第五十二話 ただ一人のために
人間、誰しもストレスには弱い。
やりたくないことがあれば、つい逃げることを考えてしまう。
逃げられる環境であればなおさらだ。
例えば、テスト前の勉強。やらなきゃいけないのに、なぜだか集中できない。
普段やってないことをやろうとしているのだからできないのは当然。
でも、できない自分が情けなくなっていく。
そして、それがストレスとなって、どうにかなるさと楽観的に考えたり、どうでもいいと諦めてしまったりする。
これがストレスから逃げようとする人の思考パターンだ。似たような経験をしたことがある人も多いことだろう。
苦痛に弱い人間は多いが、決断して前に進める人もいる。
その人たちは一体どんな覚悟をしているのだろうか。
俺は今、織辺から譲り受けたレガリアの力で相澤を圧倒していた。
完全体となったレガリアの力はまさに本物だ。神にでもなったかのように、次の手を好きな様に選ぶことができる。
相澤との戦闘は、もはやムキになって飛びかかってくる子どもを相手にしているのと変わらない状況だ。すでに勝敗は決したと言っても過言ではないだろう。
「ふががががぁぁぁぁぁぁっ!」
だが、そんな圧倒的に劣勢でも、相澤は奇声を発しながら襲いかかってくる。少し前なら目で追うことさえも困難な動きだった。
しかし、今では止まって見える。体を少しだけひねり、相澤の振り降ろしを避けると、そのまま腹部を蹴りつけた。
相澤の体は大きく歪み、地面を何度も跳ねながら転がっていく。
激しく壁にぶつかり、ぴくぴくと震わせた。ただの蹴りだが魔力とソードで強化された俺のミドルキックは、ダンプカーの直撃よりも破壊力があるに違いない。
「もう、わかっただろう。これ以上やっても時間の無駄だ」
「え? それ、本気で言ってるの? あは、あははははっ!」
楽しげに笑いながら伊勢島が手を振りかざすと、相澤は立ち上がる。
ボロボロになった状態でも、まるでゾンビのように起き上がり、伊勢島の指示に従うのだ。
ジュウジュウと肉が焼けるような音を発しながら、相澤の傷が癒えていく。
そして、また襲いかかってきた――
※ ※ ※
何度、返り討ちにしたことだろう。打ちのめしたことだろう。
相澤の体を原型を留めないほどボロボロに砕いても、瞬間的に治癒が行われ、立ち上がり、またこちらに向かってくる。
圧倒しているからこそ、誰かを傷つける痛みをより鮮明に感じてしまう。
俺はキツくソードを握り、叫ぶ。
「しつこいんだよ! もう立ち上がるんじゃねぇ!」
それはほとんど泣き言だった。相澤を傷つけるたび、斬りつけるたびに、心が弱っていくのがわかる。そんな俺を見て、伊勢島は少しだけ口角を上げた。
「……赤羽くん。終わらせたいなら、跡形もなく消し飛ぶだけの魔力をぶつけちゃえばいいだけだよ。それだけの力があれば楽勝でできるよね?」
試すような伊勢島の口ぶりと表情。
この場におけるもっと簡単な解決方法を提示したつもりなのだろう。
でも、それって――
「――っ、こ、殺せって、言ってるのか?」
「そうだけど……? なにかおかしいこと言ってるかな?」
背中がゾクリと凍りつく。なんの戸惑いもなく、殺せと答える伊勢島に何一つ共感ができない。まるで別の生き物でも見ているようだ。
「お、おかしいことしか言ってねえよ! 殺したくないから言ってんだ!」
俺の答えを聞いた伊勢島は一瞬だけ目を丸くするが、すぐに破顔した。
「あはははっ、まさかとは思ったけど……殺しをビビっていたのね。あなたはたまたま力を手に入れただけの素人だったんだ」
「素人でも関係ねえだろ! これだけの力の差だ。さっさと諦めろよ!」
「ふふふ……殺せないんじゃ話にならないね。悪いけど、わたしは引かない。殺さずに終わらせたいなら、あなたが死ねばいいんじゃない?」
言って楽しげに伊勢島は笑う。
相手を殺すか、自分が死ぬか。ムチャクチャなことを言われたのはわかる。
だけど、ストレスは確実に人を蝕んでいく。
普段なら絶対に考えないことでも、目の前の問題から逃げるために最適と思えるようになってしまう。
相澤を殺せないなら、俺にできるのは一つだけ。
「マスター。気を強く持ってください。雰囲気に飲まれてはいけません」
俺がおかしな事を考えたことに気がついたのか、ソードが声をかけてくれた。
確かに完全に状況に呑まれている。しかし、いい案なんてなにも出てこない。
「わかってるけど、このままじゃあ、ずっと相澤を傷つけることになる……そんなのは俺が嫌だ……」
「そんなことはありません。あの女を直接狙いましょう。マスター」
なぜ今まで気がつかなかったのだろう。それは名案だ。
まったく思いつかなかった案をあっさりと出されてしまった。恥ずかしい気持ちになりながらも、希望が見えたことの方が嬉しい。
レガリアの力を手に入れた今の俺なら、相澤より早く動ける。
伊勢島を倒してしまえば、相澤も止められるはずだ。希望的観測ではあるが、それに賭けるしかない。
俺は相澤を視野に入れながらも、体は伊勢島の方に向け、ソードを強く握る。
「まあ、当然そうくるよね。けど、そう簡単にいくかな?」
狙われていることに気がついた伊勢島だったが、そこに焦りの様子は窺えない。むしろ余裕のある態度が俺の気持ちを逆立てる。
できないと思ってるなら大間違いだ。今の俺の力を思い知らせてやる。
まだ回復中ですぐには動けそうもない相澤を確認すると、俺は伊勢島の目の前まで一気に近づき、そのままソードを振り下ろす。
悲鳴が響き、ソードからは血の雫が滴る。
まったく動かなかった伊勢島を肩口から斜めに斬りつけた。
だが、伊勢島の体に傷はなく、近くで傷を癒やしている相澤に切り傷が浮かんでいた。一体どういうことだ。戸惑う俺に伊勢島が勝ち誇った顔を見せる。
「ふふふ。簡単じゃないって言ったでしょ?」
「……なにをしたんだ? なんで相澤が傷ついている?」
「そっちは簡単だよ。私が彼のマスターだから。傷を押し付ける位できるに決まってるじゃない」
静かに口角を上げる伊勢島に、俺はゴクリと息を呑む。
「相澤を殺さない限り、お前は不死身ということか?」
「まあ、そういうことかな。だから、私を狙ってる場合じゃないでしょ? 彼をちゃんと見てあげなきゃね」
そう言って、伊勢島が笑うと、不意に後ろから殺気を感じる。相澤が傷の治療を終えて、襲いかかって来たのだ。
俺は体を翻し攻撃を避けると、二人と距離を離す。
結局は問題を先延ばししただけ。状況を打破するには相澤を殺さなければならないようだ。だが、それを選べるなら最初から選んでいる。
攻撃の意欲を完全に失った俺を察したのか、ソードが声をかけてきた。
「マスター、どちらも殺せないなら、戦闘をしてもこちらに勝ち目はありません。ここは撤退を進言します」
逃げる。それはとても甘い誘惑に聞こえた。
全てを投げ出して逃げることができたら、どんなに楽になるだろうか。
選べない選択肢に耐えきれなくなった俺が数歩下がったところで、伊勢島が楽しげに声を上げる。
「まさかと思うけど、それだけの力がありながら逃げる相談をしてるの?」
侮蔑と嘲笑が入り混じった伊勢島の声。自分でも情けない選択をしているのはわかる。でも、笑われても誰かを殺すよりマシだ。
ストレスから逃れるために、脳が勝手に自分の行動を正当化していく。
そもそも、レガリアの力を持った俺なら逃げるのは余裕だ。
そして、伊勢島の本当の狙いが玲菜である以上、俺が逃げた場合、確実に玲菜が狙われるだろう。
だから、玲菜の屋敷に逃げ込むんだ。
玲菜の屋敷で伊勢島たちを待ち伏せ、そこで玲菜に殺してもら――
自分がとんでもないことを考えてしまったことに気がつき、俺は大きく頭を横に振った。
「そんなはずないだろ。逃げるわけにはいかない」
自分がやりたくないことを他の人に押しつけようとしているだけだ。玲菜が悲しむ顔は相澤の死に顔よりも見たくない。
だが、だったらどうすればいい。俺には何一つ答えを導き出すことができなかった。
「ほんと、中途半端だね。覚悟もなければ、決心もしない。やりたくないことを並べているだけ。そんなんじゃ何も変えられないよ?」
自分という人間がいかに無力かと思い知らされるような伊勢島の言葉。
迷いが体の動きを鈍らせる。
ほんの少しの間ではあったが、それが致命的に働いてしまった。
気がつけば、目の前には相澤の拳。もともと目で追えないほどの速さを持った相澤の拳だ。一瞬でも迷えば避けられるはずがない。
死を予感させる瞬間――
「遅い、遅すぎる。こんなのも避けられないのか?」
心底、落胆を感じさせる声が聞こえてくる。
目の前には真っ赤なショートヘアの女があくびでもするような顔で相澤の拳を横から受け止めていた。
玲菜の屋敷で以前会った、メルの昔の知り合いであるレンマースだ。
急に邪魔が入ったことで、相澤が大きく距離を取った。
「レンマース! なんでお前がここにいるんだ?」
「懐かしい、魔力が漏れてたからな」
「そうですね。メルの……懐かしい魔力を、ね」
レンマースの声に同調しながら、同じく玲菜の屋敷で会ったことのある青い髪の長髪の女、ルーミアも姿を見せた。突然の闖入者に頭がついていかない。
レンマースは俺を見てため息を吐く。
「で、来てみたら、オマエがいたってところだ」
一瞬、なにを言っているのかわからなかった。
まるで俺とメルを見間違えたかの言い方だ。俺がレガリアを手にしたことで、メルと似た魔力を発するようになったのかもしれない。
しかし、おかしなことに気がついた。
「ここには結界が……張ってあるんじゃないのか!?」
このビルは織辺が張った結界によって、他からの干渉が遮断されている。ここを戦闘場所に選んだ理由がそれだった。魔力が漏れているはずがない。
もしも、外部に魔力が漏れているなら、レンマースたちのように玲菜もここに来てしまうんじゃないのか?
「結界? そんな気配はまったく……」
ルーミアは周りをキョロキョロと見渡し、不思議そうな顔を見せた。
なんだか話の大前提が崩れた気がして、焦りに似た気持ちが湧いてくる。
「結界を張った本人が、魔力は外には絶対に漏れないって言ってたんだぞ!」
俺が力を失い動かなくなった織辺に目を向けると、ルーミアもそれに続く。
そして、彼女は少し考えて呟いた。
「……私たちの世界とは魔法のルールが違いますからね。こちらの世界の結界が私たちの世界では効果がないだけかも知れません」
そうであって欲しい。いや、そうでなければ玲菜が高い確率でここにきてしまう。
答えの見えない状況に言葉を詰まらせていると、どこか上の空だったレンマースが相澤に視線を向けた。
「さて、そろそろいいよね? あいつはボクの部下だ。ボクがやる」
「それはもちろん。ですが、過信は禁物ですよ?」
「はん。あんなのにボクが負けるはずがない」
言葉が終わるよりも早く、その場からレンマースの姿が消えていた。
瞬きする間もなく、相澤の元に肉薄する。
誰もが唖然とする中で、激しい音と共に相澤は壁に押しつけられ、首ごと持ち上げられていた。
「うがががぁぁぁぁぁつ」
振りほどこうとしているのか、それともレンマースの締め付けが苦しいのか、ひたすらに相澤は暴れ続ける。
しかし、それでもレンマースは決してその手を緩めない。
そのまま相澤を殺そうとしているかのようだ。
「お、おい! まさか殺す気なのか?」
さっきまでどうしても俺ができなかった選択を、レンマースは平然と現実のものにしていく。視界の先で絡み合う二人を止めようと、俺の体は反射的に動いた。
だが、それをルーミアが余裕のある微笑みを見せて、片手で制した。
「赤羽さん、大丈夫ですよ。殺すわけではありません」
ルーミアの優しい言葉を裏切るように、相澤の悲鳴が辺りに木霊する。
さらにレンマースがその手に魔力を込めた。
「はがががあぁぁぁぁぁぁっ――――!」
レンマースの魔力をまともに喰らい、一際大きな声で相澤が叫ぶ。
そして、緊張した糸が切れるように体をぐったりとさせる。あれだけ俺が打ち込んでも、平然と何度も立ち上がってきた相澤の動きが完全に止まっていた。
力なくだれている相澤に興味をなくしたのか、レンマースはそのまま手を離す。ドサッと相澤は倒れ、ピクリとも動かない。
好きなヤツではなかったが、相澤もこの戦いに巻きこまれた人間だ。
それがボロぞうきんのように殺されてしまった姿を見て、怒りが急激にこみ上げてくる。
「あ、相澤ぁぁぁぁっ! てめぇぇぇぇっ!」
怒鳴り声をあげてレンマースに詰め寄る。
するとレンマースは肩をすくめ、光る玉のような何かを掲げた。
「これを抜き出しただけだよ。力を失ったから倒れた、それだけだ」
「そ、それは……?」
「ボクの部下の力。いや、ボクたちの世界の住民の力の根源と言った方がいいかな。その力を不正にこいつが使っていたんだよ」
シューと煙を上げると、異形の姿となっていた相澤が普通の人間の姿に戻っていく。俺は駆けつけ相澤の状態を確認した。
明らかに弱っているが、息はしている。
どうやら、本当に悪魔の力が抜けているようだ。
「へぇ……さすがは根源となった世界の住民かな。わたしの魔法をこうも簡単に打ち破るんだね」
こんな状況でも伊勢島は冷静に笑みを浮かべている。
キッと睨むように、レンマースが伊勢島に視線を飛ばす。
「余裕こいてるけど、次はお前の番だ。それも返してもらうから」
レンマースは伊勢島の胸へと指を突きつけた。
それを受けて、ニヤリと笑う伊勢島。全身に魔力を巡らせると、相澤のように異形の姿へと変化し始めた。
「相澤くんに勝ったくらいで調子に乗らない方がいいよ。わたしはその何倍も強いんだからね」
二人はにらみ合い、一気に距離を詰める。ドーンと耳を突くような大きな爆音が響き、二つの巨大な魔力がぶつかりあう。
大きな口を叩くだけあって、伊勢島の魔力は凄まじい。
相澤なんて一瞬で灰にできる力と言っても過言ではないだろう。
しかし――
その何倍もレンマースの方が強かった。力の差は歴然だ。
気づけば、伊勢島は地面に叩きつけられ、トドメを刺される寸前になっていた。
レンマースは床に這いつくばっている異形と化した伊勢島の首に手をかける。
「もう終わりだ。力を抜き出したらオマエは殺す。容赦なくな」
「……ぐっ、や、やはり、これでは勝てないかな……だ、だったら……」
「無駄だ。どれだけ力を引き出そうともボクには勝てないよ。諦めて大人しくここでくたばれ!」
レンマースが一気に力を込めて、相澤にしたように伊勢島から悪魔を抜き出そうとする。大きな悲鳴をあげる伊勢島。戦いは終わったかのように見えた。
だが、静寂が訪れることはない。
「……使える力は一匹だけじゃないんだよ。あははははっ!」
楽しげな笑い声が響き、伊勢島の右手の中指で指輪が不気味に光を放った。
直後、まったく異質な魔力が爆発的に膨れ上がり、その姿をさらに凶悪な異形へと変貌させていく。
あまりの急変に頭が追いつかないのか、レンマースは呆然としていた。
「レン!」
ルーミアの叫びでレンマースはハッと我に返る。咄嗟に後ろへ飛び、伊勢島との距離を取ろうとした。しかし、反応が一歩遅い。
レンマースの身体は、伊勢島から伸びた触手にしっかりと捕らえられていた。
その光景を目にした瞬間、俺の脳裏に激しい戦慄が駆け巡る。
これまでの圧倒的な優勢さえ、すべてはこちらの油断を誘うための演技だったのだと、その時になってようやく思い知った。
「……くっ、離せ!」
「さすがに驚いたみたいだね。こんな隙を見せるなんて……あはははっ!」
「離せって言ってるだろ!」
体を捩りながらレンマースは伊勢島に向かって魔力を放とうとする。
だが、それよりも早く、触手で伊勢島の肉体へと押し付けられたレンマースの身体が、境界を失うようにして溶け込み始めた。
「なっ! ば、バカな。こんなことをして精神が持つわけが……」
「ふふふ。確かに普通の人なら一体取り込んだだけでも、人間としての理性がすぐになくなっておかしくなっちゃうもんね」
「だったら、これは……」
「ふふふ。わたしは特別なんだよ。キャパがあれば何体でも取り込み、使役できるの。伊勢島の秘術を舐めないでね」
伊勢島の口元が歪に歪み、ニヤリと不気味に笑みがこぼれた。
ゾクリとする笑みにその場は沈黙する。
「これからはわたしの力として、たっぷり役立ってね」
「さ、させるか! このくらいの束縛なら――」
レンマースは取り込まれていない半身を必死に暴れさせ、強引に引き剥がそうとする。
だが、すでに伊勢島の肉と同化し始めたもう半分が、楔のように固定されていてピクリとも動けない。いや、それどころか、レンマースの身体から急速に魔力自体が消失していくのを、俺は肌で感じていた。
必死に抗っていたレンマースの表情が、凍りついたように強張る。
常に余裕を崩さなかったその瞳が、初めて見る剥き出しの戦慄に揺れ、信じられないといった様子で己の身体を見下ろした。
「……ど、どうしてだよ……ぼ、ボクの魔力が……?」
「あははははっ! わたしの秘術から逃げられるわけないじゃない。あなたの身体はね、すでにわたしの一部として『書き換え』が始まっているんだよ」
「レンっ!」
状況のヤバさを感じ取ったのか、今まで傍観していたルーミアが急激に伊勢島との距離を狭める。
いつもなら穏やかな笑みを浮かべているルーミアとは思えない鬼のような形相だった。
普通の人間なら、そこにいるだけで気絶してしまいそうな膨大な魔力を放出させるルーミアに敵意を向けられた伊勢島。
だが、その顔には余裕が浮かんでいる。
「やめた方がいいんじゃないかな。この状態でわたしに何かあったら、彼女の体は元通りには繋がらないよ?」
「え……」
ルーミアの足がピタリと止まる。その顔には戸惑いが浮かんでいた。
そんな様子を見たレンマースが苦悶に満ちた表情で叫ぶ。
「気にするな! ミア! こうなったのはボクの油断が原因だ。気にせずにコイツを殺してくれ!」
「……っ、ごめんなさい、レンマース……!」
逡巡したルーミアから出たのは消え入りそうな謝罪の言葉。そのまま低く身を沈め、飛びかかろうとした。
俺は思わずルーミアの腕を掴んだ。
「お、おい! レンマースを殺すことになるぞ? 本当にいいのか?」
「……まったくよくありませんが、なんだか嫌な予感がします。レンが完全に吸収されてしまったら、私でも止められない。とんでもない力になるはずです」
吸収がどれほどのものかはわからないが、レンマースの力をそのまま使えるのであれば、今までの何倍もやっかいな相手になるのは確実だ。
でも、誰も殺せないし、殺したくない。その気持ちは変わらない。
矛盾する二つの感情は俺の中で暴れ、頭は何一つ答えを出せないまま。
無理に何かを口にすれば、情けない言葉が出てくるだけだろう。
「あなたがどう考え、何を選ぶかは自由です。ですが――わたしの邪魔だけは、しないでください」
ルーミアから向けられたその目は俺を責めていなかった。
ただ、静かに、どこまでも静かすぎて痛みすら覚えてしまう。
これが覚悟を決めた人間の目に違いない。
レンマースを助ける手段も、伊勢島を止める方法も、何一つ出てこない俺は、ルーミアを掴んでいるその手を離すことしかできなかった。
俺から視線を逸らすと、ルーミアは腰を低く落とし、伊勢島に向かって飛びかかっていく。
二つの巨大な魔力が激突し、爆発的な衝撃が辺りを薙ぎ払う。
床が抉れ、壁に無数のひびが入る。
――ルーミアは強かった。
普段の穏やかな横顔からは、およそ想像もできないほどの力で、伊勢島を蹂躙する。だが、それは長くは続かない。
レンマースの力を吸収し、強くなり続ける伊勢島も狂い出す。
実力差は少しずつ埋まり、ルーミアの鋭い猛攻も、次第に力任せに押し返され始める。
その光景を、俺はただ立ち尽くして眺めていた。
織辺から力を譲り受け、全てを変える力を持ったのに、目の前で戦っているルーミアを助けることもできず、突っ立って見ているだけだ。
何かしなきゃいけないのは分かる。
でも、敵であるはずの相澤を殺せなかった自分が、敵でもないレンマースを手に掛けるなど、できるわけがない。
情けない話だ。この状況でも綺麗事を盾にして逃げているのだから。
俺はどうしても覚悟を持つことができず、拳を強く握り締めるだけだった。
※※ ※
どれくらいの時間が過ぎただろう。
時間にしたらほんの一瞬だったかも知れない。
だけど、その時がついに訪れる。
レンマースの輪郭が、完全に溶けていく――吸収が、完了した。
伊勢島の体が急激にひと回り大きくなる。膨れ上がった魔力が、波のように広がった。ルーミアがその力の波動を受け、大きく吹き飛ばされ、床を転がる。
立ち上がったルーミアの息は乱れていた。それでも構えを崩さない。
伊勢島はそれを見て、楽しそうに笑った。
「ふふふ。キミは本当に強いね。この力を手に入れられなかったら、わたしに勝ち目なんてなかったよ。でも、もう終わり」
勝ち誇った伊勢島の声。ルーミアはほんの少しだけ揺れた。
刹那、ビルの壁が、外側から弾け飛んだ。
耳を裂くような爆音。瓦礫と砂塵が舞い散る中、一つの人影が降り立つ。
どうしようもないとき、必ず駆けつけてきてくれる黒髪の少女。
「れ、玲菜!? なんでここに?」
髪を振り乱し、息を切らしながら、玲菜は俺に視線を向けるとホッとしたような顔を見せる。しかし、その目はすぐに鋭いものに変わり、瓦礫を踏みしめながら、俺に近づいてきた。
「なんでって、アンタが逃げたからに決まってるでしょ。ずっと探してたわよ。どういうことなのか説明してもらうわよ!」
学校の非常ベルを鳴らして逃げるという暴挙をしたのは事実だ。玲菜にどんな制裁を受けても仕方がない。
それでも、玲菜を守るための力を得るために、織辺とここで待ち合わせてレガリアを完成させようとしたんだ。その一点だけはきちんと伝えた方がいいだろう。
そこまで考えたところで、不意に違和感が浮かぶ。
「ここには織辺が張った結界があるから、外部に魔力は漏れないはずだぞ?」
「結界……?」
玲菜は一瞬きょとんとしたあと、ゆっくりと視線を巡らせた。そして転がる織辺の死体に気づいた瞬間、空気が凍る。
「――っ、死んでるわよね?」
玲菜の目には嫌悪が浮かんでいる。だが、その目から逃げるわけにはいかない。
そして、きちんと事実を伝えるべきだ。
「……ああ。色々あってな。織辺からレガリアを受け継いだ。誰にも邪魔されず、完成させるためにここで待ち合わせたんだ。でも――」
俺が理由を説明するために、言葉を続けようとしたところで、玲菜が急にポンと手を叩いた。
「……そっか。そういうことね。急にメルの魔力を感じるようになった理由、やっと繋がったわ」
「ちょっと待て。俺が殺したわけじゃあ――」
「わかってるわよ。アンタが誰かを殺すはずはないことくらい聞かなくてもわかるわ。……まあ、あとで絶対に問い詰めるけどね」
「信じてるのか、信じてないのか、どっちだ!?」
玲菜は小さく微笑むと肩をすくめた。
「私が繋がったって言ったのは、アンタがさっき言ってた結界の話よ」
「どういうことだ?」
「ここには織辺さんが張った結界があったんでしょ? なら、その本人が死んだ時点で術式は維持できない。つまり、結界は消える」
「――っ、そういうことか」
理解した瞬間、すべての点と線が最悪の形で繋がった。
「ほんと、バカみたい。突然のことで罠かと思って、突入するのを躊躇しちゃったわ。――おかげで最悪のタイミングで来ちゃったみたいね」
「ああ、それは間違いないな」
玲菜は俺から視線を切り、伊勢島だった異形の姿に目を向けた。
「あの化け物はいったいなんなの? ルーミアが連れてきたなにか?」
「……いや、違う。アイツはレンマースを吸収した伊勢島だ」
「え……? う、うそ……でしょ?」
急激に玲菜の声のトーンが下がっていく。
先ほどまではどこか我慢しているものがあったが、目の前にいるのが伊勢島とわかった以上、冷静ではいられないようだ。
「本当だ。相澤の力を奪い取ったレンマースを吸収してあの姿になったんだ」
玲菜は辺りを見回し、倒れていた相澤に気がつく。
「あいつは無事なの?」
「ああ、さっき確認したときは息をしていたぞ。そして、おそらく完全に人間に戻っているはず」
「……色々と複雑でよくわからないけど、とりあえず敵は、伊勢島一人ってことで間違いないわね?」
「その通りだ」
「……だったら、アンタはなんでソードを降ろして戦いを眺めているの?」
誰もが思う当然の疑問だ。
目の前に敵がいるのに、まったく臨戦態勢を取っていない俺をみれば、おかしいと思うだろう。俺は唇を噛み締め、玲菜に視線を飛ばす。
「俺にはできることがないんだ……レンマースを殺したくない……」
玲菜は即座に眉をひそめた。
「はあ? 何言ってんのよ? アンタバカなの?」
玲菜の冷徹な声が突き刺さる。俺は必死に言葉を絞り出した。
「伊勢島は相澤の超回復を取り込んでる。倒すには殺すしかない。でもそれは、吸収されたレンマースごと殺すってことになって――」
俺の言葉を遮り、玲菜は大きく息を吐く。
「結局アンタが守りたいものって何?」
「え……?」
玲菜の冷たい言い方に思わず零れた呆けた声。
間抜けすぎると思いながらも玲菜から眼が離せない。
「手を汚したくないだけの聖人ごっこなら、今すぐここから逃げなさい。中途半端なまま突っ立ってるのが一番迷惑だわ」
言い放つ玲菜の瞳には、一切の迷いを焼き尽くすような炎が宿っていた。
「……玲菜」
「覚悟っていうのはね、決めたことの責任を全部引き受けること。アンタが並べているのは、ただの言い訳よ」
その言葉は、言い訳を積み上げていた俺の心臓を容赦なく撃ち抜く。
玲菜は一拍置いて、視線を真っ直ぐに敵へと向けた。
「だから私は戦う。ルーミアが力を貸してくれるなら、まだやれる。逃げる理由も、止まる理由もない」
玲菜のその眼差しに、俺は息を呑む。ルーミアに見えたものと同じ、一切の不純物が削ぎ落とされた、鋭くも透き通るような覚悟がそこにはあった。
誰でも最初から覚悟を決めている。実行できないのは、それを上回る言い訳があるだけなんだ。だったら、何よりも大事なものを思い出せばいい。
俺にとって何よりも大事なもの。それは玲菜だ。
織辺に頼まれたから?
玲菜の両親に命を救ってもらったから?
――違う。
俺は最初から玲菜を守るために戦おうと決めていたはずだ。
玲菜を守るためなら、誰かが犠牲になっても関係ない。自分の責任として受け止める。ただそれだけだ。
「ありがとうな、玲菜。お前のおかげで忘れていた、大事なことを思い出せたよ」
「……あ、そ。それはよかったわね。だったら、どうするの? このままそこで呆けて、絶望が目の前に襲ってくるのを待ってるの?」
「そんなわけないだろ。もちろん、戦うよ。そして、全てを終わらせる。この街に害を……いや、お前に害を加える全てを排除する」
俺の言葉を聞いて、玲菜が一瞬だけ目を大きく見開く。そして、にこやかに笑うと、腕を後ろに組み、クルッとそのまま伊勢島の方を向いた。
「口だけにはならないようにね」
トゲ百パーセントな言葉だったが、それが俺のしてきた結果だ。
だから、もう振り返らない。
レンマースがどうなろうとも、ここで終わらせる。
俺は拳を握り、最初から決まっていた覚悟を、胸に刻みつけた。




