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魔法使いのいる街  作者: 水瀬 瑞希
第二章 DAY AFTER

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第五十三話 同意の代償

 スマートフォンの画面いっぱいに広がる『利用規約』を、最後まで読んだことがある人間がこの世に何人いるだろうか。

 少なくとも、俺の周りには一人もいない。

 当然、俺も画面を最速でスクロールして、一番下の【同意する】をタップする。そのまま押せるタイプなら、スクロールさえせずに最速で同意を押すだろう。

 いつも通りの、ただの作業だ。

 ただ、ふと思った。もしあの読まれもしない膨大な文字の途中に、小さくこう書かれていたらどうなるんだろう。

 『自分の魂を差し出すことに同意します』

 ──まあ、そんな馬鹿な文言に気づいたら、流石に俺だって指を止める。

 危険なことが書かれているかもしれないから、規約はきちんと読みましょうと、専門家が口を揃えて言う。

 でも、俺たちは読まない。読むのが面倒だから。

 それだけの理由で、俺たちは【同意する】を押す。

 中身が恐ろしい地獄への契約書だったら、そこで身の破滅だ。

 俺たちは常に騙される可能性を孕んで生きている。

 そんな当たり前のことにさえも俺は気づいていなかった。

 あの時までは――


「――ハァッ!」


 俺の踏み込みと同時に、大気を引き裂くような轟音が辺りに木霊する。

 玲菜の手から放たれる魔弾が、伊勢島の肉壁を容赦なく抉り飛ばしていく。


「無駄よ、無駄!」


 伊勢島が狂笑しながら声を上げた。異形となった伊勢島の体からは、絶えず俺たちに向けて攻撃が行われ続ける。


「随分とお粗末な攻撃ですね。その程度で、私たちの足が止まるとでも?」


 不規則に襲いかかってくる触手を次々に焼き尽くし、ルーミアが不敵な笑みを浮かべ、魔力の残火を払う。

 相澤と同等、いやそれ以上かもしれない回復力を持っている伊勢島ではあるが、俺たちの怒濤の攻撃の前に少しずつ疲労を見せ始めていた。

 俺が斬り裂き、ルーミアが焼く。そして後方から戦況を見極め、的確な援護を玲菜が放つ。即席とは言え、俺たちの呼吸は完璧に噛み合っていた。

 いや、噛み合っていると、俺が思い込んでいるだけなのかもしれないが……

 俺たちなら、この化け物を討ち滅ぼせる。そう思っても仕方のない展開だった。

 その確信が、じわりと全能感を湧き上がらせ、昂揚感を満たしていく。

 全部が、上手くいっていたんだ。

 横を並走するルーミアが鋭い声を飛ばしてくる。


「春馬さん、突っ込みすぎですよ。攻撃が雑になっています!」


 ルーミアの指摘はもっともだったが、敵を圧倒できているという事実が、俺のブレーキを甘くさせていた。少し前までただの高校生だった俺の脳は、この戦場の熱気にすっかり浮かされていたんだ。


「問題ない。このまま一気に押し切るぞ!」

「倒し切れればいいですが、確実に雪城さんが狙われますよ?」

「はあ? 俺たちが前線にいるんだ、玲菜が襲われるわけないだろ」


 勢い任せに言い返したものの、ルーミアのあまりに真剣な声音に、胸の奥でわずかな不安が頭をもたげる。確かめるように、後ろをチラリと盗み見た。

 ――視線の先では、玲菜がいつも通りの頼もしい魔力で俺たちをサポートしてくれていた。自分の判断が間違っていなかったという安堵が、俺の背中をさらに強く押し出す。不安の種なんて、どこにも見当たらなかった。

 そもそも、俺たちの攻撃で伊勢島を完全に釘付けにできている。

 後ろに攻撃が流れる隙なんて、微塵もあるはずがない。

 そう判断した。判断した――つもりだった。

 本当は、判断すらしていなかったのだろう。

 ただ、自分の強さに酔いしれていただけなんだ。そんな慢心を、伊勢島が見逃すほど甘くはない。

 圧倒的に不利な状況からレンマースを取り込み、優位に持ち込んだ、数多の修羅場をくぐり抜けてきた、狡猾な『人間』だった。

 伊勢島は俺たちの連携の熱量を正面から受けながら、その隙間を、ずっと冷静に測っていたのだ。


「あはははッ! いいよ、すごくいい見事な連携だよ! でもね――」


 抉られた肉を瞬時に再生させながら、伊勢島がその醜悪な顔を歪める。

 その目が静かに動いた。伊勢島の肉体から溢れ出した触手の一部が、俺たちを避けるように遠回りで、玲菜へと直接、牙を剥く。


「なっ!」


 その瞬間、俺の思考が割れる。

 伊勢島をこのまま落とすか、触手をすべて落とすか。たったそれだけの話。

 これまでなら確実に玲菜を護ることだけを優先していた。

 でも、世界を支配できるような大きな力を持ったと勘違いした俺は、両方を同時にこなせると思い込んでしまったんだ。

 伊勢島を痛めつけながら、玲菜へと伸びた触手への全力とはほど遠い中途半端な斬撃。それだけで切り落とせると思っていた。

 あまりにも伊勢島を舐めすぎた行為。それすら気づくのが遅れていた。

 刹那、切り損ねたいくつかの触手が、玲菜めがけて加速する。

 死の気配すら感じる恐るべき速さ。取り込まれたレンマースの悲惨な姿が呼び起こされ、玲菜と重なり、頭の中が一瞬で真っ白になった。


「玲菜っ!」

「赤羽さん! 行ってはダメです!」


 玲菜の死を前に、ルーミアの声なんて届かない。俺は伊勢島への攻撃を投げ出し一心不乱に玲菜の元に飛んだ。

 玲菜の細い身体を全力で抱き締めた瞬間、大きな爆音が鳴り響き、禍々しい触手が飛散していく。体を張って玲菜を庇ったつもりだったが、どうやら全ての触手をルーミアが焼き払ってくれたようだ。

 腕の中で顔を真っ赤にして玲菜が震えている。


「だ、大丈夫か? 怪我はないか?」

「は、はぁ!? だ、大丈夫に決まってるでしょ。さっさと放しなさいよ!」

「ご、ごめん!」


 気まずさを感じた俺は玲菜から急いで離れると、玲菜を助けてくれたルーミアに感謝を伝えようと目を向ける。

 ――だが、言葉が喉の奥で凍りつく。

 そこには見るも無惨なルーミアの姿が浮かんでいた。

 ルーミアの口から大量の血が零れ、その細い体を何本もの触手が無慈悲に貫いていた。一体どうして――

 ルーミアの制止を聞かず、玲菜の方へ駆け寄った、あの一瞬の判断。

 俺が前線を離れたせいで、ルーミアは一人で戦うことになった。

 そんな状況で俺たちの危険を察したとき、ルーミアは自分を犠牲にするか玲菜を見捨てるかという究極の選択を迫られたに違いない。

 そこで俺たちを守ったために、その隙を突かれたのだろう。


「ルーミア――」


 俺の叫びはルーミアには届かず、その体は小刻みに震えるだけ。

 その間にも、触手がどんどんルーミアの体に絡みつき、その体はずるずると伊勢島の元へと引きずられていく。

 俺は急いで駆け寄り、触手を斬ろうとしたが、ルーミアの援護がなければ回復速度に間に合うはずもない。

 玲菜も必死の形相で魔弾を何度も放つ。それでもルーミアを取り込もうとする伊勢島の動きを止めることなどできなかった。

 俺はなりふり構わず手を伸ばしたが、その手がルーミアに触れることはなかった。

 ルーミアの姿が、伊勢島の中に消えていく。


 ※ ※ ※


「後は頼みました……」


 ルーミアが最後にそう呟いたような気がした。

 次の瞬間、ルーミアを完全に吸収した伊勢島の肉体が、おぞましい歓喜の声を上げて膨れ上がる。ルーミアとレンマースの力を取り込んだ伊勢島は、もはや別次元の存在になっていた。

 俺はパニックをねじ伏せ、レガリアの力を全開にして距離を詰める。ソードを振る。だが、先ほどまでの伊勢島とは何もかもが違う。

 どんな攻撃も致命傷にはほど遠い。

 攻撃は弾かれ、触手に吹き飛ばされる。

 それでも立ち上がり、また踏み込む。何度繰り返しただろう。

 床には俺が叩きつけられた跡が幾つも刻まれている。体のあちこちが悲鳴を上げ、息は乱れていく。

 余裕を満面に浮かべた伊勢島の表情は決して崩れない。


「……無駄だってわからないかな? さっきよりも、少しだけ速くなってるんだよ。私だけね」


 否定できなかった。最初の一撃目より二撃目が重く、二撃目より三撃目の回避が早かった。

 伊勢島はルーミアの力を、戦いながら着実に自分のものにしていっている。

 じり貧どころか、差が開く一方だ。このままじゃ負ける。

 そう思ったが、──突如として、伊勢島の肉体が内側から大きく歪んだ。

 そして、次の瞬間、伊勢島の悲鳴が響く。


「ぐ、ああぁぁッ!? な、なにをしてるこれは……? 離せ、ルーミアっ……! 私の言うことを、聞きなさい!」


 突然、意味不明なことを叫びながら、伊勢島がその場で激しくのたうち回る。

 その凄絶な悲鳴を聞いて、伊勢島の中でルーミアがなにかをしているのがわかった。取り込まれてなお、ルーミアの意志――いや、魂そのものが、伊勢島の支配を激しく拒絶しているに違いない。

 伊勢島の動きが完全に止まった。

 絶好の好機。トドメを刺すなら、この瞬間しかない。

 俺が持てる全ての力をここで使い切る。


「ソード! もっと俺に力を貸せ! もっともっとだ!」

「マスター、すでにセカンドを発動中です。これ以上の出力は──」

「いや、まだあるだろ! サードを解放しろ!」


 悲鳴に似た声を上げ、俺はソードに魔力を送り続ける。だが、決して、ソードはサードを発動しようとしない。一体なぜなんだ。

 ルーミアが命を絞って作ってくれたこの僅かな猶予が、一秒ごとに削られていく。焦燥感で心臓が破裂しそうだ。

 その時、ソードを握り締めていた俺の手に、ふわりと柔らかい感触が伝わってくる。いつの間にか隣に来ていた玲菜が、俺の拳を両手で包み込んでいた。

 俺が驚いて玲菜に視線を向ける。


「ごめんね……春馬……」


 今にも崩れ落ちそうなほど、蒼白な顔をした玲菜が小さく呟いた。

 卑下するように俺を伺う玲菜の目が、俺の心臓を冷たく貫いた。

 恐怖じゃない。激しい、激しい自己嫌悪だけが伝わってくる。

 玲菜は、俺の慢心など露ほども知らず、ただ自分の弱さだけを呪っていた。

 目の前でルーミアが身を挺して時間を作ってくれている。

 それなのに自分は、護られただけで何もできていない。玲菜は自分だけが無力だと思い込んでいるのが否応なしに伝わってきた。


「違う。お前が悪いわけじゃない。ルーミアのことは――」

「ううん。フォローしなくてもいいよ。アンタとルーミア。どう考えても私の力が足りてなかったのは事実よ。で、今もまだアンタの足を引っ張ってる……」

「何言ってんだ! 引っ張ってなんかいないぞ!」

「引っ張ってるのよ。アンタがなんでサードの力を使えないのか、私は知ってる。でも、こんな状況でも教えようとしない。なんでだと思う?」


 つい今朝まで、俺は魔力不足だった。倒れてしまったくらいだし、万全の状態ではなかったのは間違いない。

 そんな俺がサードを使えばどうなるか、心配してくれたのだろう。


「……俺の体を心配してくれた……とかそういう理由だろ?」


 玲菜はきっちりと首を横に振った。

 そして、血が出るほど噛み締めた唇をゆっくりと開く。


「これ以上、アンタに奪われたくなかったからよ」

「ど、どういうことだよ?」

「アンタは織辺さんから、レガリアの最後のパーツを譲り受けた。間違いないわよね?」

「ああ、そうだけど……で、でも、ちゃんとお前に返すつもりだからっ!」

「それは当然そうしてもらうわ。何があっても絶対にね」

「だったら、お前は何を奪われるって心配してるんだよ?」

「サードの力を使いこなすための最後の鍵よ」

「鍵……?」

「ええ。アンタが今朝、神条相手にサードの力を使ったとき、明らかに私の力を通して発動した。理由がわからなかったんだけど、メルが教えてくれたわ。私がレガリアの真の力を発動させる鍵を持ってるってね」


 確かにサードを使ったとき、玲菜を通して発動したような感覚はあった。それがなんだかわからなかったけど、重要なもののようだ。


「つまり、それを使えばまたサードを発動できるんだろ? だったら――」

「鍵がなんだか、わかってる?」

「……正直、よくわかってない」

「でしょうね。わかっててその態度だったら、ぶち殺してるところだわ」


 玲菜は短く笑った。笑ったけど、目は笑っていなかった。


「鍵っていったいなんなんだ?」

「雪城家の当主だけ受け継がれる、印よ。雪城家の全てと言い換えてもいいわ。これを渡したら、本当に私にはもう、何も残らない」


 自分があまりにも軽はずみな発言をしてしまったことに気がついた。

 雪城家の全てとまでいう鍵。それを俺に渡してしまう恐怖は計り知れない。

 迂闊に貸してくれなどと言っていいものではないようだ。


「悪かったよ。だったら、それはお前が持ってろよ。お前を困らせるような力を借りるつもりはない」

「……待って。そうじゃないのよ。いえ、そうだったわ。うん。そうだった。正直、ずっと黙っておくつもりだった。貸すつもりなんかあるわけないじゃない!」


 しおらしく言っているかと思ったら、急激に玲菜のテンションが上がっていく。


「ちょ、ちょっと、どうしたんだよ急に?」

「当たりたくなるわよ。アンタにどれだけの力を奪われたと思っているの? そのソードだって、元々は私のものよ! 貸してただけなのに、いつの間にか自分のって顔で使ってるし……」


 返すつもりがないわけじゃない。だが、何も返せていない。

 言い返せるはずもなかった。

 いや、待てよ。レガリアは既に完成している。

 もしかしたら、今なら返せるんじゃないだろうか。


「なあ、レガリアをお前に返すよ。そしたら、俺に鍵を渡す必要はない。できるんだろ?」

「できるわ。所有者であるアンタが私に渡せばいいだけ。でも、それにはかなりのリスクを背負うわ」


 完成前のレガリアは俺の心臓と紐付いてるとかなんとかで、別の誰かに渡すと死ぬみたいなことを言われた。だが、それはあくまでも完成前の話だ。

 完成後の正式なレガリアを後継者に渡したら、自分が死ぬとかそんな呪いをかけるだろうか。


「……やっぱり、俺が死ぬとかそんな話か? 雪城家はレガリアを渡すために代々死んでるとか狂気だな……」

「いえ、そんなことはないわ。全身の神経が焼け落ちるだけよ」

「いやいや、だけで済む話じゃまったくないからな! ……でも、まあ、そのくらいなら今すぐにでも返すぞ?」

「――っ、アンタってほんとバカよね。……けど、そんな簡単な話じゃないのよ。状況が許してくれないわ」

「どういうことだ? 渡せない理由があるのか?」

「ええ。レガリアが体に馴染むまでに数週間。長くて数か月はかかるの……その間、待っててくれると思う? あの化け物が……アンタも戦えなくなるのよ?」

「……無理だろうな。他に方法はないのか?」

「ないわ。何度も確認した。だから、頭に来てるんじゃない。よりにもよってこのタイミングなのかってね……」

「いつも……ごめん。俺なんかに……」

「謝らないで! 私がどんな気持ちでいるのか……アンタにレガリアの鍵なんて渡したら、ますます強くなる。そんなの耐えられないわ!」

「だから、鍵はもういいって――」


 責め続けられることに耐えきれず、俺が話を逸らそうとすると、玲菜が言葉を遮り、静かにため息を吐く。


「私はアンタの隣で戦っていたいの。後ろで守られたいわけじゃない。……これ以上、差をつけられたくないのよ……」

「玲菜……」

「だから、最後まで隠し通そうと思った。でも、今、渡さなかったら、ここで全員死ぬでしょ」


 伊勢島に視線を戻すと、苦しんでいた状態も徐々に落ち着き、平静を取り戻そうとしていた。ルーミアが命懸けで作ってくれた時間は、もう残り少ない。


「それはそうだけど、本当にいいのか?」

「……返してよね。絶対に。戦いが終わったら、全部返しなさいよ。じゃないと、私には何も――」


 言葉が途切れた。

 玲菜が俺を見つめる。その目はいつもの強い眼差しではなく縋るような目だった。でもその縋りは、助けを求めるものじゃない。

 自分がここで差し出す以外に、できることが何もないという、そういう諦めにも近いものだった。心がギュッと締め付けられる。


「本当に嫌なら俺は別に……」

「私はアンタの隣で戦いたい。それは事実よ。でもね、それ以上に嫌なのが、足を引っ張ることよ。だから、受け取って。最後の鍵を――」


 玲菜が胸に手を当て、光を放ち始めた瞬間、大きな声が直接左耳に届いた。


「お待ちください!」


 これは以前、メルから連絡が来た魔法の通話というやつだろう。

 反響して聴き取りづらいので、俺は咄嗟に左耳を抑える。玲菜も同様に耳に手を当てて、不機嫌な顔を見せた。


「メル! 何よ急に?」

「玲菜様、ご自身が何をしようとしてるのか分かっているんですか!? それを赤羽様に渡せば、どのような破滅を招くか、何度もお話し──!」

「わかってる! 覚悟した上でやってるのよ!」


 玲菜はメルの必死の制止を、引き裂くような声で跳ね除けた。

 普段まったく感情を出さないメルがここまで取り乱して止める理由がある。どれほど恐ろしい『代償』が待っているのだろうか。


「ちょ、ちょっと待て、覚悟って何の話だ。メルが今、破滅って──」

「──メル、聞きなさい」


 俺の疑問を遮るように、玲菜が静かに、でも拒絶を許さないトーンで言い放った。俺の左耳の通信の向こうで、メルが息を呑む気配が伝わってくる。


「私は雪城家の当主よ。鍵が何を意味するのか、その後に何が起きるのか、全てを理解した上で春馬に渡すの。ここで秘密にしたまま、みんな死ぬより、最後の希望を春馬に託したいわ」

「……玲菜様っ、わかりました。どうなっても本当に知りませんからね?」


 耳元のメルが、悲痛な声を最後に沈黙した。

 現当主である玲菜のそこまでの覚悟と命令を前に、使い魔であるメルでは説得する術を持たないのだろう。

 正面からは、ルーミアの拒絶を完全に圧殺した伊勢島が、絶対的な死の質量を伴って再びこちらを睨みつけていた。

 一秒でも躊躇えば、今ここで玲菜も俺も肉塊に変えられる。

 世界がどうなるとか、メルが絶句した理由とか、この緊迫した状況で、頭には入ってこない。ただ漠然と何かあるかもと思いながらも、これまでと同様になんとかなるだろうと何気なく考えるだけだった。


「……返してくれなかったら、絶対に許さないから」


 だから、いつも通り、この質問にも大きく頷ける。だって俺は玲菜から何も奪う気はないし、護り続けていきたいんだから。

 ジッと俺を見つめていた玲菜は、一度だけ唇を噛み締めると胸から光る玉のようなものを取り出し、俺の胸に押しつけてきた。

 その光の玉が体に取り込まれると内側から光が溢れるような、そんな感覚がおそってくる。

 ――その光の中に、終わりの見えない膨大な文字の羅列があった。

 『第一条:本機能の運用に伴い生じる心身の構成要素の不可逆的変容、ならびに、固有存在の帰属解除等の事象に関して――』

 ……冗談だろ。適当に読み流すだけでも日が暮れる。おまけに意味不明だ。

 堅苦しい専門用語の数々に脳が早々に読むのを諦めた。

 仮にわかりやすく書いてあったとしても、目の前に伊勢島がいるような状況で、のんびり読む気になるはずがない。

 何も知らないまま、笑って【同意】を押してしまう利用規約のように、全てを受け入れる。俺はずっとそうやって生きてきた。それで問題も起きていない。

 いつかどこかで報いを受けるとしたら、そのとき考えよう。

 読まなかった文字の中に何が書いてあったのか、同意した俺にはもう知るよしもない。

 ――湧き上がってくる力に全ての思考が奪われる。

 今まで感じていた力など、ほんのわずかなものだった。

 魔力を込めるだけで、ソードから力がみなぎってくる。

 赤子が一瞬で大人へと成長したような感覚だった。

 光の奔流が消え、現実世界が広がる。

 ──伊勢島の方もまた、悍ましい『完成』を迎えようとしていた。


「ああ、素晴らしい。流れ込んでくる。二人の悪魔の血が、力が、私の中で一つに溶けていく……!」


 伊勢島の声が、歓喜に震えて裏返る。

 完全体になった俺の力に危機感を覚えた奴の肉体が、ルーミアの力を急速に貪り、引き込み、おぞましい速度で変貌を始めていた。

 バキバキと骨の折れる凄絶な音が響く。

 それは先ほどまでの、ただ肉を肥大化させただけの『化け物の姿』ではなかった。

 どす黒い悪魔の魔力が、伊勢島の肉体を漆黒の甲殻で覆っていく。

 ルーミアから奪った強烈な魔力が、背後で巨大な翼のように黒く燃え上がり、周囲の空間そのものをドロドロと歪ませていく。

 圧倒的な質量。肌を刺すような、純粋な『死』の気配。

 二人の力を完全に統率し、人の知性を保ったまま高次元の怪物へと至った、真の完全体。

 伊勢島は満足そうな顔を見せ、ゆっくりと、その悍ましい一歩を踏み出す。

 ただそれだけで、世界が激しく揺れていく。


「さあ、始めようか、雪城の代理くん。この街の本当の支配者が誰なのか、教えてあげるよ」


 伊勢島のその声が、すべての引き金だった。

 ルーミアが命を絞って繋いでくれた時間は、もうここで終わりだ。

 読まなかった契約書の中身を、俺はまだ知らない。

 それでも今は、ただ一つだけ、守らなきゃいけないものがあった。


「玲菜っ!」

「……なに?」


 不安な表情を浮かべながらも、玲菜は俺をジッと見つめる。


「絶対に返すから」


 一瞬の沈黙。


「……当たり前でしょ。アンタ、前に『返せなかったら一生面倒見る』なんて言ってたじゃない。……絶対に約束は守りなさいよ!」


 そっぽを向く彼女に小さく笑みを溢し、次の瞬間、俺の体は地を蹴っていた。

 思考より先に、体が、魔力が、世界そのものが俺の意志に応えて加速する。

 伊勢島の真っ黒な魔力が、世界ごと視界を呑み込む。

 恐怖はない。迷いもない。ただ、勝利のために前に進むだけだ。

 漆黒と白銀が、正面からぶつかった。

 世界が、砕けていく。


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