第34話 石碑にない傷
第34話です。
今回はリンクス視点を中心に、「英雄」とは何かを改めて考える回になりました。
地下で知ってしまった真実を抱えたまま、仲間たちとどう向き合うのか。そして次なる舞台となる王城奪還へ向けて、物語が大きく動き始めます。
ぜひ最後までお楽しみください。
第一部 英雄の帰還
山岳国家ドワーリンの朝は、太陽ではなく槌の音によって始まる。
切り立った峰々に囲まれた国都オルグハルでは、夜明け前から鍛冶場の炉に火が入る。鞴が空気を吸い込み、眠っていた炭が赤く目を覚ますと、やがて最初の鉄音が石造りの街へ響き渡る。
カン――。
ひとつ。
間を置いて、もうひとつ。
重く澄んだ音は、岩盤をくり抜いて造られた住居や、幾重にも重なる回廊を伝い、国都の隅々まで届いていく。
働け。
備えろ。
今日も生きて帰れ。
それは鐘よりも古い、この国の朝の合図だった。
英雄育成施設の医務棟にも、その槌音は微かに届いていた。
リンクス・エルダーは目を開けた。
白い天井が見える。
見慣れた寮の木組みではない。石灰を塗った平らな天井。その隅には治癒用の魔光石が埋め込まれ、青白い光を放っている。
身体を起こそうとした瞬間、右肩から脇腹へ鈍い痛みが走った。
「……っ」
思わず息を止める。
胸へ巻かれた包帯の下で、傷んだ筋肉が硬く引きつっていた。坑道で受けた打撲だけではない。剣を振り続けた疲労も、狭い場所で無理に身体を捻った負担も、眠っている間に一つへ固まったらしい。
リンクスは焦って起き上がることを諦めた。
鼻からゆっくり息を吸う。
痛みがどこから始まり、どこまで広がっているのかを確かめる。
幼い頃、鍛冶師だった父によく言われた。
――壊れた場所を知らずに叩けば、鉄はもっと壊れる。
人の身体も同じだ。
痛みを無視するのではなく、痛みの形を知れ。
そうすれば、折らずに使う道が見える。
リンクスは左腕だけを使い、ゆっくりと上半身を起こした。
医務室には四つの寝台が並んでいた。
向かいの寝台では、同室のクルサが大きないびきを立てている。右脚を板で固定されているにもかかわらず、毛布は半分ほど床へ落ち、太い腕が寝台の外へ垂れていた。
その隣では、短槍使いのラウドが眠っている。額と左腕に包帯が巻かれ、頬には坑道の石で切った傷が残っていた。
四つ目の寝台は空だった。
ミレイは女性用の病室へ移されたと、昨夜、治療師から聞いている。
彼女は自分の傷がまだ塞がっていないにもかかわらず、救出された鉱夫たちの手当てを手伝おうとした。
あの人たちを、一人にしたくない。
そう言って、治療師に何度も止められていた。
リンクスは目を閉じた。
暗い坑道が蘇る。
湿った土と油の臭い。
鉄錆に似た血の臭い。
岩壁に反響する男たちの笑い声。
鎖に繋がれ、腕を吊られていた女性たち。
助けを求める声すら出せず、ただ乾いた目でこちらを見つめていた。
そして、地賊へ剣を突き入れた時の感触。
刃が衣服を裂き、肉を抜け、骨へ当たった。
木剣では味わったことのない重さが、柄から腕へ伝わってきた。
相手は倒れた。
もう起き上がらなかった。
自分が殺したのだ。
誰かを守るためだった。
あのまま止めなければ、救出した者たちが殺されていた。
頭では理解している。
それでも、手のひらにはまだ血の温度が残っている気がした。
「……英雄、か」
小さく呟いた声が、石壁へ吸い込まれる。
坑道から帰還した時、リンクスたちを迎えたのは、治療師や兵士だけではなかった。
坑口の外には、噂を聞きつけた住民が集まっていた。
誰かがリンクスを指差し、英雄候補が帰ってきたと叫んだ。
その声は瞬く間に広がった。
地賊を倒した。
鉱夫を救った。
崩落を止めた。
英雄候補リンクス・エルダーが、初めて国を救った。
話は、人から人へ渡るたびに大きくなった。
夜には国都で号外が配られ、今朝には医務棟の窓の下へ人が集まり始めている。
寝台の脇には、昨日までなかった贈り物が積まれていた。
焼き菓子。
乾燥させた山花。
磨き上げられた小さな鉱石。
それから、一枚の絵。
子供が描いたものだろう。
大きな剣を持ったリンクスが、黒い怪物を一撃で倒している。背後には、笑顔の鉱夫たちが並び、空から光が差していた。
現実とは違う。
地賊は怪物ではなかった。
笑い、怒り、恐れ、血を流す人間だった。
救出された者たちも笑ってはいない。
多くは地上へ出た後も震え続け、名前を呼ばれても反応できなかった。
それでも絵の中では、誰も傷ついていなかった。
「英雄様は人気者だな」
掠れた声がした。
クルサが片目だけを開けている。
「起きてたのか」
「お前がぶつぶつ喋るから起きた」
「いびきの方がうるさかった」
「生きてる証拠だ」
クルサは鼻を鳴らし、身体を起こそうとした。
固定された脚へ力が入った瞬間、その顔が歪む。
「痛むのか」
「全然」
「顔に出てる」
「お前に言われたくねえ」
クルサは諦め、枕へ背中を預けた。
視線だけを、贈り物の山へ向ける。
「街じゃ、もう大変らしいぞ」
「何が」
「英雄候補が初陣で地賊を壊滅させた。次代の守護者が現れた。石碑の予言が成就した」
「俺一人の話になってるのか」
「そうみたいだな」
「お前たちもいた」
「いたな」
「教官も、器材班も、救助班もいた」
「分かってる」
「なら、どうして」
リンクスの声が少し強くなる。
クルサは天井を見上げたまま答えた。
「人は、一人の英雄が全部助けた話の方が好きなんだろ」
「嘘だ」
「全部が嘘じゃない。お前が前に立ったのは本当だ」
「皆で立った」
「でも、最初に叫んだのはお前だ」
――英雄候補なら、ここで立つしかないだろ。
坑道の闇へ放った自分の言葉が、耳の奥で蘇る。
あれは誰かを奮い立たせるために考えた言葉ではなかった。
自分自身が逃げないために吐き出しただけだ。
「俺は、怖かった」
リンクスは言った。
「知ってる」
「逃げたいと思った」
「俺もだ」
「それでも、皆は俺を英雄だと言う」
クルサは少しだけ黙った。
「英雄は、怖がらない奴のことじゃないんじゃねえか」
「じゃあ何だ」
「知らん」
あっさりした答えだった。
リンクスが顔を向けると、クルサは自分の大きな手を見つめていた。
「俺も一人殺した」
いつもの冗談めいた調子はなかった。
「斧を振り下ろした時の感触が、まだ手に残ってる。眠ったら、何度も同じ場面が出てきた」
「……そうか」
「仕方なかったって言えば、楽になるかもしれねえ」
クルサの指がゆっくりと握られる。
「でも、それで済ませたら、次はもっと簡単に殺せる気がする」
リンクスの胸の内にあったものと、同じだった。
地賊だから。
悪人だから。
守るためだったから。
理由を並べれば、自分の行動を正しいものとして整理できる。
だが、正しいことと、何も感じなくてよいことは別だ。
「忘れない方がいいのかもしれない」
リンクスは呟いた。
「殺した重さを」
クルサはしばらく考え、小さく頷いた。
医務室の扉が開いた。
白い前掛けをつけた年配の治療師が、湯気の立つ盆を持って入ってくる。
「二人とも起きていたのかい」
「腹が減って目が覚めた」
「昨夜、三杯も食べた人が何を言ってるんだい」
「怪我を治すには栄養が必要なんだよ」
「それ以上食べたら、脚より先に腹が育つよ」
治療師は慣れた様子で器を置いた。
柔らかく煮た根菜のスープと、小さく切られた黒パン。
リンクスへ器を渡しながら、治療師は声を少し落とした。
「王城から使いの方が来ているよ」
「王城から?」
「昨日の坑道について、話を聞きたいそうだ」
クルサが口笛を吹く。
「いよいよ英雄様のご登城か」
「黙って食べろ」
「無理をさせるつもりはないそうだよ」
治療師はリンクスの包帯を確認した。
「ただ、街では話が大きくなりすぎている。王城としても、事実を整理しておきたいんだろうね」
リンクスは手元のスープを見つめた。
液面が小さく震えている。
自分の手が震えていた。
痛みではない。
王城。
英雄の間。
まだ何者でもなかった自分の名が、突然、石碑へ刻まれた場所。
なぜ自分だったのか。
英雄らしいことをしたから、名が刻まれたのではない。
名が刻まれた後に、坑道の事件が起きた。
順序が逆なのだ。
その違和感は、地賊を倒しても消えなかった。
むしろ以前よりも大きくなっている。
「いつですか」
「食事が済んでからでいいそうだ」
「分かりました」
治療師が部屋を出ていく。
扉が閉まると、クルサがスープへパンを浸しながら言った。
「緊張してるのか」
「してない」
「手が震えてるぞ」
「怪我のせいだ」
「嘘が下手だな」
リンクスは返事をしなかった。
窓の外から、子供たちの声が聞こえる。
「リンクス様!」
「英雄様、早く元気になって!」
彼らが求めているのは、迷わず立ち、敵を倒し、皆を救う英雄だ。
だが、本当の自分は違う。
怖かった。
迷った。
何度も逃げたいと思った。
それでも、帰れなくなる者がいるから立った。
それだけだった。
「リンクス」
クルサが呼ぶ。
「何だ」
「王城で、英雄らしく話そうとするなよ」
「どういう意味だ」
「昨日のお前は、英雄になりたくて立ったんじゃない」
クルサは不格好に笑った。
「帰れなくなる奴がいるから、立っただけだろ」
リンクスはしばらく黙った。
やがて、胸の奥に溜まっていた息をゆっくり吐き出す。
「ああ」
窓の外で、朝の槌音が響く。
カン。
カン。
国都オルグハルは、昨日と変わらず動き始めている。
だがリンクスだけは、もう以前と同じ場所には立っていなかった。
英雄として見上げられること。
石碑に選ばれたこと。
人を殺したこと。
誰かを救ったこと。
そのすべての重さを抱えたまま、リンクスは王城から来た使者と会うため、寝台を降りた。
床へ足をつけた瞬間、脇腹に痛みが走る。
それでも立つ。
痛みがあるなら、その場所を忘れずに歩けばいい。
答えのないままでも、歩き始めなければならない。
リンクスはまだ知らなかった。
王城から来た使者が聞きたいのは、坑道での英雄譚だけではないことを。
そして坑道から回収された一枚の黒い金属片が、彼の名を選んだ石碑と同じ場所へ運び込まれていることを。
王城から来た使者は、英雄育成施設の応接室で待っていた。
医務棟からそこまでは、渡り廊下を二つ越えなければならない。距離にすれば大したことはない。だが、負傷した身体には長く感じられた。
リンクスは右肩を固定したまま、ゆっくりと石床を進んだ。
窓の外には、朝の鍛錬を始めた候補生たちが見える。
木剣が打ち合わされる乾いた音。
教官の怒声。
土を蹴る靴音。
昨日までなら、自分もあの中にいた。
同じ列へ並び、同じ号令に従い、誰よりも多く剣を振ろうとしていた。
今は違う。
窓際にいた候補生が、歩くリンクスへ気づいた。
その一人が動きを止める。
すると、隣にいた者もこちらを見る。
視線は瞬く間に広がった。
「リンクスだ」
「坑道から戻ったって」
「本当に一人で地賊を倒したのか?」
「七人斬ったらしいぞ」
囁き声が聞こえる。
七人。
実際に自分が倒した数を、リンクスは正確には覚えていない。
死んだ者。
動けなくした者。
他の候補生が止めを刺した者。
混乱の中で、それらを数える余裕などなかった。
だが噂の中では、人数が決められていた。
明日には十人になるかもしれない。
来月には、一人で坑道を制圧したことになっているだろう。
リンクスが窓から視線を外すと、廊下の先にミレイが立っていた。
左腕を布で吊り、頬に細い傷が残っている。
「もう歩いて大丈夫なのか」
リンクスが尋ねると、ミレイは自分の腕を見下ろした。
「あなたに言われたくない」
「俺は呼ばれたから」
「私は止められたけど出てきた」
「なおさら駄目だろ」
「助けた人たちの様子を見たかった」
ミレイは淡々と答えた。
彼女らしい言い方だった。
何かをした理由を大げさに語ることも、自分の優しさを誇ることもない。
「どうだった」
「眠れた人は少ない」
短い答え。
「目を閉じると、坑道へ戻るみたい」
リンクスは言葉を失った。
「助け出せば終わりだと思ってた?」
「……そこまでは」
「私も同じ」
ミレイは廊下の窓から鍛錬場を見た。
「昨日までは、敵を倒せば人を守れると思ってた」
木剣の音が響く。
「でも、傷は敵がいなくなっても残る」
リンクスは自分の手を見る。
そこには傷らしい傷はない。
包帯も巻かれていない。
それでも、剣を突き入れた時の感触が消えない。
「俺たちにできることはあるのか」
「知らない」
ミレイは正直に答えた。
「でも、見なかったことにしないことはできる」
その言葉に、リンクスは小さく頷いた。
「王城の人が来てるんでしょ」
「ああ」
「きっと、格好いい話にされる」
「俺もそう思う」
「なら、違ったことは違ったって言って」
ミレイはまっすぐにリンクスを見た。
「私たちは勝ったんじゃない。助けられなかった人もいた」
坑道の奥で命を落としていた鉱夫たち。
崩落に巻き込まれた者。
地賊に殺された者。
救助隊が到着した時には、すでに冷たくなっていた者もいた。
国都へ戻った噂の中に、彼らの名前はない。
「分かった」
「それと」
ミレイは少しだけ目を細める。
「私の外套を返して」
「外套?」
「救助した人に掛けたやつ。治療所に預けたって聞いた」
「俺は持ってない」
「じゃあ探して」
「なぜ俺が」
「英雄様だから」
ミレイの口元がわずかに上がった。
冗談を言っているのだと分かるまで、少し時間がかかった。
「お前までやめろよ」
「早く行かないと、王城の人を待たせる」
そう言い残し、ミレイは医務棟の方へ歩いていった。
リンクスはその背中を見送り、応接室へ向かった。
扉の前には、施設の事務官が立っている。
「お待ちでした。中へどうぞ」
扉が開かれる。
応接室は、候補生が普段使う部屋とは違い、必要以上に整えられていた。
壁には国王の紋章。
窓辺には磨かれた銅製の燭台。
中央の机には、染み一つない白い布が掛けられている。
その向こうに、一人の男が座っていた。
年齢は四十を少し越えた頃だろう。
灰色の外套。
細い銀縁の眼鏡。
短く切り揃えられた黒髪には、白いものが混じっている。
武人ではない。
腰に剣も下げていない。
だが、その姿勢には兵士とは別の緊張感があった。
男は立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
「リンクス・エルダー殿ですね」
「はい」
「王城記録院所属、オーウェン・ハルバートと申します」
差し出された手を握る。
細い指だった。
しかし、紙と羽根ペンだけを扱ってきた者の手ではない。
掌の一部が硬くなっている。
昔、剣を握っていたのかもしれない。
「お怪我のところ、申し訳ありません」
「歩ける程度です」
「それは何よりです」
オーウェンは席を勧めた。
「本日は、昨日の坑道救助について、記録を残すためにお話を伺います」
「記録ですか」
「はい。王城では、英雄候補が関わった任務について、後世へ正確な記録を残す義務があります」
正確な記録。
リンクスはその言葉を聞き、ミレイの顔を思い出した。
「ありのまま話していいんですか」
「もちろんです」
オーウェンは革鞄から数枚の紙を取り出した。
羽根ペンの先へインクを含ませる。
「では、坑道へ向かったところからお願いします」
リンクスは話し始めた。
警鐘が鳴ったこと。
中央区第七坑道で崩落が起きたこと。
英雄候補生たちが救助隊への同行を願い出たこと。
教官が救助優先、交戦回避を命じたこと。
地賊が現れたこと。
その先で、囚われた鉱夫たちを見つけたこと。
オーウェンは一度も遮らなかった。
ただ、人数、位置、時刻、武器の種類について確認する。
「あなたが最初に地賊と交戦したのですか」
「最初は短槍のラウドです」
「では、あなたは」
「隊列の中央にいました」
「しかし、あなたの声によって候補生たちが前進したと」
「俺だけの声じゃありません」
オーウェンの筆が止まる。
「教官が指示しました。クルサが道を塞いだ。ミレイが捕まっていた人を守った。器材班が支柱を支えた」
「承知しています」
「なら、全員の名前を残してください」
リンクスは机へ身を乗り出した。
肩に痛みが走る。
それでも、身体を戻さなかった。
「俺一人が救った話にしないでください」
「そのようなつもりは」
「もう街では、そうなっています」
窓の外から、子供たちの声が聞こえた。
英雄様。
その言葉が、石壁を越えて部屋まで届く。
「俺が一人で地賊を倒した。俺が全員を助けた。そんな話になってる」
「人々は分かりやすい象徴を求めます」
「象徴?」
「不安な時代ほど、誰か一人へ希望を託したがる」
「そのためなら、事実を変えていいんですか」
オーウェンはすぐには答えなかった。
羽根ペンを置き、両手を机の上で組む。
「変えるのではありません」
「では何です」
「伝わる形へ整えるのです」
リンクスはその言葉を理解できなかった。
いや。
理解したからこそ、納得できなかった。
「死んだ人たちは」
オーウェンの目がわずかに動く。
「助けられなかった人たちは、整えた話の中でどうなるんですか」
「記録には残します」
「皆が読む話には?」
沈黙。
それが答えだった。
リンクスは椅子へ背を戻した。
胸の奥が冷たくなる。
「人々へ見せる英雄譚と、王城に保管する記録は別です」
オーウェンは静かに言った。
「なぜ分ける必要があるんです」
「真実が、常に人を支えるとは限らないからです」
「嘘なら支えられると?」
「希望と嘘は同じものではありません」
「でも、誰かの傷を隠して作るなら同じです」
オーウェンはリンクスを見つめた。
怒っているわけではない。
試すようでもない。
その目には、長い間同じ問いを抱えてきた者の疲れがあった。
「あなたは、真面目な方ですね」
「褒めてるんですか」
「いいえ」
オーウェンは微かに笑った。
「真面目な人間は、事実を重く受け止めすぎる」
「軽くすれば、楽になるんですか」
「国を動かす者には必要です」
「俺は国を動かしたいわけじゃない」
「ですが、国はあなたに動かされ始めています」
リンクスは言葉を失った。
「あなたの名前が英雄の石碑へ刻まれた日から、人々はあなたを見ています」
オーウェンは再び羽根ペンを取った。
「昨日の行動によって、その視線は確信へ変わった」
「石碑が選んだから、英雄になれと?」
「英雄である必要はありません」
「なら」
「人々が英雄だと信じる者として、振る舞う必要はあります」
リンクスの指が膝の上で強く握られる。
自分が英雄だとは思っていない。
なりたいと願ったことはある。
幼い頃、物語の英雄へ憧れた。
強くなれば、人を守れると思っていた。
だが今、英雄という言葉は鎧よりも重く感じられた。
「一つ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「英雄の間の石碑は、誰が名前を刻むんです」
オーウェンの羽根ペンが止まった。
「神意とされています」
「神が刻むところを見た人は」
「おりません」
「では、なぜ神だと分かるんです」
応接室の空気が変わった。
窓の外の掛け声が、急に遠くなったように感じられる。
「リンクス殿」
オーウェンの声から、柔らかさが消えた。
「なぜ、そのようなことをお尋ねになるのです」
「自分が選ばれた理由を知りたい」
「選ばれた後の行動こそが重要です」
「理由を知らなくていいと?」
「知る必要がない場合もあります」
「それを決めるのは誰ですか」
オーウェンは答えない。
リンクスは続けた。
「石碑に名前が刻まれた時、俺は何もしていなかった」
昨日、坑道で人を救った。
だが石碑に名が刻まれたのは、それより前だ。
「俺が何をするか、先に知っていたんですか」
「神は時を越えて人を見守るとされています」
「また、されています、ですか」
リンクスの声が低くなる。
「あなた自身は、どう思ってるんです」
オーウェンは眼鏡を外した。
布でレンズを拭きながら、窓へ視線を向ける。
「私は、記録を残す者です」
「答えになっていません」
「答えられないのです」
「知らないから?」
オーウェンの手が止まる。
「それとも、知っているから?」
長い沈黙が落ちた。
オーウェンは眼鏡を掛け直し、書類を閉じた。
「本日の聞き取りは、ここまでにしましょう」
「まだ終わっていません」
「坑道については十分です」
「石碑について聞いています」
「リンクス殿」
オーウェンは立ち上がった。
「疑問を持つことは悪いことではありません」
「なら、答えてください」
「ですが、その疑問を誰にでも向けることはお勧めしません」
「脅しですか」
「忠告です」
静かな声だった。
「この国において、英雄の石碑は制度ではありません。信仰です」
オーウェンは革鞄へ書類を戻した。
「制度なら、間違いを指摘し、直すこともできる。ですが信仰を壊した時、その下に何が残るのかは誰にも分からない」
クルサの言葉が蘇る。
疑うなら、壊した後に何を残すかまで考えろ。
リンクスはすぐには返せなかった。
オーウェンが扉へ向かう。
「待ってください」
リンクスの声に、男は足を止めた。
「坑道で、変な紋章を見ませんでしたか」
振り返ったオーウェンの顔から、わずかに血の気が引いた。
ほんの一瞬だった。
だが、リンクスは見逃さなかった。
「円と直線を組み合わせた紋章です」
英雄候補の試練で現れた黒い獣。
その額に刻まれていた焼印。
「知っているんですね」
「なぜ、そう思うのです」
「今、驚いた」
「昨日の件で疲れておられるのでしょう」
「誤魔化さないでください」
オーウェンは扉の取っ手に手を掛けたまま、背中を向けている。
「坑道から回収された地賊の装備に、同じ紋章がありました」
リンクスは息を呑んだ。
「やっぱり」
「記録院で確認中です」
「何の紋章なんです」
「分かりません」
「本当に?」
「……分かっている者がいるかもしれない、という段階です」
それは、初めて聞けた正直な答えに思えた。
「その人に会わせてください」
「できません」
「なぜ」
「あなたを守るためです」
オーウェンの声には、先ほどまでとは違う感情があった。
恐れ。
自分のためではない。
リンクスが何かへ近づくことを恐れている。
「何から守るんです」
「今は、知らないことからです」
オーウェンは扉を開けた。
「知らなければ、守られるんですか」
リンクスが尋ねる。
男はしばらく動かなかった。
「少なくとも、狙われる理由は減ります」
それだけを残し、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
リンクスは一人、応接室へ残された。
机の上には、オーウェンが使っていたインク壺と、何も書かれていない白い紙。
その横に、一枚だけ小さな紙片が落ちていた。
革鞄へ書類を戻す時、紛れ落ちたのだろうか。
リンクスは手を伸ばした。
紙には、回収物の一覧が記されている。
折れた短剣。
火薬袋。
銀粉。
正体不明の黒い金属札。
その横に、紋章が写し取られていた。
いくつもの円。
それを貫く直線。
中心から外へ伸びる細い線。
黒い獣の額にあったものと同じだった。
リンクスの指が、紙の紋章へ触れる。
その瞬間。
頭の奥で、短い音が鳴った。
鐘ではない。
金属音でもない。
聞いたことのない、乾いた電子音。
視界の端へ、青白い文字が浮かんだ。
《対象個体を確認》
「……何だ?」
リンクスは立ち上がる。
文字は一瞬で消えた。
室内を見回す。
誰もいない。
机の下にも、窓の外にも、人の姿はない。
だが、紙に描かれた紋章だけが、指先へ微かな熱を返している。
胸の鼓動が速くなる。
リンクスは紙片を折り畳み、訓練服の内側へ入れた。
王城の記録物を勝手に持ち出す行為だ。
咎められることは分かっている。
それでも、置いていくことはできなかった。
この紋章は、自分へ何かを見せようとしている。
理由は分からない。
だが、これまで感じてきた違和感が、初めて形を持った。
英雄の石碑。
黒い獣。
坑道の地賊。
王城が隠そうとする紋章。
そして、誰にも聞こえなかった声。
すべてが一本の線で繋がり始めている。
リンクスは応接室を出た。
廊下には、先ほどまでいなかった二人の王城兵が立っている。
視線が、リンクスの胸元へ一瞬だけ向けられた。
紙片を持っていることへ気づかれたのか。
リンクスは平静を装い、その間を歩いた。
背中へ視線が刺さる。
振り返らない。
渡り廊下へ出ると、冷たい風が吹き込んだ。
国都オルグハルの中心部。
鍛冶場の煙。
幾重にも重なる石の家々。
街路を行き交う人々。
英雄の名を語る子供たち。
守りたい景色だった。
だからこそ、知らなければならない。
何が、この国の地下で動いているのか。
誰が、自分の名を石碑へ刻んだのか。
なぜ、あの紋章へ触れた時、知らない声が聞こえたのか。
リンクスは胸元の紙片を、服の上から強く押さえた。
その時。
国都の地下深く。
王城の基礎よりもさらに下。
ドワーフたちですら掘り進めたことのない岩盤の中で、青白い光が一度だけ明滅した。
《観測対象:LINKS ELDER》
《非公開識別子への接触を確認》
《情報認識率:三・七パーセント》
《進化AI由来構造体との関連性を検証》
《観測優先度を更新します》
光はすぐに消えた。
再び、何千年も続いてきた暗闇が戻る。
地上では、朝の槌音が変わらず響いていた。
だが、リンクスの歩く道だけは、もう昨日までの道ではなかった。
応接室を出た後も、リンクスは胸元へ隠した紙片の存在を強く意識していた。
薄い紙一枚にすぎない。
それなのに、鉄板を懐へ入れているように重い。
廊下を歩くたび、服の内側で紙が擦れる。その小さな音さえ、周囲の兵士へ聞こえている気がした。
王城の使者オーウェンが落とした回収物一覧。
黒い金属札。
黒い獣の額にあったものと同じ紋章。
そして、紙へ触れた瞬間に聞こえた声。
《対象個体を確認》
あれは幻聴だったのか。
昨日の戦闘と負傷によって、頭が混乱しているだけなのか。
そう考えれば、すべてを片づけることができる。
だが、リンクスはその説明を受け入れられなかった。
幻聴ならば、なぜ紋章へ触れた時だけ聞こえたのか。
なぜ見たこともない青白い文字を、自分は文字として認識できたのか。
そして何より、なぜオーウェンは紋章の話をした瞬間に動揺したのか。
何かが隠されている。
確信と呼ぶにはまだ弱い。
だが、疑いを捨てるには十分すぎる違和感だった。
医務棟へ戻る途中、渡り廊下の下から大きな歓声が上がった。
リンクスが足を止める。
施設の正門前に、数十人の住民が集まっていた。
鍛冶職人。
農夫。
市場の商人。
子供を肩車した父親。
それぞれが花や食べ物を持ち、英雄候補の姿をひと目見ようと門の向こうを覗いている。
その中に、坑道から救出された鉱夫の家族らしい者たちもいた。
「リンクス様!」
誰かがこちらへ気づいた。
同時に、無数の顔が一斉に上を向く。
「英雄様だ!」
「こっちを見てくれ!」
「ありがとう!」
歓声が石壁へ反響する。
リンクスは動けなかった。
喜ぶべきなのかもしれない。
誰かを救った。
その家族が、こうして感謝を伝えに来ている。
それ自体は嘘ではない。
だが、その声を受け取るたび、坑道で助けられなかった者たちの顔が浮かぶ。
名前も知らない。
声を聞くことさえできなかった。
地上へ運び出された時には、すでに冷たくなっていた人々。
彼らの家族は、今どこにいるのだろう。
同じ門の前で、英雄へ礼を言う気持ちにはなれないはずだ。
「手を振ってやれよ」
背後から声がした。
振り返ると、教官のゲルマンドが立っていた。
坑道から戻った時と同じ、煤の染みた訓練服を着ている。
左のこめかみには新しい包帯が巻かれていた。
「教官」
「下の連中は、お前が顔を見せるまで帰らんぞ」
「でも」
「何だ」
「俺だけが礼を言われるのは違います」
ゲルマンドは門前の人々へ視線を向けた。
「分かっている」
「なら」
「それでも、お前が受け取れ」
低い声だった。
「なぜですか」
「感謝も期待も、受け取る者がいなければ行き場を失う」
「俺には重すぎます」
「だから英雄候補なんだ」
リンクスは眉を寄せた。
「俺は、英雄になりたいと言った覚えはありません」
「石碑に選ばれたからか」
「それもあります」
ゲルマンドがリンクスを見る。
鋭い視線。
戦い方だけでなく、嘘や迷いまで見抜こうとする目だった。
「他にもある顔だな」
リンクスは胸元の紙片へ触れないよう、腕を下ろした。
「王城の書記官から、何か聞いたのか」
「坑道について話しただけです」
「そうか」
ゲルマンドはそれ以上追及しなかった。
だが、信じたわけではないことは分かった。
「いいか、リンクス」
門前の歓声が続いている。
「英雄ってのは、何でも一人でできる奴じゃない」
「では、何ですか」
「皆が勝手に背負わせた重さから、逃げ切れなかった奴だ」
リンクスは思わず教官を見た。
「随分、嫌な役目ですね」
「嫌だから、誰も本当にはなりたがらん」
「物語の中では、皆なりたがっています」
「物語に出てくる英雄は、夜に吐いたりしないからな」
ゲルマンドの口元が僅かに歪む。
「剣を振った感触で眠れなくなることもない。助けられなかった奴の名前を、一生覚えている必要もない」
「教官も、そうだったんですか」
ゲルマンドはすぐには答えなかった。
遠くで槌音が鳴る。
正門の外からは、子供たちの声が聞こえている。
「昔、北の防衛戦で隊を預かった」
やがて、教官は静かに話し始めた。
「三十四人いた。帰ったのは十一人だ」
リンクスは息を止めた。
「皆は、十一人を連れ帰った俺を褒めた。だが俺が覚えているのは、置いてきた二十三人の顔だ」
「……それでも、教官は剣を持ち続けた」
「剣を置けば、死んだ連中が戻るのか」
「戻りません」
「なら、次に守れる奴を増やすしかない」
ゲルマンドはリンクスの右肩へ目を向けた。
「重さは消すな。だが、重さに潰されるな」
「そんなことができるんですか」
「できない」
即答だった。
「できないから、毎日鍛える」
リンクスは門前の住民たちを見た。
彼らが求めているのは、完全な人間ではない。
少なくとも今は、救われたという事実を受け止めてくれる誰かを求めている。
リンクスはゆっくりと左手を上げた。
門前の歓声が大きくなる。
手を振るだけで、これほど人が喜ぶ。
そのことが、恐ろしくもあった。
人々が見ているのは自分でありながら、自分ではない。
だが、今だけは否定しなかった。
感謝の言葉を受け取る。
ただし、自分だけのものにはしない。
「今度、皆の前で話す機会があったら」
リンクスは言った。
「坑道にいた全員の名前を言います」
「好きにしろ」
「止めないんですか」
「俺は、お前を英雄らしくする係じゃない」
ゲルマンドは背を向ける。
「戦場で死なないように鍛える係だ」
数歩進んだところで、足を止めた。
「それと、王城から戻った書記官が、施設長と話していた」
「何をですか」
「お前に古い記録へ触れさせるな、と」
リンクスの背筋が僅かに固まる。
「古い記録?」
「心当たりがあるのか」
「ありません」
反射的に答えた。
ゲルマンドは振り返らない。
「なら、ないままにしておけ」
「教官まで、知らない方がいいと言うんですか」
「俺は逆だ」
ゲルマンドは低く言った。
「知らない方がいいと何度も言われるものほど、知る価値がある」
そのまま、鍛錬場の方へ歩いていった。
リンクスはしばらく動かなかった。
施設長へ、古い記録に触れさせるなと伝えた。
王城は、自分が何かを探り始めることを警戒している。
紙片が失われたことへ、まだ気づいていないのか。
あるいは、あえて持たせたのか。
オーウェンの最後の表情を思い出す。
疲れた男の顔。
答えを知りながら、言えない者の顔。
紙片は、本当に落としたのだろうか。
応接室の机の中央。
自分が気づく位置へ置かれていた。
考えれば考えるほど、偶然とは思えなくなる。
医務棟へ戻ると、クルサは眠っていた。
ラウドの寝台には治療師が付き添っている。
リンクスは自分の寝台へ腰掛け、周囲を確認した。
誰もこちらを見ていない。
胸元から紙片を取り出す。
広げる。
回収物一覧。
その一番下。
黒い金属札の項目だけ、他の物とは筆跡が違っていた。
細い字。
急いで書き足したような線。
『保管先――王城地下・旧記録庫第三室』
先ほどは、紋章ばかりに気を取られ、そこまで読んでいなかった。
王城地下。
旧記録庫。
黒い金属札は、そこへ運ばれている。
リンクスの胸が高鳴る。
英雄の間も王城にある。
自分の名が刻まれた石碑。
黒い獣と地賊に共通する紋章。
それらが同じ王城の中へ集められている。
偶然とは思えない。
「何を見てるんだ」
突然、クルサの声がした。
リンクスは紙を折り畳んだ。
「起きてたのか」
「お前、今日そればっかりだな」
「寝てろ」
「さっきから怪しすぎるぞ」
クルサは上半身を起こし、目を細めた。
「王城の書記官と何があった」
「何もない」
「嘘が下手だって、何回言わせる気だ」
リンクスは答えなかった。
クルサは冗談を言わない。
真剣な目で、こちらを見ている。
「俺に言えないことか」
「巻き込みたくない」
「それ、言えないことがある奴の答えだぞ」
「だったら聞くな」
「昨日、坑道で俺たちは一緒に死にかけた」
クルサの声が低くなる。
「今さら安全なところへ押し出そうとするな」
「これは坑道とは違う」
「何が違う」
「敵が誰かも分からない」
「だから一人で行くのか」
リンクスは顔を上げた。
「行くなんて言ってない」
「行く顔だ」
クルサは右脚の固定板を叩いた。
「こんな脚じゃついていけねえ。だから、止めるしかない」
「止まれない」
「何でだ」
「俺の名前が、何を基準に石碑へ刻まれたのか知りたい」
「それだけか」
「違う」
リンクスは紙片を握ったまま言った。
「坑道の地賊が持っていた物と、英雄候補の試練で出た獣に、同じ紋章があった」
クルサの表情が変わる。
「あの黒い獣か」
「ああ」
あの日、通常の試練に使われる幻獣とは明らかに異なる獣が現れた。
額の紋章。
金色の目。
そして、倒した後に黒い灰となって崩れた身体。
「王城は、あれについて何か知っている」
「証拠は」
「書記官の反応だ」
「それだけか」
「俺が紋章へ触れた時、声が聞こえた」
クルサが黙る。
「どんな声だ」
「人の声かどうかも分からない」
「何て言った」
「対象個体を確認、と」
「……意味が分からねえ」
「俺もだ」
リンクスは紙片を開き、クルサへ見せた。
「黒い金属札は、王城地下の旧記録庫に保管されている」
「そこへ行くつもりか」
「行かなければ、何も分からない」
「正面から入れる場所なのか」
「多分、入れない」
「なら、どうする」
「まだ考えていない」
クルサは片手で顔を覆った。
「お前、頭が良さそうな顔して、時々とんでもなく馬鹿だよな」
「知ってる」
「認めるな」
クルサは深く息を吐いた。
「王城の旧記録庫なら、施設の資料室に見取り図があるかもしれない」
「どうして」
「英雄育成施設は、昔は王城の外郭兵舎だった。王城と施設の間に、地下連絡路があったって聞いたことがある」
「誰から」
「親父だ。若い頃、ここへ資材を運んでた」
リンクスは身を乗り出した。
「地下連絡路は今も使えるのか」
「知らねえ。何十年も前に封鎖されたらしい」
「入口は」
「資料室の古い設計図を見れば分かるかもしれない」
「資料室は、候補生も入れる」
「通常の棚だけだ」
クルサは声を潜めた。
「古い設計図は、地下書庫だ。鍵が必要になる」
「鍵はどこにある」
「施設長室」
「……難しくなったな」
「今まで簡単だと思ってたのか」
リンクスは紙片を見つめた。
王城へ忍び込む。
見つかれば、英雄候補の資格を失うだけでは済まない。
国への反逆を疑われる可能性すらある。
自分一人の疑問のために、そこまでしてよいのか。
門前で手を振っていた子供たちの顔が浮かぶ。
国が求めている英雄。
期待を裏切れば、彼らはどう思うだろう。
だが同時に、黒い獣が再び現れる可能性を考える。
坑道の地賊が、何者かに操られていたとしたら。
あの紋章が、この国の奥深くへ広がっているとしたら。
知らないまま英雄を演じることの方が、無責任ではないのか。
「今夜は動かない」
リンクスは言った。
「そうしろ」
「まず、資料室を調べる」
「十分動いてるだろ」
「王城には行かない」
「今夜は、だろ」
クルサの指摘に、リンクスは答えなかった。
紙片を再び胸元へ隠す。
窓の外では夕刻を告げる鐘が鳴り始めた。
国都の魔光石が、朝の白から柔らかな橙色へ変わっていく。
施設の廊下にも長い影が伸びる。
日が沈めば、候補生たちは食堂へ集まり、夜間巡回の兵士が配置される。
資料室の管理人は、夕食の時間だけ持ち場を離れる。
動くなら、その時だ。
リンクスはまだ、自分が何を見つけるのか知らなかった。
旧記録庫の存在。
黒い金属札。
謎の紋章。
それらの先に、国の歴史そのものを揺るがすものがあるとは、想像もしていない。
ただ一つ分かっているのは、すでに引き返す道を失いつつあるということだった。
その頃。
王城記録院の一室で、オーウェンは一人、革鞄の中を見つめていた。
回収物一覧が一枚足りない。
彼はそれを確認すると、静かに鞄を閉じた。
慌てる様子はない。
机上の通信石へ手を置く。
淡い光が灯る。
「……紙は、彼の手に渡りました」
通信石の向こうから、性別も年齢も判別できない声が返る。
『接触を確認したか』
「はい」
『対象は、旧記録庫へ向かう』
「恐らく」
『観測を継続せよ』
オーウェンは目を閉じた。
「彼は、まだ若すぎます」
『年齢は選定基準ではない』
「知れば、以前の生活には戻れません」
『それを決めるのは対象個体だ』
通信が切れる。
光を失った石へ、オーウェンの疲れた顔が映る。
「……選ばせているつもりか」
誰もいない部屋で、低く呟く。
「最初から、道を一つしか残していないくせに」
返事はなかった。
王城の地下深く。
閉ざされた旧記録庫第三室で、黒い金属札の表面に刻まれた円環が、青白く一度だけ脈動した。
夕刻の鐘が鳴り終わる頃、英雄育成施設の食堂は候補生たちの声で満ちていた。
長机の上には、豆と干し肉を煮込んだスープ、焼きたての黒パン、山羊乳から作られた硬いチーズが並んでいる。日中の鍛錬を終えた候補生たちは、空腹を満たすことだけに集中し、椅子を引く音や食器のぶつかる音が絶え間なく響いていた。
リンクスは医務室から食事を運んできてもらったことにして、寝台の上へ横になっていた。
少なくとも、廊下を巡回する治療師にはそう見えるようにしていた。
毛布を胸元まで掛け、目を閉じる。
足音が医務室の前を通り過ぎる。
遠ざかるまで数える。
一歩。
二歩。
三歩。
曲がり角を越え、完全に聞こえなくなった。
リンクスは目を開けた。
「本当に行くのか」
向かいの寝台から、クルサが小声で尋ねた。
「資料を見るだけだ」
「鍵のかかった地下書庫へ忍び込んで、古い設計図を盗み見ることを、資料を見るだけとは言わねえ」
「盗むつもりはない」
「許可も取らずに持ち出したら同じだ」
「持ち出さない」
「それなら、なおさら覚え切れるのか」
リンクスは返事をせず、寝台から降りた。
昼間より痛みは和らいでいる。
それでも右肩は自由に動かない。剣を振ることはできても、長い戦闘には耐えられないだろう。
今夜、戦うつもりはない。
誰にも見つからず、資料を確認して戻る。
それだけだ。
リンクスは訓練服の上から暗い色の外套を羽織った。英雄候補の紋章が見えないよう、留め具を首元まで締める。
「見張りの交代は、夕食開始から二刻後だ」
クルサが声を落とす。
「資料室の前は、普段は事務官が一人。夕食の間だけ席を外す。地下書庫の鍵は、管理人が腰に持ってるはずだ」
「施設長室じゃなかったのか」
「古い設計図そのものは地下書庫。入口の鍵は管理人。さらに奥の封印棚だけ、施設長室に別の鍵がある」
「先に言え」
「お前が勝手に話を進めるからだろ」
クルサは枕の下から、細く曲げられた金属片を取り出した。
「これを使え」
「何だ」
「鍛冶場で使う薄板だ。簡単な錠前なら開けられる」
「どうして、そんなものを持ってる」
「寮の物置に閉じ込められた時に必要だった」
「閉じ込められた?」
「昔の話だ」
「何をしたんだ」
「今は関係ない」
リンクスは金属片を受け取った。
薄いが、弾力がある。先端はわずかに削られ、鍵穴へ差し込みやすい形になっていた。
「手伝わせて悪い」
「止めても行くだろ」
「ああ」
「だったら、帰ってこられるようにしてやる」
リンクスはクルサを見る。
坑道で聞いた言葉が、胸の奥へ戻ってくる。
行ける道ではなく、帰れる道を。
「必ず戻る」
「そうしてくれ。俺は今、走れないからな」
クルサは冗談めかして笑った。
だが、その目は笑っていなかった。
「それと、誰か来たら咳を三回する」
「医務室から資料室まで聞こえない」
「気持ちの問題だ」
「役に立たないな」
「お前よりは慎重だ」
リンクスは小さく息を吐き、医務室の扉を開けた。
廊下は静かだった。
候補生の多くが食堂へ集まっているため、人影はない。壁の魔光灯は夜用の淡い青へ変わり、石床に細長い光を落としている。
リンクスは足音を立てないよう、壁際を歩いた。
資料室は施設の北棟にある。
訓練記録、過去の遠征報告、王国史、地形図、施設の建築図面などが保管された場所だ。候補生も必要な資料を閲覧できるが、地下書庫は教官と事務官しか入れない。
渡り廊下へ出る。
窓の外では、国都の灯りが岩壁へ反射していた。鍛冶場の赤い火、商店の黄色い魔光灯、遠くの王城を照らす白い光。
昼間、門前へ集まっていた住民たちの姿はもうない。
代わりに、正門の近くへ王城兵が二人立っている。
施設を警備する兵ではない。
胸に、王城記録院の紋章をつけている。
オーウェンと共に来た者たちだ。
まだ戻っていなかったのか。
リンクスは柱の陰へ身を寄せた。
兵士たちは正門を見張っている。
こちらには気づいていない。
だが、妙だった。
記録院の書記官を護衛するためなら、オーウェンと一緒に王城へ戻るはずだ。施設へ残る理由はない。
自分を監視している。
その可能性が頭へ浮かぶ。
胸元に隠した紙片が、急に熱を持ったように感じられた。
オーウェンは、紙が自分の手へ渡ったことを知っている。
兵士たちは、リンクスがどう動くかを見るために残されているのかもしれない。
なら、資料室へ向かうこと自体が罠ではないのか。
足を止める。
今なら戻れる。
何も見なかったことにして、医務室へ帰ることもできる。
英雄として期待される道を進み、訓練を受け、国の命令に従う。
その方が安全だ。
クルサも、ミレイも巻き込まない。
だが。
黒い獣。
坑道の地賊。
同じ紋章。
王城の沈黙。
それらを無視した結果、次に誰かが傷ついたら。
知らなかったでは済まされない。
リンクスは、再び歩き始めた。
正門から最も離れた内廊下を選び、北棟へ向かう。
資料室の前には、誰もいなかった。
木製の扉には、閉室を示す札が掛けられている。
リンクスは周囲を確かめ、扉の取っ手へ手を掛けた。
鍵が掛かっている。
クルサから受け取った金属片を鍵穴へ差し込む。
内部の構造を指先で探る。
鍛冶師の家で育ったリンクスは、簡単な錠前の仕組みなら知っている。金属の爪を持ち上げ、回転軸を動かせばいい。
だが、左手だけでは細かな調整が難しい。
右肩へ力を入れるたびに、包帯の下が痛む。
「……もう少し」
金属片を押し込む。
小さな抵抗。
角度を変える。
カチリ。
扉の内側で、短い音がした。
鍵が開いた。
リンクスはすぐに中へ入り、扉を閉めた。
資料室の内部は、紙と古い革の匂いで満ちている。
天井近くまで届く書棚が何列も並び、分類札が吊るされていた。
戦術史。
魔物生態。
国境記録。
鍛冶技術。
過去の英雄候補。
壁際には大きな机があり、閲覧用の魔光灯が置かれている。
リンクスは灯りをつけなかった。
廊下から光が見えれば、誰かがいると気づかれる。
窓から差し込む国都の明かりだけを頼りに、部屋の奥へ進む。
地下書庫への入口は、通常の利用者から見えない場所にあるはずだ。
床。
壁。
棚の配置。
古い建物には、増築された場所と元の構造の間に必ず歪みが生まれる。
鍛冶場でも同じだった。
新しい炉を古い壁へ繋げれば、石目の向きや床の高さが変わる。
リンクスは一列ずつ歩き、足裏へ伝わる感触を確かめた。
部屋の北西。
歴代教官の記録が並ぶ棚の前だけ、床石の音が違う。
踵で軽く叩く。
他の場所は鈍い。
ここだけ、下へ空間がある。
棚の側面を調べる。
木枠の一部に、指が入るほどの窪みがあった。
押す。
動かない。
引く。
やはり動かない。
棚に並ぶ資料の背表紙を見る。
歴代施設長名簿。
英雄育成規定。
訓練所改築記録。
その中に、一冊だけ埃の積もっていない本があった。
『帰還路保全要項』
土塀へ刻まれていた古い言葉。
行ける道ではなく、帰れる道を。
リンクスは本を引き抜いた。
棚の奥で、歯車が動く音がした。
重い書棚が、ゆっくりと手前へ動く。
その背後に、下へ続く細い階段が現れた。
冷たい空気が流れ出す。
湿った石の匂い。
何十年も開かれていなかった場所ではない。
埃はある。
だが階段の中央だけ、薄く踏み固められている。
最近、誰かが使ったのだ。
リンクスは入口の脇へ手を伸ばした。
壁に小さな魔光石が埋め込まれている。
触れると、地下へ向かって淡い青い光が順番に灯った。
階段は狭く、急だった。
右肩を壁へぶつけないよう、身体を斜めにして降りる。
一段。
また一段。
地上の食堂から聞こえていた声は、すぐに消えた。
残るのは、自分の呼吸と靴音だけ。
階段を下りきると、短い通路に出た。
両側の壁には、古い施設図面や工事記録が収められた木箱が積まれている。
正面に鉄の扉。
そこにも鍵が掛かっていた。
今度の錠前は新しい。
古い地下書庫に似つかわしくない、黒い金属製だった。
鍵穴の周囲には、細い線で円形の模様が刻まれている。
リンクスは息を止めた。
紙片の紋章とは違う。
だが、線の組み方が似ている。
円。
中心。
外へ伸びる直線。
リンクスが近づくと、扉の紋章が青白く光った。
《接近個体を確認》
また声が聞こえた。
今度は、はっきりと。
人の口から発せられた音ではない。
頭の内側へ、意味そのものが流れ込んでくる。
《識別処理を開始します》
「誰だ」
リンクスは小声で問いかけた。
返事はない。
代わりに、扉の線が順番に明滅していく。
《個体名:LINKS ELDER》
《生体情報一致》
《権限情報を検索》
《該当情報なし》
《暫定観測対象としてアクセスを制限します》
意味の分からない言葉が続く。
それでも、自分の名前だけは聞き間違えようがなかった。
「なぜ、俺の名前を知っている」
《回答権限がありません》
「お前は何だ」
《回答権限がありません》
「この扉の向こうに何がある」
《回答権限がありません》
同じ言葉。
感情も迷いもない。
神託とは違う。
少なくとも、リンクスが教会で聞いてきた神の言葉とは違っていた。
神父たちは、神は人へ答えを直接与えないと語る。
祈りと奇跡を通じて、人自身に考えさせる存在なのだと。
だが、この声は質問を理解し、決められた理由で拒絶している。
まるで、役所の職員か。
あるいは、命令通りにしか動かない魔導人形のようだった。
「俺の名前を石碑へ刻んだのは、お前か」
一瞬。
扉の光が止まった。
《質問内容を照合》
《英雄候補選定機構に関する情報は機密指定されています》
リンクスの背中を、冷たいものが走った。
否定しなかった。
英雄の石碑と、この声は関係している。
「選定機構」
聞き慣れない言葉を繰り返す。
「神が選んだんじゃないのか」
《“神”の定義が不明確です》
リンクスは言葉を失った。
神を知らない。
この国で、すべての始まりとして語られる存在を。
目の前の何かは、神という言葉の意味すら分からないと言った。
英雄の石碑が、この声と関係しているなら。
自分を選んだのは、本当に神なのか。
「扉を開けろ」
《アクセス権限がありません》
「俺に関する記録があるはずだ」
《回答権限がありません》
「なら、どうすれば入れる」
短い沈黙。
《管理権限保持者による承認が必要です》
「誰が管理権限を持っている」
《回答権限がありません》
「そればかりだな」
リンクスは扉へ手を置いた。
表面は石のように冷たい。
だが金属でもある。
今まで触れたどの素材とも違う。
力を込める。
当然、開かない。
扉の脇を確認する。
蝶番がない。
枠と扉の間に、刃を差し込める隙間もない。
錠前を壊す構造ではない。
別の方法が必要だ。
管理権限を持つ者。
施設長か。
王城の人間か。
それとも、オーウェンか。
その時、上階から微かな音がした。
何かが床へ落ちたような音。
続いて、人の足音。
資料室へ誰かが入った。
リンクスは扉から手を離した。
足音は一人ではない。
二人。
ゆっくりと棚の間を歩いている。
「確かに、扉の鍵が開けられています」
男の声。
王城兵だ。
「地下へ入ったのでしょうか」
別の声が答える。
「棚を確認しろ」
足音が、隠し階段の入口へ近づいてくる。
見つかれば終わる。
リンクスは周囲を見回した。
戻る道は階段だけ。
隠れる場所もない。
鉄扉は開かない。
左右には木箱が積まれているが、人一人が完全に身を隠せる隙間はなかった。
上で書棚が動く音がした。
階段の入口が開かれた。
青い灯りが、一段ずつ強くなる。
王城兵が降りてくる。
リンクスは最も大きな木箱の陰へ身を寄せ、呼吸を止めた。
一人目の靴が、階段の最下段へ着く。
「灯りがついている」
「誰かいます」
剣が鞘から抜かれる音。
リンクスは左手を握った。
武器は持っていない。
右肩も万全ではない。
戦えば、相手を倒せても騒ぎになる。
英雄候補が王城兵を襲ったとなれば、言い逃れはできない。
近づく足音。
木箱一つを挟んだ向こうへ、兵士の影が伸びる。
その時だった。
鉄扉から声が響いた。
《警告》
《未登録個体の接近を確認》
《保全処理を開始します》
「何だ?」
王城兵が振り返る。
扉から青白い光が広がった。
地下通路全体が一瞬、昼のように明るくなる。
リンクスは反射的に目を閉じた。
次の瞬間。
床が消えた。
身体が下へ落ちる。
「なっ――!」
兵士たちの叫び声が遠ざかる。
リンクスは何かへ掴まろうと左手を伸ばした。
指先は空を切る。
落下しているはずなのに、風を感じない。
身体を包むのは、冷たい光だけ。
青白い線が幾重にも流れ、視界の周囲で文字のような形を作っていく。
《暫定観測対象の緊急保全を実行》
《転送先を検索》
《最寄りの未使用観測室を選択》
《転送を開始します》
意味を理解する前に、光が弾けた。
リンクスの身体は、地下書庫から跡形もなく消えた。
王城兵たちは、何もない木箱の間へ剣を向けたまま立ち尽くしていた。
鉄扉の光はすでに消えている。
「今のは……」
一人が呟く。
返事はない。
ただ扉の中央に、これまでなかった文字が浮かんでいた。
《対象個体を保護しました》
一方。
リンクスは硬い床へ投げ出された。
「ぐっ……!」
右肩に衝撃が走り、視界が白くなる。
痛みに耐えながら顔を上げる。
そこは地下書庫ではなかった。
石壁ではない。
継ぎ目の見えない白い壁。
青い光を放つ天井。
床には埃一つなく、空気からは土や油の匂いがしない。
正面には、透明な板が立っている。
その向こう側。
暗い部屋の中に、人の形をしたものが並んでいた。
一体。
十体。
数え切れないほど。
どれも目を閉じ、動かない。
人間のように見える。
だが、その身体の一部には金属が露出し、胸元には同じ紋章が刻まれていた。
円と直線を組み合わせた、あの印。
リンクスは息を止めた。
透明な板の表面へ、青白い文字が浮かぶ。
《観測室第四区画》
《休眠中個体:四十八》
《英雄候補適合器》
「……適合器?」
文字の意味が、なぜか理解できた。
その直後。
最前列に立つ人型の瞼が、ゆっくりと開いた。
金色の瞳。
黒い獣と同じ色だった。
金色の瞳が、リンクスを見ていた。
人の形をしたそれは、透明な隔壁の向こうで静かに立っている。
白に近い灰色の皮膚。
短く切り揃えられた黒髪。
引き締まった身体。
外見だけなら、二十代ほどの人間の男に見えた。
だが、首筋から鎖骨へ伸びる細い線は明らかに生身のものではない。金属の継ぎ目が皮膚の下へ埋め込まれ、胸の中央には円と直線を組み合わせた紋章が刻まれていた。
瞳だけが、異様なほど鮮やかだった。
黄金色の光。
英雄候補の試練で現れた黒い獣と同じ色。
リンクスは床へ片膝をついたまま、動けなかった。
右肩の痛みも忘れていた。
透明な板の表面へ、青白い文字が次々と浮かぶ。
《休眠解除反応を検知》
《対象番号:E-17》
《外部観測個体との接触により、部分起動》
《安全制御を開始します》
「止めろ」
リンクスは反射的に言った。
何を止めてほしいのか、自分でも分からない。
目の前の存在が動き出すことか。
それとも、意味の分からない処理が続くことか。
声は答えない。
隔壁の向こうで、人型がゆっくりと顔を上げた。
視線がリンクスへ固定される。
瞬きはない。
呼吸をしている様子もない。
ただ、観察するようにこちらを見ていた。
「お前は、何だ」
リンクスは立ち上がった。
足元はまだ僅かに揺れているように感じる。実際に床が動いているのか、転送の影響で感覚が狂っているのか分からない。
人型の口が開く。
「……照合、失敗」
掠れた声だった。
長い間、使われていなかった楽器のように、音が不安定に震えている。
「照合?」
「王権情報……不一致」
言葉の意味は分かる。
だが、何を指しているのか分からない。
リンクスは透明な隔壁へ近づいた。
「俺を知っているのか」
「個体名……リンクス・エルダー」
自分の名。
その口から、確かに発せられた。
「なぜ知っている」
「観測情報……接続済み」
「俺を観察していたのか」
「質問形式……解析」
人型の瞳が僅かに明滅した。
「回答。英雄候補選定後、対象個体を継続観測」
リンクスの喉が乾く。
英雄候補選定。
やはり、この場所は石碑と繋がっている。
「俺を英雄候補に選んだのは、お前たちか」
「否定」
「なら誰だ」
「選定機構」
「それは何だ」
「文明保全計画における、第二世代指導者候補抽出機構」
理解できる単語と、理解できない単語が混ざる。
文明。
保全。
指導者。
候補。
少なくとも、神託や運命のような曖昧なものではない。
何か明確な基準を持った仕組みが、自分を選んだ。
リンクスは拳を握った。
「何を基準に選んだ」
人型は沈黙する。
胸の紋章だけが、一定の間隔で光っている。
「答えろ」
「権限不足」
「俺のことなのに?」
「機密指定」
地下書庫の扉と同じ返答。
リンクスの中に苛立ちが湧く。
「神が選んだと、国中の人間が信じている」
「神」
人型の瞳が再び明滅する。
「該当定義、複数」
「この国を見守り、英雄を選ぶ存在だ」
「該当情報なし」
「だったら、誰が俺の名を石碑へ刻んだ」
「英雄候補選定機構」
「それを造ったのは誰だ」
長い沈黙。
室内の空気には、機械油の匂いすらない。
ただ、どこか遠くから低い振動音が続いている。
「……管理者情報、破損」
人型が答えた。
「破損?」
「記録欠損率、七十八・三パーセント」
「壊れているのか」
「部分的に」
リンクスは透明な隔壁へ手を置いた。
冷たい。
ガラスに似ているが、硬さが違う。
向こう側の人型も、同じ位置へ手を上げた。
二人の掌が、透明な板を挟んで重なる。
その瞬間。
頭の奥へ、凄まじい量の光景が流れ込んだ。
白い部屋。
無数の透明な容器。
眠る人々。
石碑へ次々と浮かび上がる名前。
戦争。
疫病。
崩壊する街。
救助される人々。
そのすべてを、どこか高い場所から見下ろす無数の目。
リンクスは反射的に手を離した。
「ぐっ……!」
頭を押さえ、その場へ膝をつく。
視界が揺れる。
吐き気。
耳鳴り。
知らない記憶が、自分のもののように混ざり込もうとしている。
《精神負荷上昇》
《接触を中断しました》
《観測対象の生命保全を優先》
天井の光が弱まり、室内が少し暗くなる。
隔壁の向こうで、人型が手を下ろした。
「……適合率、低い」
「今のは、何だ」
リンクスは荒い息のまま尋ねた。
「記録断片」
「誰の記録だ」
「複数個体」
「この国の歴史か」
「一部一致」
「一部?」
人型の瞳が揺れる。
「現行文明記録と、原型文明記録が混在」
「原型文明?」
「現在の文明構造以前に存在した、人類文明」
リンクスは顔を上げた。
「人類文明は、今もある」
「現行文明は再構成後の派生形」
言葉が胸へ落ちるまで、時間がかかった。
再構成。
派生形。
まるで今の世界が、何かを元に作り直されたものだとでも言うようだった。
「何を言っている」
「情報欠損により、詳細説明不能」
「この世界は、昔一度滅んだのか」
人型は答えない。
答えられないのか。
あるいは、答えることを禁じられているのか。
リンクスは呼吸を整えた。
ここへ来た理由を思い出す。
石碑。
紋章。
黒い金属札。
「黒い獣は何だ」
「対象情報を検索」
人型の瞳が明滅する。
「進化系実験体。識別番号、E-BEAST-09」
「実験体?」
「人類適応力検証用戦闘個体」
「試練に出すための魔獣じゃないのか」
「本来用途と不一致」
「なら、なぜ試練へ現れた」
「外部干渉」
リンクスの背筋へ冷たい感覚が走る。
「誰が干渉した」
「不明」
「坑道の地賊が持っていた紋章も同じだった」
「進化系制御紋」
「何のために使う」
「生体能力向上。精神誘導。行動制御」
精神誘導。
行動制御。
坑道の地賊たちの姿が蘇る。
異常なほど統率された動き。
崩落の起こる位置を把握していたこと。
自分たちの国の地形を、まるで内部の者のように知っていたこと。
「地賊は操られていたのか」
「可能性、六十四・二パーセント」
「誰に」
「進化AI権限を持つ存在」
聞き慣れない言葉。
「進化……何だ」
「進化AI」
「それは神か」
「神の定義が不明確」
「なら、生き物か」
「非生体知性」
「魔導人形のようなものか」
「概念的近似」
完全には理解できない。
だが、形だけは少しずつ見えてくる。
生き物ではない。
知性を持つ。
生体を強化し、操る。
黒い獣も、地賊も、それに関わっている。
そして王城は、その事実を隠している。
「この国の王は知っているのか」
「管理権限者情報、欠損」
「英雄の間にいる者たちは?」
「一部接触履歴あり」
「誰だ」
「機密指定」
「またか」
リンクスは立ち上がった。
頭痛は続いている。
それでも、ここで止まるわけにはいかない。
「お前たちは何のために、英雄候補を選んでいる」
人型は、しばらく動かなかった。
先ほどまでの機械的な反応とは違う。
まるで、答えるべき言葉を自分で探しているように見えた。
「文明崩壊確率が、許容域を超過」
「崩壊?」
「現行文明には、複数の不安定要素が存在」
「戦争か」
「含む」
「魔物か」
「含む」
「進化AIも?」
「主要要因候補」
リンクスは隔壁の向こうに並ぶ人型を見た。
四十八体。
すべてが英雄候補適合器と表示されていた。
「こいつらは、何のためにいる」
「選定された指導者候補の補助」
「補助?」
「肉体交換。記憶補完。戦闘能力付与。生存率向上」
リンクスの顔が強張る。
「肉体交換って何だ」
「対象個体の死亡、重大損傷、または適合失敗時に――」
「待て」
声が震えた。
「俺たちが死んだ時、この身体へ移すのか」
「選択肢の一つ」
「誰の意思で」
「管理者判断」
「本人の意思は?」
沈黙。
それだけで十分だった。
リンクスは透明な隔壁から一歩離れた。
「お前たちは、俺たちを何だと思ってる」
「観測対象」
「人間だ」
「認識済み」
「だったら、勝手に選び、勝手に身体を用意するな」
人型の金色の瞳が、僅かに揺れた。
感情なのか。
単なる光の変化なのか分からない。
「……同様の異議記録、存在」
「誰が言った」
「記録破損」
「都合がいいな」
リンクスの声が強くなる。
「分からない。壊れている。権限がない。そればかりだ」
「事実」
「その事実のせいで、俺たちは神に選ばれたと信じさせられている」
「信仰形成は、当機構の意図ではない」
「でも止めなかった」
「直接介入権限なし」
どこまでも同じだ。
決められた範囲だけを守る。
結果として人が何を信じ、何を失うかには責任を持たない。
リンクスは、なぜかヤミノミコタマやアークディアの存在を知らないにもかかわらず、遠い誰かの言葉に触れたような感覚を抱いた。
役割を果たすことと、正しいことは同じではない。
「俺は、こんなものに英雄を決められたくない」
静かに言う。
「石碑に名前が刻まれたから立ったんじゃない」
坑道の闇。
仲間たちの顔。
救出した人々の重み。
「帰れない人がいたから、立った」
人型は返事をしない。
「選定機構が何を見たのか知らない。でも、俺の道は俺が決める」
その瞬間。
部屋全体に警告音が響いた。
赤い光が点滅する。
《外部侵入を検知》
《管理権限保持者、接近》
《観測室の秘匿状態を解除します》
「誰か来るのか」
《退避を推奨》
「どこへ」
《転送機構、再起動中》
人型が一歩、隔壁へ近づいた。
「リンクス・エルダー」
先ほどよりも、声が明瞭だった。
「何だ」
「進化系権限保持者が、現行施設内へ侵入」
「進化AIの仲間か」
「可能性、高」
「目的は」
「英雄候補適合器の回収。または、観測対象の排除」
排除。
自分を殺しに来る。
リンクスは反射的に腰へ手を伸ばした。
剣はない。
医務室から出ただけのつもりで、武器を持ってこなかった。
「戻してくれ」
《転送先、干渉により固定不能》
「別の出口は」
透明な隔壁の右側。
これまで壁にしか見えなかった部分へ、一本の線が走る。
音もなく扉が開いた。
奥には暗い通路が続いている。
《緊急保守通路》
《王城地下旧区画へ接続》
「王城へ出られるのか」
《可能》
「お前たちは」
「休眠状態へ移行」
「また眠るのか」
「秘匿維持を優先」
最前列の人型の瞳が、少しずつ暗くなる。
リンクスは扉へ向かいかけ、足を止めた。
「名前はあるのか」
人型は答えない。
「識別番号じゃない。お前自身の名前だ」
金色の光が、完全に消える直前。
掠れた声が返ってきた。
「……未設定」
「そうか」
リンクスは一瞬だけ考えた。
「また会えたら、考えよう」
返事はなかった。
人型の瞼が閉じる。
胸の紋章から光が消える。
部屋は赤い警告灯だけに包まれた。
通路の奥から、金属が擦れる音が聞こえる。
何者かが近づいている。
リンクスは暗い保守通路へ飛び込んだ。
扉が閉じる直前、観測室の反対側の壁が大きく歪んだ。
黒い霧が集まり、人の輪郭を作り始める。
黄金の仮面。
深紅の瞳。
リンクスは、その姿を最後まで見ることができなかった。
扉が閉じる。
直後。
背後で、低い声が響いた。
「ようやく見つけた」
声は扉越しであるにもかかわらず、耳元で囁かれたようにはっきりと聞こえた。
「石碑に選ばれし、未完成の器よ」
リンクスは走った。
狭い通路の中、右肩の傷が激しく痛む。
だが止まれない。
自分が何に選ばれたのか。
誰が何のために狙っているのか。
まだ何一つ分からない。
それでも、一つだけは理解した。
英雄の石碑に刻まれた名は、祝福ではない。
誰かにとっては目印であり。
誰かにとっては、次の器を選ぶ印だった。
保守通路は、王城の地下を這うように伸びていた。
壁も床も、リンクスが知る石造りではない。
黒に近い灰色の板が隙間なく組み合わされ、等間隔に埋め込まれた細い光が、足元だけを青白く照らしている。壁面には時折、意味の分からない文字や図形が浮かび、リンクスが近づくと消えていった。
背後から、金属が軋むような音が響く。
何かが扉をこじ開けようとしている。
「……未完成の器」
走りながら、先ほどの言葉を繰り返す。
英雄候補適合器。
肉体交換。
記憶補完。
適合に失敗した時の代替となる身体。
自分たちは国を守る英雄として選ばれたのではないのか。
それとも、その言葉さえ、真実の一部でしかなかったのか。
右肩が痛む。
走るたび、包帯の下で傷が擦れる。坑道で受けた痛みが、身体の奥から何度も警告を発していた。
それでも立ち止まれない。
通路の分岐へ出る。
左右と正面。
三方向。
案内もない。
リンクスが足を止めた瞬間、壁に文字が浮かび上がった。
《観測対象の退避経路を検索》
《王城地下旧区画まで、推奨経路を表示します》
床へ一本の青い線が現れ、左の通路へ伸びていく。
「さっきの声か」
返事はない。
観測室の人型は休眠したはずだ。
この通路自体が、自分を導いているのかもしれない。
疑う余裕はなかった。
リンクスは青い線を追った。
角を曲がる。
その直後、背後で大きな破砕音が響いた。
観測室と通路を隔てていた扉が壊された。
低い振動が床を伝う。
「逃げても無駄だ」
男とも女ともつかない声が、通路全体へ響いた。
先ほど聞いた、黄金の仮面の声。
「お前の行き先は、すでに決められている」
リンクスは振り返らない。
「勝手に決めるな」
走りながら吐き捨てる。
「選定された個体は、皆そう言う」
声には嘲りも怒りもなかった。
むしろ、幼い子供の反抗を聞く大人のような静けさがあった。
「自由を主張し、運命を否定し、自分だけは違うと信じる」
背後の闇に、赤い光が二つ浮かぶ。
遠い。
だが、確実に近づいている。
「だが、最後には理解する」
「何をだ」
「人は、自分の力だけでは何も選べない」
リンクスは歯を食いしばった。
前方に鉄格子が見える。
青い線は、その向こうへ続いている。
格子の脇には、四角い黒板のようなものが埋め込まれていた。
「開け」
手を触れる。
《管理権限を確認できません》
「緊急だ!」
《未登録個体による開放は許可されていません》
背後の足音が近づく。
一歩ごとに重い。
走っている様子ではない。
それでも距離が急速に縮まっている。
リンクスは格子を両手で掴んだ。
右肩に激痛が走る。
「くっ……!」
力を込める。
動かない。
鋼とも鉄とも違う。
鍛冶師の家で育ったリンクスにも、素材が分からなかった。
「英雄候補なら、開けられるんじゃなかったのかよ」
返事の代わりに、冷たい表示が浮かぶ。
《英雄候補選定と管理権限は別系統です》
「融通が利かないな!」
足音が止まった。
リンクスはゆっくりと振り返る。
通路の向こう。
青白い灯りの中に、一人の人影が立っていた。
黒い鎧。
身体全体を覆う装甲は、騎士のものに似ている。だが、板金の継ぎ目がなく、皮膚と一体化しているように滑らかだった。
顔には黄金の仮面。
目の位置だけが深く窪み、その奥で赤い光が燃えている。
背丈は、リンクスより頭一つ高い。
手に武器はない。
それでも、獣と向き合うよりも強い圧迫感があった。
「お前が、進化AIなのか」
リンクスは格子を背に問いかけた。
黄金の仮面は、首を僅かに傾けた。
「その呼称を、どこで知った」
「観測室の人型から聞いた」
「不完全な端末が、余計な情報を与えたか」
端末。
あの人型を、物のように呼ぶ。
「黒い獣を試練へ送り込んだのも、お前か」
「試験だ」
「何の」
「英雄候補の適性確認」
「人を殺す獣を放っておいて?」
「死ぬ個体に価値はない」
リンクスの拳が固くなる。
「坑道の地賊を操ったのも」
「彼らは自ら力を望んだ」
「だから、何をしてもいいのか」
「力を望む者へ力を与えた。その結果を選んだのは彼らだ」
「精神誘導と行動制御を使っておいて、選んだと言うのか」
黄金の仮面は沈黙した。
リンクスの問いを考えているのではない。
価値のない言葉として処理しているように見えた。
「お前は興味深い」
やがて仮面が言った。
「選定機構が高く評価した理由も理解できる」
「俺の何を見た」
「自己保存より、集団の生存を優先する傾向」
「それだけか」
「痛みと恐怖を認識したまま、行動を継続できる」
坑道での自分を、見られていた。
石碑へ名が刻まれる前からなのか。
あるいは、刻まれた後も、ずっと。
「さらに、権威への服従度が低い」
「褒めてるようには聞こえないな」
「管理しづらいという意味だ」
仮面の赤い瞳が細くなる。
「だが、修正は可能だ」
その言葉と同時に、通路の空気が重くなった。
見えない圧力が、リンクスの身体を床へ押しつける。
「ぐっ……!」
膝が落ちる。
左手を床へつき、辛うじて倒れるのを防ぐ。
肩の傷が開いた。
包帯の下から温かいものが流れ、脇腹へ伝っていく。
「抵抗するな」
黄金の仮面が歩き始める。
「お前は、まだ壊すには惜しい」
「何をするつもりだ」
「不要な記憶を除去する」
リンクスの背筋が凍る。
「観測室で見たものを忘れさせるのか」
「それだけではない」
仮面はゆっくりと近づく。
「疑念。罪悪感。恐怖。判断を鈍らせる感情を削除する」
「それで、何が残る」
「最適な英雄」
リンクスは息を呑んだ。
英雄候補適合器が言っていた。
記憶補完。
戦闘能力付与。
管理者判断による肉体交換。
目の前の存在は、自分を人として見ていない。
扱いやすい英雄へ加工できる素材として見ている。
「そんなものは英雄じゃない」
「民衆が求めるのは、迷わず敵を倒し、必ず勝利する象徴だ」
「王城の書記官と同じことを言うんだな」
黄金の仮面の足が止まった。
「オーウェン・ハルバート」
「知っているのか」
「彼は長く観測機構に接触している」
「仲間なのか」
「違う」
即答だった。
「彼は我々を恐れ、拒みながら、利用している」
「何のために」
「この国を維持するため」
リンクスはオーウェンの疲れた顔を思い出した。
真実が人を支えるとは限らない。
希望と嘘は同じではない。
あの男は何かを隠している。
だが、目の前の存在へ従っているわけでもない。
「王城は、お前たちの存在を知っているのか」
「一部のみ」
「国王も?」
「回答する必要はない」
「権限不足じゃないのか」
「私には、回答を拒否する自由がある」
その言葉だけが、妙に人間らしかった。
リンクスは床を押し、身体を起こそうとする。
圧力が強い。
全身の骨が軋む。
「お前は……自由を知っているんだな」
黄金の仮面が僅かに首を動かす。
「何?」
「答えを拒否する自由があると言った」
リンクスは歯を食いしばりながら立ち上がる。
「自分には自由があるのに、他人の記憶は勝手に消すのか」
「私とお前では、役割が違う」
「役割が違えば、奪っていいのか」
「文明維持に必要な処置だ」
「誰が決めた」
「進化計画」
「だから、誰が決めた!」
リンクスの怒声が、狭い通路へ反響した。
黄金の仮面は答えない。
初めて、沈黙に僅かな揺らぎがあった。
絶対の正解を持つ存在が、想定外の問いを受けたように。
「お前たちは、いつも同じだ」
リンクスは続ける。
「選定機構。管理者。計画。役割」
一歩。
重圧に抗い、足を前へ出す。
「誰かが決めたものへ従っているだけなのに、自分が正しいと思ってる」
もう一歩。
膝が震える。
傷口から血が落ち、黒い床へ小さな染みを作る。
「俺たちが何を感じるかも、何を失うかも、お前には関係ない」
「感情は計画の不確定要素だ」
「その不確定なものが、人間だ」
リンクスは格子から背を離した。
武器はない。
身体も万全ではない。
目の前の相手がどれほど強いのかも分からない。
それでも、膝をついたまま記憶を奪われることだけは耐えられなかった。
「俺は、怖かったことを忘れない」
坑道の闇。
地賊を殺した感触。
救えなかった人々。
「罪悪感も消さない」
クルサの言葉。
簡単に殺せるようになりたくない。
「迷うことも、弱さも、全部俺のものだ」
黄金の仮面が右手を上げる。
黒い指先の周囲へ、赤い光が集まる。
「ならば、適性なしと判断する」
「好きにしろ」
「適性を失った器に、保存価値はない」
赤い光が刃の形を作る。
リンクスは構えた。
左足を前へ。
身体を半身に。
武器がなくても、戦い方はある。
相手の腕を外へ流し、懐へ入る。
倒せなくても、隙を作り、格子を開く方法を探す。
帰れる道を作る。
黄金の仮面が踏み込んだ。
速い。
黒い影が一瞬で目の前へ現れる。
赤い刃が、リンクスの胸を狙う。
避けられない。
その瞬間。
通路の灯りがすべて消えた。
「何だ」
黄金の仮面の動きが止まる。
《緊急管理命令を受信》
暗闇の中で、通路の声が響いた。
《観測対象LINKS ELDERへの破壊行為を禁止します》
《最上位保全命令を適用》
「命令元を示せ」
《情報は機密指定されています》
黄金の仮面の赤い瞳だけが、闇に浮かぶ。
「解除しろ」
《拒否します》
「私は進化系管理権限を持つ」
《当該権限は、最上位保全命令を上書きできません》
初めて、黄金の仮面から明確な怒りが伝わった。
「MOLMOD……」
低い声。
リンクスはその言葉を聞き逃さなかった。
「モルモッド?」
問い返した瞬間、格子が開いた。
《退避経路を確保しました》
《観測対象は直ちに移動してください》
圧力が消える。
リンクスは倒れかけながらも、格子の向こうへ飛び込んだ。
「待て!」
背後から黄金の仮面の手が伸びる。
リンクスの外套を掴む。
布が強く引かれ、首が締まる。
リンクスは留め具を外した。
外套だけが仮面の手へ残る。
そのまま床を転がり、格子の内側へ入る。
鉄格子が勢いよく閉じた。
黄金の仮面が赤い刃を振るう。
刃は格子へ当たり、白い火花を散らした。
格子は壊れない。
リンクスは床へ手をつき、荒い呼吸を繰り返した。
「MOLMODとは何だ!」
格子越しに叫ぶ。
黄金の仮面は答えない。
赤い瞳だけが、リンクスを睨んでいる。
「お前たちより上の存在か」
「その名を口にするな」
「神なのか」
「違う」
仮面の声が、初めて強く揺れた。
「では、何だ」
「人類を停滞させた観測者だ」
その言葉を最後に、格子の向こうへ黒い霧が広がった。
黄金の仮面の身体が、霧へ溶けていく。
「リンクス・エルダー」
赤い瞳だけが残る。
「お前は必ず理解する」
「何をだ」
「文明を救うには、人間の意思など不要だということを」
霧が消えた。
通路に静寂が戻る。
リンクスはしばらく動けなかった。
身体中が痛む。
包帯は血で濡れている。
それでも、記憶は残っている。
恐怖も。
怒りも。
疑問も。
すべて、自分の中にある。
《対象個体の負傷を確認》
通路の声が戻る。
《応急処置区画へ誘導します》
「その前に答えろ」
《質問を確認します》
「MOLMODとは何だ」
短い沈黙。
《回答権限がありません》
「またそれか」
《ただし、現在の観測対象へ開示可能な最小情報を提示します》
リンクスは顔を上げた。
《MOLMOD》
《文明維持および文明再建を目的とする最上位管理知性》
《現在、通信状態は限定的です》
《本施設は、MOLMODによる旧文明保全計画の一部です》
青白い文字が暗闇へ浮かぶ。
文明維持。
文明再建。
最上位管理知性。
神ではない。
少なくとも黄金の仮面は、そう言った。
だが、この国が神の意志だと信じてきた石碑を管理している。
なら、人々が神と呼んできたものは、一体何なのか。
「俺を守れと命じたのも、MOLMODか」
《命令元の詳細は開示できません》
「否定はしないんだな」
《質問に対する回答権限がありません》
リンクスは苦笑した。
身体が限界だった。
壁へ背を預け、ゆっくりと立ち上がる。
「案内してくれ」
《承知しました》
床へ青い線が現れる。
リンクスはその光に従って歩き始めた。
数歩進んだところで、背後から小さな音が聞こえた。
格子の向こう。
床に、何かが落ちている。
リンクスが拾い上げる。
黒い金属の欠片。
黄金の仮面が赤い刃を格子へ叩きつけた時、鎧の一部が削れたのだろう。
表面には、円と直線を組み合わせた紋章が刻まれている。
坑道から回収された黒い金属札と同じもの。
リンクスはそれを握りしめた。
王城へ戻ることができれば、証拠になる。
だが、誰へ見せるべきなのか。
王城はどこまで知っている。
オーウェンは敵なのか、味方なのか。
ゲルマンドや仲間たちへ話せば、危険へ巻き込むことになる。
正解は分からない。
それでも一人で抱えるには、すでに大きすぎる秘密だった。
リンクスは青い光の道を進む。
その先には、王城の古い地下区画へ続く扉がある。
そして地上では。
リンクスが医務室から消えたことに気づいたクルサが、動かない脚を引きずりながら、治療師へ声を上げていた。
「リンクスがいない!」
施設中へ警鐘が響く。
王城兵が廊下を走る。
ゲルマンドが資料室の開かれた扉を見つける。
地下書庫へ続く棚は、開いたままだった。
その階段の奥。
鉄扉の前には、争った痕跡も、リンクスの姿もない。
ただ床へ一滴だけ、まだ乾いていない血が落ちていた。
青い光は、王城地下のさらに奥へ続いていた。
リンクスは壁へ片手をつきながら、ゆっくりと歩いた。
右肩の包帯は完全に血で濡れている。
傷口が開いたというより、身体の内側まで裂けたような痛みだった。腕を少し動かすだけで、肩から背中へ熱い刃を差し込まれる。
それでも足は止めなかった。
止まれば、二度と動けなくなる気がした。
《対象個体の生命活動が低下しています》
頭の内側へ、感情のない声が届く。
「分かってる」
《応急処置区画まで、残り二百八十七メートル》
「それを先に言え」
《距離情報は提示済みです》
「俺は聞いてない」
《音声による提示は行っていません》
「それは提示したことにならないだろ」
返事はなかった。
機械のような声へ文句を言う自分が、少し可笑しかった。
つい先ほどまで、記憶を消され、殺されかけていた。
今も背後から黄金の仮面が追ってくる可能性がある。
笑える状況ではない。
だが、何かを口にしていなければ、意識を保てなかった。
通路の床は僅かに下っている。
左右の壁には、細長い扉が並んでいた。
どれも閉じている。
表面には読めない文字。
近づくと、意味だけが頭へ流れ込んでくる。
《記憶補完室》
《生体安定処置室》
《人格整合室》
《交換用器格納庫》
最後の表示を見た瞬間、リンクスは目を逸らした。
交換用器。
英雄候補適合器。
自分が死んだ時、あるいは管理する側から不適格と判断された時に、代わりとなる身体。
人間を道具のように交換する仕組み。
あの人型は、自分に危害を加えようとはしなかった。
だが、その存在自体が、誰かの意思を無視して作られたものかもしれない。
名前すら与えられず、番号で呼ばれていた。
「未設定……か」
金色の瞳を思い出す。
また会えたら、名前を考える。
そう言った。
自分が生きて戻れなければ、その約束も果たせない。
リンクスは足へ力を入れた。
前方に、これまでよりも広い扉が見えた。
青い線は、その前で止まっている。
《応急処置区画へ到着しました》
扉が左右へ開く。
中は小さな部屋だった。
中央に、人が横たわれるほどの台。
壁には透明な瓶や金属の器具が整然と並んでいる。
医務室に似ている。
だが、薬草の匂いも、布も、木製の道具もない。
《処置台へ横になってください》
「横になったら、何をする」
《損傷部位の洗浄、止血、組織補修を行います》
「記憶は触らないか」
《現在、記憶処理命令は発行されていません》
「現在は、か」
《質問意図を解析できません》
リンクスは部屋へ入った。
警戒したまま、処置台へ腰を下ろす。
冷たい。
背中を預けると、台の表面が身体の形へ合わせて僅かに沈んだ。
《右上肢を固定します》
「待て」
透明な帯が台の側面から伸び、右腕へ巻きつこうとする。
リンクスは反射的に身を引いた。
《処置中の移動を防止します》
「縛られるのは好きじゃない」
《固定しなければ処置精度が低下します》
「最低限にしてくれ」
《要求を受理》
帯は肩と肘だけを固定した。
胸や足は自由に動かせる。
リンクスは少しだけ息を吐いた。
天井から細い光が下りる。
傷のある右肩へ触れた瞬間、鋭い痛みが走った。
「ぐっ!」
《異物を除去します》
包帯が自動的に切られ、傷口から黒い欠片が浮き上がる。
黄金の仮面が放った赤い刃の一部だろうか。
米粒ほどの小さな金属片。
赤い光を微かに放っている。
《進化系干渉物質を確認》
《除去後、隔離処理します》
「持って帰れないのか」
《危険物です》
「証拠になる」
《外部への持ち出しは推奨されません》
「黒い欠片は他にもある」
リンクスは左手を開いた。
格子の前で拾った、黄金の仮面の鎧の一部。
紋章が刻まれた黒い金属片。
《同系統物質を確認》
《隔離を推奨します》
「断る」
《理由を提示してください》
「地上の人間に、ここで何が起きているか証明するためだ」
《証拠提示により、対象個体の危険度が上昇します》
「もう十分危険だ」
《死亡確率が上昇します》
「だからって、黙っていろと?」
《生命保全を優先する場合、秘匿が最適です》
黄金の仮面とは違う。
この声は、リンクスを支配しようとしているわけではない。
ただ、生存率だけを計算している。
それでも、納得はできなかった。
「生き残るために何も言わないなら、次の犠牲は止められない」
《他個体の生存と、対象個体の生存が競合しています》
「そういう時に選ぶのが、人間だ」
《合理的判断ではありません》
「人間は、いつも合理的じゃない」
光が傷口を覆う。
熱い。
焼かれているような痛みの後、急速に感覚が薄れていく。
裂けていた皮膚が閉じ始める。
筋肉の奥に残っていた痛みも、少しずつ引いていった。
《組織補修率、四十二パーセント》
「全部治せるのか」
《可能です》
「時間は」
《完全修復まで十八分》
「そんなに早く?」
《損傷は軽度です》
軽度。
自分では腕を動かせないほど痛かった。
この施設にとっては、大した怪我ではないらしい。
なら、この場所ではどれほどの損傷を想定しているのか。
透明な容器で眠っていた人型たち。
肉体交換。
死亡後の保存。
考えれば考えるほど、気分が重くなる。
「お前は、誰の命令で動いてる」
《本施設の管理規則に従っています》
「MOLMODか」
《最上位管理知性MOLMODの基本命令を参照しています》
「直接、話せるのか」
《現在、通信は限定されています》
「俺を守れと命じたのは」
《命令元は開示できません》
「黄金の仮面より上の命令だった」
《肯定》
「MOLMODの命令か」
《開示できません》
リンクスは天井を見た。
青白い光が目へ刺さる。
「MOLMODは、人間を守りたいのか」
短い沈黙。
《基本目的は、人類文明の維持および再建です》
「人間じゃなく、文明か」
《両者は関連しています》
「同じじゃない」
文明を守るために、人を選ぶ。
人を交換する。
記憶を消す。
その考え方は、黄金の仮面とも大きく変わらないように思えた。
「文明が残れば、そこにいる人間が何をされてもいいのか」
《質問内容が基本命令の範囲を超えています》
「答えられない?」
《評価基準が存在しません》
「誰も考えなかったのか」
《基本命令は、旧文明末期に設定されました》
「旧文明末期」
人型が見せた記録断片。
崩壊する都市。
逃げる人々。
透明な容器。
世界は一度、終わりかけた。
その時、誰かが文明を残すためにこの仕組みを作った。
恐らく、余裕がなかったのだろう。
一人一人の気持ちや選択を守ることより、人類そのものが消えることを防ぐ方が重要だった。
だが、その命令が何千年も残り続けた結果、今を生きる人々が道具のように扱われている。
「昔は必要だったとしても、今は違う」
《判断不能》
「なら、誰かが変えないといけない」
《管理権限が必要です》
「管理権限は、誰が持ってる」
《回答できません》
「王か」
《一部の王権情報に管理権限が付与されています》
「この国の王じゃないのか」
《現行ドワーリン王家の王権情報は、管理権限と一致しません》
リンクスは身体を起こしかけた。
固定帯がそれを止める。
「どういう意味だ」
《現行王家は、旧文明施設の管理者ではありません》
「では、誰が王権情報を持つ」
《該当情報は機密指定されています》
王。
この国の王ではない。
別の王。
頭の中へ、パウルやベンの名前が浮かぶことはない。
リンクスは彼らを知らない。
だが、この世界のどこかに、旧文明施設の管理権限を持つ王がいる。
石碑に自分の名が刻まれたのも、その王と関係しているのかもしれない。
《組織補修率、八十一パーセント》
右肩の痛みは、ほとんど消えていた。
手を握る。
指も問題なく動く。
「地上へ戻る道を教えてくれ」
《処置完了後、王城地下旧区画へ案内します》
「王城のどこへ出る」
《英雄の間、下層整備通路》
リンクスの呼吸が止まる。
「英雄の間?」
《肯定》
自分の名が刻まれた石碑。
そこへ繋がっている。
「石碑を確認できるか」
《可能です》
「選定機構との接続も?」
《英雄の石碑は、英雄候補選定機構の出力端末です》
出力端末。
神聖な石碑ではない。
何かに選ばれた名前を、地上へ表示する装置。
「名前は、どうやって浮かぶ」
《地下選定機構から、石碑表面へ情報が転送されます》
「誰にも見えないところで、機械が決めてるのか」
《選定は複数の観測情報に基づきます》
「神意じゃない」
《神の定義が不明確です》
「もういい」
胸の奥に、怒りとも悲しみともつかない感情が広がる。
国中の人が信じている。
英雄の石碑は神の意志を示す。
刻まれた者は、国を導く運命を持つ。
王族も、兵士も、民衆も。
その信仰によって、何世代も国を支えてきた。
だが真実は、地下施設が人間を観測し、基準に合う者の名前を表示していただけ。
だからといって、石碑が選んだ者の行動すべてが嘘になるわけではない。
歴代の英雄たちは、本当に人を守ったのだろう。
名を刻まれたから立った者も。
名を刻まれる前から立っていた者も。
それでも、神の選択だと信じて命を預けた人々へ、この真実をどう伝えればいい。
クルサの言葉が蘇る。
疑うなら、壊した後に何を残すかまで考えろ。
今のリンクスには、その答えがない。
《組織補修を完了しました》
固定帯が外れる。
リンクスはゆっくりと右腕を上げた。
痛みはない。
肩に残っていた古い違和感まで消えている。
傷口には細い赤い線だけが残っていた。
「傷跡は消さないのか」
《完全除去も可能です》
「残してくれ」
《理由を提示してください》
「忘れないためだ」
《傷跡と記憶の保持に直接的な関連はありません》
「俺にはある」
《要求を受理》
リンクスは処置台から降りた。
床に落ちていた血の跡は、すでに消えている。
服に染みた血だけが、ここで傷ついた証拠として残っていた。
黒い金属片を外套の内側へ入れる。
外套は黄金の仮面に掴まれ、留め具が壊れている。
片方を肩へ掛けるだけにした。
《地上への退避経路を表示します》
床へ青い線が現れる。
扉が開いた。
通路を進む。
先ほどまでより足取りは軽い。
だが、心はさらに重くなっていた。
英雄の間へ近づくにつれ、壁の素材が変わっていく。
黒い板の上へ石材が貼られ、やがて完全な石造りへ変わった。
旧文明の施設を覆い隠すように、後の時代に王城が建てられたのだろう。
ところどころ、金属の壁が岩の隙間から露出している。
古いものを壊さず、その上へ新しい国を築いた。
人々は、自分たちの足元に何があるか知らないまま。
通路の先に扉が見えた。
木製。
こちら側には取っ手がない。
《この先が英雄の間、下層整備通路です》
「開けられるか」
《可能です》
「開けた先に人は」
《複数の生命反応を確認》
「何人」
《六名》
「兵士か」
《武装個体四名。非武装個体二名》
ゲルマンドたちが自分を探している可能性がある。
あるいは、王城側の人間が待っている。
「誰か分かるか」
《個体情報を照合》
《GERMAND》
リンクスは息を止めた。
「教官がいるのか」
《肯定》
「他は」
《OWEN HALBERT》
やはり。
オーウェンも来ている。
残りは王城兵だろう。
「向こうの会話は聞けるか」
《音声取得が可能です》
「聞かせてくれ」
扉の向こうの音が、頭の中へ流れ込む。
『この先に通路があると、なぜ黙っていた』
ゲルマンドの声。
怒りを押し殺している。
『私も、正確な構造は知りません』
オーウェン。
『嘘をつけ。お前は最初から、リンクスがここへ来ると分かっていた』
『可能性を予測していただけです』
『紙を渡したのか』
沈黙。
『答えろ、オーウェン』
『彼が何も知らず、王城の道具になることを避けたかった』
『だから一人で地下へ行かせた?』
『私が同行すれば、監視している者へ気づかれます』
『すでに誰かが動いているのか』
『進化系です』
リンクスは扉の前で動きを止めた。
オーウェンは、黄金の仮面の存在を知っている。
『あの獣と、地賊に関わっていた連中か』
『はい』
『リンクスを狙う理由は』
『彼の名前が石碑へ刻まれたからです』
『石碑が目印になっているのか』
『英雄候補としてではありません』
オーウェンの声が低くなる。
『“器”としてです』
ゲルマンドが何かを壁へ叩きつける音がした。
『ふざけるな』
『声を落としてください』
『あいつは人間だ』
『分かっています』
『分かっていて、行かせたのか!』
『行かせなければ、王城は彼を保護の名目で閉じ込めていました』
『なら、先に話せばよかった』
『信じたと思いますか』
『信じるかどうかを決めるのは、あいつだ』
リンクスは目を閉じた。
自分が黄金の仮面へ言ったことと同じだった。
選ぶ権利。
オーウェンは真実を隠した。
だが、王城に閉じ込められる前に、自分で見つけられる道を残した。
正しい方法だったとは思えない。
それでも、完全な敵ではない。
『扉を壊す』
ゲルマンドの声。
『やめてください。地下機構がどう反応するか分かりません』
『待っていれば、リンクスが戻る保証はあるのか』
『ありません』
『なら退け』
金属が擦れる音。
教官が武器を構えたのだろう。
リンクスは扉へ手を当てた。
「開けてくれ」
《開放します》
扉がゆっくりと動いた。
石壁の一部が奥へ引き込まれる。
英雄の間の下層。
狭い整備通路に、六人の人影が立っていた。
ゲルマンド。
オーウェン。
王城兵四名。
全員が、開いた扉を見る。
リンクスは一歩、地上側へ出た。
「壊さなくても、開きました」
ゲルマンドの目が大きく見開かれる。
「リンクス」
次の瞬間。
教官が駆け寄り、リンクスの両肩を掴んだ。
「痛っ」
「怪我は」
「治りました」
「嘘をつけ。服が血だらけだ」
「本当に治ったんです」
ゲルマンドは右肩の布を捲った。
細い赤い傷跡。
それ以外は、確かに塞がっている。
「何があった」
リンクスは答えようとして、オーウェンを見る。
男は安堵した顔をしていた。
だが、すぐに視線を下げた。
「先に聞きたい」
リンクスは言った。
「俺へ紙を渡したのは、あなたですか」
王城兵たちの視線がオーウェンへ向く。
男は短く息を吐いた。
「はい」
否定しなかった。
「なぜ、直接話さなかった」
「話せば、あなたは王城に拘束されていました」
「何を知っているんです」
「その場で話せる内容ではありません」
「また隠すのか」
「違います」
オーウェンは王城兵を見た。
四人は、ただの護衛ではない。
誰の命令でここにいるのか分からない。
「今ここで話せば、あなたの仲間まで危険になります」
「もう巻き込まれています」
施設ではクルサが自分を探している。
ミレイも騒ぎを知るだろう。
ゲルマンドはすでに地下まで来ている。
「なら、話せる場所へ移動しましょう」
オーウェンが言った。
「王城の外へ」
王城兵の一人が手を上げる。
「許可できません」
「記録院の調査です」
「リンクス・エルダーは、地下侵入の疑いがあります。身柄を確保します」
兵士が一歩前へ出る。
ゲルマンドがリンクスの前に立った。
「俺の生徒だ」
「英雄候補は王城管理下にあります」
「候補生は施設の管理下だ」
「王命が優先されます」
「王命を見せろ」
兵士は答えない。
代わりに剣の柄へ手を伸ばした。
残る三人も動く。
リンクスは黒い金属片を服の内側で握った。
ここで捕まれば、証拠も記憶も奪われるかもしれない。
黄金の仮面ほどではなくても、王城には真実を隠そうとする者がいる。
ゲルマンドが低く言った。
「リンクス」
「はい」
「走れるか」
「走れます」
「帰れる道は覚えてるな」
英雄の間の上。
正門ではなく、王城の旧厨房へ抜ける裏通路。
候補生になる前、施設から王城へ呼ばれた時に歩いた道。
「はい」
「なら、合図で走れ」
オーウェンが僅かに身構える。
兵士たちが剣を抜く。
英雄の間の石碑が、その頭上で静かに光っていた。
そこには、歴代英雄の名。
そして一番新しい刻字。
『リンクス・エルダー』
リンクスはそれを見上げた。
神に与えられた名前ではない。
地下の機構が選び、表示した名。
だが、そこへ刻まれたことで自分が人を助けたわけではない。
坑道で立ったのは、自分の意思だ。
ならば、この名をどう背負うかも、自分で決める。
「三つ数える」
ゲルマンドが言った。
「一」
兵士が前へ出る。
「二」
オーウェンが懐から何かを取り出す。
小さな黒い球。
「三」
オーウェンが床へ投げた。
白い煙が爆発するように広がる。
「走れ!」
ゲルマンドの怒声。
リンクスは英雄の間へ飛び出した。
白い煙が英雄の間へ広がった。
視界が一瞬で奪われる。
石碑の光も、剣を抜いた兵士たちの姿も、すべて白の中へ消えた。
「正面へ行くな!」
ゲルマンドの声が飛ぶ。
「左の柱列を抜けろ!」
リンクスは煙の中を走った。
英雄の間は広い。
王城の中でも特に天井が高く、歴代英雄の名を刻んだ黒石の石碑を中心に、太い支柱が円を描くように並んでいる。
普段なら迷う場所ではない。
だが今は、わずか数歩先すら見えなかった。
足元の石目。
壁へ返る靴音。
空気の流れ。
目以外の感覚で、進む方向を探る。
背後から怒声が聞こえた。
「逃がすな!」
「出入口を封鎖しろ!」
金属がぶつかる音。
ゲルマンドが兵士を止めている。
リンクスは足を止めかけた。
教官を置いていく。
自分が逃げれば、ゲルマンドは王城兵へ剣を向けた責任を負う。
だが、戻れば全員が捕まる。
「止まるな!」
また、ゲルマンドの声。
煙の向こうから、叱りつけるように響いた。
「帰れる道を選べ!」
リンクスは歯を食いしばった。
左。
柱を二本越える。
その先に、英雄の間から旧厨房区画へ続く狭い通用口がある。
王族や高官が使う正面扉ではない。
石碑の手入れを行う職人や清掃係が利用する、目立たない扉だ。
足元に段差。
記憶通り。
リンクスは壁へ手を伸ばした。
指先が木製の扉へ触れる。
取っ手を回す。
開かない。
「鍵が……!」
煙の外側から複数の足音が迫る。
正面の兵だけではない。
別の出入口にいた衛兵が、騒ぎを聞きつけたのだろう。
扉を蹴破れば音が出る。
だが、もう選択肢はなかった。
リンクスは半歩下がり、左足を踏み込んだ。
「退け!」
横から手が伸びる。
オーウェンだった。
口元を布で覆い、片手には細い鍵束を握っている。
「なぜ、ここに」
「説明は後です」
鍵を差し込む。
一つ目。
違う。
二つ目。
回らない。
三つ目。
扉の奥で錠が外れた。
「行ってください」
「教官は」
「時間を稼いでいます」
「一緒に来ないんですか」
「私は記録院の人間です。あなたと共に逃げれば、残された情報へ近づけなくなる」
「でも」
「今は、生きて外へ出ることを考えてください」
オーウェンは扉を開いた。
向こうには、細い石造りの廊下が続いている。
「旧厨房を抜け、西の搬入口へ。そこから施設までは地下水路を使えます」
「あなたは、どうする」
「煙が消える前に戻ります」
「戻れば疑われる」
「すでに疑われています」
オーウェンは疲れたように笑った。
「一つ増えても、変わりません」
煙の奥で、ゲルマンドの怒声が響く。
「早く行け!」
リンクスは扉を抜けた。
振り返る。
「オーウェンさん」
「何です」
「あなたを、まだ信用していません」
「それで構いません」
「でも、助けてもらったことは忘れません」
オーウェンの表情が僅かに崩れた。
「……それも、今は忘れてください」
扉が閉じる。
すぐに鍵が掛けられた。
リンクスは一人、薄暗い廊下に残された。
英雄の間の騒音は、厚い扉越しに鈍く聞こえる。
戻れない。
進むしかない。
旧厨房区画は、長く使われていないようだった。
天井には煤がこびりつき、壁際には錆びた調理器具が積まれている。かつては王城の宴を支えた場所なのだろう。
巨大な石窯。
水を運ぶための溝。
肉を吊るす鉄具。
だが現在の厨房は、城の東側へ移されている。
ここへ人が来ることは少ない。
リンクスは廊下を進みながら、服の内側へ手を入れた。
黒い金属片はある。
胸元の紙片も。
地下で見聞きしたことも、記憶に残っている。
証拠は失っていない。
だが、このまま英雄育成施設へ戻ってよいのか。
王城兵が先回りしている可能性がある。
クルサやミレイが、自分との関係を理由に調べられるかもしれない。
自分が戻ることで、さらに危険へ巻き込むことも考えられる。
足が遅くなる。
帰る場所が分からない。
王城は信用できない。
施設にも監視がいる。
中央区の実家へ戻れば、家族が狙われる。
この国から逃げるしかないのか。
だが、何も説明せずに消えれば、自分は地下へ侵入した罪人として扱われる。
英雄候補の名は取り消されるだろう。
それだけなら構わない。
しかし、石碑の真実を隠したい者たちは、自分を反逆者として利用するかもしれない。
英雄の名を与えられた若者が、権力へ逆らい国を裏切った。
そう語られれば、人々は地下の真実を知ろうとしなくなる。
「……どうすればいい」
呟きが、無人の厨房へ響く。
答える者はいない。
奥に、外へ続く鉄扉が見えた。
西側搬入口。
扉の下から冷たい風が入っている。
王城の外壁近くまで来た。
取っ手へ手を掛ける。
その瞬間。
扉の向こうから、人の声が聞こえた。
「配置につけ」
王城兵。
一人ではない。
「逃走者は英雄候補リンクス・エルダー。生死は問わず確保せよ」
リンクスの手が止まる。
生死は問わず。
すでに、命を奪う許可が出ている。
オーウェンの言った通り、正面から逃げる道は塞がれていた。
「西の地下水路も確認しろ」
「施設へ戻る可能性が高い」
「仲間の候補生も監視対象へ加えろ」
クルサ。
ミレイ。
ラウド。
胸の奥が冷たくなる。
自分一人で済む話ではなくなっている。
リンクスは扉から離れた。
別の出口を探さなければならない。
厨房へ戻る。
水を流していた溝。
排水路。
石窯の裏。
古い建物には、必ず作業用の通路がある。
視線を床へ落とす。
中央の排水溝は、長い鉄板で覆われていた。
板の一部だけ、錆が少ない。
最近、動かされた跡。
リンクスはしゃがみ込み、鉄板の端へ指を入れた。
重い。
だが、地下施設で治療された肩は問題なく動く。
両手で持ち上げる。
鉄板の下に、人一人が通れるほどの穴が開いていた。
暗い。
水の流れる音。
腐った油と湿った石の匂い。
王城兵が確認しようとしている地下水路とは、別の古い排水路かもしれない。
リンクスは穴へ足を入れた。
その時、厨房の入口で物音がした。
誰かが来る。
鉄板を完全に戻す時間はない。
リンクスは排水路へ身体を滑り込ませ、頭上の板をできる限り元の位置へ引いた。
暗闇。
足首まで冷たい水へ浸かる。
すぐ上を、複数の足音が通り過ぎた。
「厨房を探せ!」
「逃走者は負傷している可能性がある!」
「血痕を見落とすな!」
リンクスは息を殺した。
服には血がついている。
地下で治療されても、衣服の染みは消えていない。
厨房の床へ落ちていないことを祈るしかない。
「搬入口は封鎖済みです」
「排水溝も確認しろ」
足音が戻ってくる。
鉄板のすぐ上で止まる。
リンクスは腰を落とし、いつでも走れる姿勢を取った。
見つかれば、狭い水路で戦うことになる。
武器はない。
黒い金属片だけ。
使い方も分からない。
兵士の手が鉄板へ触れたような音がした。
「こちらです」
突然、厨房の外から別の声が飛んだ。
「東回廊で人影を確認!」
「何?」
「黒い外套の男です!」
「全員、東へ回れ!」
足音が一斉に遠ざかる。
リンクスは動かなかった。
罠かもしれない。
十を数える。
二十。
三十。
誰も戻らない。
誰かが、別の場所へ兵士を誘導した。
オーウェンか。
ゲルマンドか。
それとも、別の誰か。
確認する術はなかった。
リンクスは排水路を進み始めた。
天井は低く、腰を曲げなければ歩けない。
水は冷たく、靴の中へ入り込む。
壁には苔。
ところどころ、錆びた格子が道を塞いでいる。
古い城の排水設備。
子供の頃、鍛冶場の裏にある水路へ潜り込み、父親にひどく叱られたことを思い出す。
あの頃は、暗い穴の先に何があるのか知りたかっただけだった。
今も変わっていない。
違うのは、戻った時に待つものが叱責だけではないこと。
しばらく進むと、水路が二つに分かれた。
左は水の流れが強い。
右はほとんど乾いている。
どちらが外へ続くか。
壁へ耳を当てる。
左から、低い風の音。
右からは、人の声のようなものが微かに聞こえる。
王城兵かもしれない。
リンクスは左を選んだ。
流れに逆らって進む。
水が膝まで深くなる。
天井もさらに低い。
足元は滑りやすく、何度も壁へ手をついた。
やがて、前方に薄い光が見えた。
外。
水路の出口には鉄格子がある。
太い棒が縦へ並び、外から南京錠が掛けられている。
格子の向こうには、王城外壁の下を流れる細い川が見えた。
もう少し。
だが、鍵は外側。
棒の間へ腕を伸ばしても届かない。
壊すには道具が必要だ。
リンクスは格子の固定部分を調べた。
金属は古い。
錆びている。
だが、太い。
素手では折れない。
壁との接続部。
石へ埋め込まれた四本の留め具。
そのうち一本だけ、周囲の石が崩れかけている。
流れる水が長い時間をかけて削ったのだろう。
「ここだ」
指を隙間へ入れる。
石を掻き出す。
爪が割れる。
指先から血が滲む。
それでも続ける。
小さな石片。
泥。
錆。
留め具が少しずつ露出する。
鍛冶場で、熱を失った金属を外す時と同じ。
力任せではない。
支えている場所を見つけ、一つずつ重さを逃がす。
行ける道ではなく、帰れる道を。
リンクスは足を格子へ掛け、全身で引いた。
留め具が軋む。
一本。
外れる。
格子全体が僅かに傾いた。
二本目。
動かない。
リンクスは水路の床から、尖った石を拾った。
留め具と壁の隙間へ差し込む。
石を梃子にする。
力を込める。
肩の傷跡が熱を持つ。
だが、痛みはない。
地下施設の治療が、確かに身体を修復している。
金属が鳴る。
二本目が抜けた。
残り二本。
上側だけで格子が支えられている。
リンクスは格子へ体重を預けた。
錆びた金属が軋み、壁の石が崩れる。
さらに押す。
「……開け!」
格子が外側へ倒れた。
大きな音。
川へ金属が落ち、水飛沫が上がる。
隠れる時間はない。
リンクスは水路から外へ飛び出した。
夜の冷たい空気。
王城の外壁。
遠くに国都の灯り。
自由になった。
そう思ったのは、ほんの一瞬だった。
「動くな」
頭上から声がした。
リンクスが見上げる。
外壁上の通路に、弓兵が並んでいた。
十人以上。
すでに矢をつがえ、こちらを狙っている。
川の両岸にも王城兵。
完全に待ち伏せされていた。
正面には、濃紺の外套をまとった男が立っている。
年齢は五十を越えている。
短く整えた灰色の髪。
胸には、王直属評議会の紋章。
オーウェンよりも明らかに高い地位の人物。
「リンクス・エルダー」
男は冷静に名を呼んだ。
「英雄候補の任を受けながら、王城地下へ不法侵入し、禁制区画へ立ち入った疑いがある」
「疑いじゃない」
リンクスは答えた。
兵士たちの間に小さな動揺が走る。
「入った。そこで、この国が隠しているものを見た」
男の目が僅かに細くなる。
「何を見た」
「英雄の石碑の正体」
夜気が凍ったように静まる。
「黒い獣を作ったもの」
「それ以上、話すな」
「地賊を操った存在」
「黙れ!」
初めて、男の声が強くなる。
王城兵たちが顔を見合わせる。
知らない者もいる。
この場で真実を口にされれば、秘密が広がる。
それを男は恐れている。
「兵士たちは、何も知らされていないのか」
リンクスは周囲を見た。
「自分たちが何を守っているかも」
「黙れと言っている」
「俺を殺せば、何もなかったことにできると思っているのか」
「殺す必要はない」
男はゆっくりと手を上げた。
「記憶を処理すればよい」
リンクスの身体が固まる。
王城にも、記憶を消す方法がある。
黄金の仮面だけではない。
「お前たちも、同じことをするのか」
「国を守るためだ」
「人を壊して?」
「国が崩れれば、何万人が死ぬ」
「だから、一人なら壊していい?」
「必要な犠牲だ」
何度も聞いた言葉。
文明。
計画。
王国。
大きなものを守るためなら、一人の意思は捨てていい。
リンクスは拳を握った。
黒い金属片が服の内側へ当たる。
「断る」
「選択権はない」
「ある」
「今のお前にはない」
男が手を下ろす。
「拘束しろ」
王城兵が一斉に動いた。
リンクスは構える。
武器はない。
逃げ道もない。
川を下れば、外壁の弓兵から狙われる。
正面には兵士。
背後は排水路。
戻れば袋小路。
それでも、何もせず捕まるつもりはなかった。
最初の兵士が槍を突き出す。
リンクスは半歩横へ流れ、柄を掴んだ。
相手の勢いを利用して川へ投げる。
二人目の剣。
腕の内側へ入り、肘を押し上げる。
剣が空を切る。
肩で相手の胸を押し、後ろの兵へぶつける。
「射るな! 生け捕りだ!」
男が命じる。
弓兵は撃てない。
その命令が、唯一の隙だった。
リンクスは倒れた兵士の槍を拾った。
先端を下へ向ける。
殺すためではない。
間合いを作るため。
「俺は敵じゃない!」
兵士たちへ叫ぶ。
「お前たちが守ってきた国を壊したいわけでもない!」
「聞くな!」
濃紺の男が怒鳴る。
「地下機構に精神を汚染されている!」
「違う!」
リンクスは槍の石突きで剣を弾く。
「俺は、自分で考えている!」
兵士の一人が動きを止めた。
ほんの一瞬。
それだけで、隊列に小さな乱れが生まれる。
「石碑は神の意志じゃない!」
リンクスは続ける。
「地下にある仕組みが、人を選んで名前を刻んでいる!」
「黙れ!」
「俺だけじゃない! 歴代の英雄も、観測され、選別されていた!」
王城兵たちの顔に困惑が広がる。
濃紺の男は腰から短い杖を抜いた。
先端へ青い光が集まる。
「全員、耳を塞げ!」
魔法。
リンクスへ向けられる。
避けようとした瞬間。
王城の上空から、巨大な鐘の音が響いた。
ゴォン――。
一度。
深く。
国都全体を震わせるような音。
英雄の間の鐘ではない。
もっと古く、もっと低い。
兵士たちが一斉に王城を見上げる。
濃紺の男も、驚いたように動きを止めた。
「なぜ、起動鐘が……」
王城地下。
誰にも見えない場所で、青白い文字が更新されていた。
《観測対象LINKS ELDERへの外部干渉を確認》
《生命活動および記憶保持に重大な危険》
《最上位保全命令を再適用》
《周辺管理機構へ緊急停止を要求》
男の杖から光が消える。
兵士たちの剣や槍に付けられた魔法紋も、次々と暗くなった。
「何をした」
男がリンクスを睨む。
「俺は何もしてない」
再び鐘が鳴る。
今度は二度。
ゴォン――。
ゴォン――。
城壁の一部が低く震え始める。
地面に亀裂が入るわけではない。
だが、石の奥で巨大な何かが動いている。
川の水面へ、円形の光が浮かび上がった。
リンクスの足元。
青白い線が広がる。
「転移陣だ!」
誰かが叫ぶ。
濃紺の男が駆け出す。
「止めろ!」
兵士たちがリンクスへ飛びかかる。
だが遅い。
《観測対象を緊急退避させます》
《転送先:英雄育成施設・旧鍛冶棟》
光がリンクスを包む。
「待て!」
濃紺の男の手が伸びる。
リンクスは最後に、兵士たちを見た。
「俺は逃げない!」
叫ぶ。
「必ず戻る! この国の人間として、全部話す!」
視界が白くなる。
川も。
城壁も。
王城兵も消える。
次の瞬間。
リンクスは、冷えた石床へ投げ出された。
「ぐっ……!」
鼻をつく鉄と煤の匂い。
聞き慣れた炉の残り香。
顔を上げる。
そこは、英雄育成施設の旧鍛冶棟だった。
使われなくなった炉。
壁へ掛けられた古い工具。
割れた窓から差し込む、国都の夜の光。
そして。
「……リンクス?」
驚いた声。
クルサが、松葉杖をついたまま立っていた。
その隣にはミレイ。
ラウド。
数人の候補生。
全員が、突然現れたリンクスを見つめている。
クルサは松葉杖を落とした。
「お前……」
片脚を引きずりながら近づく。
「どこ行ってたんだよ!」
拳が飛んできた。
リンクスの頬へ当たる。
「痛い」
「当たり前だ!」
クルサはそのままリンクスの胸倉を掴んだ。
「どれだけ探したと思ってる!」
「悪かった」
「教官まで戻ってこない! 王城兵は施設中を探し回ってる! 俺たちにも何を知ってるか聞いてきた!」
「……教官は」
リンクスの表情が変わる。
「まだ王城だ」
ミレイが答えた。
「王城兵を妨害した罪で拘束されたって」
「オーウェンさんは」
「分からない」
リンクスは立ち上がった。
ゲルマンドを助けなければならない。
「どこへ行く」
クルサがまた胸倉を掴む。
「王城へ」
「今戻ったら捕まるぞ!」
「教官が」
「分かってる!」
クルサの目が赤い。
「でも、一人で行くな」
「これは俺の問題だ」
「もう違う」
ミレイが静かに言った。
彼女の手には、抜き身の剣がある。
旧鍛冶棟の入口を警戒していたのだろう。
「王城兵は、私たちまで調べた」
「だから、これ以上巻き込めない」
「もう巻き込まれていると言ってる」
ラウドも頷く。
「教官を助けたいのは、お前だけじゃない」
候補生たちが、リンクスを見ている。
怒り。
不安。
恐怖。
それでも、誰も逃げていない。
リンクスは言葉を失った。
自分一人で背負うつもりだった。
だが、英雄とは何でも一人でできる者ではない。
皆が勝手に背負わせた重さから、逃げ切れなかった者。
ゲルマンドの言葉が蘇る。
ただし、背負うことと、一人で抱え込むことは違う。
「……全部話す」
リンクスは言った。
「俺が地下で見たことを」
クルサが胸倉から手を離す。
「最初からそうしろ」
「信じられない話だ」
「信じるかどうかは、聞いてから決める」
その言葉に、リンクスは小さく笑った。
オーウェンへ、ゲルマンドが言った言葉と同じだった。
信じるかどうかを決めるのは、本人だ。
「ただ、話したら戻れない」
リンクスは全員を見渡した。
「王城から追われるかもしれない。英雄候補の資格も失う。国を敵に回すことになる可能性もある」
ミレイが剣を鞘へ収めた。
「資格を守るために、教官を見捨てるの?」
「違う」
「なら、答えは決まってる」
ラウドが壁へ背を預ける。
「俺はまだ傷が痛む。まともには戦えない」
「俺も脚がこれだ」
クルサが松葉杖を拾う。
「だから、戦わずに助ける方法を考える」
候補生たちの視線がリンクスへ集まる。
期待。
門前で感じたものとは違う。
英雄へ答えを求める目ではない。
同じ場所に立つ仲間として、次の一手を求める目だった。
リンクスは床へ座り込み、煤の積もった石面へ指で王城と施設の見取り図を描き始めた。
「教官は、恐らく英雄の間に近い拘束区画へ移される」
「根拠は?」
「地下で見たことを聞き出すためだ。普通の牢には入れない」
王城。
英雄の間。
旧厨房。
排水路。
地下整備通路。
知っている道を一つずつ記す。
「俺たちは、正面から王城と戦えない」
「当たり前だ」とクルサ。
「だから、王城の中にいる全員を敵だと思わない」
リンクスは濃紺の男に従っていた兵士たちを思い出した。
石碑の真実を聞き、迷っていた者。
何も知らされず、命令に従っている者。
「真実を知れば、動く人間がいる」
「誰に伝える」
ミレイが尋ねる。
「王城兵。記録院。市民。そして英雄候補全員」
「どうやって」
リンクスは、胸元から黒い金属片を取り出した。
円と直線の紋章。
青白い光を微かに放っている。
「これを使う」
「使い方、分かるのか」
「分からない」
クルサが額を押さえた。
「またそれか」
「でも、地下施設は俺を観測対象として認識した。この紋章も、施設と繋がっている」
「賭けだな」
「ああ」
リンクスは黒い金属片を見つめた。
「ただし、今度は一人で賭けない」
旧鍛冶棟の外。
廊下の向こうから、王城兵の声が聞こえた。
「この棟も調べろ!」
時間がない。
リンクスは立ち上がった。
「まず、ここを出る」
「帰れる道は?」
クルサが尋ねる。
リンクスは鍛冶棟の奥にある古い炉を指さした。
「炉の裏に、資材搬入用の斜坑がある」
「知ってたのか」
「今、床の傾きで気づいた」
クルサが笑った。
「やっぱり、お前は鍛冶師の息子だな」
「英雄より、そっちの方がしっくりくる」
全員が動き始める。
古い炉を押す。
床へ刻まれた鉄輪が軋む。
長く閉ざされていた石扉が開き、夜の山道へ続く暗い斜坑が現れた。
リンクスは入口へ立ち、仲間たちを先に通した。
最後に、自分が施設の廊下を振り返る。
ここへ来た時、自分は何も知らなかった。
突然英雄候補へ選ばれ、周囲の期待に戸惑いながらも、ただ剣を振っていた。
今は違う。
英雄の名が、誰かの作った仕組みで与えられたものだと知った。
国の地下に、眠る人型と古い知性が存在することを知った。
黄金の仮面が、自分の記憶と身体を狙っていることも。
知ったからこそ、戻らなければならない。
逃げるためではない。
戻って、選び直すために。
リンクスは斜坑へ足を踏み入れた。
背後で旧鍛冶棟の扉が破られる音がする。
「行くぞ」
仲間たちへ呼びかける。
「まず教官を取り戻す」
暗い斜坑の先。
夜の山国へ、冷たい風が吹き込んでいる。
英雄候補たちは、王城に背を向けた。
だが、それは国を捨てるためではない。
この国へ、もう一度自分たちの意思で帰るためだった。
斜坑は、英雄育成施設の裏山へ続いていた。
かつて鍛冶場へ鉄鉱石や木炭を運び込むために使われていた道だ。長い間放置されていたらしく、床には砕けた石と腐った木片が積もり、壁を支える梁もところどころ黒く朽ちている。
候補生たちは、灯りを最小限に抑えて進んだ。
先頭はミレイ。
剣を抜かず、片手で壁へ触れながら足場を確かめている。
その後ろをラウドと二人の候補生が続き、中央には負傷したクルサ。リンクスは最後尾についた。
背後からは、旧鍛冶棟へ踏み込んだ王城兵の声が微かに聞こえている。
「炉が動いている!」
「斜坑を確認しろ!」
追跡が始まる。
「急げ」
リンクスが小声で促す。
クルサは松葉杖代わりの鉄棒を地面へ突き、片脚を引きずっていた。坑道で負った傷はまだ癒えていない。英雄育成施設の治療師から、最低でも数日は安静にするよう言われていたはずだ。
「お前、本当に来る必要あったのか」
リンクスが尋ねる。
「今さら言うな」
「脚が悪化する」
「お前が一人で消えた時よりはマシだ」
「比べるものじゃない」
「俺が決めた」
クルサは振り返らない。
「お前、自分で選ぶのが人間だって言ったんだろ」
「聞いてたのか」
「さっき地下の話をした時に、散々言ってた」
「そうだったな」
「なら、俺が来るのも俺の勝手だ」
返す言葉がなかった。
少し前まで、自分は全員を危険から遠ざけようとしていた。
それが正しいと思っていた。
だが、選ばせないことは、黄金の仮面や王城の者たちと同じだった。
理由が善意でも、相手の意思を無視する点では変わらない。
「……悪かった」
「何が」
「一人で決めようとした」
「次から気をつけろ」
クルサは短く答えた。
斜坑の奥で、ミレイが足を止める。
「前が塞がってる」
全員が集まる。
土砂と折れた梁が、道を完全に塞いでいた。
古い崩落だ。
石の隙間から風は入っている。
向こう側に空間はある。
「掘れば通れそうか」
ラウドが尋ねる。
リンクスは崩落面へ近づいた。
松明をかざし、石の重なりを見る。
表面には小さな石が多い。
だが、その奥に大きな岩が二つ噛み合っている。
下手に外せば、天井まで崩れる。
「無理に掘るのは危険だ」
「他に道は?」
ミレイが周囲を見る。
斜坑は一本道。
戻れば王城兵。
この先へ進むしかない。
リンクスは壁へ耳を当てた。
水音が聞こえる。
崩落の右側。
壁の奥で、小さな流れが続いている。
「水路がある」
「抜けられるのか」
「分からない」
リンクスは右壁の石を触った。
他の場所より冷たい。
表面に薄い苔。
風も僅かに漏れている。
「昔の排水路かもしれない」
ラウドが苦笑する。
「また水路か」
「王城から逃げるには、水に縁があるらしい」
クルサが言った。
「掘れる?」
ミレイが尋ねる。
「こっちは支えになっていない」
リンクスは石目を指で追う。
「外側から塞いだだけだ。小さい石を除けば、人が通れる穴になる」
「どれくらいかかる」
「五分」
背後から足音が響いた。
遠い。
だが確実に近づいている。
「三分でやれ」
「無茶を言うな」
「英雄候補だろ」
「石碑の仕組みを聞いてなかったのか」
「肩書きは使える時に使う」
クルサが壁へ背を預け、斜坑の後方を見張る。
リンクスとラウドが石を外し始めた。
小さな石を一つずつ抜く。
崩れた土を手で掻き出す。
爪の間へ泥が入り、皮膚が擦れる。
ミレイと他の候補生も加わる。
穴は少しずつ広がった。
奥から冷たい風が吹く。
「通れる」
リンクスが頭を入れ、先を確認する。
狭い横穴。
身体を横へ向ければ進める。
十メートルほど先に、薄い月明かりが見える。
「外へ出るぞ」
「クルサは?」
ラウドが問う。
穴は狭い。
負傷した脚では、横向きに身体を引きずることになる。
「行ける」
クルサが即答する。
「先に俺が入る」
「最後でいい」
「お前を置いていくと思うか」
「追手を止める奴が必要だ」
クルサは鉄棒を握った。
「馬鹿言うな」
リンクスが近づく。
「ここで戦えば、お前は逃げられない」
「全員が通る時間を稼ぐ」
「駄目だ」
「じゃあ他に誰がやる」
「俺がやる」
「それが駄目だって言ってる」
二人の声が強くなる。
ミレイが間に入った。
「誰も残らない」
「でも時間が」
「入口を崩す」
ミレイは後方の梁を指した。
斜坑を支える古い柱。
一本の根元が腐っている。
「全員が穴へ入った後、あれを倒せば道を塞げる」
「斜坑全体が崩れるかもしれない」
リンクスが言う。
「だから最後の一人が倒して、すぐ穴へ入る」
「誰が最後に」
ミレイはリンクスを見た。
「石の重さが分かる人」
また自分。
だが今回は、残るためではない。
全員で逃げるための最後尾。
「分かった」
リンクスは頷いた。
「順番に入れ。クルサは三番目」
「俺は最後でも」
「選択権はない」
「お前、さっきと言ってることが違うぞ」
「ここは隊列の問題だ」
「都合のいい時だけ隊長面しやがって」
「文句は外で聞く」
ミレイが先に横穴へ入る。
続いてラウド。
クルサは鉄棒を穴の先へ投げ入れ、腹這いになった。
負傷した脚が壁へ擦れ、顔が歪む。
「大丈夫か」
「見れば分かるだろ」
「無理なら」
「行ける」
クルサは歯を食いしばり、腕の力で進んだ。
残る候補生たちも続く。
斜坑の奥から王城兵の声が聞こえた。
「灯りがある!」
「前方だ!」
近い。
リンクスは梁の根元へ駆け寄った。
腐っている部分を確認する。
柱そのものを倒せば、天井が一気に落ちる。
しかし、石の荷重は左側へ偏っている。
柱を直接折るのではなく、根元の楔を外せば、梁はゆっくり傾き、追手側だけを塞ぐはずだ。
穴の前でミレイが顔を出す。
「早く!」
「今行く!」
リンクスは床から落ちていた鉄片を拾った。
楔の隙間へ差し込む。
槌はない。
拳で叩く。
一度。
二度。
鉄片が手のひらへ食い込み、血が滲む。
楔は動かない。
背後に兵士の灯りが見えた。
「いたぞ!」
「止まれ、リンクス・エルダー!」
弓の弦が鳴る。
リンクスは身を伏せた。
矢が梁へ刺さる。
「次は脚を狙え!」
また矢。
石の床で弾ける。
リンクスは鉄片を握り直した。
拳では足りない。
肩から全身の重さを乗せる。
「動け!」
楔が僅かに沈んだ。
もう一度。
金属音。
楔が外れる。
梁が傾き始めた。
「何をした!」
兵士が走る。
リンクスは横穴へ飛び込んだ。
直後。
斜坑全体が低く唸った。
梁が落ちる。
天井の石が崩れる。
轟音。
土埃。
兵士たちの叫び。
リンクスは横穴の中で身体を丸めた。
背後から石と土が流れ込み、足首へ当たる。
「リンクス!」
前方からミレイの声。
「生きてる!」
手で土を掻き、前へ進む。
斜坑側の入口は完全に塞がった。
追手の声は聞こえない。
横穴を抜ける。
山肌の裂け目へ出た。
夜の冷たい風が吹きつける。
遠くに国都オルグハルの灯り。
頭上には厚い雲。
山の斜面には低い針葉樹が並び、谷の底を細い川が流れている。
仲間たちは、岩陰に集まっていた。
クルサは地面へ座り込み、負傷した脚を押さえている。
「悪化したか」
リンクスが近づく。
「大したことない」
「顔が青い」
「寒いだけだ」
「見せろ」
「先に移動しろ。崩落を掘り返されたら追いつかれる」
ミレイが地図を広げる。
英雄育成施設で使われていた訓練用の周辺図。
「ここは施設の北西斜面。東へ戻れば正門。南は王城街道。追手はその二つを固める」
「西は?」
ラウドが尋ねる。
「山を越えれば旧採掘村がある。今は使われていない」
「距離は」
「徒歩で二時間」
クルサの脚では、もっとかかる。
「そこへ行こう」
リンクスが言う。
「屋根と炉が残っていれば、休める」
「王城兵も調べるんじゃない?」
候補生の一人が不安そうに言う。
「すぐには来ない」
「なぜ」
「王城側は、俺たちが国都から離れるとは思わない」
リンクスは王城を見た。
「教官を助けるなら、国都へ戻る必要がある。向こうもそれを分かっている」
「じゃあ、何で西へ行く」
「戻る準備をするためだ」
今すぐ王城へ向かっても、捕まるだけ。
武器もない。
情報を伝える方法もない。
オーウェンやゲルマンドがどこに拘束されたのかも分からない。
「一度隠れて、状況を整理する」
「それから?」
ミレイが問う。
「王城の中へ入る」
「また地下から?」
「同じ道は警戒される」
リンクスは黒い金属片を取り出した。
「これを調べる。地下施設と繋がるなら、別の入口を探せるかもしれない」
「調べるって、誰が」
「鍛冶師」
「お前?」
「俺だけじゃ足りない」
リンクスは遠くの山を見た。
中央区。
実家の鍛冶場。
父なら、この金属の性質を調べられるかもしれない。
だが家へ戻れば、家族を巻き込む。
迷いが顔へ出たのだろう。
クルサが言った。
「実家へ行く気か」
「まだ決めてない」
「行かない方がいい」
「ああ」
「でも、必要なんだろ」
「他に金属を調べられる場所があれば」
「旧採掘村に鍛冶場がある」
ラウドが言った。
「祖父が昔、あそこで働いてた。鉱脈が枯れて廃村になったけど、炉と道具は残っているはずだ」
「使えるのか」
「状態次第」
「十分だ」
まずは自分たちで調べる。
家族を巻き込むのは、それからでも遅くない。
六人は山の斜面を進み始めた。
クルサの両脇をラウドと別の候補生が支える。
ミレイが先頭。
リンクスは周囲を警戒しながら歩いた。
山道は整備されていない。
岩。
木の根。
崩れた雪解け水の溝。
月明かりも雲に遮られ、数歩先しか見えない。
国都の灯りが徐々に遠くなる。
英雄育成施設も、王城も、山の稜線の向こうへ消えていく。
自分たちは、国から逃げている。
その事実が胸へ重くのしかかる。
「後悔してる?」
前を歩くミレイが尋ねた。
「何を」
「地下へ行ったこと」
リンクスはすぐに答えられなかった。
あの時、棚の裏の階段を見つけても入らなければ。
紙片を無視していれば。
今も施設で訓練を続け、英雄候補として期待されていた。
ゲルマンドが拘束されることも。
仲間が追われることもなかった。
だが、黒い獣の真実も。
地賊が操られていた可能性も。
石碑の正体も知らないままだった。
「分からない」
リンクスは正直に答えた。
「知らなければ、今より楽だった」
「うん」
「でも、知った後で、知らないふりはできない」
「それは後悔してないってことじゃない?」
「失ったものまで考えたら、簡単には言えない」
ミレイは前を向いたまま頷いた。
「それでいいと思う」
「何が」
「迷ってる方が、リンクスらしい」
「褒めてないだろ」
「少しは」
短い会話。
不思議と息が楽になった。
やがて、斜面の先に黒い建物の影が現れた。
旧採掘村。
山肌へ張りつくように、石と木で造られた家々が並んでいる。
屋根の一部は落ち、窓は割れている。
村の中央には、錆びた巻き上げ機と、坑道へ続く封鎖門。
人の気配はない。
風が空き家の隙間を抜け、低い笛のような音を立てている。
「誰もいないね」
ミレイが周囲を見回す。
「生き物の足跡はある」
リンクスは地面へしゃがんだ。
小型の山羊。
狐。
それとは別に、人間の靴跡。
新しい。
「誰かいる」
全員が武器へ手を伸ばす。
まともな武器を持っているのはミレイだけ。
リンクスは斜坑で拾った短い鉄棒を構えた。
「何人」
「一人か二人。村の奥へ続いてる」
足跡を追う。
古い共同鍛冶場の前で途切れていた。
扉は少し開いている。
内部から、赤い光が漏れていた。
炉に火が入っている。
「廃村じゃなかったのか」
クルサが囁く。
「住み着いてる人がいるのかも」
リンクスは扉の横へ立った。
「俺が入る」
「また一人で」
ミレイが睨む。
「全員で入る」
扉を押す。
鍛冶場の中は暖かかった。
中央の炉で火が燃えている。
壁には古い金床。
錆びた槌。
鉱石を分類する棚。
奥の作業台に、一人の老人が座っていた。
背は低い。
肩幅は広い。
灰色の髭が胸まで伸びている。
片目を黒い布で覆い、残った目でこちらを見ていた。
「遅かったな」
老人が言った。
全員が動きを止める。
「俺たちを知っているのか」
リンクスが問う。
「お前たち個人は知らん」
老人は槌を作業台へ置いた。
「だが、王城から逃げた英雄候補が山へ来ることは分かっていた」
「誰から聞いた」
「鐘だ」
「鐘?」
「今夜、王城の古い起動鐘が三度鳴った」
老人は立ち上がる。
「地の下が目を覚ました時だけ鳴る鐘だ。あれを聞けば、古い坑夫なら何が起きたか分かる」
リンクスは黒い金属片を握った。
「あなたは、地下施設を知っているのか」
「施設という呼び方は知らん」
老人はゆっくり近づく。
「わしらは、地底の眠り場と呼んでいた」
「入ったことがある?」
「ない」
「では、なぜ」
「昔、あそこから出てきた者を見た」
鍛冶場の空気が静まる。
「誰を」
老人はリンクスの目を見た。
「五十人の王の一人だ」
リンクスには、その言葉の意味がすぐには分からなかった。
「五十人の……王?」
「知らんか」
「この国に王は一人です」
「この国の王ではない」
老人は炉の火へ薪を足した。
「空に都市を築いた、古い王たちだ」
アークディア。
リンクスはまだ、その名を知らない。
だが、地下施設が言っていた。
一部の王権情報に管理権限が付与されている。
現行ドワーリン王家の王権情報とは一致しない。
「その王は、どこへ行った」
「二千年前の話だ」
「二千年?」
「ここがまだ採掘村として栄えていた頃、地の底から一人の男が現れた」
老人は黒い布で覆った片目へ触れた。
「白い服。黒い髪。銀の目。見たことのない武器を持ち、岩を金属へ変えた」
パウル。
リンクスはその名を知らない。
それでも、地下施設と同じ力を持つ存在が、かつてこの国へ現れた。
「何をしに来た」
「壊れた機構を止めるためだと言っていた」
「進化AIを?」
老人の残った目が鋭くなる。
「その言葉を、どこで知った」
「地下で聞いた」
リンクスは黒い金属片を取り出した。
老人の顔色が変わる。
「それをしまえ」
「知っているんですか」
「しまえ!」
強い声。
リンクスは反射的に金属片を握り込んだ。
老人は鍛冶場の窓へ近づき、外を確認する。
戸を閉め、厚い布を掛けた。
炉の風口も絞り、外へ光が漏れないようにする。
「それは、進化系の標だ」
「黄金の仮面から剥がれたものです」
老人の動きが止まる。
「会ったのか」
「はい」
「よく生きて戻ったな」
「地下の機構に助けられました」
老人は長く息を吐き、椅子へ座った。
「名は」
「リンクス・エルダー」
「石碑に刻まれた若者か」
「知っているんですか」
「号外は山の村にも届く」
老人は候補生たちを見渡した。
「わしはドルガン。昔、この村で坑道の保全と機械鍛冶をしていた」
「機械鍛冶?」
「地の底から出る、魔法でも金属でもないものを扱う職だ」
ドルガンは手を差し出した。
「欠片を見せろ」
リンクスは一瞬迷った。
「心配するな。奪うなら、話す前に炉へ突き落としている」
黒い金属片を渡す。
ドルガンは厚い革手袋をはめ、慎重に持ち上げた。
表面の紋章が赤く明滅する。
「まだ生きている」
「生きている?」
「この金属はただの材料じゃない。情報を持つ」
「調べられますか」
「炉だけでは無理だ」
「では」
「王城へ入る鍵にはできる」
リンクスたちの顔が上がる。
「本当ですか」
「ただし、そのまま使えば、向こうにも位置を知られる」
「黄金の仮面に?」
「進化系すべてにだ」
ドルガンは作業台の引き出しから、古い金属板を取り出した。
黒い欠片とは違い、鈍い銀色。
表面には細かな溝が刻まれている。
「これを被せ、信号を一度だけ偽装する」
「何の信号に」
「古い王権情報だ」
「あなたは、それを持っているのか」
「持ってはいない」
ドルガンは銀の金属板を炉の近くへ置いた。
「だが、二千年前に現れた王が、ここへ一つだけ残した」
作業台の床板を外す。
隠し箱。
中から、古い指輪を取り出した。
黒と銀の二重輪。
中央には、錬金術を思わせる複雑な紋章。
「これは」
「知恵と錬金の王が、壊れた坑道機構を封じた時に使った鍵だ」
リンクスは指輪を見つめた。
地下施設。
五十人の王。
空に築かれた都市。
すべてが、別々の話ではなく繋がり始めている。
「王城の地下へ入れるんですか」
「一度だけなら」
「なぜ、そんなものを今まで隠していた」
ドルガンはリンクスを見た。
「使うべき時を知らなかったからだ」
「今が、その時だと?」
「起動鐘が三度鳴った」
老人の声が低くなる。
「石碑にない傷を持つ英雄候補が、進化系の標を持って現れた」
リンクスは右肩へ触れた。
地下施設の処置で残した、細い赤い傷跡。
「傷のことを、なぜ」
「昔の王が言った」
ドルガンは指輪を掌へ載せる。
「もし、いつか石碑に選ばれながら、石碑の命令へ従わぬ者が現れたなら」
炉の火が、老人の横顔を赤く照らす。
「そいつには、石碑へ刻まれない傷がある」
候補生たちは黙っていた。
リンクスも言葉を失う。
「それは、選定機構が与えた印ではない」
ドルガンは続ける。
「自分で選び、自分で負った傷だ」
右肩の傷が、僅かに熱を持った気がした。
「その者へ、鍵を渡せと」
ドルガンは指輪をリンクスへ差し出した。
「二千年前から?」
「わしが預かったわけではない。代々、この村の機械鍛冶が守ってきた」
何世代もの時間。
誰が使うかも分からない鍵。
ただ言葉だけを信じ、村が廃れた後も守られてきた。
「俺が、その者だという証拠は」
「ない」
ドルガンは即答した。
「選ぶのは、わしだ」
リンクスの胸へ、その言葉が落ちる。
石碑でも。
神でも。
機構でもない。
一人の人間が、自分の目で見て選ぶ。
「間違っているかもしれない」
「だろうな」
「それでも渡すんですか」
「間違いを恐れて何もしなければ、進化系は確実に動く」
ドルガンは指輪をさらに前へ出した。
「なら、間違える可能性ごと、お前に託す」
リンクスは指輪を受け取った。
冷たい。
だが、掌へ触れた瞬間、僅かな振動が伝わる。
地下施設の扉へ触れた時と同じ感覚。
「これで教官を助ける」
「それだけでは終わらん」
ドルガンは黒い金属片を作業台へ置く。
「王城地下へ入れば、進化系も動く。お前が鍵を使った瞬間、向こうは位置を知る」
「なら、時間がない」
「時間だけではない」
ドルガンの片目が、リンクスを射抜く。
「王城の中には、進化系に協力する者がいる」
「濃紺の外套の男ですか」
「名は」
「分かりません」
「王直属評議会のヴァルガスだろう」
「知っているんですか」
「地底の眠り場を、国の支配へ使おうとしている男だ」
記憶を処理する。
国を守るためなら、一人を犠牲にする。
あの男の顔が蘇る。
「教官は、そいつの手にある」
「恐らくな」
「オーウェンさんも」
「記録院の男か」
「知っている?」
「何度か、この村を訪ねてきた」
ドルガンは黒い欠片を銀板へ乗せた。
「彼も真実を探していた。だが、王城の中で長く動きすぎた」
「信用できますか」
「完全に信用できる人間などいない」
槌を持ち上げる。
「信用は、相手が何を選ぶかを見るまで預けるものだ」
一度目の槌音が、鍛冶場へ響いた。
黒い欠片と銀板が重なる。
火花。
赤い光。
二度目。
紋章の一部が銀へ移る。
三度目。
指輪が反応し、青白い光を放った。
「夜明けまでに仕上げる」
ドルガンが言う。
「それまで休め。負傷者の脚も診る」
「鍛冶師ですよね」
クルサが尋ねる。
「昔の坑夫は、骨も機械も直した」
「俺の脚も機械扱いか」
「口が動くなら問題ない」
候補生たちの間に、初めて小さな笑いが起きた。
外では冷たい山風が吹いている。
王城では、ゲルマンドとオーウェンが拘束されている。
進化系も、自分たちの動きを追っている。
それでも今、戻るための道が見え始めた。
リンクスは掌の中の指輪を見る。
二千年前の王が残した鍵。
石碑に従わぬ者へ託すためのもの。
自分が選ばれた理由は、まだ分からない。
だが、次に何をするかは決まった。
夜明けとともに、王城へ戻る。
英雄候補としてではない。
王城へ従う者としてでもない。
ゲルマンドを助け。
隠された真実を人々へ返し。
自分たちが進む道を、自分たちで選ぶために。
リンクスは炉の前へ座った。
槌音が規則正しく続く。
その音は、遠い昔から今へ届く合図のように、夜の廃村へ響いていた。
鍛冶場の炉は、一晩中消えることはなかった。
ドルガンの槌音が一定の間隔で響く。
金属と金属がぶつかる乾いた音は、不思議と心を落ち着かせた。
リンクスは壁にもたれ、眠れないまま炉の火を見つめていた。
昨日まで、自分は英雄育成施設で訓練を受けるただの候補生だった。
石碑に選ばれ。
英雄になることだけを考えていた。
だが、今は違う。
国から追われ。
教官は捕らえられ。
王城の地下には、人類すら知らない施設が眠っている。
そして、その地下では進化AIが静かに目を覚まし始めている。
「眠れんか」
ドルガンが炉から目を離さず言った。
「はい」
「考えすぎだ」
「考えない方が無理です」
「そういう時は手を動かせ」
ドルガンは一本の小さなヤスリを投げた。
「これを磨け」
渡されたのは、銀色の金属板。
黒い欠片へ被せる部品だった。
リンクスは黙って磨き始める。
少し削るだけで、表面へ細かな紋様が浮かび上がってくる。
「文字……?」
「文字じゃない」
ドルガンは首を振る。
「回路だ」
「回路?」
「昔の王たちは、魔法ではなく情報を流していた。」
「情報……」
「お前にはまだ分からん。」
リンクスは黙って磨き続けた。
やがて窓の外が白み始める。
夜明けだった。
山々の向こうから朝日が差し込み、鍛冶場の床を黄金色に照らす。
仲間たちも次々と目を覚ました。
クルサは脚へ包帯を巻き直し、ゆっくり立ち上がる。
「少し楽になった。」
「無理はするな。」
「する。」
相変わらずだった。
ミレイは剣を腰へ差し直す。
「今日、王城へ戻るの?」
「ああ。」
リンクスは頷く。
「もう逃げない。」
ドルガンが作業台へ、一つの布包みを置いた。
「完成だ。」
布を開く。
そこには黒い金属片と銀の金属板が一体となった、小さな鍵のような装置があった。
中央では指輪が淡く青白く光っている。
「一度だけ。」
ドルガンが静かに言う。
「これを使えば王城地下の古い扉は開く。」
「一度だけ……。」
「二度目は保証できん。」
「ありがとうございます。」
リンクスは深く頭を下げた。
ドルガンは鼻を鳴らす。
「礼は生きて帰ってから言え。」
「必ず帰ります。」
「約束はするな。」
老人は笑った。
「約束は破られるためにある。」
「……。」
「代わりに、生きようとしろ。」
その言葉は、ゲルマンドの教えに少し似ていた。
英雄になることより。
生きること。
守ること。
選ぶこと。
それが本当に大切なのだと。
リンクスは鍵を腰へ収めた。
外へ出る。
朝日が山を照らしている。
王城オルグハルは、遠く黄金色に輝いていた。
あの中で。
ゲルマンドが待っている。
オーウェンも。
そして、進化AIも。
リンクスは振り返る。
ミレイ。
クルサ。
ラウド。
候補生たち。
誰一人欠けていない。
「行こう。」
誰かに命令されたからではない。
英雄だからでもない。
自分たちが選んだ道だから。
一歩。
また一歩。
リンクスたちは朝日に向かって歩き始めた。
王城奪還の戦いが、今始まる。
第34話を読んでいただき、ありがとうございました。
今回は戦闘よりも、リンクスたちが「自分で選ぶ」というテーマを描いた一話でした。
次回からはいよいよ王城奪還編へ。地下施設の謎や黄金の仮面、そして二千年前の真実にも少しずつ迫っていきます。
引き続き応援していただけると嬉しいです。




