第二話 平和な街という虚構
人は誰しも、表と裏の顔を持っている。それは特別なことじゃない。
むしろ、そうやって世界はうまく回っている。俺だってそうだ。
『バイト禁止』という校則の檻の中で、夜な夜な働いている。
制服のシワを伸ばして、何事もなかったような顔で教室に座る。
ポケットの中には、少し汚れた現実の対価。
誰もが、ひとつやふたつ、他人に言えない『別の顔』を持っているはずだ。
それを隠すための仮面は、案外うまくできている。自分自身すら騙せるくらいに。
だから俺は、雪城玲菜が生徒会長として完璧に振る舞っているのを見ても、疑ったことすらなかった。
——ただ、ひとつだけ引っかかることがあるとすれば。
この街には、『隠しごと』が成立していないということだ。
誰もが秘密を持っているはずなのに、誰もそれを『秘密』だと認識していない。
まるで、最初から『そういうものは存在しない』と決められているみたいに――
俺の住んでいる『美沢市』は人口二十万人ほどの中都市だ。
中心部の繁華街はそれなりに栄えているが、外れになると山と海に囲まれ、急に自然が増えてくる。
冬に近い季節になっても、大陸からの寒気を防ぐように山々があるからか、割と暖かい。
そんな気候のせいか、犯罪などもあまり起こらない平和な街だ。
だからこそ、昨日の事件は大きく報道されると思っていた。
しかし、朝、テレビのローカル番組を見ても、ニュースにすらなっていない。
地方新聞の片隅に小さく、コンビニにトラックが突っ込んだなどの見出しで載っていた程度だ。
おかしい、そもそもあれはトラック事故じゃない。
雪城が突っ込んで壊して、そのあとに人形がさらにぶっ壊したのだ。どうして事実が隠ぺいされたのだろう。
俺は急いで戸田に連絡をし、一緒に学校へ行きながら、事実を確認した。
しかし、戸田は昨夜の別れ際のことも、よく覚えていないようで、知らないの一点張り。
俺が何度も同じ質問をするので、戸田は呆れ顔を見せる。
「……そんなに聞いてくるってことは、俺、何かやばいことでもしたのか?」
「い、いや。何もしてない……本当に、何も……」
あんな状況で何もしない方がおかしいのだが。
しかし、戸田はそれをプラスに解釈したらしく、ニヤリと笑う。
「だったら、別にいいじゃねえかよ。記憶がなくなる日もたまにあるって」
「病気か酔っ払いでもない限り、そんな日があるか!」
適当な戸田の対応に呆れながらも、別れ間際に雪城から言われた『どうせ覚えてない』の言葉がやけに引っかかる。
誰も昨夜のことを覚えていない。それが、当たり前みたいになっている。
そんなはずがない……いや、本当にそうなのか?
覚えている『つもり』になっているだけじゃないのか。それとも最初から、何もなかったのか。
夢でも見ていたと考えた方が、まだまともな気がしてくる。
何度も戸田を追求しているうちに、いつの間にか校門の前まで来ていた。
飛び交う生徒たちの声。その中で元気に挨拶を交わしている雪城の姿が目に止まる。ケガをしている様子などなかった。
ケガが一晩で治るなんて、普通はありえない。そう思うのに、断言するだけの自信もない。
夢だったと言えば、それで片付く気もする。むしろ、その方が納得できることも多い。
それでも、どこかに引っかかりが残る。
俺は思わず駆け寄り、大きな声で叫ぶ。
「おい! 雪城!」
「ちょ、赤羽っ!」
後ろから戸田が慌ててついてきた。
そんな俺たちの声に、雪城は体をビクッとさせ、こちらに振り返る。
「……あ、赤羽君と戸田、君。おはようございます」
鈴の音のような優しげな声に、愛嬌と親しみのある笑顔。遠目に見ているだけでも、心臓が高鳴る憧れの女子。
まさしく、いつもの雪城だが、昨夜の出来事を思い出すと、違和感しかない。
「なあ、昨日の夜のあれは一体なんだったんだ?」
「…………はい?」
雪城は一瞬だけ表情を歪ませたように見えたが、笑顔を崩すことなく、こちらの言っている意味がわからないといった素振りで首を傾げるだけだった。
戸田に引き続き、雪城まで覚えていない。
自分の記憶に疑問を抱きながらも、周りからの奇異な視線と妙な緊張から、気持ちだけがどんどん焦っていく。
なんとか思い出して欲しいと、俺は雪城に迫る。
「俺、覚えているからな? あんなこと初めてだから、忘れられないって!」
雪城はにこやかな笑みのままだが、眉間がピクピクと動いている。何かを我慢しているかのようだ。
そこに、戸田が興味深そうな顔で割り込んでくる。
「ちょ、ちょっと待てよ! すげー、気になる。昨日の夜、雪城と一体何があったんだ?」
構っている場合ではないが、話せばコイツもなにか思い出すかもしれない。
「何って……手を繋いだり、くっついたり、あと、切り裂いたりもした……まあ、色々あったんだよ。血だっていっぱい出たぞ」
おおむね間違っていないはずだが、雪城と戸田が目を丸くする。
驚きを通り越して、驚愕していると言った様子だ。まずいこと言ったか。
「え? も、もしかして、雪城と初体験を済ませたってことか?」
「初体験? まあ……あんな体験は初めてだな」
「マジかよ! ってことは、初体験同士だったのか?」
「いや、雪城は初めてという感じではなかった――」
「ご、誤解を招く発言しないで! け、けけ、経験なんてないわよ! って、言うか、そもそも、彼とそんなことしてないわ!」
俺の言葉を遮って、雪城が叫んだ。
顔を真っ赤にして、小刻みに体を震わせている。
あれ、どうして雪城は怒っているんだろう。
「ご、誤解って、相当出血ひどかったじゃないか……体はもう大丈夫なのか?」
「おいおい、赤羽。出血ってのは、初体験限定なんだぞ? やっぱ雪城は処――」
「だから! もうやめて!」
雪城は耳まで朱に染めて、キッと俺たちを睨む。
ザワザワと周りが騒がしくなっていく。
通学中の生徒たちが足を止めて、怪訝な顔でこちらを見ている。
遠巻きに噂をはじめたようだ。
引きつった笑みで、戸田が俺の肩を掴む。
「あ、赤羽? 冗談ならそろそろやめようぜ……セクハラになっちまう」
「せ、セクハラ!? 違うから! 昨日のコンビニで雪城が怪我したんだよ」
俺の言葉に雪城がキョトンと首を傾げた。
「……コンビニ? そんなところ行ってないわよ?」
雪城の話を素直に信じてしまいそうになるが、そんなわけにはいかない。
あんなに血の臭いを感じ、あんなに傷ついていた雪城を見た。あれが見間違いのはずがない。頭がカッと熱くなる。
「ウソをつくなよ! 俺は見たぞ! 昨日バイト帰り――」
「――って、おい! 赤羽……いい加減冗談がきついぞ? お、お前、なに言ってんだよ……はは、はははは!」
戸田がわざとらしい馬鹿笑いを上げ、俺の首を腕できつく締め、腋に抱える。
「ちょっ、離せよ! なにすんだよ!」
暴れる俺に戸田が小さな声で囁いた。
「お前、生徒会長の前でバイトの話する気か? 洒落じゃすまんぞ?」
「……あ」
俺の通う『私立美沢第二高校』は、それなりの進学校で、学業優先のため、基本的にバイト禁止だ。そして、雪城は生徒会長。バレればやばい。
俺が力を抜いたのが分かったのか、戸田が手を離す。
雪城が訝しげな顔を俺たちに向けた。
「……バイト帰り? どういうこと?」
「わりぃ、こいつゲームのやり過ぎで、頭変なんだわ。見逃してやってくれ!」
「……そう、わかった。赤羽君、以後は発言には気をつけてね」
雪城は優しく告げると、人当たりの良さそうな笑顔を浮かべ、去っていく。
視線から消える瞬間、雪城が鋭い目を向けてきた気がするが、多分気のせいだろう。
昨日とは明らかに違う態度や表情にもやもやするが、普段の雪城はこっちだ。
クラス内外問わない人気者。もちろん、教師からも信頼も厚い。
生徒会長の座だって圧倒的な得票数で勝ち取ったほどだ。
そんな雪城が、深夜のコンビニで変な人形と血まみれで戦っていただなんて、誰も信じてはくれないだろう。
呆然としている俺に、戸田が心配そう声をかけてきた。
「……あの雪城相手にセクハラまがいの発言はまずいぞ? 男の俺がどん引きしたくらいだ」
「違うから! それ絶対、解釈間違ってるから!」
戸田は昨夜のことなんて、まるで覚えていない。
雪城からも完全に否定をされてしまった。
今もあの刀と繋がっている感覚があるのに、やっぱり夢だったのだろうか。
※ ※ ※
自分でも思うのだが、俺はクラス内で存在感はほぼ皆無。
たぶん、数年後に同窓会をやっても『えと、誰?』と言われるに違いない。
そんな俺が朝の校門で、あの雪城を捕まえて騒いでいたとなれば、確実に話題になってしまう。
「告白なんてしてないのに……」
なぜか俺が告白して派手に振られたという、事実無根の噂にすり替わっていた。
噂はどうしてこんなに、尾ひれがついてしまうのだろうか。
身の程知らずの烙印を押された俺は、周りからの冷たい視線に晒され続けた。
朝から色々と悩んでいるのに、これ以上、悩みを増やさないで欲しい。
そんな状況もあってか、頭は少しずつ冷静になり、昨夜のことは夢ではないかと思えるようになってきた。
腹に空いた穴が一晩寝たら治ったとか、そんなのはどう考えてもありえない。夢だ、夢。夢に決まってる。
結論が出た頃に、ちょうど午前の授業終了のチャイムが鳴った。
昼休みになると、雪城の席に次から次に人が集まっていく。
一緒にご飯にしようとか、そういう話だろう。
しかし、雪城はそれを丁寧に断り続け、にこやかに教室から出ていった。
「雪城さんって、いつ誘っても付き合ってくれないよね……」
「まあ、生徒会の用事で忙しいってことだから、しかたないかもね」
「せっかく同じクラスになれたんだし、友だちになりたいよね」
「それじゃ、アンタも赤羽みたいに告白してみたら?」
「やめてよ。雪城さんの迷惑くらい考えられるよ。普通はね」
キャハハと嘲り笑う。雪城を誘って断られた女子たちの声だ。
向こうは教室の隅で話しているはずなのに、その内容まで妙に鮮明に聞こえてくる。
距離感がおかしい。
いや、耳が良くなっているのか、それとも——。
そんな考えが浮かんだところで、自分でも馬鹿らしくなる。
居心地の悪さに耐えきれなくなり、逃げるように教室を出た。
廊下を歩いていると、向かいの校舎の屋上に人影が見える。
フェンスに背もたれ、髪が風で揺れるのを防ぐためか、左手を耳に当てていた。
――雪城? なにやってんだろう。
太陽の光を浴びながら、屋上に塀に腰掛けている。
ただそれだけなのに、思わず見とれてしまう。
アイツって、なにをしていても絵になるな。
雪城が俺の視線に気がついたのか振り返り、視線を合わせてくる。
最初は不思議そうにしていた雪城だったが、その顔がだんだんと険しくなっていく。
まるで俺を睨んでいるかのような表情だ。むしろ殺気立ってる。めっちゃくちゃ怖い。
「やばっ……」
慌てて俺は購買部に向けて、逃げるように立ち去った。
ケンカ相手以外から、あんな表情を向けられたのは初めてだ。
なるほど。嫌われてしまったらしい。
俺のせいで変な噂が立って、迷惑しているのだから当然か。
非常に申し訳ない気持ちになってしまった。
雪城には、二度と近づかないほうが良さそうだ。
※ ※ ※
購買部へ向かいながら、自分の体がおかしいことに気がつく。いや、調子が良すぎると言うべきか。
例えば、さっきの屋上の人物。どうして雪城だってわかったのだろう。おまけに凄い表情をしていたのもハッキリと見えた。
俺ってそんなに目が良かったっけ。むしろ、ゲームやマンガで目を酷使しているからメガネコースのはずだ。
他にも、廊下で周りの声がやたらと耳につく。
文句を言われていて敏感になっているだけかと思ったが、廊下を歩いているだけで、よその教室の会話が聞こえてくるのだ。
少し聞こえすぎではないだろうか。
まさか眠っていた真の力が目覚め――
「――いや、それはないな」
厨二病じゃあるまいし、その考えはさすがに恥ずかしい。
おそらく気のせいだろう。
そんなことを考えているうちに購買部へ到着。
すごい人混みにうんざりとしていると、後ろから声をかけられる。
「あ、先輩、こんにちは」
振り返るとそこには白峰 詩子がいた。
小学校に入る前から付き合いのある一つ下の後輩。いわゆる、幼なじみというヤツだ。
抜群の美少女なのだが、どことなく儚げで脆そう。
髪はやや茶色で、前髪には赤いリボンがついている。
控えめで遠慮がちな性格ながら、豊満な胸の膨らみは自己主張が強い。細身の体つきに、その爆乳は反則だろう。
アンバランス感を含めて、守ってあげたくなるような愛らしさだ。
「詩子。飯でも買いに来たのか?」
「はい。先輩もですか?」
「いや……俺は……」
まっすぐに見つめられ、気恥ずかしくなって、俺は目をそらす。
幼なじみに、クラスに居づらくなったから逃げてきたなどと言えるわけがない。
「あ、あの……もしよかったら、一緒に――」
詩子が何か言いかけたときに、肩をドンといきなり押されて、俺は倒れそうになる。
目を向けるとそこには見るからにガラの悪い三年の四人組がいた。
進学校なのに、不良まがいのことをしている頭とたちの悪い奴らだ。
「いてぇなっ! こんなところでイチャイチャしてんじゃねえよ!」
俺にぶつかった一人が因縁をつけてくる。
面倒な奴らに絡まれたなと思いながらも、素直に頭を下げる。
「すみません……」
「ぶつかっといて、すみませんですむとか思ってねえだろな?」
自分からぶつかってきて、因縁をつけてくるとかヤクザか、コイツらは。
横目に詩子を見ると、青白い顔をしていた。
とっとと終わらせた方が良いな。
「ほんと、すみません。勘弁してください」
もう一度、頭を下げると、今度はもう一人が俺の胸ぐらを掴んでくる。
「だからっ! すみませんじゃねえんだよ」
だったらどうすれば良いんだよ。
苛立ちを覚えつつ、軽く頭を下げたまま考えていると、詩子の声が響く。
「や、やめてください!」
その声に俺は、慌てて顔を上げた。
三年の一人が詩子の腕を掴んで、ニタニタと笑っている。
「この娘、超かわいいじゃん。こんな奴とじゃなくて、俺たちと昼食べようぜ?」
「い、イヤです……離して……」
このバカたちは……学校でナンパとか、頭おかしいのか。
どこの田舎ヤンキーだよ。
「ちょ、ちょっと、先輩たち、いい加減に――」
俺がそれを止めようとすると、後ろから思いっきり蹴りを入れられ、前のめりに倒される。
「せ、先輩! は、離してください!」
詩子の大きな声が響いても、その三年はエロい顔で離そうとしない。
辛そうな詩子の顔に、激しい頭痛を覚え、同時に怒りがこみ上げてくる。
その怒りに応じて、体中が不思議と力に満たされていく。なんだこの力は。
そんな疑問が浮かびながらも、詩子の今にも泣きそうな顔を見て、怒りが増すばかり。
ここまでされたんだ、思いっきりぶん殴ってもいいだろう。
俺は立ち上がると、拳を強く握り締め、目の前のヤツに向かって踏み込む。
その時――
「――やめなさいっ!」
怒号のような大きな声が木霊した。
俺たちを取り囲んでいた野次馬の人垣が一気に割れていく。まるでモーゼの十戒のようだ。その先にいたのは雪城。
普段の雪城からは考えられないほど息を乱し、動揺を露わにしている。
問題を聞きつけて、急いでここまでやってきたのだろう。
雪城の出現で騒然としていた辺りは一気に静まり、三年たちは気まずそうに詩子から手を離す。
詩子はこちらに駆け寄って、俺の腕をしっかりと抱き締めた。
雪城が大きく深呼吸をして、人だかりを抜けてくる。
その顔は、なぜかひどく思い詰めているように見えた。
ただそれだけなのに、背筋に冷たいものが走る。
こりゃあ、生徒会長の雪城を本気で怒らせてしまったな。
まあ、こんな場所でナンパといじめやっている奴らだ。思いっきり絞られるといい。などと呑気に考えていると、雪城は俺の目の前で止まった。
「……なんで、なんでこんな場所で……」
雪城の声は、ワナワナと震え、怒りを押し殺しているようだった。
その矛先は俺に向けられている。なぜだろう。
いきなりの出来事に戸惑いながら、周りに目を向けると絡んできた三年もキョロキョロと戸惑っていた。
ぶつかってきたのも向こうだし、手を出してきたのも向こうだ。
こちらは反撃しようとは思っただけで、まだ何もしていない。
俺が咎められないといけないことなど、何もないはずだ。
「ちょっと待て、誤解だ。俺は何も――」
「してないなんて言わせないわ! こんな場所で何をする気だったの!」
俺の言葉を遮って、雪城の怒声が廊下に響く。
眉間には深いしわが寄っている。
いつもの雪城とは違いすぎて、まわりも戸惑っているほどだ。
殴り返そうとしたことが、そんなに気に入らないのか。
「せ、先輩は悪くありません! 先輩はあの人たちが絡んできたのを、助けてくれるところだったんです!」
俺と雪城の間に詩子が割って入り、三年の四人組の方を指さす。
雪城はハッとして周りを見渡し、顔を真っ赤に染めた。
そして、誤魔化すように咳払いをすると、詩子が指さした三年を見る。
「……本当ですか?」
その声はいつものやさしげな雪城だった。
雪城の問いに、三年は気まずい顔を見せる。
さすがに生徒会長がやってきて、強気でいられる状況ではないだろう。
一年女子を脅して無理矢理ナンパなんて、下手をすれば停学ものだ。
雪城は返事をしない三年を見て、状況を悟ったらしく小さく息を吐く。
「話はわかりました。とにかく解散してください。これ以上の問題は、生徒会長である私が許しません」
「ちっ……行くぞ」
三年は舌打ちをすると、その場を立ち去ろうとする。
しかし、そいつらに後ろから跳び蹴りをかます奴がいた。戸田だ。
三年が次々に、ドミノ倒しのように倒れていく。
「赤羽っ! ケンカするなら、呼んでくれよ!」
倒れた三年たちにガスガスと蹴りを入れながら、満面の笑みで楽しげな声。
見てる方がかわいそうに思うほど、一方的に蹴り続ける。
「戸田、君? 何をやってるのかな?」
雪城の声にぎくりとして、戸田の背筋が伸びた。
にこやかな笑みを浮かべる雪城。
それなのに、さっきまでの何倍も怖く思える不思議な表情だ。
「ゆ、雪城……」
「副会長が率先してケンカとか、私の前でよくできるわね?」
そういえば、戸田はけんかっ早く暴力的で、女癖が悪いが、生徒会の副会長なのだ。会長に睨まれれば、ああなるのだろう。
戸田が泣きそうな顔で俺に助けを求めてきた。俺は素知らぬ顔で目をそらす。
すまん、戸田。それは無理だ。怖すぎる。
※ ※ ※
放課後になり、昼休みの暴力行為で戸田や三年生たちは生徒指導部へ呼び出された。
一応、俺にも関係はあるはずなのに、そこに呼ばれることはなかった。戸田が終わるのを待つしかない。
しかし、陽も落ち、校舎内も暗くなっていく。どれだけ説教されているんだろう
戸田には悪いが、これ以上はバイトに間に合わなくなるので、先に帰ることにした。
靴を履き替えて、人気のない昇降口を抜ける。
白い息を吐き、空の暗さを確かめようと見上げたとき、真上から何かが落ちてくるのがわかった。
咄嗟に避けようと前に飛ぶ。
――軽く飛んだつもりだった。
思った以上に踏み込んでしまい、勢いを制御できず、そのまま顔から地面に突っ込んだ。
「いててて……」
痛みで情けない声を漏らし、顔を上げる。
雪城が一瞬、息を呑んだように固まっていた。
一気に熱が上がる。派手に転んだところを見られてしまったのだ。
恥ずかしさで頭が真っ白になり、慌てて立ち上がる。
すると雪城が一歩近づき、じっとこちらを見つめてきた。
「赤羽君、怪我は大丈夫?」
「あ、ああ。平気、平気」
俺は照れ隠しで努めて明るく声を出す。
なんとなく気まずくなって、昇降口の方へ視線を逃がした。
だが、その場所の異常さに、思わず釘付けになってしまう。
とっさに前へ跳んだ先の地面が、不自然にへこんでいた。
まるで強く踏みつけられたような跡だ。
……俺がやったのか?
その近くには、柔らかそうなボールが落ちており、おそらくあれが落ちてきたのだろう。
誰も取りに来ないし、どこから降ってきたんだ?
「今日はおかしいことが色々あるな、とか思ってる?」
雪城は俺と同じ場所に視線を向けてそう尋ねてきた。
「え? ……まあ、な」
「そうよね……」
雪城は全てを見透かしたような顔を見せて、言葉を止める。
不自然な沈黙に耐えきれず、話を切り出すことにした。
とりあえず、朝のことを謝っておこう。
「何か今日は色々とすまない……」
「……ん? なんのこと?」
雪城はかわいく小首を傾げた。
たったそれだけの動きで、顔が火照り、胸がドキドキする。
「い、いや、俺のせいで、クラスで変な噂されたり……昼休みとか……」
「ああ、それね。それは別に良いわよ。気にしないで」
にっこりと天使のような笑顔。
「あと……朝のセクハラまがいな発言……」
「――それは許せないわ! 二度としないで!」
天使のような笑顔が一瞬にして、悪魔に変わった。
やはりかなり印象の悪い会話だったようだ。
「わ、わかった。明日から雪城のそばには近づかないようにする……」
「……明日か。そうね、明日があればそうしてもらおうかしら……あれば、ね」
肩にかかった長い黒髪を払い、雪城は笑みを溢す。
妙な言い回しに、引っかかりを覚えるがそれ以上、会話が続かない。
なんとか雪城と楽しい会話に持ち込みたいところだが、残念なことにバイトの時間が迫ってきている。
俺が時計を気にしていると、雪城は肩を竦めた。
「これから用事があるのかしら?」
「ま、まあ……ちょっと……」
「そう。最近、物騒なことが多いわ。帰り道には気をつけてね。それと――」
雪城はにこやかにつぶやき、ボールを拾うと、俺の隣を通り抜けていく。
ふわりと辺りを舞う、雪城の甘い匂いに惑わされ、反応が一瞬遅れた。
気がつけば、雪城はすでに校門を過ぎている。
『――今日はコンビニに寄ったりしないようにね』
はっきりと雪城がそう囁いた。
アイツ、やっぱり昨日のこと……覚えていたんだ。
「つーか、さっきのボール、雪城が投げたのか!」
当事者のはずなのに、俺だけ生徒指導室に呼ばれなかったのも引っかかる。
それも、雪城が関わっているのかもしれない。
俺を試すかのような行動。一体何のために……
平和で安全な街だと思っていたこの美沢市が、取り繕った――まるで学校での雪城のように、すべてがウソと偽りの虚構だ。
……いや。
自分だけが世界から弾かれ、『存在しないもの』として扱われている。そんな薄気味悪い予感が、背中をぞくりと這い上がった。




