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第31話 時計係

◇ヴァルノア帰還後◇

ラウゼン村から戻った翌日、ヴァルノアの空には薄い雨雲が垂れ込めていた。

街の中央を行き交う人々は、誰もが同じ噂を口にしていた。

空から現れた五千の天使。

 白牙傭兵団を一瞬で制圧した新人冒険者。

 その男を「召喚の王」と呼び、跪いた光の軍勢。

噂は、事実よりも速く、そして大きく育っていた。

ベンはそのどれにも耳を貸さず、冒険者ギルドの二階にある簡素な宿泊室で、毛布を頭までかぶっていた。

「……寒い」

喉が焼けるように痛い。

 頭の奥では、鍛冶場の槌が何度も振り下ろされているような鈍い痛みが続いている。

昨日までは、ただの疲労だと思っていた。

 大剣を振り回し、天使旅団を呼び出し、村人の埋葬まで手伝った。身体が重いのは当然だと考えていた。

だが今朝、寝台から起き上がろうとした瞬間、足に力が入らず、そのまま床へ倒れた。

騒ぎを聞きつけたシルヴィアが駆け込み、ミラが医務室から体温計を借りてきた。

「四十・八度です」

体温計の数値を見たシルヴィアの顔から血の気が引いた。

「そんなにあるのか」

ベンは笑おうとしたが、咳に変わった。

「笑っている場合ではありません」

シルヴィアは濡らした布を丁寧に絞り、ベンの額へ乗せた。

手つきは静かだった。

 水差しを置く音も、椅子を引く音も、できる限り小さい。

彼女は看病していることを大げさに言わなかった。

 何度も水を替え、薬草を煎じ、寝具を整える。

 ベンが目を覚ませば微笑み、眠れば気配を消す。

「シルヴィア」

「はい」

「ずっと、ここにいるのか?」

「たまたま時間がありましたので」

答えながら、彼女は目を逸らした。

机には冷めた食事が手つかずで置かれている。

 窓の外はすでに夕暮れに変わっていた。

「時間があった、って顔じゃないだろ」

「患者さんは、余計なことを考えないでください」

かすかな笑み。

強く否定するわけでも、恩着せがましく認めるわけでもない。

その奥ゆかしさが、熱に浮かされたベンの胸へ不思議な安堵を落とした。

「……ありがとう」

「いえ」

短い返事だった。

だが、シルヴィアは布を絞る手を一瞬だけ止めた。

耳がわずかに赤くなっていた。

◇夜半の神託◇

夜が深まった。

雨が細く窓を打ち、街の鐘が十二度鳴った。

ベンは眠っていた。

呼吸は荒く、時折、何かから逃れるように眉を寄せる。

「パウル……」

寝言に、シルヴィアは顔を上げた。

これまでにも何度か聞いた名前だった。

 ベンが夢の中で必死に呼ぶ名。

兄弟なのか。

 親友なのか。

 それとも、もっと大切な誰かなのか。

聞いてはいけない気がして、シルヴィアは黙って布を替えた。

その時だった。

部屋の空気が、ほんのわずかに澄んだ。

雨音が遠のく。

 燭台の炎が、風もないのに垂直に伸びる。

シルヴィアだけに、声が届いた。

《時計係シルヴィア》

彼女は即座に椅子から立ち、胸元で両手を重ねた。

「はい。ここにおります」

その声を、神の声だと疑ったことはない。

幼い頃から、祈りの中で聞いてきた。

 時を正しく刻む御方。

 星の巡りと、人の営みを見守る、時計の神。

《時の歪みを検知しました》

《補正地点:ヴァルノア下層区・第七橋脚》

《時計係による修正を命じます》

シルヴィアはベンを見た。

四十度を超える熱。

 苦しげな呼吸。

 今、ここを離れるべきではない。

「恐れながら申し上げます」

声が震えた。

「今夜だけ、猶予をいただくことはできませんか」

返答までの間は、わずか一秒だった。

それでも、シルヴィアには長く感じられた。

《猶予は推奨されません》

《歪みは拡大しています》

シルヴィアは唇を噛んだ。

「この方は、私を守ってくださいました」

《対象個体BENを確認》

《生命活動は継続可能です》

「ですが、このままでは」

《交換条件を提示します》

シルヴィアは目を見開いた。

《時計係任務の完遂を条件として、対象個体BENへの加護を実行します》

《発熱を四・〇度低下させます》

シルヴィアはその場に跪いた。

「感謝いたします」

《任務完遂を確認後、加護を実行します》

声が消えた。

雨音が戻り、燭台の炎が揺れた。

シルヴィアは迷った。

ベンの側を離れたくない。

だが、時計係として神託を拒むこともできない。

何より、任務を果たせばベンの熱が下がる。

彼女は新しい布をベンの額へ乗せた。

「すぐに戻ります」

眠るベンへ、小さく告げる。

「どうか、待っていてください」

机の上へ短い書き置きを残した。

――少し、時計係の務めへ行ってまいります。朝までには戻ります。

外套を羽織り、砂時計を胸元へ収める。

扉を閉める直前、もう一度だけ振り返った。

ベンは目を覚まさなかった。

◇下層区◇

ヴァルノア下層区は、同じ街とは思えないほど暗かった。

上層を照らす魔光灯は少なく、雨水と生活排水が石畳の窪みに溜まっている。

壊れた家々が肩を寄せ合い、その隙間に細い路地が伸びていた。

夜更けにもかかわらず、人影はある。

酒に酔った男。

 荷車の陰で眠る子供。

 誰かを待つように壁へ寄りかかる女。

 橋の下からは、焚き火の煙と湿った獣皮の臭いが漂ってくる。

シルヴィアは目立たないよう、外套のフードを深くかぶった。

第七橋脚。

古い石橋の最も奥。

 川の流れが二つに分かれる場所。

普通の人間には、何も見えない。

だが時計係の目には、空間が薄い布のように捩れているのが見えた。

雨粒が、途中で止まっている。

一つの雫が落ちるまでに、隣の雫は何度も上下へ揺れていた。

川面の波紋は外へ広がらず、逆に中心へ吸い込まれている。

橋の影では、朽ちた木箱が新しくなり、また朽ちるという変化を繰り返していた。

「ここですね」

シルヴィアは胸元から砂時計を取り出した。

砂は上から下へ落ちていない。

 中心で静止し、銀色の粒が小さく震えている。

両手で砂時計を包み、目を閉じた。

「時を正しく刻む御方よ」

橋の下に淡い光が広がる。

「乱れた時を、本来あるべき流れへお戻しください」

石畳に円環が浮かび上がった。

十二の印。

 長針と短針を思わせる二本の光。

 その中心にシルヴィアが立つ。

彼女には、それが神聖な時間魔法に見えている。

だが光の輪が広がるたび、橋脚へ埋め込まれた古い金属片が共鳴し、低い音を発した。

《補正を開始します》

声が再び届く。

《時計係は術式中心から移動しないでください》

「承知いたしました」

光の針が回り始めた。

止まっていた雨粒が震える。

 逆流していた波紋が、正しい方向へ戻っていく。

シルヴィアの額に汗が滲んだ。

術式は彼女の魔力だけを使っているわけではない。

 それでも、時計係は歪みと正しい時を繋ぐための媒介となる。

身体の内側を、冷たい風が何度も通り抜けるような痛み。

《補正率:三十二》

《補正率:六十一》

「もう少し……」

その時、背後で靴音がした。

「おい」

シルヴィアは振り返れない。

術式から動けば、補正が失敗する。

「こんな夜中に、何してる?」

男の声。

続いて、別の笑い声。

「見ろよ。橋の下が光ってやがる」

「魔導具か?」

「女が一人だぞ」

シルヴィアは祈りを続けた。

無視すれば立ち去るかもしれない。

だが、足音は増えた。

一人。

 二人。

 五人。

「聞こえてねぇのか」

肩を掴まれた。

「触らないでください」

シルヴィアは振り払おうとしたが、術式を維持するため足を動かせない。

「お上品だな」

「上の街の娘か?」

男が外套の留め具へ手を伸ばした。

シルヴィアは片手を砂時計から離し、光の弾を放つ。

男の頬をかすめ、橋脚へ弾けた。

「この女、魔術師だ!」

空気が変わった。

笑いが怒声へ変わる。

棍棒が脇腹へ入った。

「っ……!」

息が止まる。

それでも、砂時計を落とさなかった。

《補正率:八十二》

「魔導具を奪え!」

別の男が腕を掴む。

シルヴィアは肘で顎を打ち、身を捩った。

だが、多勢に無勢だった。

背中を蹴られ、膝をつく。

「やめ……てください……」

「気取ってんじゃねぇ!」

頬に衝撃。

視界が白く弾けた。

砂時計だけは、胸へ抱き込む。

《補正率:九十七》

誰かが髪を掴んだ。

「放しなさい!」

初めて声を荒らげた。

指先へ残った魔力を集め、目の前の男を吹き飛ばす。

男は川へ落ちた。

「この野郎!」

後頭部へ硬いものが当たった。

暗闇が視界を覆う、その直前。

《補正完了》

《時相偏差を許容域へ修正しました》

神託の声だけが、はっきりと聞こえた。

《時計係任務の完遂を確認》

《対象個体BENへの加護を実行します》

《発熱を四・〇度低下させます》

シルヴィアは、ほんの少し笑った。

「よかった……」

そして意識を失った。

◇目覚め◇

ベンは大きく息を吸い、目を開けた。

身体が軽い。

額の熱も、喉の痛みも、数時間前とは比べものにならないほど和らいでいる。

窓の外はまだ暗い。

「シルヴィア?」

返事はない。

椅子は空だった。

水差しの横に書き置きがある。

――少し、時計係の務めへ行ってまいります。朝までには戻ります。

「時計係……?」

時計を見る。

夜明けまで、まだ二時間以上ある。

嫌な感覚が胸を突いた。

この街の夜道を、シルヴィアが一人で歩いている。

しかも、行き先は書かれていない。

ベンは寝台から立ち上がった。

足元がわずかに揺れたが、剣を取る。

廊下へ出ると、向かいの部屋からミラが顔を出した。

「あんた、寝てなきゃ――」

「シルヴィアがいない」

ベンの声に、ミラの表情が変わった。

「書き置きには、時計係の務めってある」

「何時に出た?」

「分からない」

ミラは部屋へ入り、紙を読む。

「一人で行ったのか……」

「時計係って何なんだ」

「時を司る神に仕える役目だ。街の時計塔を調整したり、時の歪みを正したりする。詳しいことは、時計係自身もほとんど話さない」

「危険なのか?」

「歪みが起きる場所は、人の少ないところが多い」

ミラは外套を掴んだ。

「下層区、古い水路、廃墟。夜に一人で行く場所じゃない」

「場所を探せるか」

「時計係の神殿へ行く。今夜の補正地点を聞き出す」

二人は雨の街へ飛び出した。

◇窓のない部屋◇

シルヴィアが目を覚ました時、最初に感じたのは冷たさだった。

床が硬い。

空気が湿っている。

目を開けても、部屋はほとんど暗かった。

窓はない。

 天井近くに、小さな通気口が一つあるだけ。

手首は背中側で縛られている。

足首にも縄。

外套と靴は奪われていた。

 上着も脱がされ、薄い下衣の上からヌメっとした液体がかけられているのを感じる。

さらに身体を調べ、砂時計や金目の物を探したのだろう。

胸元が寒い。

脇腹と頬が痛む。

 口の中には血の味と男の匂いが充満していた。

「臭い。痛い」

「……ここは」

声に反応し、扉の向こうで笑い声が上がった。

鍵が外れる。

三人の男が入ってきた。

「お、起きたのか!」

「ヒヒヒヒ……案外しぶといな」

最初に橋の下で声をかけてきた男が、しゃがみ込む。

「上物だった。久々に楽しめた。また遊ばせてくれ」

別の男が肩を回しながら笑った。

「いい獲物だった。今後も俺たちを楽しませてくれよ」

「もう俺出ねーけどよ。まぁた相手してくれよな」

「気絶しながらあれだけ抵抗する奴は久しぶりだった。また会おうぜ」

笑い声が、窓のない部屋へ反響する。

シルヴィアは床に落ちていた外套を胸元へ引き寄せた。

男たちが楽しんだのは、抵抗できない相手を殴り、押さえつけ、怯えさせ、そして女性への辱めを受けさせることだった。

それでも、その言葉の一つ一つが、彼女を人ではなく獲物として扱っていることに絶望を感じる。

「砂時計を返してください」

声は震えていた。

だが、目だけは逸らさなかった。

「これか?」

男が腰から砂時計を取り出した。

銀色の砂は、もう普通に下へ落ちている。

「高く売れそうだ」

「それは、私のものです」

「今は俺たちのものだ」

男は笑い、砂時計を床へ投げようと腕を上げる。

「やめて!」

シルヴィアが身を起こした。

縄でバランスを崩し、床へ倒れる。

笑い声。

「団長が来たら、こいつも売るぞ」

「魔術師なら値が上がる」

「そういう姿見ちまうと、堪んねえなぁ、その前に、もう一度――」

遠くで、何かが壊れる音がした。

三人の男が黙る。

次に、怒鳴り声。

金属がぶつかる音。

「何だ?」

廊下を走る足音。

扉の外から、誰かの悲鳴が聞こえた。

◇救出◇

スラムの古い倉庫は、外から見れば廃墟同然だった。

だが地下には部屋がいくつもあり、十数人の男たちが根城にしていた。

ベンとミラは、時計係の神殿で第七橋脚の位置を聞き出した。

橋の下には、薄く残った光の円。

 血の跡。

 壊れた髪飾り。

 複数人の足跡。

そこから倉庫まで追うのに、時間はかからなかった。

「中に十二。地下にも気配がある」

ミラは壁へ耳を当てた。

「生きているのか」

「分からない。だが焦るな」

「分かってる」

答えながら、ベンの手は大剣の柄を強く握っていた。

分かっている。

怒りに任せれば、シルヴィアまで危険に晒す。

ラウゼン村で、自分はそれを学んだ。

それでも、橋の下に残った血を見てから、胸の内側で何かが燃え続けている。

「私が裏へ回る。あんたは正面」

「正面でいいのか?」

「どうせ止めても、行くだろ」

「ああ」

「扉を壊す前に三つ数えろ」

ミラが闇へ消える。

ベンは倉庫の正面に立った。

内側から男の声。

「誰だ?」

ベンは一度、息を吐く。

一。

二。

三。

大剣を横へ振り抜いた。

扉が蝶番ごと吹き飛んだ。

「なっ――」

「シルヴィアを返してもらう」

最初の男が短剣を抜く。

ベンは剣の腹で腕を払い、そのまま肩へ柄を叩き込んだ。

骨が鳴る。

二人目が横から棍棒を振るう。

身を沈め、腹へ拳を打ち込む。

男が折れ曲がったところへ、膝を入れた。

「こいつ、例のあいつか!」

「どいつだよ」

ベンは低く答えた。

「今は病人だよ」

背後から斧。

大剣で受ける。

火花が散る。

押し合う力の向こうで、男が笑った。

「女を取り返しに来たのか?」

「そうだ」

「いい女だったぜ」

ベンの視線が冷たくなる。

力を抜き、相手を前へ崩す。

斧が床へ落ちる。

大剣の柄頭を顎へ入れ、男を壁へ叩きつけた。

「話すな」

声は静かだった。

「お前らの口から、あいつのことを話すな」

地下へ続く階段から、さらに男たちが上がってくる。

その背後で矢が飛んだ。

ミラの小型クロスボウ。

先頭の男の手から剣が落ちる。

「裏口は潰した」

ミラが姿を現す。

「地下に四人。奥に鍵のかかった部屋がある」

「シルヴィアは?」

「そこだろうね」

二人は背中を合わせた。

ミラの剣が、右から来た刃を弾く。

ベンの大剣が、左の男たちの進路を塞ぐ。

「殺すよ」とミラ。

「分かってる」

「顔が分かってない」

「分かってるって言ってるだろ!」

ベンが床を踏み込む。

重い一撃が、男の武器だけを砕いた。

返す刃の腹で二人を薙ぎ払い、壁へ転がす。

ミラは最短の動きで手首、膝、肩を打ち、次々と戦闘不能へ追い込んでいく。

十数人いた男たちは、数分で床へ倒れた。

地下へ降りる。

廊下の先。

古い扉の前に一人の男が立っていた。

手には、シルヴィアの砂時計。

「止まれ!」

男は砂時計を床へ叩きつけようとする。

ベンは大剣を放した。

床を蹴り、男の腕を掴む。

砂時計が宙へ浮く。

ミラが滑り込み、両手で受け止めた。

同時に、ベンは男を壁へ押しつける。

「鍵」

「知らねぇ」

ベンの拳が壁へ落ちた。

男の顔のすぐ横。

 石壁にひびが走る。

「鍵」

男は震えながら腰を指した。

ミラが鍵束を取り、扉を開ける。

◇帰ろう◇

薄暗い部屋の中。

シルヴィアが床へ倒れていた。

外套を身体へ巻きつけ、足を縛られている。

「シルヴィア」

ベンが駆け寄る。

彼女の瞳が、ゆっくりとベンを捉えた。

「……ベン、さん?」

「ああ」

縄を切る。

手首には赤い痕が残っていた。

頬は腫れ、唇の端には乾いた血。

そして、生臭い男たちの匂いが充満している。

ベンは何があったのか尋ねなかった。尋ねられなかった。

床に落ちていた彼女の服を拾い集め、自分の外套を肩から掛ける。

外套は大きく、シルヴィアの身体を足元近くまで覆った。

「遅くなった」

シルヴィアは首を横に振った。

「私が……勝手に出てきたから」

「謝るな」

「でも」

「謝るな」

強い言葉だった。

だが、声は震えていた。

シルヴィアはそこで初めて、ベンが怒っているだけではないことに気づいた。

怖がっていた。

自分を失うことを。

「時計係の務めを、果たさなければならなかったんです」

「分かった」

「ベンさんの熱も、下げていただけると……」

「俺のために?」

シルヴィアは目を伏せた。

言わない方がよかったのかもしれない。

神との交換を、恩のように聞かせたくなかった。

「違うんです。私が、そうしたかっただけで」

ベンはしばらく黙った。

そして、シルヴィアの前へ膝つけてしゃがんだ。

「立てるか?」

「……少し、難しいです」

「俺が運ぶ」

「ですが、ベンさんも病み上がりです」

「熱は下がった」

「それでも」

「患者は余計なことを考えるな、って言っただろ」

シルヴィアは、かすかに息を呑んだ。

昼間、自分が言った言葉だった。

迷った末に、そっとベンの胸へ身体を預ける。

ベンは彼女を抱き寄せて立ち上がった。

「重くありませんか?」

「軽すぎる」

「それは……失礼ではありませんか?」

「そういう意味じゃない」

短いやり取り。

その何気なさに、シルヴィアの目から涙が溢れた。

ベンの胸へ顔を伏せる。

声を押し殺そうとしたが、できなかった。

「……怖かったです」

「ああ」

「神様の務めだから、大丈夫だと思っていました」

「ああ」

「でも、一人になって……誰も来てくれなかったらって」

「ああ」

ベンは一度も振り返らなかった。

ただ、シルヴィアを支える腕へ力を込めた。

「もう大丈夫だ」

その言葉で、シルヴィアは子供のように泣いた。

ミラは少し離れて歩き、何も言わなかった。

倉庫を出る直前、シルヴィアが小さく尋ねた。

「どこへ行くのですか」

ベンは答えた。

「帰ろう」

◇朝の部屋◇

ギルドの宿へ戻ると、シルヴィアは医務室で傷の手当てを受けた。

重い後遺症はない。

 打撲と軽い脳震盪。

 休めば回復すると診断された。

だが、彼女は自分の部屋へ戻ることを嫌がった。

それを口に出すまで、ずいぶん時間がかかった。

ベンの部屋の前で、何度も袖を握り直す。

「どうした?」

「……今夜だけ」

シルヴィアは目を伏せた。

「ここにいても、よろしいでしょうか」

ベンはすぐに頷いた。

「ああ」

「床で結構です」

「怪我人を床で寝かせるわけないだろ」

「ですが、ベンさんも患者です」

「俺はもう大丈夫だ」

「四十度を超えていた方が言う言葉ではありません」

少しだけ、いつものシルヴィアが戻っている。

ベンは椅子へ腰を下ろした。

「じゃあ、寝台はシルヴィア。俺は椅子」

「それでは、私が困ります」

「どうすればいいんだよ」

シルヴィアは寝台の端を見た。

大人二人が横になるには狭い。

 だが、背を向けて座る程度なら十分だった。

「眠るまで、隣に座っていただけませんか」

「ああ」

ベンは寝台の端へ腰を下ろした。

シルヴィアは毛布へ入り、壁側を向く。

しばらく、雨音だけが続いた。

「ベンさん」

「ん?」

「助けに来てくださって、ありがとうございました」

「当然だ」

「当然ではありません」

シルヴィアは振り返らない。

「私にとっては、とても大きなことでした」

ベンは答えを探した。

気の利いた言葉は出てこなかった。

「次からは、行く前に言ってくれ」

「時計係の務めは、他の方へ話すものではないのです」

「詳しいことは言わなくていい。出かけることだけでも伝えてくれ」

「心配してくださるのですか」

「するに決まってるだろ」

シルヴィアの肩が、小さく動いた。

「……はい」

声が少しだけ明るくなった。

「次は、必ずお伝えします」

やがて呼吸が穏やかになる。

眠ったことを確認し、ベンは立ち上がろうとした。

その時、袖を掴まれた。

シルヴィアの手。

眠っているのか、起きているのか分からない。

「行かないで……」

小さな声。

ベンはもう一度座った。

「ここにいる」

返事はなかった。

だが、袖を握る力は少しだけ緩んだ。

◇神の慈悲◇

陽が沈む前。

シルヴィアは目を覚ました。

ベンは寝台の横へ座ったまま、壁にもたれて眠っている。

自分の手は、まだ彼の袖を掴んでいた。

恥ずかしさに頬が熱くなる。

そっと手を離そうとした時、声が届いた。

《時計係シルヴィア》

シルヴィアは身を固くした。

《任務完遂を確認しました》

《対象個体BENへの加護は完了しています》

《発熱低下量:四・〇度》

シルヴィアは胸元で手を組んだ。

「感謝いたします」

《次回の時相補正まで待機してください》

「承知いたしました」

声が消える。

ベンが小さく身じろぎした。

シルヴィアは彼の肩へ毛布を掛ける。

自分が昨夜、どれほど救われたか。

この人はきっと、すべてを理解してはいない。

時計係のことも。

 神託のことも。

 自分が抱いた恐怖も。

それでも、何も聞かずに迎えに来てくれた。

何も問わずに外套を掛けてくれた。

泣いている間、ただその大きな腕の中で抱きしめてくれた。

「ありがとうございます」

起こさないよう、囁く。

ベンの手が動き、眠ったままシルヴィアの手首へ触れた。

「……一人で行くなよ」

多分、寝言だった。

シルヴィアは目を丸くし、やがて小さく笑った。

「はい」

今度は、はっきりと答えた。

◇世界樹・観測領域◇

遠い世界樹の深部。

人の祈りも、街の鐘も届かない場所で、光の記録が静かに更新された。

《時計係個体:SYLVIA》

《局所時相偏差の修正完了》

《補正後誤差:0.00031》

《対象領域の安定化を確認》

《交換処理:対象個体BEN》

《体温補正:-4.0℃》

《生命活動:安定》

《時計係と対象個体間の相互保護行動を確認》

《観測を継続します》

記録は深い光へ沈んでいく。

地上では、シルヴィアが神の慈悲だと信じて微笑んでいた。

そしてベンはまだ知らない。

彼女が「時」と呼ぶものの奥で、

 星そのものが、二人を静かに見つめていることを。

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