第30話 灰の村 ― ベン編・グロスタ街道事件 ―
付録 現時点のネームドキャラクター一覧
【兄弟・プレイヤー】
・ベン(現実名:タカフミ)
兄。ゲーム内個体名ベン。「剣と召喚の王」と呼ばれる。現在はシルヴィア、ミラと行動。
・パウル(現実名:ヨシマサ)
弟。ゲーム内個体名パウル。「知恵と錬金の王」。アークディアへ帰還済み。
【ゲーム序盤】
・アンナ
サケマル食堂でベンと戦った女勇者。
・クロモチ
アンデッド魔導士。アンナとパーティーを組んでいた。
・ヴォルク=カイザー
「幻影の王」。兄弟を未知の領域へ転送する契機となった存在。
【ベン陣営・ヴァルノア周辺】
・シルヴィア
時計係であり学者。時間を少し戻せる砂時計を持つ。ベンと行動。
・ミラ=クローヴァン
ヴァルノア上位ランク冒険者。ベンたちの監視役・指導役。
・ミリアン
冒険者ギルド・ヴァルノア支部の若い男性職員。
・マルタ
今回のラウゼン村事件で救出された年配女性。
・トト
ラウゼン村の少年。母親と再会した。
・ガルド・ベッカー
白牙傭兵団第四隊長。ラウゼン村を占拠した部隊の指揮官。
【パウル陣営・アークディア】
・ナナ
パウルに救われた女性。20歳。子供たちを支え、パウルのパートナーとなる。
・アマノテルシエ
天使型NPC。アークディアの団長・管理者の一人。ベンへ強い思いを抱く。
・ヤミノミコタマ
悪魔型NPC。特別作戦統括官。諜報・特殊作戦を指揮し、パウルへ思いを抱く。
・レイビス
アークディアの諜報員。パウルを発見し、城へ迎えた。
・リエラ
ヤミノミコタマ直属の工作員・監視者。教会とリンクスを調査。
・グリューガル
竜王。アークディアを守るため封印に入ったと伝えられる。
【ドワーリン・英雄候補】
・リンクス・エルダー
ドワーリンの青年。鍛冶師の家に生まれた英雄候補。
・カイル
リンクスの旧訓練所仲間。棒術を学ぶ。
・ゲルマンド
老練な試練官・訓練士。
・クルサ
英雄育成施設でのリンクスの同室者。斧を使うドワーフの少年。
・ミレイ
英雄育成施設の少女候補生。剣を扱う。
◇夜明け前の野営地◇
夜明け前の空は、まだ青とも黒とも呼べない色をしていた。
焚き火はすでに炎を失い、灰の奥に赤い光をわずかに残している。風が吹くたび、その赤が呼吸するように明滅した。
ベンは毛布の中で目を開けた。
眠っていた時間は長くない。目を閉じるたび、同じ光景が戻ってくる。
白く無機質な部屋。
透明なカプセル。
眠ったままのパウル。
意識データという見慣れない文字。
そして、黄金の仮面。
「……またかよ」
額に浮いた汗を手の甲で拭う。
夢だと思えば楽だった。
けれど、あの光景には夢にはない重さがあった。匂いも、熱も、耳の奥を引き裂く警報音も、すべてが自分の中のどこかに埋まっていたもののように感じられた。
「起きていたんですか?」
小さな声がして、ベンは顔を向けた。
隣の簡易天幕からシルヴィアが出てくる。髪はまだ結い直しておらず、金色の髪が肩に落ちていた。外套を胸元で合わせながら、心配そうにベンを見る。
「まあな。目が覚めただけだ」
「また、あの夢を?」
「……夢って言い切れたらいいんだけどな」
シルヴィアはそれ以上追及しなかった。
彼女は水筒を差し出し、焚き火の跡のそばに腰を下ろした。
「今日はグロスタの丘へ着く予定です」
「ああ。初仕事だな」
「初仕事なのに、ずいぶん危険な顔をしています」
「どんな顔だよ」
「何かに追われている人の顔です」
ベンは答えず、水を飲んだ。
冷たい水が喉を通り、胸のざわつきを少しだけ押し下げる。
しばらくすると、ミラ=クローヴァンが起きてきた。銀灰色の短髪は寝起きでも乱れておらず、長剣の柄に手を添えたまま周囲を見回している。
「二人とも早いね。新人はもっと寝坊するもんだと思ってた」
「眠れなかっただけだ」
「それはそれで問題だ。戦う前に眠れない奴は、いずれ判断を誤る」
ミラは灰をかき分け、残り火へ細い枝を足した。
小さな炎が戻り、三人の顔を下から照らす。
「今日の予定を確認する。ここから北東へ半日。グロスタの丘の手前に、ラウゼンという農村がある。そこで水と情報を補給してから丘へ入る」
「魔物の討伐でしたよね?」とシルヴィア。
「依頼書にはそうある。畑を荒らす中型魔獣が数体。ただし、ギルドへ届いた最後の報告は十日前だ。状況が変わっている可能性はある」
「村から連絡は?」
「三日前からない」
ミラは淡々と答えた。
ベンの指が水筒の表面で止まる。
「三日も?」
「街道沿いの小さな村だ。通信魔導具を毎日使うわけじゃない。珍しいことではない」
「じゃあ、何も起きていない可能性もあるのか」
「そう願いたいね」
ミラは地図を畳んだ。
「朝飯を済ませたら出る。今日からは、目に見える敵より、見えない違和感を信用しな」
◇北東交易路◇
陽が昇り始める頃、三人は野営地を離れた。
交易路は、なだらかな丘陵を縫うように続いていた。
右手には低い森。左手には収穫を終えた麦畑が広がる。季節は乾期へ入りかけており、草の色は緑よりも黄色に近い。
最初の数時間、異常らしいものはなかった。
古い荷車の轍。
野兎の足跡。
空を旋回する小型の飛竜。
遠くには、雲の切れ間から世界樹の輪郭が見える。
だが、正午を過ぎる頃から、ミラの歩幅が少しずつ小さくなった。
「……止まれ」
三人が足を止める。
ミラは道端にしゃがみ込み、乾いた土を指でなぞった。
「足跡ですか?」とシルヴィア。
「馬が十二。徒歩が二十人以上。往復している」
「商隊じゃないのか?」
「商隊なら荷車の跡がある。それに、この蹄鉄は軍用だ」
ミラは土に残った半月状の跡を示した。
「厚い。長距離行軍用の鉄だ。しかも同じ場所を何度も通っている」
「村の方か」
「ああ」
その時、風向きが変わった。
乾いた風の中に、鼻の奥へ貼りつくような臭いが混じる。
焦げた木。
古い油。
そして、鉄のような臭い。
ベンは、その臭いを知っているような気がした。
ゲームの中でも、血の臭いは再現されていた。
だが、どれだけ精巧でも、そこには決定的に欠けていたものがある。今、風に混ざっている臭いは、鼻から喉へまとわりつき、身体の奥が本能的に拒絶する。人が傷つき、死んだ場所にしか残らない、生々しい臭いだった。
「血だ」
ミラの声が低くなる。
三人は走った。
◇ラウゼン村◇
丘を越えた先に、村はあった。
木柵に囲まれた、小さな農村。
家は三十軒ほど。中央に井戸と集会所。北側に穀物倉。南側には簡素な礼拝堂がある。
本来なら、人の声と家畜の鳴き声が聞こえるはずだった。
だが、村から聞こえるのは、風に揺れる壊れた看板の音だけだった。
門は開いていた。
いや、門扉の片側が外され、地面に転がっていた。
その上に、黒い布が掲げられている。
白い狼の牙を描いた旗。
ミラの顔色が変わった。
「白牙傭兵団……」
「知っているのか?」
「傭兵団を名乗っているが、今は略奪で食っている連中だ。北方戦役で雇い主を失ってから、村や小さな商隊を襲っている」
「人数は?」
「多い時は百を超える。小さな部隊なら二十から四十」
ベンは門をくぐろうとした。
ミラが腕を掴む。
「待て」
「まだ生きている人がいるかもしれない」
「だから待て。正面から入れば、捕虜が先に殺される」
「……捕虜?」
ミラは村を見つめたまま答えた。
「男は抵抗する。殺される。女と子供は金になる。生かされている可能性が高い」
その言い方があまりに平坦で、ベンは一瞬、意味を理解できなかった。
「金になるって、どういう意味だ」
ミラはベンを見た。
その目には嫌悪があった。だが、その嫌悪は長く使われ、擦り切れているように見えた。
「奴隷として売る。売るまでの間は、連中の所有物として扱われる」
「所有物?」
「ベンさん……」
シルヴィアが声をかける。
だが、ベンはミラから目を離さなかった。
「それって……」
「言わせるな」
ミラの声に、初めて苛立ちが混じった。
「この世界じゃ、村が落ちれば起こる。珍しい話じゃない」
ベンは村の中へ視線を戻した。
道の端に農具が落ちている。
柄には乾いた血がついていた。
さらに奥。
広場の前に、数人の男が倒れている。
老人。
若者。
まだ少年と呼べるほどの者もいた。
武器らしい武器は持っていない。
鍬、斧、木の棒。
村を守るために立ち向かったのだろう。
ベンの拳が固くなる。
「……まだ、生きているだけ良かった」
シルヴィアが小さく言った。
ベンは振り返った。
「何が?」
シルヴィアは一瞬、言葉に詰まった。
「捕らえられた方々です。殺されて、門に並べられる村もあります。見せしめに、串刺しにされることも……。だから、命があるなら、まだ助けられる可能性が」
「それを、良かったって言うのか?」
「違います。そういう意味では……」
「生きていたら、何をされてもいいのかよ」
声が、自分でも驚くほど低かった。
シルヴィアは傷ついたように目を伏せる。
ミラが二人の間へ入った。
「ベン。シルヴィアを責めるな」
「でも、今――」
「この世界で生きるために、そう考えなきゃ立っていられなかっただけだ」
ベンは言葉を失った。
ミラは静かに続ける。
「私も嫌だ。誰だって嫌に決まってる。でも、全部をまともに受け止めていたら、頭がおかしくなる。昨日まで笑っていた村が、今日には消える。助けに入った時、全員死んでいることもある。だから『まだ生きている』を希望に変える。そうしなきゃ剣を抜けない」
理屈は分かった。
だが、納得はできなかった。
日本なら。
そんな言葉が頭に浮かぶ。
日本なら、許されない。
警察が動く。
裁判になる。
報道される。
人々が怒る。
たとえ完全には救えなくても、「仕方がない」「よくあること」で終わらせてはいけないと、多くの人間が知っている。
この世界では違う。
殺されるよりはまし。
生きているなら運がいい。
村が負ければ奪われる。
それが常識として、あまりに近くにある。
ベンはようやく理解した。
空に二つの太陽があるからではない。
魔法があるからでもない。
人ならざる種族が歩いているからでもない。
自分が立っている場所は、価値観そのものが違う。
「……本当に、異世界なんだな」
呟いた声は、風に消えた。
ミラは腰の地図を取り出した。
「感傷は後だ。助けるなら、方法を考える」
その場で地面へ膝をつき、ラウゼン周辺の地形を指で示す。
「これは街道。村の北に穀物倉、南に礼拝堂。西側には森と灌漑水路がある。東門の外は開けていて、隠れる場所がない」
ベンは枝を一本拾った。
ゲームなら、敵の位置も残り人数も地図の上に表示された。けれど、今は何もない。見えるものと、ミラから聞いた情報だけで組み立てるしかない。
「借りるぞ」
「何をする気だ?」
「今聞いた情報を、見やすくする」
土の上に四角を描き、門、井戸、集会所、礼拝堂、穀物倉を書き込む。
「……地図を作っているのですか?」とシルヴィア。
「正確な地図じゃない。動く順番を考えるための見取り図だ」
ベンは敵の居そうな場所へ小石を置いた。
「酒を飲んでいる連中、見張り、寝ている奴。全員が同じ場所にはいないはずだ。分けて相手にする」
「新人のくせに、まともなことを言うね」
「昔、似たような……」
ベンは言いかけて止まった。
「似たような何ですか?」
「……模擬戦だ。俺の故郷では、こういう状況を想定した訓練があった」
ミラは少し疑うような目を向けたが、今は追及しなかった。
「敵は二十以上。こっちは三人。捕虜を守りながら全員を相手にはできない」
「だったら、三人で全員を相手にしなきゃいい」
ベンは拳を開いた。
掌には爪の跡が残り、血が滲んでいる。
「全員助ける」
「できる保証はない」
「それでもだ」
ミラは数秒、ベンを見つめた。
「いい目になった。だが、怒りだけで動くな。救助は、勇気より段取りだ」
◇生存者◇
三人は村の西側へ回り込んだ。
畑と森の境に、灌漑用の細い水路がある。
身を低くして進むと、焼け残った納屋の裏で、かすかな物音がした。
ミラが剣を抜く。
ベンも大剣の柄へ手をかけた。
「誰だ」
返事はない。
シルヴィアが小さな光を掌に灯す。
崩れた板の下に、子供がいた。
十歳にも満たない男の子。
全身が泥にまみれ、口を手で塞いでいる。
「大丈夫。助けに来ました」
シルヴィアがゆっくり近づく。
少年は震えながら首を振った。
声を出せば殺されると思っているのだろう。
ベンは膝をつき、武器から手を離した。
「俺たちは、あいつらの仲間じゃない」
少年の目から涙が落ちた。
「……お母さんが」
「どこにいる?」
「礼拝堂……女の人、みんな……」
「男の人は?」
少年は答えられなかった。
視線が広場の方へ向く。
ベンはそれ以上聞かなかった。
「名前は?」
「トト」
「トト。ここで待てるか?」
少年は必死に首を振った。
「一人は嫌……」
シルヴィアが少年を抱き寄せる。
「私が安全な場所へ連れていきます」
ミラは周囲を確認し、小声で言う。
「この水路を西へ行けば、古い石小屋がある。狩人が使う避難所だ。シルヴィア、まずこの子を連れていけ」
「でも、お二人は」
「戻ってきてくれ。治療と結界が必要になる」
シルヴィアはベンを見る。
先ほどの言葉が二人の間に残っていた。
「……ベンさん」
「悪かった」
ベンが先に言った。
「シルヴィアを責めたいわけじゃなかった。ただ、俺には……まだ受け入れられない」
「受け入れなくていいと思います」
「え?」
「私たちは、慣れすぎてしまったのかもしれません」
シルヴィアはトトの背中を撫でながら続ける。
「『よくあること』は、『正しいこと』ではありません。私は、それを忘れかけていました」
ベンは首を横に振った。
「忘れていたんじゃない。生きるために、そう考えたんだろ」
「それでも、あなたが怒った理由は分かります」
「……全員、助けよう」
「はい」
シルヴィアの返事は強かった。
◇作戦◇
シルヴィアがトトを避難させて戻るまで、ベンとミラは村を偵察した。
白牙傭兵団は二十七人。
村の集会所に十人。
穀物倉に六人。
門と街道に見張りが四人。
残りは礼拝堂周辺。
捕らえられた村人は、礼拝堂に女性十四人、子供七人。
さらに穀物倉の地下に負傷した男が二人いるらしい。
「男も生きているのか」
「見張り同士の会話を聞いた。尋問に使っているらしい」
戻ってきたシルヴィアを交え、ミラは地面の見取り図へ情報を書き足した。
「正面から礼拝堂へ行けば、見張りが鐘を鳴らす。集会所と倉から全員出てくる」
「鐘を止める」
「鐘楼には二人。外から登れば見つかる」
「地下からは?」
「礼拝堂の裏に排水口がある。でも、人が通れる大きさじゃない」
ベンは見取り図の中央に描いた井戸を見た。
「この井戸の水は、どこへ逃げる?」
「雨季には水が溢れるから、地下の排水路を西へ流すと聞いたことがある」とミラ。
「礼拝堂の地下を通っている可能性は?」
「なくはない。古い村は、礼拝堂を避難場所にすることがある」
ベンは枝で井戸と礼拝堂を結んだ。
「じゃあ確認する価値がある」
三人は井戸へ近づいた。
村の中心にあるため、見張りの死角を縫う必要がある。
ミラが小石を投げ、反対側の柵へ音を立てる。
見張りが顔を向けた隙に、三人は井戸の影へ滑り込んだ。
井戸の内壁には、途中から横へ延びる石組みの穴があった。
「本当にあるとはね」
ミラが感心したように呟く。
「通れるか?」
「私とシルヴィアなら。あんたは肩が引っかかる」
「じゃあ俺は外で陽動する」
「死ぬ気?」
「死なない。見張りを減らして、集会所の連中を外へ引っ張る。ミラとシルヴィアは地下から礼拝堂へ入り、捕虜を逃がす」
「逃げ道は?」
「西の水路。シルヴィアが結界で隠す」
シルヴィアが見取り図を見つめる。
「負傷者を運ぶには時間が必要です」
「俺が稼ぐ」
ミラは厳しい顔をした。
「ベン。二十人以上を相手に時間を稼ぐ意味を分かっている?」
「分かっている」
「今のあんたは、以前のようには動けないんだろう?」
「ああ」
「怖くないのか?」
ベンは礼拝堂を見た。
窓は板で塞がれている。
その隙間から、誰かの顔が一瞬見えた。
助けを求める声はない。
声を出すことを諦めた顔だった。
「怖いよ」
ベンは正直に答えた。
「でも、あの人たちに『この世界では普通だから諦めろ』なんて言いたくない」
ミラは長く息を吐いた。
「……分かった。私が礼拝堂へ入る。シルヴィアは救助と治療。ベンは陽動。ただし、私が合図を出したら必ず退け。英雄気取りで死ぬな」
「英雄じゃねぇよ」
「じゃあ何だい」
「ただ、許せないだけだ」
◇第一の刃◇
日が傾き始める頃、作戦は始まった。
ベンは村の東門へ回った。
見張りは二人。
一人は柵にもたれ、酒を飲んでいる。
もう一人は椅子に座り、短弓を膝に置いていた。
ベンは道の真ん中を歩いた。
「おい」
見張りが顔を上げる。
「誰だ、てめぇ」
「冒険者だ」
「一人で?」
「ああ」
二人は顔を見合わせ、笑った。
「村に泊まりたいなら金を置いていけ。女連れなら、女もな」
ベンの拳が固まる。
だが、今は怒りに任せてはいけない。
目的は鐘を鳴らさせず、静かに見張りを落とすこと。
「白牙傭兵団ってのは、村人相手にしか威張れないのか?」
弓を持った男の笑顔が消えた。
「何だと?」
「弱い奴を縛って、酒を飲んで、強くなった気でいる。随分楽な仕事だな」
「殺せ」
弓の男が立ち上がる。
その瞬間、ベンは踏み込んだ。
身体は重い。
以前なら難なくできた動きが、今は一つ一つ、筋肉へ負担を返してくる。
それでも、戦い方まで失ったわけではない。
短弓が上がるより早く、ベンは椅子を蹴り飛ばした。
男の膝が崩れる。
同時に、酒瓶を持つ男の手首を掴み、門柱へ叩きつける。
骨が鳴った。
「ぐあっ!」
叫びを上げる前に、肘を喉へ入れる。
男は息を失い、その場へ崩れた。
弓の男が地面を転がりながら短剣を抜く。
「てめぇ!」
ベンは大剣を抜かなかった。
狭い場所で振れば音が出る。
短剣の軌道を半歩で外し、腕を抱え込む。
相手の力をそのまま使い、肩から地面へ落とした。
男の頭が石へ当たり、動かなくなる。
「……二人」
ベンは息を整える。
ゲームなら、これで終わりだった。敵は消えるか、倒れたことを示す表示が出た。
だが、目の前の男たちは呼吸をしている。
血が流れている。
人間だ。
その事実が、指先を冷たくした。
それでも、礼拝堂を見れば迷いは消えた。
ベンは門に掲げられた白牙の旗を引き裂いた。
そして、道の中央で火をつけた。
黒煙が上がる。
「敵襲だ!」
村の中から声が上がった。
◇礼拝堂の地下◇
同じ頃、ミラとシルヴィアは井戸の横穴へ入っていた。
水は膝まである。
石壁は苔で滑り、腐った水の臭いが鼻を刺す。
「本当に礼拝堂へ出るのでしょうか」
「出なかったら、ベンが一人で死ぬね」
「縁起でもないことを言わないでください」
「だから急ぐ」
二人は暗い水路を進んだ。
やがて頭上から男たちの声が聞こえる。
「今夜、三人は商人に渡す」
「残りは隊長が決める」
「ガキは南へ売ればいい」
「若いのは先に俺たちで――」
その先を、シルヴィアは聞けなかった。
足が止まる。
ミラが振り返る。
「聞くな」
「でも」
「今は助けることだけ考えろ」
水路の先に鉄格子がある。
錆びているが、鍵は外側。
ミラは小型クロスボウの整備具から細い金属棒を取り出し、鍵穴へ差し込んだ。
「冒険者って、鍵開けまで覚えるんですね」
「生き残るためなら何でも覚える」
小さな音とともに鍵が外れた。
階段を上がると、礼拝堂の物置へ出た。
扉の向こうに見張りがいる。
ミラは隙間から人数を確認し、シルヴィアへ指を三本立てる。
三人。
シルヴィアは掌に光を集めた。
扉が開く。
一人目が振り返る前に、ミラの手が口を塞ぐ。
短剣の柄がこめかみに当たり、男が崩れる。
二人目が剣へ手を伸ばす。
シルヴィアの光弾が手首へ当たり、剣が落ちた。
三人目が叫ぼうとする。
ミラのクロスボウから放たれた矢が、男の外套を壁へ縫い止めた。
「声を出したら、次は喉だ」
男は青ざめ、動きを止めた。
礼拝堂の奥。
縄で区切られた場所に、村人たちがいた。
女性たちは壁際に固まり、子供を抱いている。
顔には殴られた痕。
服は汚れ、破れている。
手首には縄の跡。
視線を上げられない者もいた。
誰も泣いていなかった。
泣く力すら残っていない。
「助けに来ました」
シルヴィアが近づく。
反応はなかった。
「ヴァルノアの冒険者です。ここから逃げます」
年配の女性が、かすれた声で言う。
「……罠でしょう」
「違います」
「前にも、逃がすと言われた子が……戻ってこなかった」
シルヴィアは言葉を失った。
ミラが膝をつく。
「信じろとは言わない。だが、ここに残れば連中に連れていかれる。西の水路に仲間が待っている。自分で選んでくれ」
女性はミラの目を見た。
やがて、子供を抱いた若い母親が立ち上がる。
「行きます」
一人が動くと、他の者も立ち上がった。
だが、足元がおぼつかない。
傷を負っている者もいる。
シルヴィアは治癒魔法を使った。
淡い光が傷へ触れる。
すべてを治せるわけではない。
それでも、歩ける程度には痛みを抑えられる。
「一列で。声を出さずに」
ミラが先頭に立つ。
その時、村の外から爆発音が響いた。
ベンの陽動が始まった。
◇白牙傭兵団◇
集会所から十数人の男が飛び出してきた。
ベンは門の前から広場へ下がる。
敵を礼拝堂から遠ざけるためだ。
「一人だ!」
「囲め!」
「生け捕りにしろ、誰の差し金か吐かせる!」
ベンは大剣を抜いた。
重い。
以前なら片手で振り回せた剣が、今は両手で持っても腕に食い込む。
だが、重さは悪いことばかりではない。
一撃を受ければ、相手の武器ごと押し返せる。
最初の男が槍を突き出す。
ベンは大剣の腹で槍先を逸らし、そのまま肩から体当たりした。
男が吹き飛び、後ろの二人を巻き込む。
右から斧。
避けきれない。
大剣を立てて受ける。
金属音が村中へ響く。
腕が痺れた。
「くそっ……この身体、扱いづらすぎる!」
斧の男が笑う。
「何だ、見かけ倒しか!」
「そうかもな」
ベンは剣を押し返すふりをして、突然力を抜いた。
相手の体が前へ流れる。
膝を腹へ。
柄頭を顎へ。
男が倒れる。
背後から短剣が迫る。
ベンは振り返れない。
その瞬間、頭の中に奇妙な感覚が走った。
視界の外にいるはずの相手の位置が、線のように分かる。
右後方。
二歩。
低い姿勢。
身体が勝手に動いた。
大剣を地面へ突き立て、柄を軸に身体を回す。
蹴りが男の胸へ入り、短剣が空を切る。
「……今のは」
ゲームで何度も使った動き。
だが、今の身体ではできないはずだった。
考える暇はない。
さらに五人。
ベンは広場の荷車を蹴り、横倒しにした。
道が狭まり、敵が一度に入れる人数が減る。
「まとめて来るな! 左右へ回れ!」
誰かが指示を出す。
隊長格がいる。
白い毛皮を肩にかけた大男。
片手に幅広の曲刀。
首には村長のものらしい銀の鎖を下げている。
「お前が隊長か」
ベンが問う。
大男は笑った。
「白牙傭兵団第四隊長、ガルド・ベッカーだ。名を聞いて震えたか?」
「いや。覚えた」
「墓に持っていくには十分な名だ」
ガルドが手を上げる。
屋根の上から弓兵が姿を現した。
三人。
「射て」
矢が放たれる。
ベンは大剣で一矢を弾く。
二矢目が肩をかすめる。
三矢目は避けられない。
だが、空中で光が弾けた。
シルヴィアの結界。
「ベンさん!」
礼拝堂の方から声がする。
ミラとシルヴィアが戻ってきた。
村人たちはすでに水路へ入ったのだろう。
「救助は?」
「全員、水路へ送りました! 負傷者もいますが、動けます!」
「なら、後はこいつらだけだな」
ミラが長剣を抜く。
「新人の初仕事としては、ずいぶん派手になったね」
ガルドは周囲を見渡し、舌打ちした。
「礼拝堂を確認しろ!」
部下が走ろうとする。
ミラの矢が足元へ刺さった。
「行かせないよ」
戦いは三対二十へ変わった。
◇増援◇
ミラは速かった。
長剣で敵の武器を弾き、小型クロスボウで足を止める。
倒すことより、動きを奪う戦い方。
シルヴィアは後方から光弾と結界を使い、三人の死角を埋める。
ベンは中央に立った。
敵の視線が自分へ集まる。
重い大剣。
黒い外套。
最も目立つ。
それでよかった。
「こいつを先に殺せ!」
四人が同時に来る。
ベンは大剣を横に構えた。
正面の槍を押し下げる。
左の剣を鍔で受ける。
右から来た棍棒を肩で受け、痛みに歯を食いしばる。
背後。
また、あの感覚。
敵の動きが、ほんの一瞬先まで線のように見える。
ベンはしゃがんだ。
背後から振られた斧が、正面の男の槍を叩き折る。
「何っ――」
大剣を下から振り上げる。
男たちが地面へ転がる。
その時だった。
村の北側から、角笛が響いた。
低く、長い音。
ガルドの顔に笑みが戻る。
「遅かったな」
丘の向こうから、馬蹄の音が迫ってくる。
一騎、二騎ではない。
数十。
白牙の旗が、丘の上へ次々と現れる。
「別働隊……」
ミラの顔から余裕が消えた。
騎馬だけで三十。
その後ろに徒歩の兵が続いている。
村へ戻ってきた本隊だった。
ミラは一瞬で状況を計算する。
西の水路には、まだ逃げ切れていない村人がいる。
ここで退けば追いつかれる。
ここに残れば包囲される。
「シルヴィア! 西へ走って、村人を石小屋まで導け!」
「でも、お二人が――」
「行け!」
シルヴィアが歯を食いしばり、走り出す。
ミラは腰の通信札を取り出した。
しかし、表面の魔石はひび割れていた。
先ほどの矢を防いだ衝撃で壊れたらしい。
「くそっ……!」
丘を下りてくる騎兵の列が近づく。
ミラがベンを見る。
「ベン! 増援を呼べ!」
「増援?」
「街道の南にギルドの巡回隊がいる可能性がある! 何でもいい、声を届かせろ! 狼煙でも、伝令でも――早く!」
ベンは周囲を見た。
狼煙。
伝令。
通信札。
どれもない。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが反応した。
呼べる。
理由もなく、そう思った。
いや。
知っている。
どうすればいいのか、身体のどこかが知っている。
「……増援を」
ベンは右手を前へ出した。
ミラが怒鳴る。
「何をしている! 早く――」
空気が震えた。
風が止まる。
戦っていた白牙の兵たちも、丘を下っていた騎兵たちも、同時に空を見上げた。
雲の上で、白い光が円を描いている。
一つではない。
幾重もの巨大な円環が、空を覆うように重なっていく。
ミラの声が消えた。
「……何だ、あれは」
シルヴィアも足を止め、振り返る。
世界中の光が一点へ集まるように、マナの流れが空へ吸い上げられていく。
地面の草が逆立ち、井戸の水面が宙へ浮かぶ。
ベンの耳元で、聞いたことのない声が響いた。
≪召喚権限を確認≫
≪要求内容:増援≫
≪規模指定:未設定≫
≪召喚王標準編成を適用します≫
「ちょっと待て」
ベンの顔が引きつった。
「標準って、何だよ」
次の瞬間。
空が割れた。
無数の光柱が、丘陵一帯へ降り注ぐ。
一人。
十人。
百人。
光の中で、純白の甲冑が形を得る。
背には半透明の翼。
手には剣、槍、弓、盾。
騎兵、歩兵、魔導兵、治療兵、結界兵。
次々と具現化する天使たちは、空中で隊列を組みながら地上へ降りてくる。
千。
二千。
それでも終わらない。
空が白い翼で埋め尽くされる。
白牙傭兵団の一人が、武器を落とした。
「……神の軍だ」
別の男が腰を抜かす。
「逃げろ……」
だが、逃げ道などなかった。
天使たちは村を中心に、巨大な円を描くように着陣していく。
最後に、六枚の光翼を持つ騎士が、ベンの前へ降り立った。
長い白銀の剣を地面へ突き立て、片膝をつく。
その動きに合わせ、五千を超える天使騎士が一斉に跪いた。
大地が揺れた。
「天使騎士団第一旅団」
六枚翼の騎士が、澄んだ声で告げる。
「総員、五千百二十名。召喚命令により顕現いたしました」
静寂。
ベンは口を開けたまま、言葉を失っていた。
ミラがゆっくりと彼を見る。
「……私は増援を呼べと言った」
「ああ」
「軍隊を呼べとは言っていない」
「俺も、こんなに来るとは思ってない」
六枚翼の騎士が顔を上げる。
「召喚の王よ。ご命令を」
「召喚の……王?」
ベンは自分を指さした。
「俺?」
騎士は微動だにしない。
「はい」
ベンは空を見上げた。
光の翼が、地平線近くまで続いている。
「……増援って、一人か二人くらいじゃないのかよ」
ミラが乾いた声で答えた。
「普通は、せいぜい十人だ」
◇天使騎士団第一旅団◇
白牙傭兵団の本隊は、戦う前から崩れ始めていた。
馬が光に怯え、騎兵を振り落とす。
徒歩の兵は武器を捨て、丘を戻ろうとする。
だが、天使騎士団は追撃しなかった。
六枚翼の騎士は、ただベンの命令を待っている。
五千百二十の視線が、たった一人へ向けられていた。
ベンは息を呑んだ。
自分の言葉一つで、これだけの力が動く。
その事実は、傭兵たちよりも恐ろしかった。
「……殺すな」
ベンはゆっくりと言った。
「全員、生け捕りにしてくれ。村人の安全を最優先。怪我人がいたら、敵味方関係なく治療してほしい」
六枚翼の騎士は頭を垂れる。
「王命、承りました」
剣を掲げる。
「第一旅団。制圧陣形」
五千百二十の天使が同時に立ち上がった。
叫び声はない。
雄叫びもない。
光の翼が一度だけ大きく広がる。
その次の瞬間には、戦いは終わっていた。
槍兵が騎兵の進路を封じる。
盾兵が村人の逃走路を守る。
弓兵が武器だけを正確に射抜く。
魔導兵が地面へ光の鎖を走らせ、白牙の兵を拘束する。
逃げた者の前には、空から天使が降り立つ。
抵抗した者は武器を折られ、地面へ押さえつけられる。
誰一人、命を奪われなかった。
数分後。
白牙傭兵団の兵は全員、広場に並べられていた。
ガルドも光の鎖で両腕を拘束されている。
彼は、ベンを睨んだ。
「何者だ、てめぇ……」
ベンは答えられなかった。
自分が一番知りたかった。
◇怒りの先◇
ガルドは地面へ膝をついたまま、血の混じった唾を吐いた。
「こんな力があるなら、最初から使えただろうが」
「俺も知らなかった」
「ふざけるな」
「ふざけてない」
ベンは礼拝堂を見る。
板で塞がれた窓。
床に落ちた縄。
村人たちが閉じ込められていた場所。
「……お前らは、何であんなことができる」
ガルドは一瞬きょとんとし、やがて笑った。
「負けた村の女をどうしようが、勝った側の自由だろうが」
ベンの拳が震えた。
天使たちが、命令を待つように静かに見守っている。
ここで「殺せ」と言えば、恐らく何のためらいもなく実行される。
だが、それでは違う。
「自由って言葉を、汚すな」
ベンはガルドの前へ立った。
「お前には、自分が何をしたか言わせる。生き残った人たちの前で。裁かれるまで逃がさない」
「甘いな」
「そうかもな」
ベンは静かに答えた。
「でも、俺はお前らみたいにはならない」
◇光へ還る者たち◇
西の石小屋へ向かった天使の治療隊が、村人たちを伴って戻ってきた。
女性や子供たちは、空を覆う天使の姿を見上げ、立ち尽くした。
トトが母親の手を握りながら、小さく呟く。
「天使様……」
母親は答えられず、ただ泣いた。
六枚翼の騎士がベンの前へ戻る。
「敵勢力の制圧、住民の保護、負傷者の治療を完了しました」
「ありがとう。本当に助かった」
ベンが頭を下げると、騎士の表情がわずかに和らいだ。
「王が我らへ頭を垂れる必要はございません」
「王って呼ぶな。俺は、そんな大層なものじゃない」
「召喚に応じた我らにとって、あなたは王です」
ベンは返す言葉を失った。
「我らは、この世界に留まる存在ではございません。王のマナと世界の記憶により、一時の形を得たもの」
「……生きているんじゃないのか?」
「今、この瞬間は」
騎士は自分の掌を見る。
指先から、細かな光の粒がこぼれ始めていた。
「命令が果たされれば、我らはマナへ還ります」
「死ぬのか?」
「いいえ。眠りへ戻るだけです。再び王に呼ばれる、その時まで」
六枚翼の騎士は剣を掲げた。
「全軍、帰還」
五千百二十の天使が、一斉に翼を広げる。
甲冑が光へほどける。
身体が無数の粒子となり、空へ昇っていく。
それは雪のようであり、星のようでもあった。
村人たちは声もなく見上げている。
最後に残った六枚翼の騎士が、ベンへ一礼した。
「また、お呼びください。召喚の王」
「次は、もう少し少なく来てくれ」
騎士は初めて、微かに笑った。
「規模をご指定ください」
そう言い残し、光へ消えた。
空に広がっていた巨大な魔法陣も薄れ、最後の一片まで消える。
元の夕空が戻った。
ミラが長い沈黙の後、ベンの肩を叩いた。
「次からは、増援の人数を先に言う」
「そうしてくれ」
「いや、あんたが確認しろ」
「俺のせいかよ」
「どう考えても、あんたのせいだ」
シルヴィアは二人のやり取りを聞きながらも、まだ空を見上げていた。
「ベンさん」
「何だ?」
「あなた、本当に何者なんですか?」
ベンも空を見た。
「俺が一番知りたい」
◇救出◇
西の石小屋には、村人たちが集められた。
シルヴィアと、天使たちが残していった治療の光により、重傷者の容体は安定している。
礼拝堂から救い出された人々は、毛布を渡されても、しばらく動けなかった。
ベンは小屋の外に立っていた。
中へ入る資格がないように思えた。
自分は助けに来ただけだ。
彼女たちの痛みを分かったつもりになってはいけない。
やがて、年配の女性が外へ出てきた。
礼拝堂で最初にミラへ話した人だ。
名前はマルタといった。
「あなたが、外で戦っていた方ですね」
「……はい」
「傭兵たちは?」
「全員、捕らえました。逃げた者はいません」
「殺したのですか」
「いいえ」
マルタの顔に複雑な感情が浮かぶ。
「なぜ」
「俺が決めていいことじゃないからです」
「この国の裁きでは、あの者たちがすべて死ぬとは限りません」
「分かっています」
「金を積み、また傭兵として雇われるかもしれない」
ベンは拳を握った。
「それでも、あなたたちが望むなら、証言できる場所まで連れていきます。何をされたか話したくない人には、無理に話させません。でも、あいつらが『何もなかった』ことにするのだけは、絶対にさせない」
マルタは長くベンを見つめた。
「あなたは、この世界の人ではないのでしょう」
ベンの心臓が跳ねる。
「どうして」
「この世界の男は、私たちに『生きていて良かった』と言います」
マルタは乾いた笑みを浮かべた。
「悪気がないことも分かっています。死ぬよりは、生きている方がいい。そう思わなければならないほど、この世界は何度も同じことを繰り返してきたから」
風が二人の間を通り抜ける。
「でも、あなたは『生きているなら、それでいい』とは言わなかった」
「……それは」
「ありがとう」
マルタは頭を下げた。
ベンは慌てる。
「やめてください。俺は間に合わなかった。村の人たちも……」
「間に合いました」
マルタは顔を上げた。
「少なくとも、これ以上を止めてくれた」
ベンは答えられなかった。
小屋の中からトトが走ってくる。
「お母さん!」
少年は若い女性へ抱きついた。
女性は声を上げて泣いた。
それまで誰も泣けなかった。
安全だと分かった瞬間、堰が切れたように泣き声が広がった。
ベンはその声を聞きながら、ようやく自分たちが救えたものの重さを感じた。
◇村へ戻る◇
夜が明けるまで、三人は村人たちと石小屋で過ごした。
ミラは傭兵たちを縛り、武器を一か所へ集めた。
シルヴィアは休まず治療を続けた。
ベンは水を運び、火を焚き、必要な時だけ手を貸した。
誰かの身体に触れる前には必ず許可を取った。
毛布を渡す時も、相手が受け取れる距離へ静かに置いた。
何が正解なのか分からない。
それでも、相手を人として扱うことだけは忘れたくなかった。
朝。
村人たちはラウゼンへ戻った。
広場に残された遺体を、一人ずつ布で包む。
家族が名を呼ぶ。
名前が分からない者はいなかった。
全員、この村で生きていた人だった。
ベンも穴を掘った。
大剣より重く感じる鍬を、何度も土へ入れた。
葬りが終わった頃、ヴァルノアからギルドの救援隊が到着した。
ミラが、天使の一人に託して南の巡回隊へ伝令を送らせていたのだ。
ギルド職員のミリアンも同行していた。
「これは……」
村の惨状を見て、彼の顔から血の気が引く。
ミラは簡潔に報告した。
「依頼内容と実態が違った。魔物討伐ではない。白牙傭兵団による村落占拠。敵七十二名を拘束。村人二十三名を救出。死亡者十一名。重傷者四名」
「七十二名……三人で?」
「説明すると長い」
ミラはベンを見る。
ミリアンも視線を追い、困惑した。
「何か、あったのですか」
「空から五千人ほど来た」
「……はい?」
「私も、まだ整理できていない」
ミリアンは聞き返そうとしたが、ミラが遮る。
「反省は後でいい。まず医療班と護送を」
「は、はい」
職員たちが動き始める。
ミリアンはベンとシルヴィアへ向き直った。
「お二人は初依頼だったはずです。にもかかわらず、これほどの事態に巻き込んでしまい……」
「依頼を受けなかったら、この村はどうなっていた?」
ベンが問う。
ミリアンは答えられない。
「責めたいんじゃない。次から、連絡が途絶えた村を『珍しくない』で済ませないでくれ」
「……必ず、制度を見直します」
ベンは頷いた。
その時、システム音が耳元で響いた。
≪霊的召喚権限の再起動を確認≫
≪召喚対象:天使騎士団第一旅団≫
≪顕現総数:5,120≫
≪倫理判断パターンを記録しました≫
≪対象個体の生命判定を継続します≫
「……何だ、今の」
ベンは周囲を見る。
誰も反応していない。
シルヴィアが心配そうに近づく。
「どうしました?」
「いや……また、変な音が」
視界の隅に、一瞬だけ黒い文字列が浮かぶ。
SUBJECT: BEN
MEMORY RESTORATION RATE: 7.4%
SUMMONING AUTHORITY: PARTIAL RESTORATION
次の瞬間、表示は消えた。
ベンは息を止めた。
自分の名前。
記憶の復元。
召喚権限。
分からないことばかりだった。
だが今は、村人たちの声が聞こえる。
生き残った者が、亡くなった者の名を呼んでいる。
子供が母親の手を握っている。
シルヴィアが傷に包帯を巻いている。
ミラが救援隊へ指示を出している。
これは遊びではない。
数字でもない。
依頼の達成でもない。
報酬のためでもない。
ここには人がいる。
ベンは掌を開いた。
爪でついた傷は、まだ赤い。
「……こんな世界なら」
小さく呟く。
「変えればいい」
ミラが聞き取った。
「何か言った?」
「いや」
ベンは村の門に残っていた白牙の旗を見た。
それを引きずり下ろし、火へ投げ込む。
布は黒く縮れ、白い牙の紋章が炎の中で崩れていった。
◇帰路◇
その日の夕方、三人はヴァルノアへ戻る馬車に乗った。
救出した村人の一部も同行している。
治療が必要な者。
証言を希望した者。
親族を頼る者。
荷台の端で、ベンは黙って外を見ていた。
シルヴィアが隣へ座る。
「怒っていますか?」
「誰に?」
「私に」
「怒っていない」
「でも、私は『生きていて良かった』と言いました」
ベンはしばらく考えた。
「俺も間違っていた。あの言葉だけで、シルヴィアが何も感じていないみたいに決めつけた」
「私は、感じないようにしていたのかもしれません」
「それも悪いことじゃない」
「そうでしょうか」
「全部痛がっていたら、生きていけない時もあるだろ」
シルヴィアは遠くを見る。
「でも、痛いことを痛いと言う人がいなくなれば、この世界はずっと変わらないのでしょうね」
「じゃあ、俺が言う」
シルヴィアが顔を向ける。
「何度でも。おかしいことは、おかしいって」
「敵が増えますよ」
ゲームでもそうだった。目立つ行動を取れば、より強い敵が現れる。けれど、その記憶は口にしなかった。シルヴィアに説明したところで、余計に困らせるだけだ。
「だろうな。それでも、言わなきゃいけない時は言う」
ベンは一度、言葉を選んだ。
「……ここでは負けたら終わりだ。今日、やっと分かった」
道の向こうに、二つの太陽が沈みかけている。
赤と白の光が重なり、草原を不思議な色に染めていた。
「ここは、本当に異世界だ」
シルヴィアは何も言わず、彼の横に座り続けた。
少し離れた場所で、ミラが目を閉じたまま口を開く。
「今日の判断、全部が正しかったと思うなよ」
「分かっている」
「捕虜を生かしたことで、面倒は増える。白牙の本隊が報復に来る可能性もある。救出した人たちも、明日から急に元通りにはならない」
「分かっている」
「それでもやる?」
「やる」
ミラは目を開け、薄く笑った。
「なら、次からはもっと強くなれ。正しさを貫くには、正しさだけじゃ足りない」
「五千人を呼べるなら、十分じゃないのか?」
ベンが冗談めかして言う。
ミラは真顔で返した。
「呼び方も帰し方も分からない力を、強さとは呼ばない」
「……ごもっともだ」
シルヴィアが小さく笑った。
馬車は夕暮れの道を進んでいく。
背後では、灰になった村が再び小さな灯をともしていた。
完全に元へ戻ることはない。
失われた命も、奪われた時間も戻らない。
それでも、生き残った者たちは火を起こした。
もう一度、朝を迎えるために。
そしてベンの中にも、小さな火が残った。
この世界の常識に慣れないこと。
誰かの痛みを、仕方のないものとして片付けないこと。
守れなかったものを数えるだけでなく、次に守れるよう強くなること。
それが、この世界で初めて自分自身に課した、本当の使命だった。
遠い世界樹の深部。
誰にも見えない観測領域で、一つの記録が静かに更新された。
≪対象個体:BEN≫
≪自律的倫理判断を確認≫
≪霊的召喚権限の部分復元を確認≫
≪第二生命体への非排除命令を維持≫
≪生命保存対象として観測を継続≫
記録は誰にも読まれないまま、深い光の中へ保存された。
ベンはまだ知らない。
自分が怒り、五千を超える天使を呼び出したその瞬間を、
星そのものが見ていたことを。
Leben




