第五十四話 玲菜の隣
進路希望調査票。
高校生を困らせる紙ランキングがあるなら、間違いなくトップ3に入る代物だ。
将来の夢、第一希望、第二希望。
そんな簡単に人生を決められるなら、誰も苦労なんてしない。
担任は『現実を見ろ』と口うるさいが、今の俺に見えているのは、数学の公式よりも鮮明な、血に染まった夕暮れの廃ビルと、迫り来る三メートルの化け物だけだ。
俺が書くべき『将来の希望』なんて、一つしかない。
――ただ、昨日と同じ日常が、明日も続くこと。
だが、そんな当たり前の願いさえ、今の俺には贅沢すぎるのかもしれない。
夕暮れ空の橙が、窓の隙間から入り込み、まるで燃え盛る炉の中みたいに、廃ビル内を輝かせてみせる。
激しい怒号が辺りに木霊する。二つの暴力がぶつかり合い、世界を揺らす。
レガリアから溢れる力は本物だった。
ソードを振るうたびに衝撃波が走り、足を踏みしめるたびに地面がひび割れる。
吸収した無数の力で膨れ上がった伊勢島の巨体は、今や三メートルを超えていた。
それほどの化け物ですら、俺の一撃のたびによろめく。
――勝てる。そう思うには、十分すぎる手応えだった。
「ぐ……!」
伊勢島の低い唸り声が響く。俺は追い縋った。連続で打ち込む。
剣閃が橙の空を切り裂いて、奴の右腕に、左脇腹に、首筋に叩き込まれる。
「――っ、雪城家のレガリアの力は伊達じゃないってことね」
口から血を滲ませながら、伊勢島は笑った。
その笑い声が、俺の確信を揺らし始めたのは、それからすぐのことだった。
二分が経ち、五分が経ち。俺が感じていた優位がじわじわと消えていく。
サードの力を解き放っても、速攻で終わらせられなかったのが痛い。
伊勢島が放つ魔力の密度が、変わっている。
最初は粗削りだった。ルーミアとレンマースから奪ったはずの力を、明らかにうまく扱えていなかった。
しかし、今、伊勢島の動きには迷いがなくなっている。
「……嘘だろ」
俺は後退しながら、ぼそりと呟いた。
精密な結界の編み方、魔力の流路の組み方。さっきまでとはまるで別人だ。伊勢島の変化がおかしすぎる。伊勢島が愉しげな笑みで手を伸ばす。
「驚くのはまだ早いよ。まだまだ攻撃手段は増えていくんだからね」
次の瞬間には俺の体全体に重圧が加わった。大気が圧縮され、重力そのものが俺を地面に押しつけようとしてくる。こんな力はさっきまで使っていなかった。
つまり、ルーミア、もしくはレンマース。あるいは両方の力を自由に操れるようになっているということだろう。
「もうルーミアたちの術式を自分のものにしたのか……奪うことに関してだけは、こいつには底がないな」
吸収を食事のようなものだと、どこか軽く考えていたが、それは大きな間違いだ。
こいつは奪った力を腐らせない。取り込んで、消化して、自分のものとして行使できる。それがとてつもない早さだから恐ろしいのだ。
「春馬! 距離を取りなさい!」
後方から的確に援護してくれていた玲菜の声が飛ぶ。
俺は重力変化から逃れるように、思い切り後ろに跳躍する。
着地と同時に、空気が潰れるような轟音が響いた。
コンクリートの床が悲鳴を上げ、さっきまで俺がいた場所が一気に沈み込む。
肩で息をしながら、伊勢島に視線を向ける。
伊勢島は笑っていた。血まみれの口元を歪めて、余裕を取り戻した顔で。
「もうおしまい? あなたみたいな素人じゃ、この程度の力しか出せないの? それとも、レガリア自体が噂ほど出ないのかな?」
さらに時間が経つにつれ、差は開いていく一方だった。
俺が一発入れるたびに、伊勢島は二発返してくる。奴の力の吸収速度が、俺の慣れの速度を完全に上回っていた。時間をかければかけるほど、伊勢島は強くなる。
これはタイムリミットだ。早く決めなければ、俺に勝ち目はない。
伊勢島は余裕の笑みを浮かべつつ、遠目にこちらを眺め、奪った力を馴染ませるように、全身を落ち着かせている。
弱気になっているのに気づかれたのか、玲菜がスッと近づいてきた。
「どうして、全力で戦わないの?」
「は? いや、既に全力だけど……?」
俺の答えを聞いて、玲菜は眉をひそめる。
「……え? ならなんでソードしか、神器を使ってないの?」
玲菜が何を言っているのかわからなかった。
まるで俺がいくつも神器を持っているかのような言い方だ。
「ソードしか持ってないんだからしょうがないだろ」
「なに言ってるのよ。アンタはもう雪城家当主の印であるレガリアを持っているのよ? 神器を言うこと聞かせるくらいできて当然じゃない」
「なっ! そ、そうなのか!?」
「そうよ。それがレガリアの力よ。一度織辺さんに神器を奪われたことあるアンタならわかるでしょ」
言われて俺はハッとする。そうだった以前俺は四つの神器を持っていた。それを織辺によってあっさりと奪われたんだ。
つまり――
「俺が呼べば、全ての神器がここに集まるってことか!?」
「わかったならサッサと呼びなさいよ。伊勢島が余裕ぶっている今のうちにね。念じればここに全部集まるわ」
俺は天に向かって、手を掲げた。そして、強く念じる。
神器よ、全て集まれと――レガリアが脈動した。
噴き出した金色の魔力は、床を舐めるようにビル全体を這い回り、コンクリートの亀裂を焼き切る。鈍い音を立てて剥がれ落ちる瓦礫すら、その光の奔流に呑み込まれ、黄金の粒子へと分解されていく。
次の瞬間、一つ、二つ、三つと織辺が隠し持っていた神器が集まってくる。
遠く離れた場所で、詩子や戸田が驚いた声を上げたかもしれない。
そんなことを考える暇もなかった。
風のように速く、俺の左手に収まったバレッタ。詩子が持っていた神器だ。
続けて五つ目、戸田が所持していたネックレスが俺に寄り添うように舞う。
神器が俺のそばにやってくる度に、力が積み上がっていく。
夕暮れの空が震える。大気が揺れる。
俺の体は、今まで感じたことのない密度の魔力に満たされていた。
――あと一つ。
俺は伊勢島に視線を向ける。
伊勢島の薬指で、鈍い光を放つリングが、小刻みに震えていた。
俺の呼び声に応えようとしている。だが、どうも動きがおかしい。
リングの縁から溢れ出す黒い粘液が、伊勢島の肉から離すまいと爪のように食い込んでいた。
それまで余裕を崩さなかった伊勢島の表情に、初めて亀裂が走る。
まるで自分の意志とは裏腹に、肉が勝手にリングを貪り喰おうとしているかのようだ。何度呼びかけても、リングが俺の元に来ることはなかった。
「あれは一体どういう状況なんだ?」
「……完全に一体化しているように見えるわね。取り込まれて動けないんじゃない?」
伊勢島の指を凝視して、玲菜がつぶやいた。
俺は自分の中で高まる力を感じながら、大きく息を吐く。
「なら、指を切り取って奪い返せばいいだけだな」
「簡単に言っちゃって……さっきまで情けない顔してたわよ?」
「悪かったな! 勝てないかもと思ってしまったんだ。でも、全部の神器は揃ってないけど、これだけの力があれば絶対にいけるはずだ!」
「そう。期待しているわよ。伊勢島に雪城の力を見せてあげて!」
玲菜は俺を鼓舞するようにニコッと微笑み、小さくガッツポーズを見せる。
俺はソードを握り締め、そのまま伊勢島に向かって跳んだ。
六つの神器によって放出される魔力は、ただ、凄いという言葉しか出てこない。
何もかもが次元が違う。
刹那、俺はもう伊勢島の前で、魔力を込めたソードを振り下ろしていた。
伊勢島が初めて表情を変える。余裕を装った笑みが消え、眉間に深い皺が刻まれた。迷うことなく、伊勢島は後退を選んだ。
「――っ。へ、へぇ。想像を遥かに超えた力だね。正直、びびったよ」
軽口ではあるが、先ほどまでの余裕はまったく見られない。
他にどんな技を俺が隠し持っているのか、品定めしているようだ。
俺は伊勢島のリングに向かってソードの先端を突き出す。
「そのリングを返してもらうぞ。それは雪城家の――いや、玲菜のものだ!」
「ふん。できるものなら、やってみるといいんじゃない?」
焦りを見せながらも、伊勢島の言葉には弱さを感じさせない。伊勢島は俺たちを何度も騙してきた策士だ。決して油断してはいけない。
リングを狙うと宣言したのに、弱点を攻撃するのはどうだろうか。
――って、弱点ってどこだよ。既に人間の形をしていない伊勢島だけに心臓がそのままの位置にあるとも思えない。
うだうだ考えるのはやめだ。絶望を希望に変える。
俺は息を吐き、そのまま踏み込んだ。
六つの力が俺の全身で共鳴し、一つの奔流となってソードへと収束する。
「――神器の力をみせてやるよ!」
俺の一振りは、もはや斬撃などという生易しいものではなかった。
金色の光が空間を切り裂く。回避しようとした伊勢島の肩を、そして腕を、神威を纏った刃が容赦なく薙ぎ払う。
防壁など紙屑同然だ。伊勢島の肉塊が千切れ飛び、荒れ狂う魔力の濁流に呑まれて消えていく。
「あ、ぐ……ぁ……っ!?」
悲鳴すら、その濁流にかき消される。
俺は追撃の手を緩めない。万象を焼き、空間を穿ち、すべてを塵へと還す。
神器それぞれの固有能力が見事に調和し、容赦なく伊勢島を蹂躙していく。
伊勢島は防ぐことすらできていなかった。ただ、必死に右腕を庇い、己の肉塊を盾にするしかない。さっきまで圧倒していたはずの奴が、いまやただの防衛に追われる肉の塊へと貶められている。
――隙だ。
俺はその一瞬を見逃さない。右腕を庇うために露わになった、薬指へ狙いを定める。そこには、赤黒く脈動するリングが嵌まっていた。
渾身の力でソードを振り下ろす。一閃。
鈍い音を立てて、黒く変色した薬指が鮮やかに宙を舞った。
――獲った。
リングが床にカラン、と乾いた音を立てて転がる。
俺は即座にリングへ手を伸ばす。だが、その指先が触れるより早く、床に落ちていた赤黒い肉塊が、まるで意思を持った獣のようにリングへ殺到した。
――嘘だろ。
肉塊がリングを飲み込み、急速に伊勢島の身体へと引きずり戻していく。
切り落とされたはずの右腕から新たな肉が溢れ出し、リングを身体の深淵――心臓の位置よりももっと奥へと、完全に封じ込めた。
その瞬間、肉が裂ける音と共に、伊勢島の身体がさらに肥大化した。
伊勢島の表情が、ぐにゃりと歪んだ。
目玉が忙しなく震え、口元から意味のない笑いが漏れる。
「あ、あぁ……っ、あは、あはははは!」
何かが、伊勢島の精神を破壊しているかのようだ。
膨張した肉塊から無数の触手が噴出し、ビル全体を破壊しながら俺たちを襲う。
先ほどまでとは別次元の、圧倒的な破壊力。触手が通るたび、床が、壁が、天井が、まるで紙のように噛み砕かれていく。
俺は回避するだけで精一杯だった。ソードを振るう隙すらない。防御を固めるたびに、意識が遠のきそうになるのをなんとか押しとどめた。
おかしい。リングを取り込んでから伊勢島の動きが更に増している。
俺はチラリと横目に玲菜を見た。
「どうすればリングを取り戻せるんだ?」
「どこにあるかもわからないのに答えられるわけないわ……それこそ内部からの支援でもない限り不可能よ」
玲菜は悲壮感漂う声で呟き、口落ちそうに親指の爪を噛む。
その内容はあまりにも絶望的だった。
伊勢島の肉塊の中でどこにあるのかもわからないリングを、引き剥がすなんて今の俺には不可能だ。
手が届かない。
外からでは、リングを取り返せない。
六つの神器を持ってしても、奴の完全体には一歩足りない。
「あはっ、はははぁ、はは……本当にすばらしいぃわぁ。この二人の、力は……」
恍惚とした表情を浮かべながら、たどたどしい言葉を溢す伊勢島。
その体内で、異様な熱と共に鳴動する何かが脈打っている。
それは、まるで限界を超えた機械が上げる悲鳴のようだった。
一体何が起こっているんだ。そう考えたとき――ノイズが走る。
頭の奥を直接掻き回されるような感覚。
――リングは、ここ。
聞き覚えのある二つの声が、ノイズ混じりに重なって聞こえた。
俺と玲菜はとっさに顔を見合わせる。
「春馬っ! 今の聞こえたわよね?」
「ああ。聞こえた。あの震えてるところにリングがあるんじゃないのか?」
「おそらくそうでしょうね……いえ、そうだと信じたいわ」
伊勢島の右胸付近で、赤黒く脈動し、輪っかの形が浮かび上がっていた。
なぜ急に浮かび上がったのかわからないが、これはチャンスじゃないのか。
「じゃあ、あそこを攻撃すればいいんだな?」
玲菜は俺の言葉に大きく頷こうとしたが、すぐにその顔が曇る。
「……いえ、ダメよ。それじゃあ意味がないわ。さっきのことを思いだして。リングを取り出しても、また肉片に呑まれるだけよ」
そうだった。取り出せば終わりと言う話ではない。取り出すのではなく、完全に繋がりを取り除く必要がある。一体どうすればいいんだ。
「何かいい方法はないのか?」
「あるわ。でも今のアンタには無理……雑に振り回すことしかできてない。今必要なのは出力じゃない。『切り離す』ための緻密な制御よ」
「――っ、それでもやるしかないんだろ? 方法を教えてくれ!」
「……そんなことを訊いてくるレベルでしょ。私がやるわ。雪城家の本当の当主である私が、完璧な魔力のコントロールを見せてあげるわ!」
これまでに何度も助けてくれた玲菜がここまで言うんだ。
絶対にできる。俺はそれをサポートすればいい。
「頼りにしてる。後ろは俺に任せろ!」
「はぁ!? なに私に死ねって言ってるの? アンタが前に出て魔力を私に奪われながら、時間を稼ぐに決まってるじゃない。あんな化け物相手に私だけなら秒も持たないわ」
「お前こそ俺に死ねって言ってないか? ……でも、わかった任せろ!」
「頼りにしてるわよ。後ろは私に任せてね!」
さっきのお返しとばかりに、玲菜は微笑んでウインクする。
すぐに玲菜が魔法の詠唱を始めた。
魔法が発動して効果を出すまで俺は時間を稼げばいいだけだ。
「さ、さ、させる、かか、かぁぁ」
なにを言ってるのかもわからない伊勢島が俺たちの元に突っ込んでくる。
とても耐えられない重い一撃。だが、後ろには玲菜がいる。ここを踏ん張れば、絶対に玲菜がなんとかしてくれるはずだ。
玲菜が俺の中から湧き上がる魔力を、精密な糸のように束ねていく。
俺一人なら、この力はただの凶器だった。だが、玲菜が舵を握ることで、それは伊勢島とリングの境界に深く干渉し始めた。
「今よ、春馬! 全ての神器の波長をあの場所に合わせなさい!」
「ああ、やってやる!」
俺は全神器の魔力をソードに収束させ、一点突破の突きを繰り出した。
物理的な破壊ではない。
神器同士の『繋がり』を利用して、リングを伊勢島の肉体から強制的に引き剥がすための共鳴。強制共鳴だ。
「ぐ……あ、あぁぁ!? やめろ、やめろおおお!!」
伊勢島の叫びがビルに響く。俺の刃が肉を裂き、中心部へ到達した瞬間、周囲の空間が歪んだ。
キィィィン、と高い金属音が響く。
リングが、伊勢島の肉を拒絶した。
ぼろりと、赤黒い肉塊から弾き出されたリングが宙を舞う。
――掴んだ。
指先に触れた瞬間、冷たい金属の感触と共に、漆黒の奔流が脳髄を侵食するように流れ込んできた。
右手のソードも、耳を飾るピアスも、背後のアミュレットも――全ての神器が、まるで合唱するように共鳴の波を放った。
揃った。ついに、すべてが。
その瞬間、世界の『重さ』が変わっていく。
欠けていたピースが埋まり、雪城のレガリアが完全な『この街の支配者』として目覚める。
それと同時に、俺の世界から何かが崩れていくような気がした――
※ ※ ※
……熱い。脳髄が焼けるような、圧倒的な渇望。
暗闇などではない。ただ純粋に命を求める、真っ赤な飢えだけが脈動している。
雑音など、とうに消えた。
笑い声も、叫びも、存在しない。この飢えの前では、世界そのものが無に等しい。
頭の奥で、獣が低く唸る。
――引き裂け。
命令ではない。細胞すべてが求める、抗いようのない本能。
呼吸をするように、瞬きをするように、ただ目の前の命を終わらせる。
壊すのではない。手で、生々しい命の灯火を掻き消すだけだ。
右手が、歓喜に震えている。
視界を赤が塗りつぶす。
そこに、動くものがある。温かい、命の匂いがする。
邪魔だ。
……知っている気がした。
大切だった気がする。
だが、その淡い情動は、このどす黒い空腹の前ではあまりに軽い。刹那の躊躇いすら、飢えの熱に溶かされて消えていく。
美味しそうだ。
誰だか知らない。何のためにそこにいるのかも知らない。
ただ、その喉笛を食いちぎりたい。
溢れる熱を浴びて、この飢えを満たしたい。
……迷いなど、どこにもない。
ただ、殺したい。その衝動だけが、この場所を支配しているすべてだ。
気付けば、その温かな命を奪うために、一歩を踏み出していた。
喉笛を裂くための角度で、右手が獲物を狙い定める。
ソードを握り直す指先に、一切の躊躇いはなかった。
「……春馬っ――!」
ただそれだけのノイズ。
だが、自分が『俺』だったことを思い出すには十分だった。
絶対に聞きたくない、玲菜の今にも泣き出しそうな声だったから――
※ ※ ※
気づけば、玲菜を壁際まで追い詰めていた。
俺の右手が、その喉元を押さえつけている。
「っ……ぁ……!」
細い首が軋む。
玲菜の指先が、必死に俺の腕を引き剥がそうともがいていた。
何を、している――?
理解した瞬間、背筋が凍った。
俺はソードを構え、玲菜の心臓を貫く軌道で止まっていた。
あと少しでも遅ければ、そのまま振り抜いていた。
玲菜の瞳が揺れる。
恐怖と、それでも俺を信じようとする感情が入り混じった目だった。
「は、る……ま……」
掠れた声。
その瞬間、俺の頭の奥で、再び黒い飢えが唸った。
――喰え。
黙れ。
――裂け。
黙れ。
――殺せ。
「黙れぇぇぇぇぇぇ――!」
俺は叫び、掴んでいた玲菜から手を離す。どうしようもない黒い感情に襲われて、マトモに立っていられない。なんだこれは、俺の体に一体何が起きたんだ。
自分の体が自分のものではなくなっていく感覚。
壊したい、壊したい、壊したい――
俺は震える右手を、無理やり左手で押さえつけた。
指先が勝手に痙攣する。まだ殺意が消えていない。
玲菜の首を絞めていた感触が、掌に焼き付いて離れなかった。
「……っ」
吐き気が込み上げる。
もし玲菜の声が届かなかったら。あと一瞬でも遅れていたら。
俺は――
「春馬」
玲菜の声。
恐る恐る顔を上げると、玲菜は喉を押さえながら、それでも前を見据えていた。
「まだ終わってないわ」
伊勢島の咆哮が響く。崩れた床の向こうで、無数の触手が暴れ狂っていた。
リングを失い、伊勢島もその姿を保てなくなっている。
――すべてはこのリングを掴んだせいだ。
最悪だ。
頭の奥では今でも破壊衝動に脳が焼かれ続けている。
それでも。
――玲菜との約束を守る。
それだけは、まだ俺の中に残っていた。
俺は血の滲むほど強くソードを握り直す。
「……終わらせてくる」
振り返り、伊勢島に向かおうとすると、背中に柔らかな感触が広がる。
玲菜が、後ろから俺を強く抱き締めていた。
震える指先が、服越しに伝わってくる。
それは本当に一瞬の出来事だった。
「……戻ってきなさい」
小さく玲菜が囁く。
もう一度振り返ろうとする俺の背中を玲菜が強く押す。
俺はソードを強く握り締め、そのまま伊勢島に近づいた。
伊勢島もまた限界を迎えていた。体から黒い霧のようなものが漏れ出している。共倒れ寸前の、歪な対峙だ。
「互いにボロボロだな。そろそろ終わりにしないか?」
「それは賛成だよ。わたしもいい加減疲れちゃったかな……?」
「……ルーミアとレンマースを解放して、この街には二度と戻ってこないって、約束するなら、見逃してやるぞ……」
俺の言葉に、伊勢島は醜く歪んだ笑みを浮かべた。
「冗談を言わないで……この街は元々わたしの街だったんだよ! それを奪ったのは雪城の人間だよ! 返してもらうのは当然でしょ?」
伊勢島の瞳に宿っているのは、この街を数百年前に奪われたという復讐心だけ。
生まれる遙か昔の先祖の争いを、現代に持ち越して何になる。
ましてや、子孫にはそれぞれの人生があるんだから。
「……そんな昔の亡霊にすがりついてどうする気だ? 雪城と伊勢島の戦いは、もう終わったんだよ」
「ふざけるなぁぁぁっ!」
今にも崩れ落ちそうな体となった伊勢島。大きな叫び声を上げて突っ込んでくる。
遅い。とてつもなく遅い。
だが、ソードに力を込め、レガリアの力を受けとろうとした瞬間、憎悪が来た。
百年分、二百年分、それ以上の憎しみが俺の中に流れ込んでくる。
歴代の当主たちが抱えた恨みと怒りと絶望が、一挙に俺の中で渦を巻く。
世界を焼き尽くしたいという衝動が、俺の意識を上書きしようとする。
俺は歯を食いしばった。
送り出してくれたときの玲菜の声を思い出した。
『戻ってきなさい』
その一言だけを、俺は灯台にした。
どれだけ深く波に飲まれても、その声の方向を向き続けた。
伊勢島が何かを叫んでいた。もう俺には届かない。
怒声だったのか。呪詛だったのか。もう俺には届かない。
俺の意識の半分はもう別の場所にあった。しかしもう半分は、確かにここにいた。俺のまま、春馬のまま、俺は力を振り下ろす。
一撃だった。
それ以上でも以下でもない、たった一撃。
だが、その刃には七つの神器すべてが共鳴していた。
伊勢島の巨体が、砕け縮んでいく。
ルーミアとレンマースが、光の粒子のようになって伊勢島の体から溢れ出す。
それに続いて、奴が長年かけて取り込んできた無数の悪魔たちが光の玉となって、次々と解放されていく。
そして最後に残ったのは、一人の人間だった。
※ ※ ※
「伊勢島……」
俺は目の前で倒れている女を見た。巨体は消え、服もボロボロ。
悪魔の力を失った、ただの人間が、砂埃の中でゆっくりと起き上がろうとする。力を奪うことだけで生きてきた女は、上手く立ちあがることもできなくなっていた。
「わ、わたしの……力が……」
つぶやきは途切れた。
そこへレンマースが降り立った。光の粒子から再構成された体が、完全な形を取り戻している。ルーミアも同様に、傍らに立つ。
怒りを露わにしたレンマースが伊勢島に詰め寄る。
「ボクたちにずいぶんなことをしてくれたな? 覚悟はできてるんだろうな?」
「ひぃっ……!」
情けない声を上げて伊勢島が逃げようとする。
それをしっかりとルーミアが捕まえた。
「逃げちゃダメですよ。報いを受けるのは当然ですからね」
ルーミアが穏やかに、しかし目が笑っていない。
「まあ、覚悟しとけよ」
レンマースも続ける。
その声も、どこか楽しそうで、しかし恐ろしかった。
伊勢島が顔を青ざめさせる。本当の意味で怯えた顔だった。
見ていられず、俺は思わず口を挟む。
「ま、待て……なにをする気だ……!?」
「ご安心を。命は取りません。あちらの世界に順応できるように、少々『改造』を施させていただくだけですよ……ふふふ」
ルーミアがにっこり笑う。
まったく『だけ』ではすまない話だった。
改造とか人間やめざるを得ないじゃないか。
「嫌だ嫌だ嫌だ! 行きたくない!」
騒ぐ伊勢島を容赦なく引っ張るルーミアが、そのまま俺たちに別れを告げ去っていく。伊勢島の悲鳴は、夕暮れの空の彼方へ消えていった。
俺は一瞬だけ、その背中を見送り考える。
伊勢島はずっと、奪うことだけで生きてきたのだろう。
力を、命を、未来を。自分のものにして、消化して、それで強くなってきた。
そして最後に奪われたのが、自分自身だったと思うと複雑な気分だ。
ふと、あの書類の文言が頭をよぎった。
「……一切の補償義務を負わない、か」
ほとんど読まずにサインしたんだけどな。
笑うべきなのかもしれない。しかし笑えなかった。
そんな軽口を叩く気力すら、今の俺には残っていなかった。
空の彼方へ消えた悲鳴を見送った後、俺は安堵と疲労に膝を折った。
……終わった。俺はまだ、春馬のままだ。
不意に、背後から温かな気配が近づいてくる。
「……おかえりなさい」
玲菜だった。
首を絞められた痕もそのままに、彼女は俺の顔を覗き込み、心からの安堵を浮かべている。
俺は起きているのも精一杯だったが、玲菜がゆっくりと包み込んでくれた。
「……ああ。ただいま、玲菜」
「もう、そんな顔しないで。勝ったんだから笑いなさいよ」
彼女の細い指先が、俺の頬を撫でる。
その体温が、全身を駆け巡っていた破壊衝動を溶かしていく。
ソードを小さくし、ポケットにしまうと、クシャクシャになった紙に触れる。
……そうだ。まだ、進路希望調査票を出していなかった。
『将来の希望』
あの空欄に、少し前までの俺なら、きっと何も書けなかった。
でも今は、不思議と迷わなかった。
玲菜の体温が、肩越しに伝わってくる。
俺は、この先も――こいつと同じ景色を見ていたい。
それだけで十分だった。
……よし。明日学校に行ったら、『玲菜の隣』って書いてやるか。
そんなくだらないことを考えていると、勝ったという実感が湧いてきた。
玲菜の匂いと、静かな鼓動。
俺は彼女の肩に額を預け、長い旅の終わりに瞼を閉じた。
遠くから玲菜の悲鳴のような声が響いたような気がしたが、もう俺には目を開く力も残っていなかった。




