした。


澄んだ水が岩の間を流れ、森の木々を映している。


クルサは川へ飛び込みそうな勢いで駆け寄った。


「冷たっ!」


その様子にミレイが笑う。


「子どもみたい。」


「旅なんだから楽しまないとな。」


ラウドは水袋へ水を汲みながら苦笑した。


リンクスも川の水で顔を洗う。


冷たい水が疲れを洗い流していく。


その時だった。


ゲルマンドが静かに声を掛ける。


「リンクス。」


「はい。」


「川を見て、何が分かる。」


突然の問いだった。


リンクスは川を見つめる。


「水がきれいです。」


「他は。」


「魚がいます。」


「それだけか。」


リンクスは首を傾げた。


ゲルマンドは川岸へしゃがみ込む。


「ここを見ろ。」


指差した先には、小さな足跡が残っていた。


「鹿……ですか。」


「そうだ。」


少し離れた場所には、別の足跡もある。


「これは。」


「狼だ。」


さらに岩陰には折れた枝。


削れた木の皮。


「動物は人より先に危険を知る。」


「足跡を見れば、何が近くにいるか分かる。」


「枝を見れば、どちらへ進んだか分かる。」


リンクスは思わず感心した。


「こんなことまで。」


ゲルマンドは立ち上がる。


「騎士だった頃に覚えた。」


「戦場では、生き残るために必要だったからな。」


リンクスは周囲を見回した。


今まで景色としか思っていなかった森が、まるで別の世界に見えてくる。


一本の枝にも意味がある。


土の跡にも意味がある。


世界は、自分が見ようとしなかっただけで、多くの情報を語っていた。


夕方、一行は小高い丘へ辿り着いた。


丘の先には、大きな石碑が建っている。


長い年月、風雨にさらされた境界碑だった。


表面には王国の紋章が刻まれ、その下には古い文字が並んでいる。


オーウェンが静かに石碑へ触れた。


「ここから先は、西方辺境領です。」


リンクスは石碑を見上げる。


「ここが。」


「王国の中心とは文化も暮らしも違います。」


「そして、この先には隣国へ続く道があります。」


ゲルマンドは石碑を見つめながら静かに言った。


「昔、この石碑を越える時は胸が躍った。」


「新しい土地へ行くたび、自分の知らない世界が待っていた。」


リンクスはその言葉を聞き、自然と笑みがこぼれた。


旅は不安ばかりではない。


知らない景色を見る喜びもある。


知らない人と出会う喜びもある。


その日の野営地は、石碑の見える丘の上に決まった。


焚き火を囲みながら、リンクスは空を見上げる。


満天の星空。


王都で見ていた空と同じはずなのに、どこか違って見えた。


「教官。」


「なんだ。」


「旅って、思っていたより面白いですね。」


ゲルマンドは静かに笑う。


「ああ。」


「だからわしは、もう一度歩いてみたかった。」


その言葉を聞いたリンクスは、ようやく理解した。


自分たちは王国から逃げているのではない。


自らの意思で、新しい旅路を選んだのだ。


そんな予感を胸に、一行は静かな夜を迎えた。


西方辺境領へ入って三日。


王都近くの街道とは違い、この辺りの道は細く、荷馬車がすれ違うのも難しいほどだった。


森は深くなり、山並みも険しくなる。


「ずいぶん景色が変わりましたね。」


ミレイが周囲を見渡す。


「同じ王国なのに、まるで別の国みたいです。」


オーウェンが頷いた。


「王都から遠い地域ほど、王国の影響は薄くなります。」


「税は納めていますが、暮らしはそれぞれの村が支えています。」


リンクスは道端で薪を割る老人や、畑を耕す人々を見つめた。


誰も鎧を着ていない。


王都では当たり前だった騎士の姿も、ここではほとんど見かけなかった。


昼頃、一行は山あいの小さな村へ辿り着いた。


石造りの家が十数軒並ぶだけの静かな集落だった。


村人たちは見慣れない旅人の姿に驚きながらも、敵意を向けることはない。


その時、一人の少年が走ってきた。


「旅の人!」


少年はゲルマンドを見上げる。


「剣を持ってるんだ!」


ゲルマンドは穏やかに笑った。


「ああ。」


「騎士様?」


「昔はな。」


少年は目を輝かせた。


「ぼくも剣を習いたい!」


リンクスは思わず笑みを浮かべる。


自分も昔、同じように騎士へ憧れていた。


その様子を見ていた少年の父親が慌てて駆け寄る。


「申し訳ありません。」


「ご迷惑を……。」


ゲルマンドは首を横に振った。


「気にすることはない。」


父親は少し安心した表情を見せる。


「最近は旅人も少なくなりまして。」


「何かあったんですか?」


オーウェンが尋ねる。


父親は周囲を見回し、声を潜めた。


「この先の山道で魔物が出るようになったんです。」


「商人も通らなくなってしまって……。」


リンクスたちは顔を見合わせた。


ゲルマンドが静かに聞く。


「被害は。」


「荷馬車が何台か襲われました。」


「村までは来ませんが、街道を通れなくて困っています。」


ゲルマンドは少し考えた。


本来なら先を急ぐべきだった。


しかし、このまま見過ごせば、この村は交易を失い、冬を越せなくなるかもしれない。


リンクスも同じことを考えていた。


「教官。」


「分かっている。」


ゲルマンドは村人へ向き直る。


「その魔物が現れる場所を教えなさい。」


村人は驚いた。


「退治してくださるんですか。」


「まず様子を見る。」


「相手も分からず剣を振るうほど、わしらは無謀ではない。」


その日の午後、一行は村人の案内で山道へ向かった。


街道脇には壊れた荷馬車が残されていた。


車輪は砕け、荷物は散乱している。


ラウドがしゃがみ込み、地面を調べる。


「足跡があります。」


リンクスも近付く。


「狼……じゃない。」


ゲルマンドも跡を見つめる。


「四足歩行だが、この大きさは普通の獣ではない。」


クルサが鉄棒を握り直した。


「近くにいるってことか。」


ゲルマンドは周囲へ目を向ける。


「全員、声を落とせ。」


森が静まり返る。


風も止んだように感じた。


その静寂の中。


遠くの茂みが、ゆっくりと揺れた。


リンクスは自然と剣の柄へ手を掛ける。


ゲルマンドは一歩前へ出た。


「慌てるな。」


「まず相手を見極める。」


リンクスは深く息を吸った。


訓練校で教わった戦いではない。


旅に出て初めて迎える、本当の実戦が始まろうとしていた。


森の空気が張り詰める。


風が止み、鳥の鳴き声も聞こえなくなった。


茂みの奥から、重い足音が近づいてくる。


リンクスは剣の柄を握り締めた。


訓練校で魔物との模擬戦は何度も経験した。


だが、本物を相手にするのは緊張する。


「来るぞ。」


ゲルマンドが低く告げる。


次の瞬間、茂みを突き破るように、一頭の魔物が姿を現した。


灰色の毛並みに、大人ほどもある巨体。


鋭い牙をむき出しにし、黄色い瞳が一行を睨みつける。


「グレイウルフ……。」


オーウェンが息を呑む。


「普通の個体より大きい。」


魔物は低く唸り声を上げると、一気にリンクスへ飛びかかった。


「リンクス!」


ゲルマンドの声が響く。


リンクスは反射的に剣を振り上げた。


だが、教官の言葉が頭をよぎる。


――敵だけを見るな。


視線を広げる。


地面。


風向き。


魔物の重心。


一歩だけ右へ踏み出す。


魔物の爪が、わずかに身体をかすめた。


「よし。」


ゲルマンドが短く頷く。


リンクスは体勢を立て直し、魔物の横腹へ斬り込んだ。


浅い。


しかし確かに刃は届いた。


魔物が苦しげに唸る。


「まだだ!」


ゲルマンドは動かない。


助けにも入らない。


ただ見ている。


リンクスは理解した。


これは試されている。


自分が一人で戦えるかを。


魔物は再び距離を取り、低く身構えた。


「焦るな。」


ゲルマンドの声だけが飛ぶ。


「相手は獣だ。」


「必ず動く。」


魔物が地面を蹴る。


一直線に突っ込んでくる。


リンクスは迎え撃たない。


半歩だけ身体を開く。


魔物が横を通り過ぎる、その一瞬。


腰を落とし、剣を振り抜いた。


鋭い一閃。


魔物は数歩よろめき、そのまま地面へ倒れ込んだ。


静寂が戻る。


リンクスは荒く息を吐く。


「終わった……。」


ゲルマンドが近づき、魔物を確認する。


「よくやった。」


その一言だけだった。


だがリンクスには、それだけで十分だった。


クルサが笑いながら肩を叩く。


「初陣、おめでとう。」


ミレイも安心したように微笑む。


「怪我がなくてよかった。」


ラウドは周囲を見回していた。


「一頭だけみたいですね。」


ゲルマンドは魔物の足跡を確認する。


「群れではない。」


「はぐれた個体だろう。」


オーウェンも頷いた。


「これなら街道も通れるようになります。」


夕方、一行は村へ戻った。


魔物がいなくなったと知ると、村人たちは安堵の表情を浮かべた。


子どもたちは再び街道で遊び始め、商人たちも荷馬車の点検を始める。


村長は深く頭を下げた。


「本当にありがとうございました。」


ゲルマンドは静かに首を横に振る。


「礼なら、この若者に言ってやってくれ。」


村人たちの視線がリンクスへ集まる。


「ありがとう、騎士さん。」


少年が嬉しそうに笑った。


リンクスは少し照れながら答える。


「……まだ騎士じゃありません。」


その言葉を聞いたゲルマンドは、小さく笑った。


「いや。」


リンクスが振り返る。


「人を守るために剣を振るった。」


「それだけで十分だ。」


夕焼けが村を赤く染める。


リンクスは村人たちの笑顔を見つめながら、自分が初めて誰かを守れたことを実感していた。


訓練校では教わらなかった旅。


その旅は、剣の腕だけでなく、人として何を守るべきかを教えてくれる。


リンクスは静かに剣の柄へ手を添えた。


その姿を見つめるゲルマンドの表情には、教官ではなく、一人の師として弟子の成長を喜ぶ穏やかな笑みが浮かんでいた。

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