王とメイドの夜
◇浮遊都市アークディア◇
ゲーム『Leben』では、朝になると必ず二つの月が西の空へ沈んだ。
それは、浮遊都市アークディアで暮らすすべての者にとって、ごく当たり前の一日の始まりだった。
雲海の上に朝が来る。
二つの月が西の空へ沈み切るころ、都市の下を流れる雲はゆっくりと色を変えていった。夜の青から薄紫へ。薄紫から白金へ。雲海の切れ目から遥か下方の大地が一瞬だけ覗き、すぐにまた白い波の中へ消えていく。
地上から見れば、伝説にしか思えない高さ。
その空を、アークディアは音もなく進んでいた。
ゲームの中に存在していた頃も。
そして、住民たちが自ら考え、笑い、迷いながら生きるようになった今も。
城の朝は、ほとんど変わらない。
城壁の内側では、夜勤の者たちが持ち場を明け渡し始めていた。浮遊機構を監視する錬金技師が計器板へ最後の記録を刻み、翼を持つ巡回兵が空中回廊へ降り立つ。厨房では大釜の火が起こされ、石窯へ薪がくべられた。洗濯場では夜露を含んだ白布が長い竿へ掛けられ、庭園区では小さな精霊たちが花弁についた水滴を払い落としている。
天使と悪魔が同じ廊下ですれ違い、互いに朝の礼を交わす。獣人の職人が悪魔族の給仕係へ焼きたてのパンを渡し、その横を幼い天使たちが駆け抜けていく。
彼らには、ゲーム『Leben』で五十人の王と過ごした記憶があった。
王たちから命じられた役目。
共に守った城。
宴の夜に交わされた笑い声。
無謀な遠征へ出ていく王を見送り、傷だらけで戻った姿へ呆れたこと。
画面の向こうの誰かに与えられた設定ではない。
少なくとも今の彼らにとって、それは自分たちが確かに生きた過去だった。
アークディアは、誰か一人のために造られた都市ではない。
かつてゲーム『Leben』で、異なる力と思想を持つ五十人の王が協力し、何もなかった場所へ築き上げた巨大な拠点。天使、悪魔、魔獣、錬金生命、精霊。異なる種族と役割を持つ者たちが、同じ規律の下で暮らす空の都市だった。
誰か一人の理想ではなく、異なる五十の意思が折り重なって生まれた、不格好でありながら強固な共同体。
その記憶があるからこそ、パウルの帰還は都市全体の希望となった。
約一か月前。
『知恵と錬金の王』パウルが、長い不在を破ってアークディアへ戻った。
閉鎖されていた研究塔には灯りが戻り、停止していた工房の炉が再点火された。住民たちは廊下に花を飾り、中央広場の石像を磨き直し、子供たちは帰還した王の姿を真似て、黒い布を外套代わりに遊んだ。
だが、歓喜の奥には、拭いきれない欠落が残っていた。
五十人の王のうち、帰還したのはパウル一人。
そしてパウル自身が、誰よりも強く帰還を願っている王が、まだ見つかっていない。
城の最上層にある一室だけは、夜から変わらず明かりを灯していた。
机には何十枚もの地図が広げられている。
赤い線は、レイビスが確認した街道。
青い印は、天使たちが上空から捜索した地域。
黒い点は、ヤミノミコタマの諜報網が調べた都市や集落。
いずれにも、求めている人物の名はなかった。
捜索は、単に兵を各地へ放つだけではない。
天使たちは高空から街道と集落を観察し、悪魔たちは商人や旅芸人へ姿を変えて国境を越えた。レイビスの諜報員たちは酒場の噂から行方不明者の名簿まで拾い上げ、ヤミノミコタマの指揮下では、情報が同じ日時、同じ地方、同じ特徴ごとに分類されていた。
それでも、世界は広すぎた。
地上にはアークディアが把握していない国家があり、地図から消えた村があり、言語さえ通じない地域がある。ましてベンが外見や名を変え、力を失っていたなら、王の肖像と目撃情報を照合するだけでは見つけられない。
捜索の網を広げるほど、見落としている可能性も同じように増えていった。
パウルは報告書の余白へ、ひとつずつ自分の手で注釈を書いた。
髪の色だけで除外するな。
召喚能力を持たないという証言だけで切り捨てるな。
記憶喪失者、突然現れた身元不明者、異常な身体能力を示した者は、すべて再調査すること。
兄の姿を知っているからこそ、姿だけを頼りにしてはいけないと理解していた。
机の中央で、パウルは深い銀色の瞳を細めていた。
漆黒の髪は寝癖のまま乱れ、白い上着の袖は肘までまくられている。帰還してから約一か月。彼は五十人の王の一人として敬われていたが、王らしい豪奢な衣装を好まず、研究者が使う簡素な服ばかりを選んでいた。
「……ここも違うか」
報告書の一枚へ線を引く。
西方の港湾都市。
北部の鉱山国家。
東の森林域。
南の砂漠交易路。
転移者らしき人物の目撃情報は、これまでに二百件を超えていた。空から落ちてきた者、記憶を失った旅人、正体不明の魔法を使った冒険者。
だが、どれもベンではなかった。
そもそも、ベンもこの世界へ来ているのか。
それすら、確かなことは分からない。
パウルだけが転移した可能性もある。
転移の途中で別の場所へ弾かれた可能性もある。
この世界へ来ていたとしても、力や記憶を失っているかもしれない。
そして、誰も口にしたがらない可能性もあった。
もう生きていないかもしれない。
パウルはその考えを、浮かぶたびに押し潰した。
「兄さんは生きてる」
誰に聞かせるでもなく言う。
根拠はない。
だが、兄を知る弟にとって、それは証明を必要とするものではなかった。
ベンは無茶をする。
勝てない相手にも向かっていく。
考えるより先に身体を動かし、後から痛い目を見る。
それでも最後には帰ってくる。
現実世界にいた頃から、ずっとそうだった。
パウルは椅子を離れ、執務室の奥にある扉を開いた。
◇五十人の王◇
扉の先には、細長い回廊が続いていた。
高い天井。
静かに燃える青白い燭火。
左右の壁へ等間隔に掲げられた、五十枚の肖像画。
ゲーム『Leben』でアークディアを築いた王たちの姿だった。
槍を持つ王。
無数の魔導書に囲まれた王。
獣の王冠を戴く王。
鎧を一切身につけず、笑顔だけを残した王。
この城に暮らす者たちは、彼らを創造主として敬っている。
だがパウルにとって、肖像の中の者たちは、現実世界で画面越しに笑い合い、競い、ときには喧嘩をした仲間たちだった。
今、この世界で目覚め、アークディアへ戻っている王はパウル一人。
残る四十九の椅子は空いたままだ。
回廊の中央近くに、自分の肖像がある。
漆黒の髪。
深い銀色の瞳。
白と黒の錬金装束。
下部の銘板には、こう刻まれている。
――知恵と錬金の王 パウル。
その隣。
白銀色の重装鎧をまとい、陽光のような金髪を立たせた青年が、巨大な剣へ片手を置いていた。
瞳の中では、赤と金が炎のように混ざり合っている。
華やかな外見に反して、表情は少し不機嫌そうだった。肖像を記録している間もじっとしていられず、何度も席を立とうとした兄の姿を、パウルは今でも覚えている。
銘板には、
――剣と召喚の王 ベン。
パウルは肖像の前で足を止めた。
「随分、格好よく残してもらったよな」
返事はない。
「本物は、もっと落ち着きがなかったけど」
当然、返事はない。
それでも、話しかけずにはいられなかった。
「みんな探してる」
指先で銀色の額縁へ触れる。
「テルーも、ミコタマも、レイビスも。毎日、寝る間を削ってる」
肖像のベンは、ただ正面を見つめている。
「だから、早く見つかってくれ」
声がわずかに掠れた。
「俺一人で、こんな大きな城を背負わせるなよ」
「――パウル様」
背後から静かな声がした。
振り返らなくても分かる。
白銀の髪を持つ天使、アマノテルシエ。
アークディアの団長・管理者の一人であり、城の守護と天使たちの統率を担う存在。普段は冷静で、誰に対しても崩れない気品を保っているが、ベンのこととなると、その透明な瞳には隠しきれない感情が浮かぶ。
「捜索会議の準備が整いました」
「ああ。今行く」
パウルが肖像から離れる。
アマノテルシエもベンの絵を見上げた。
ほんの一瞬だけ、彼女の表情が柔らかくなる。
「今日こそ、何か見つかるとよいのですが」
「見つける」
パウルは迷いなく答えた。
「何度空振りしても、見つかるまで探せばいい」
肖像の中のベンは、王らしい威厳を崩さない。
だがパウルの記憶に残る兄は、もっと騒がしく、もっと不器用だった。勝算のない強敵へ先に突っ込み、作戦を聞かずに敵陣の中央で笑う。弟が用意した回復薬を勝手に飲み尽くし、あとで怒られると「勝ったからいいだろ」と悪びれもしない。
現実世界でも同じだった。
困った時に理屈を並べるのはパウルで、最後に立ち上がって扉を開けるのはいつも兄だった。慎重さが必要な時ほど無茶をし、けれど弟が本当に怖がっている時だけは、何も言わず前へ立った。
その背中を、パウルは何度も見てきた。
だからこそ、死んだとは思えない。
信じたいのではない。
あの男が何もせず消える姿を、想像できないのだ。
どこかにいるなら、きっと今も誰かを助けるために余計な騒ぎを起こしている。そう思うと、胸の奥にほんの僅かな可笑しさと、同じだけの焦りが湧いた。
その言葉に、アマノテルシエは深く頭を下げた。
「はい。必ず」
◇捜索会議◇
会議室は城の東翼、雲海を一望できる半円形の部屋に設けられていた。壁沿いには地上各地を映す水晶板が並び、中央の円卓には立体地図が浮かんでいる。山脈は指先ほどの高さに隆起し、海は薄い光をたたえ、捜索済みの地域には細かな印が灯っていた。
この場へ集まる者は、単なる軍人ではない。
ゲーム『Leben』で王たちから役目を与えられ、その後もアークディアを維持し続け、再び王たちと出会える日を待ってきた者たちだった。
だから彼らにとってベンの捜索は、命令された任務ではない。
帰還したパウルの願いであると同時に、自分たちが敬愛する王の一人を迎え戻すための使命だった。
円卓の間には、すでに三人が揃っていた。
最初に目へ入るのは、長い黒髪を持つ悪魔の女性、ヤミノミコタマ。
特別作戦統括官として、アークディアの諜報と特殊任務を指揮する存在だ。優雅な微笑みを浮かべている時ほど、その思考は冷静に何手も先まで進んでいる。
彼女の前には、各地へ派遣した諜報員からの報告書が積み上がっていた。
その隣に立つのはレイビス。
パウルを発見し、アークディアへ迎え入れた諜報員である。整った服装と隙のない姿勢を崩さず、地図上へ細かな印を加えていた。
もう一つの席は空いている。
そこは、本来リエラが座る場所だった。
ヤミノミコタマ直属の工作員である彼女は、現在、遠く離れたドワーリンの地で英雄候補リンクス・エルダーを監視している。ベン捜索とは異なる任務だが、各大陸で起き始めた異変が無関係だとは誰も考えていなかった。
「お待ちしておりました、パウル様」
ヤミノミコタマが立ち上がり、優雅に一礼する。
「堅い挨拶はいらない。報告を」
「では、天使側から」
アマノテルシエが円卓へ一枚の地図を展開した。
「浮遊都市から半径四千里の空域を、複数の飛行部隊で確認しました。大規模な召喚反応、王級の魔力、城へ通じる転移痕跡。いずれも確認されておりません」
「人の姿で見つかるとは限らない」
「承知しております。記憶喪失者、身元不明者、急激に力を得た者についても情報を集めました。しかし、ベン様の特徴と一致する者はおりませんでした」
アマノテルシエは淡々と述べた。
だが、報告書を押さえる指へ僅かに力が入っている。
次にレイビスが口を開く。
「地上の主要都市、冒険者組合、傭兵組織、奴隷商、収容所へ調査を広げております。ベン様が記憶や身分を失った状態で保護、拘束、あるいは売買された可能性も考慮いたしました」
パウルの表情が険しくなる。
「結果は」
「現在まで、該当なしです」
「範囲を広げろ」
「すでに外海を越える班を編成しております。ただし――」
レイビスが言葉を止める。
「言ってくれ」
「ベン様が本当にこちらへ転移されたという確証は、未だ得られておりません」
室内の空気が重くなった。
アマノテルシエが僅かに目を伏せる。
ヤミノミコタマは表情を変えない。
パウルは円卓の地図を見たまま、答えなかった。
レイビスは続ける。
「パウル様を発見した時点で、王の気配は一つでした。城の古い感知機構も、確実に認めたのはパウル様の帰還のみです」
「ベン様に似た揺らぎはあった」
アマノテルシエが反論する。
「確かに感じました。遠く、非常に不安定ではありましたが」
「否定はしておりません。しかし、あれがベン様ご本人であったかは――」
「本人だ」
パウルが言った。
強い声ではない。
だが、会議室の全員が黙った。
「兄さんはこの世界にいる」
レイビスは頭を下げる。
「根拠をお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「ない」
即答だった。
「でも、いる」
「パウル様」
「俺がこの世界へ来た。アークディアも存在している。それに、俺と兄さんは、離れているはずなのに同じ光景を夢で見た」
パウルは胸元へ手を置いた。
「兄さんの存在が、どこかで俺に触れている。説明はできない。でも、分かる」
ヤミノミコタマがゆっくりと微笑む。
「それで十分ではありませんか」
レイビスが彼女を見る。
「統括官」
「私たちは、確証があるから王に仕えているのではありません。王がそう信じ、進むと決めた道を現実にするのが、私たちの仕事です」
彼女は地図上の未調査領域へ指を置いた。
「ただし、闇雲な捜索は続けません。これまでの方法で見つからないのなら、前提が間違っている」
「前提?」
「私たちは、ベン様が強大な王の力を保っていると考えすぎていました」
円卓に新しい紙を置く。
「もし、ベン様が力を失っていたら。もし、自分がベン様であることすら分からなかったら。王級の魔力を探しても見つからない」
アマノテルシエが息を呑む。
「そんな……」
「可能性の話です」
ヤミノミコタマは冷静に続ける。
「一人の旅人。一人の難民。一人の新人冒険者。そうした小さな記録の中へ紛れているのかもしれません」
パウルは顔を上げた。
「冒険者」
「はい。この世界へ一人で放り出されたなら、まず身分と金を得る必要があります。ベン様の性格であれば、困っている者を見捨てられず、結果として揉め事に巻き込まれる可能性も高い」
「間違いない」
パウルは少しだけ笑った。
「兄さんなら、初日から誰かと喧嘩しててもおかしくない」
アマノテルシエの表情にも、僅かな希望が戻る。
「各地の冒険者組合へ、新規登録者の記録を照会します」
「目立つ事件もだ」
パウルが言う。
「新人らしくない力を使った者。召喚術。大剣。金髪。赤と金の瞳」
「容姿が変わっている可能性もございます」
レイビスが指摘する。
「なら、行動で探す。人を助けて、自分が傷ついて、後から怒られるような馬鹿を探せ」
ヤミノミコタマが口元を隠して笑った。
「随分と具体的でございますね」
「弟だからな」
方針が決まった。
レイビスは地上の情報網を冒険者組合へ広げる。
アマノテルシエは天使たちに、強大な魔力だけではなく、異常な召喚現象の痕跡を探させる。
ヤミノミコタマは各国の事件記録、噂、吟遊詩人の歌まで拾い上げる。
「兄さんを見つける」
パウルは全員を見渡した。
「生きてるかどうかを議論するのは、それからだ」
三人は同時に頭を下げた。
「御意」
◇孤児たちの家◇
城の南寄り、庭園区と医療区画のあいだには、救出された子供たちのために整えられた生活棟があった。
もとは王たちの従者見習いが暮らす寮だったが、今は低い寝台と小さな机が並び、壁には子供たちが描いた拙い絵が貼られている。
空を飛ぶ城。
黒髪の王。
笑っているナナ。
どの絵にも、救出された夜の炎は描かれていなかった。
朝は顔を洗わせるところから始まり、昼までは読み書きと簡単な計算。午後は庭で遊ばせ、怪我をした子には医療班のもとへ付き添う。夜には食事を取り、順番に身体を拭き、悪夢で眠れない子のそばへ座る。
ナナは誰かに任命されたわけではなかった。
ただ、泣いている子を放っておけず、一人を抱きしめた翌日には二人、三人と彼女を頼る子が増えていった。
城の者たちはナナを敬っていた。
パウルに救われ、共に城へ迎えられた客人であり、子供たちを守る者として丁重に扱う。
けれど、その敬意は時として距離にもなった。
廊下ですれ違う者は頭を下げるが、気軽に肩を叩く者はいない。食堂では上席を勧められ、厨房へ入ろうとすれば使用人が慌てて仕事を代わろうとする。
ナナが望んでいるのは特別扱いではなく、ここで暮らす一人として自然に混ざることだった。
昼を過ぎる頃、生活棟の食堂には焼きたてのパンの匂いが満ちていた。
「一人二つまでですよ」
ナナが籠を抱え、並ぶ子供たちへパンを配る。
「三つほしい!」
「お昼ごはんが入らなくなります」
「じゃあ、半分!」
「半分を二つ取ったら、結局一つですよ」
子供たちが笑う。
ナナも笑った。
特別な力も、王たちに作られた記憶も持っていない。
城の中では珍しい、ごく普通の人間だった。
だからこそ、子供たちの恐怖や不安に最も近い。
眠れない夜には隣に座り、食事を残す子には少しずつ食べさせる。泣き出した子を抱きしめ、喧嘩をした子供たちの話を最後まで聞く。
城の者たちは、彼女を孤児区画の管理者とは呼ばなかった。
ただ、ナナお姉ちゃんと呼んだ。
「ナナお姉ちゃん、パウル様は今日も来ないの?」
一人の少女が尋ねる。
「今日は大切な会議ですから」
「ベン様を探してるの?」
「そうですよ」
「見つかる?」
ナナは少し迷い、それから頷いた。
「きっと見つかります」
パウルがそう信じているから。
彼が兄の話をする時、銀色の瞳には迷いがない。
その強さを、ナナも信じたかった。
昼食が終わると、子供たちは中庭へ走っていく。
木馬。
小さな迷路。
低く作られたブランコ。
天使や悪魔の使用人たちが遠くから見守る中、ナナは転んだ子の膝を洗い、髪を結び直し、破れた服を縫った。
日が沈むまで、彼女には一人になる暇がなかった。
夜。
子供たちは同じ区画の寝室へ戻る。
親元へ帰る者はいない。
家族を失い、帰る村を失った子供たちにとって、今はここが家だった。
ナナは一つずつ寝台を回り、毛布を掛け直す。
「おやすみなさい」
「おやすみ、ナナお姉ちゃん」
「明日もいる?」
「いますよ」
「絶対?」
「絶対です」
最後の灯りを消す。
扉を閉めると、子供たちの寝息は厚い石壁の向こうへ遠ざかった。
廊下には、壁の燭台が等間隔に続いている。
どこまで歩いても同じ光、同じ石床、同じ静けさ。
昼間には人の往来が絶えない城も、夜になると巨大さだけを残して沈黙した。
子供たちには、この生活棟が家になりつつある。互いに喧嘩をし、同じ食卓を囲み、眠る前には明日の遊びを約束する。家族を失った彼らが、新しい形の家族を作り始めている。
その中心に自分がいることは嬉しい。
けれど、全員が眠った後、自分だけがその輪の外へ戻るような感覚があった。
パウルは近くにいる。
城のどこかで、今も兄を探している。
会えば優しく笑い、名前を呼んでくれる。
それなのに、彼と自分のあいだには、王と庶民、創造主と救われた者という、目には見えない長い廊下が続いているように思えた。
ナナはその距離を埋める方法を知らなかった。
子供たちには、ナナがいる。
では、ナナには誰がいるのだろう。
パウルは優しい。
自分を大切にしてくれる。
アークディアの者たちも、王に連れられてきた客人として丁寧に接してくれる。
それでも、巨大な城の中で、ナナは時々、自分だけが外から紛れ込んだ小さな異物のように感じた。
天使たちには役目がある。
悪魔たちには忠誠がある。
城に暮らす者の多くは、自分が何のために生まれ、誰へ仕えるのかを知っている。
ナナには、それがない。
子供たちの世話は自分で選んだ。
パウルの側にいたいのも、自分の気持ちだ。
だが、それだけで、この城にいてよいのだろうか。
調理場で温め直したスープを盆へ載せる。
パウルは、今日も食事を忘れているはずだった。
「せめて、これは私にできるから」
呟き、上層へ向かう。
◇悪魔のメイド◇
研究塔へ続く回廊の途中で、規則正しい呼吸音が聞こえた。
扉の隙間から灯りが漏れている。
使用人区画の奥にある、小さな姿勢訓練室だった。
壁には全身を映す磨き上げられた金属板が並び、床には歩幅と礼の角度を測る細い線が刻まれている。給仕や舞踏、公式行事の所作を身につけるための場所だ。
ただし、中で続けられている鍛錬は、所作だけではなかった。
呼吸を乱さず長時間立ち続けるための脚力。
盆を傾けず階段を上るための体幹。
衣装を美しく見せる姿勢。
柔軟性を保つための反復運動。
ナナがそっと中を覗くと、一人の女性がいた。
艶のある黒髪。
悪魔族特有の小さな角。
整った顔立ち。
普段は一分の隙もないメイド服を着ている彼女が、今は動きやすい薄手の訓練着をまとっている。
リリス。
五十人の王の一人、創造の王によって作られた元NPCであり、現在はパウル専属のメイドを務めている。
担当は掃除、洗濯、料理、そしてお茶や食事の給仕。
戦う力はない。
護衛もできない。
使用人たちを統率するのは別の執事長であり、王の身体に関する世話にも専門の係がいる。
リリスの役目は、パウルが過ごす部屋と日常を、常に最良の状態へ整えることだった。
元NPCである彼女は、本来なら疲労を理由に職務を怠るような存在ではなかった。
それでも自我を得てからは、努力の意味が変わっていた。
以前は命じられた基準を満たすため。
今は、パウルの視界へ入った時に、少しでも相応しい自分であるため。
本人はまだ、その違いを正確に言葉へできずにいた。
「百九十七……百九十八……」
彼女は床へ手をつき、ゆっくりと身体を上下させていた。
動きに一切の乱れがない。
終えると立ち上がり、今度は鏡の前で姿勢を正す。
歩き方。
振り返り方。
腰を下ろす時の角度。
礼をする時の視線。
一つ一つを確認している。
「リリスさん」
声をかけると、リリスはすぐに振り返った。
「ナナ様」
「ごめんなさい。覗くつもりでは」
「問題ございません」
息を整えながら、いつもの冷静な表情へ戻る。
「毎日、運動されているんですか?」
「はい」
「メイドのお仕事って、そんなに体力が必要なんですね」
「仕事を滞りなく行うためにも必要です」
リリスはタオルで汗を拭った。
だが、ナナにはそれだけではないように見えた。
掃除や料理のためなら、鏡の前で微笑み方まで練習する必要はない。
「他にも理由があるんですか?」
尋ねると、リリスはほんの少し沈黙した。
「いつ、どのような役目を命じられても、王の期待を裏切らないためです」
「どのような役目でも?」
「はい」
それ以上は話さない。
ナナも深く聞くことはできなかった。
リリスの目には、冗談や見栄ではない、真剣な覚悟があった。
「すごいですね」
自然に言葉が出た。
「私は、そんなに一生懸命続けられることがなくて」
「ナナ様には、子供たちがおります」
「それは、私がしたいからしているだけです」
「自ら選び、毎日続けることを、努力と呼ぶのではありませんか」
リリスは淡々と言った。
褒めようとしたわけではないのかもしれない。
それでも、ナナの胸が少し温かくなった。
「ありがとうございます」
「事実を述べただけです」
リリスの視線が、ナナの持つ盆へ移る。
「パウル様のお食事ですか」
「はい。今日も召し上がっていないと思って」
「私がお持ちいたします」
当然のように手を差し出す。
ナナは一瞬、盆を渡しかけた。
だが、胸の奥で小さな寂しさが動いた。
「今日は、私が届けてもいいですか」
リリスの手が止まる。
「給仕は私の担当です」
「分かっています。でも、少しだけお話ししたいこともあるので」
「……左様ですか」
丁寧な返事。
表情は変わらない。
それでも、空気がほんの少し冷えた気がした。
「では、スープが冷めないうちに」
「はい」
ナナが通り過ぎる。
数歩進んで振り返ると、リリスは再び鏡の前へ立っていた。
さきほどよりも背筋を伸ばし、完璧な姿勢を作っている。
その姿が、なぜか胸へ残った。
◇王位継承規定◇
アークディアにおける後宮は、地上の王国に見られる享楽の場とは少し性質が違った。
アークディア憲章第七章『王位継承規定』に基づき、王位と権限を次代へ繋ぐために整備された制度である。
居住区。
教育係。
侍医。
礼法係。
記録官。
後宮管理局はそれらを統括し、王の私生活ではなく、都市の継続性を管理する機関として憲章へ組み込まれていた。
制度が長く使われなかったからといって、消滅することはない。
住民たちは王の帰還を待つあいだも区画を清掃し、帳簿を更新し、寝具や食器を定期的に交換してきた。
いつ王が戻っても、規定どおりに運用できるように。
それが忠誠であり、正しさだと信じていた。
パウルの帰還から約一か月。
管理局の担当者たちが再開を求めるのは、欲望でも悪意でもなかった。彼らにとっては、浮遊機構の点検や食糧庫の補充と同じ、都市維持のための当然の手続きだった。
だからこそ、パウルの拒絶は単純な命令変更ではなく、長く守られてきた価値観そのものへの問いかけとなった。
翌朝。
パウルの執務室には、執事長と後宮管理局の責任者が呼ばれていた。
ナナはその会議へ参加していない。
リリスも、本来なら発言する立場ではなかった。
彼女は壁際でお茶を用意し、静かに控えているだけだった。
机の上へ、一冊の厚い書物が置かれる。
「パウル様。アークディア憲章第七章『王位継承規定』について、ご判断をお願い申し上げます」
執事長の声は慎重だった。
「何の判断だ」
「後宮管理局の運営再開についてでございます」
パウルは資料から顔を上げた。
「停止したままでいい」
「しかし、パウル様のご帰還から一か月が経過しました。現在、アークディアに在城される王はパウル様お一人です」
「兄さんは戻る」
「承知しております。ですが、行政機構としては現状に基づき備えねばなりません」
責任者が書類を開く。
「後宮区画の整備、勤務者の募集、王妃候補の調査、夜伽係の選抜。いずれも再開には時間を要します。運用を開始するか否かは別として、準備だけでも進めるべきかと」
「夜伽係?」
パウルが眉を寄せる。
「王の心身を慰め、王統の維持へ備える役目です」
「いらない」
「ですが、憲章に――」
「いらないと言った」
室内が静かになる。
パウルは書類を手に取った。
そこには制度の目的、選抜基準、候補者の健康や教養、容姿、所作に関する項目が細かく並んでいる。
「これに選ばれた者は、自分で断れるのか」
責任者が僅かに言葉へ詰まる。
「辞退の規定はございます。ただし、王へ仕えることは最高の栄誉であり、創設以来、辞退者はほぼ――」
「聞いてるのは、栄誉かどうかじゃない」
パウルの銀色の瞳が冷たくなる。
「本当に自由に断れるのか」
「形式上は」
「形式上」
その言葉を繰り返す。
「王のため、都市のため、憲章のため。そう言われた者が、本当に自分の意思だけで断れると思うか」
誰も答えられなかった。
壁際で、リリスは静かに聞いていた。
自分は断るつもりなどない。
むしろ、その役目を望んでいる。
毎朝身体を鍛えた。
姿勢を整えた。
いつ見られても恥ずかしくないよう、食事も睡眠も管理した。
パウルへ尽くすため。
命じられた時、完璧に応えるため。
「恐れながら」
気づけば、リリスは声を上げていた。
会議室の全員が彼女を見る。
パウルも驚いたように目を向けた。
「発言をお許しいただけますでしょうか」
「言ってくれ」
リリスは一歩進み、深く頭を下げた。
「制度によって強制されることを、パウル様が懸念されるお気持ちは理解いたしました」
「うん」
「ですが、自ら望む者もおります」
室内の空気が僅かに変わる。
「私は、創造の王様によって、アークディアと王たちへ仕える者として造られました。掃除、洗濯、料理、給仕。現在の職務のすべてに誇りを持っております」
リリスは顔を上げた。
普段の冷静な瞳に、初めて強い熱があった。
「そして、パウル様がお望みになるのであれば、私は夜伽係となる準備も整えております」
責任者が驚き、執事長が目を伏せる。
パウルは、しばらく何も言わなかった。
「誰かに言われたのか」
「いいえ」
「憲章があるからか」
「それだけではございません」
「じゃあ、何のためだ」
リリスの唇が僅かに動く。
答えは決まっているはずだった。
忠誠。
職務。
王への奉仕。
しかし、どの言葉も今の胸の内を完全には表していない。
「パウル様のお役に立ちたいからです」
ようやく、それだけを言った。
パウルは椅子から立ち上がる。
「リリス」
「はい」
「お前の努力を否定するつもりはない」
彼は机の上の憲章へ手を置いた。
「でも、憲章は、人のためにある」
静かな声が、室内へ広がる。
「人が憲章のために生きる必要はない」
円卓の周囲で、誰かが息を呑んだ。
憲章は五十人の王が残した言葉であり、都市の住民にとっては法であると同時に祈りにも近い。守ることを疑う者はいなかった。守り続けたからこそ、王のいない長い時間を都市は耐え抜いた。
パウルも、その重みを理解していた。
憲章を軽んじているわけではない。
むしろ、五十人が何のために規則を作ったのかを考えた結果だった。
都市を存続させるため。
住民を守るため。
ならば、住民自身の意思を押し潰す規則へ変わった瞬間、目的と手段が逆転している。
「俺は、誰かが自分を差し出すことを忠誠とは呼びたくない」
パウルは静かに続けた。
「選ぶなら、自分の意志で選べ。断る自由も、望む自由も、同じように守られるべきだ」
その声は大きくなかったが、会議室の隅まで明瞭に届いた。
リリスは息を止めた。
「五十人の王がこれを作った時には、必要だと思ったのかもしれない。だけど、今を生きる者が苦しむなら、制度は変えればいい」
責任者が口を開く。
「しかし、王位の継承はアークディアの存続に――」
「存続のためなら、誰かの身体や人生を当然のように使っていいのか」
「そのような意味では」
「なら、選抜も募集も止める。後宮管理局は、本人の自由意思を保証できる制度へ改めるまで再開しない」
「憲章を、変更されると?」
「制度なら変える」
パウルは迷わなかった。
「それが王の仕事だ」
リリスは、胸の奥で何かが崩れ、同時に新しく形を持つのを感じた。
創造の王が定めた仕組みを変える者。
本来なら、不敬と感じるべきなのかもしれない。
だが違った。
目の前の王は、制度よりも、そこに生きる一人一人を見ている。
自分を、役割ではなく一人の存在として見ている。
その事実が、リリスの心へ深く刺さった。
「……承知いたしました」
頭を下げる。
以前と同じ礼。
だが、その忠誠は以前とは違う。
与えられた役割に従う忠誠ではない。
この王を、自分の意思で支えたいという初めての選択だった。
◇つながった意味◇
会議の内容は、城内へ噂として広がった。
後宮の再開は見送り。
夜伽係の選抜も停止。
パウルが憲章の変更を命じた。
孤児区画へ食材を取りに来たナナも、侍女たちの会話からその話を聞いた。
「リリスさんが、自分から志願したらしいわ」
「本当に?」
「ずっと準備をしていたんですって」
ナナの足が止まる。
夜の訓練室。
汗を流しながら身体を鍛える姿。
鏡の前で何度も所作を確認していた姿。
――いつ、どのような役目を命じられても、王の期待を裏切らないためです。
すべてがつながった。
胸の奥に、複雑な感情が生まれる。
驚き。
戸惑い。
そして、少しの痛み。
ナナはパウルが好きだった。
隣にいたい。
誰よりも大切に思ってほしい。
後宮も、夜伽も、制度として人を並べることには抵抗がある。
それでも、リリスが遊び半分で志願したのではないことも分かる。
彼女は毎日努力していた。
自分の身体も、所作も、心も、いつ王に求められてもよいように整えていた。
その真剣さを、否定することはできなかった。
「私、何もしてないな」
ナナは小さく呟いた。
子供たちの世話をしている。
パウルへ食事を届けている。
だが、それは自分がしたいことをしているだけだと思っていた。
リリスのように、パウルのために何かを身につけようとしたことはない。
「ナナお姉ちゃん?」
籠を持った子供が見上げる。
「どうしたの?」
「何でもないですよ」
笑って頭を撫でる。
だが心の中では、静かに決めていた。
パウルの側にいるだけではなく、支えられる人になりたい。
兄を探す彼の力になりたい。
リリスに勝つためではない。
自分も、自分の意思で選ぶために。
◇今夜だけ◇
会議が終わった後、リリスはいつものように厨房へ戻り、夕食の後片付けを終え、パウルの私室を整えた。
寝台の皺を伸ばし、水差しを交換し、机に残された茶器を下げる。
手順は完璧だった。
だが、胸の内側だけが、いつもの順序へ戻らない。
自分の意思で選べ。
パウルの言葉が何度も蘇った。
命令を受けることは容易だった。
役目を与えられれば、必要な行動はすぐに決められる。
けれど、自分の望みを選ぶとなれば、誰も正解を示してくれない。
衣装庫の奥には、後宮区画の再開に備えて保管されていた衣装があった。
職務用のメイド服でも、儀礼用の正装でもない。
一人の女性が王と夜を過ごすために仕立てられた衣装。
リリスは長い時間、その前で立ち尽くした。
選んだのは制度のためではない。
パウルに命じられたからでもない。
その事実を、自分自身へ何度も言い聞かせた。
その日の夜。
パウルは執務室で一人、憲章の改訂案を読んでいた。
扉の外に人の気配を感じ、顔を上げる。
「リリス?」
返事がない。
扉を開けると、彼女が立っていた。
いつものメイド服ではない。
黒を基調にした服。
身体の線を美しく見せる、薄手の短いドレス。
肩と首元は普段より大きく開き、長い髪も結わずに下ろしている。
華美ではない。
だが、彼女なりに精いっぱい選んだ、一人の女としての装いだった。
パウルは驚いて目を瞬いた。
「どうした、その格好」
リリスは両手を前で重ねる。
会議で発言した時よりも緊張していた。
「先ほどのお言葉を、考えておりました」
「俺の言葉?」
「人が憲章のために生きる必要はない。自らの意思で選ぶべきだと」
「ああ」
「私は、創造された時から、役目を与えられてきました。何をすべきか迷う必要はなく、それを幸福だと考えておりました」
声が僅かに震える。
「ですが、パウル様は、自分のために選べと仰いました」
「そうだな」
「考えました。私自身は、何を望んでいるのか」
リリスは顔を上げる。
「私は、パウル様のお側にいたい」
職務ではない。
命令でもない。
初めて、自分の願いとして口にした。
「この日のために、身体を鍛えてまいりました。所作も、姿勢も、いつ見られても恥ずかしくないように。最初は、夜伽係として選ばれるためだと思っておりました」
一度、息を吸う。
「ですが今は、役目が欲しいのではありません。パウル様に、一人の女として見ていただきたいのです」
パウルは黙って彼女を見た。
リリスの指が小さく震えている。
「ご迷惑でしたら、すぐに退出いたします」
彼女が一歩下がる。
パウルは周囲を確かめた。
廊下に誰もいない。
そしてリリスへ近づき、他の者には聞こえない声で耳元へ囁いた。
「……今夜だけだ」
リリスの瞳が大きく開く。
「パウル様」
「誰かに命じられた夜伽係としてじゃない」
パウルは静かに言う。
「お前が自分で選んで、ここへ来た。その勇気を、俺は拒みたくない」
扉を開け、道を空ける。
「今夜だけは、王とメイドじゃなくていい」
リリスは胸へ手を置いた。
鼓動が、今までにないほど速い。
「……はい」
部屋へ入る。
扉が閉じた。
その夜、二人が交わした時間を、城の誰も知らない。
ただ翌朝、リリスはいつもより少し遅い時間に起きパウルの部屋を慌てて出た。
髪は乱れ、服は破れた箇所がいくつもある。
表情は完璧な専属メイドとは言えない。
けれど、頬には消えきらない赤みが残り、首筋には愛の形が残っていた。その瞳には、これまでよりも柔らかな光が宿り、リリスは初めて努力が報われた瞬間だった。
◇ナナの決意◇
早朝、孤児区画へ向かっていたナナは、研究塔から出てくるリリスを遠くに見つけた。
声はかけなかった。
リリスは、ナナに気づかなかった。
何があったのかは分からない。
だが、彼女の表情を見れば、何かが変わったことだけは伝わった。
胸が痛む。
目を逸らしたくなる。
それでもナナは、逃げなかった。
「私も、頑張ろう」
誰かを押しのけるためではない。
リリスの努力を否定するためでもない。
パウルに選んでもらうのを待つだけではなく、自分から彼の力になれるように。
ナナは、その日の昼から読み書きの勉強を始めた。
子供たちへ教えるための簡単な文字ではない。
地図。
各国の名前。
報告書の読み方。
パウルが毎日見ている資料を、いつか自分も理解できるように。
夜、パウルへスープを届ける。
扉を叩く。
「入って」
中では、パウルが新しい地図を広げていた。
「ナナ。ちょうどよかった」
「何か見つかったんですか?」
「まだ確定じゃない」
一枚の報告書を差し出す。
ナナは難しい文字を、ゆっくりと追った。
南東の大陸。
ヴァルノア周辺。
辺境の農村で、異常な光が観測された。
空を覆うほど巨大な召喚陣。
無数の翼を持つ兵士。
数千規模の天使が現れ、直後に光となって消えたという。
「天使……」
ナナが呟く。
パウルの銀色の瞳が、強く光っていた。
「兄さんは、剣と召喚の王だ」
アークディアで召喚術を扱える者は少なくない。
だが、一度に数千の霊的兵士を現世へ固定し、統率された軍勢として動かす力は、五十人の王の中でも限られていた。
まして天使だけで構成された旅団規模の召喚となれば、城内の記録に該当する名は一人しかない。
パウルは期待に飛びつかないよう、自分へ言い聞かせた。
似た伝承が誇張された可能性。
自然現象を天使と見間違えた可能性。
別の召喚術師が古い術式を発見した可能性。
どれも否定できない。
それでも、これまでの報告とは質が違っていた。
兄が得意とした力と、あまりにも正確に重なっている。
「でも、他の方が召喚した可能性も」
「ああ。だから確定じゃない」
それでも、パウルの手は僅かに震えていた。
初めて届いた、兄につながるかもしれない痕跡。
扉が開き、アマノテルシエ、ヤミノミコタマ、レイビスが慌てて入ってくる。
アマノテルシエの透明な瞳には、抑えきれない期待が浮かんでいる。
「現地へ向かう部隊を編成いたしました」
ヤミノミコタマは慎重だった。
「目撃証言には誇張も含まれております。ただし、五千を超える天使の同時召喚が事実なら、確認する価値は十分にございます」
「私が先行いたします」
レイビスが一礼する。
「現地の冒険者組合、村人、周辺の傭兵から情報を収集し、対象者の身元を特定します」
パウルは地図の一点へ指を置いた。
「ヴァルノア」
兄がいるかもしれない場所。
海を越え、いくつもの国を挟んだ遠い大陸。
「兄さん」
今度こそ、肖像画ではなく、どこかで生きている本人へ向けて呼ぶ。
「待ってろ」
浮遊都市アークディアは、静かに進路を変え始めた。
城の奥深くで、長い間眠っていた古い鐘が、一度だけ鳴った。
誰も、その鐘を鳴らした者を知らない。
ただ、天使も悪魔も、城に暮らすすべての者が、その音に顔を上げた。
五十の玉座のうち、二つ目が満たされる日が近い。
そう信じるには、十分な音だった。




