第三話 戦いたくない相手
人の繋がりは、想像以上に得体が知れない。
気づかぬうちに誰かの好意の対象になり、あるいは一方的な憎悪のターゲットにされている。
理由が明確ならまだ納得もできる。箸の持ち方や咀嚼音といったマナーの問題なら、改善の余地もあるからだ。だが、厄介なのはその先にある。
身振りの大きさ、真顔の冷淡さ、あるいは声のトーンや匂い。
自分とは何の関係もないはずの他人の記憶——親の面影や、かつての恋人の影——を勝手に重ね合わされ、一方的に断罪される。そんな理不尽な感情の飛沫が、見えない刃となってこちらに突き刺さる。
皆、自分の意志とは無関係に、誰かの物語の「悪役」や「救世主」に仕立て上げられている。
その脚本すら見えないまま、今日もまた、誰かの感情の荒波の中を無自覚に歩き続けていく。
俺は雪城にずっと憧れていた。
一目見たときから、気づけば視線で追ってしまう。
雪城を見ていると、胸の奥が落ち着かなくなる。
この感情を恋と呼ぶのかもしれない。
そんな相手だからこそ、嫌われるようなことをした覚えはない。
確かに俺が色々と言ってしまったのも原因はある。セクハラ紛いの発言もあったかもしれない。
だが、それは、昨夜のコンビニでのことを覚えていないフリをした雪城にだって責任がある。
黙っていて欲しいならそう言ってくれれば、別に追求する気はなかった。
俺は真実が知りたかっただけなんだ。
それなのに、隠し事した上に裏でこっそり俺を調べたり、怒鳴り散らしたり、当たりがキツすぎる。
正直腹が立った。もう関わるのはやめようか、とさえ思った。
……なのに、嫌いにはなれない。
周りからもわかるほど、感情がかき乱されてバイト中は失敗の連続。
怒られ続けたバイトも終わり、深夜の帰路を戸田と歩いているところだ。
すっきりしない感情に、ただただ振り回され、ため息を漏らす。
「おいおい、今日は朝からおかしかったけど、バイトが終わってもそれかよ。何か悩んでんなら相談に乗るぞ?」
戸田が心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
自分もお昼休みの暴力行為で教師達にこってりと絞られて、落ち込んでいるはずなのに、俺に気を使ってくれている。
戸田の気持ちがちょっとだけ心にしみた。まあ、ちょっとだけだが。
そもそも、戸田がきちんと覚えていてくれれば、雪城にセクハラ紛いの行動をする事態には陥っていない。
こいつ、どうにかして思い出さないかな。
そんなこと考えていると、戸田が急に立ち止まり、コンビニを見て、目を大きく開けた。
何かに気づいたような顔だ。
もしかしたら、昨晩のことかも知れない。
「どうした? 何か思い出したのか?」
「ああ。思い出した。昨日発売の週刊誌のマンガ、読んでなかった。いつもなら絶対に発売日に読んでんのにな……なんでだ? お前、読んだ?」
「……なんだ。そんなことか。読んだよ読んだ。つーか、お前も読んでたぞ」
「はあ、いつだよ?」
「だから、昨日のコンビニに寄って、読んだんだって。お前は覚えてないみたいだけどな……」
「また、その話かよ……お前もしつけえな!」
「だって、本当のことだからな!」
「……とにかく、俺は読んでから帰るわ。雑誌が売り切れると面倒だからな。お前も行くか?」
戸田がコンビニを親指で指し、笑顔を見せる。
家に帰りたがらない戸田からのいつもの誘い。
普段なら二つ返事で寄っていくところだが、別れ際に雪城に言われたことを思い出す。
『――今日はコンビニに寄ったりしないようにね』
なんだか、嫌な予感がする。やめておくか。
「うーん。今日はいいや。なんだか疲れてるし、このまま帰るよ」
「……そっか、わかった。危ねえ薬やってんなら早くやめろよ?」
「やってねえから! いや、マジで!」
「無理強いはしねえけど、悩みがあるなら、いつでも聞くからな?」
戸田はそれだけ言うと、颯爽とコンビニに向かっていく。
何度、尋ねても、絶対に思い出さない昨晩のこと。それでも、戸田の後ろ姿を見ていたら、一縷の望みを掛けてしまう。
「――もしも、マンガ読んで、何か思い出したら、連絡くれよ!」
俺の声を受けて、戸田は肩を竦め、振り返ることなく、手を上げて答えた。
戸田を見送り、とぼとぼと帰路につく。商店街を抜け、住宅街に入る。
少し歩いていると、背後から誰かに見られているような気がして、振り返った。
だが、そこには誰もいない。弱い街灯が寂しげに、住宅街の細い道路を照らしているだけだった。
気のせいか。頬をポリポリとかいて、前を向こうとする。
「惜しいわね。こっちよ」
不意に上空から声が降ってきて、慌てて見上げる。
五メートルほどの高さに、見覚えのある黒い服を着た女がいた。雪城だ。
あまりにも奇妙な光景に、何度も目を瞬かせた。文字通り雪城が浮かんでいるのだ。
一体どんな原理で浮かんでいるんだ?
戸惑う俺を楽しげに眺め、雪城はニコッと微笑む。
「赤羽君、こんばんは」
そのいつもと変わらない生徒会長の声。同級生と道ばたで会ったときのように気軽な挨拶だ。
この異質な状況ではそれが余計に気持ち悪かった。
ただ静かにそこにあって、俺を見下ろしている。
不気味な状況に理解が追いつかず、俺は数歩、後退った。
「なんなんだよ……お前……なんでそんな場所に立てるんだ?」
「あら、これがそんなに不思議?」
雪城はその場でクルリと回って、何でもないといった様子で両手を開く。
不思議も何もあり得ないだろう。
必死に考えて、一つの可能性を口にする。
「――糸か? ピアノ線とかそういったものを使ってるんだろ?」
「ふっ、本当にそう思う?」
雪城はスッとさらに十メートルほど上昇してみせた。
驚いている俺の顔を見て、一気に落下してくる。
「ちょっ――!」
足が地面に届く寸前、雪城の体がぴたりと制止する。
雪城は俺の顔を見て満足げに笑い、悠々と地面に降りた。
「正解、ピアノ線よ。すごいでしょ?」
自分で口にした話ではあるが、ありえない。
ピアノ線ではどうやっても反動を殺せないのだから、ぴたりと動きを止めるなんて無理だ。
仮に何かの装置で、こんなことが出来たとして、この場で俺に見せる意味もない。
こいつは一体、なにがしたいんだ?
「やだな、そんな顔しないでよ。冗談よ冗談」
顔は笑っているが、その目は非常に鋭い。
学校で見かけるような愛嬌と親しみなどを全く感じられなかった。
冷え切った雰囲気を纏っている。いつもの雪城とは違う、この時間の雪城だ。
徹底した二面性に寒気を覚える。
「……どっちが本当のお前なんだ?」
俺の質問に雪城が、目を丸くする。
逡巡し、口角を上げた。
「素で言うならこっち。学校では素敵な優等生を演じているだけよ。すっかり騙されちゃって、本当にバカなのね」
なんだ、この口の悪い生き物は。
優しい天使のような雪城がのイメージが音を立てて崩れていく。
百年来の恋も冷めちゃうんじゃないのか。
……なのに、嫌いにはなれない。
「……っ、何のためにこんなことやってんだ?」
「色々探られないようにかな。ふふふ、実はね。――私、魔法使いなのよ」
ピシリと世界が止まった気がした。
雪城はドヤ顔をして、胸を張っている。こいつ、頭大丈夫か?
「……魔法使い? はあ? この現代に、そんなのいるわけ――」
「今、浮遊して見せたのに、信じないの? 昨晩コンビニでも不思議な体験をしたのにね……」
「……戸田が何も覚えていなかったのも、大けがが一晩で治ったのも全部、魔法の力だったと言うのか?」
「そうよ。もっと言うなら、あの件自体が事故として処理されているのも魔法の力。みんなの記憶を混乱させて、事実を消したのよ。すごいでしょ?」
ニコニコして話を続ける雪城。説明するのが楽しくたまらないと言った様子だ。
確かに昨夜から起こっていることは、色々と理解できない。
魔法の力でしたと言われた方が説得力がある。
しかし、俺の記憶を消せていない段階で、どうにも胡散臭い。
「それが本当なら、確かにすごいけど……なんで俺の記憶だけ消さなかったんだ?」
「ただのイレギュラーよ。消さなかったんじゃない。消えなかったのよ」
雪城は人差し指を上に立てて、堂々とした顔を見せる。
だけど、言っていることはつまり――
「失敗したってことだな?」
「ち、違うわよ! いつも通りにやって、いつも通りの結果が出て、あなたの記憶だけが消えなかった。そういうことよ」
「……それを失敗って言うんじゃないのか?」
「だから、違うって言ってるでしょ! 失敗なんかしてないわ! 記憶が消えなかったアンタがおかしいのよ!」
息を荒らげて、アンタ呼びされたところから、雪城がかなり苛立っているのが分かる。
何か危ないヤツみたいだし、これ以上は関わらない方がいいんじゃないのか。
納得した振りをして、この場を立ち去ろう。
「色々教えてくれてありがとうな。じゃあ、夜も遅いから気をつけろよ!」
「そうね、あなたも気をつけて――って、言うわけないでしょ! なに勝手に帰ろうとしているのよ!」
雪城が怒鳴り続ける。
一秒でも早く帰りたいのだが、どうすれば解放してくれるのだろう。
「……なんだよ。まだ話があるのか?」
「あるから、こんな真似をしてるんでしょ!」
「だったら、早く要件を言ってくれ」
俺の言葉に雪城は呆れた顔をして、ため息を吐いた。
「意外と天然なのかしらね……まあ、いいわ。なら、要件を言うわね……アンタを殺すわ!」
「へ?」
ぞくっと寒気が走る。
俺が首を傾げた瞬間、雪城の手から青く光る玉が放たれた。
それは俺の頬をかすめ、派手な音を立て後ろの壁をけずって消えた。
首を傾げてなかったら、頭が吹き飛んでいたかもしれない。
避けられたのは本当に運がよかっただけ。だが、雪城は驚いた顔をしている。
「へぇ、避けられるのね。あっさり殺してあげようと思ったのに……」
「な、ななな、なんだよそれ!」
「魔力を込めて打ち出す弾、魔弾よ。攻撃魔法って言った方がいいかしら?」
軽い口調で言って、雪城は再び魔弾を放ってきた。
それはものすごい速さで俺に迫ってくる。
普段なら避けられるわけがないが、今日はなぜか体が異常に調子が良い。
俺は軌道を確認し、大きく横に飛び、それを避けた。
刹那、後ろから響く爆発音。さきほどまで、俺が立っていた近くの壁が粉々に破壊されていた。
「やめろ! そんなの当たったら死んじまうぞ!?」
「だから、殺すって言ってるでしょ! さっさと当たればいいのよ!」
三度放たれた魔弾。派手に転がりながら、ぎりぎりでかわす。
慌てて振り返り、雪城に視線を向けたとき、彼女の右手が俺の眼前に掲げられていた。
どうやら、完全に詰んでいたようだ。
「これで終わりよ」
殺される――
襲い来る死の恐怖。絶対に避けられない状況。
何かしなければ、次の瞬間には殺されるだろう。
「ひ、一つだけ! 一つだけ質問していいか?」
「やめてよ。死ぬだけですもの、聞いても無駄よ?」
「それはそうだけど! 訊かないと絶対に成仏出来ない! お前の枕元に毎晩立つことになるかも知れない!」
「はあ? なによそれ……まあいいわ、一つだけよ?」
雪城は小さく笑うと、スッと殺意が薄れたのがわかった。
この質問で雪城の殺意を完全に消さなければ、俺は殺される。
時間の余裕もない状況では、探りを入れるのも難しい。
シンプルな質問から、突破口を見つけるしかないようだ。
彼氏はいるのかとか、いや、彼氏がいたらショックだから、好きな人はいるのかの方が無難だな。
ていうか、思い切って告白してみるのはどうだろうか。
好きな人に振られたショックがあれば、死ぬを受け入れられるかもしれない。
そして、万が一、何かの奇跡が起こって、告白を受け入れてくれたら、殺すのをやめてくれるかもしれない。
都合のいいことばかりが頭に浮かんでくる。
目の前に迫った緊張と混乱もあっただろうが、雪城に愛を告げることが正しいことにしか思えなくなっていた。
だが、年齢イコール彼女いない歴の俺が、愛を囁くなんてできるはずもない。
ようやく口にした質問は実に単純なものだった。
「俺を殺そうとするのは、キライとか生理的に無理とか、そういう個人的な感情からなのか?」
「はあ? なにそれ? あなたのことは……うん、別にキライじゃないわよ」
雪城はキョトンとした顔で首を傾げる。
俺という人間を毛嫌いしているようには見えない。
「よかった……存在価値を否定されたらどうしようかと思った……」
「死が迫った状況で、そんなことが聞きたかったの? ホント変な人ね……」
雪城は笑いを堪えたような様子を見せた。
どこかほっこりとした空気が流れる。頼むならここしかない。
「じゃあ、なんか悪いことをしたなら、謝るから、殺すのはやめてくれないか?」
俺の言葉に雪城の動きはピタリと止まる。
しかし、すぐに大きく首を横に振った。
「……悪いけど、それは無理よ。殺したいのは個人的な理由じゃないもの」
雪城は覚悟した顔を見せる。俺の方を向いていた右手に力がこもった。
今にもその手から、魔弾が放たれてきそうだ。沈黙している暇はない。
「そんな力がありながら、なんで俺なんかの命を狙うんだ?」
俺の質問を受け、雪城はゆっくりと手を下ろす。
「正直、殺す気はなかったわ……。アンタはただの素人ですものね。放っておこうと思ってた」
「だったら――」
雪城はキツい視線で俺の言葉を遮り、一歩前に踏み出す。
「でも、覚えてる? 今日のお昼休みにアンタは魔力を使おうとしたのよ。もし、アンタが殴っていたら、あの人を殺していたわ……間違いなくね」
「お、俺が魔力を……?」
「そう、私も驚いたわ。どうして、アンタが魔力を使えるようになったのか、わからないもの」
意味のわからない話に、目眩を覚えてしまう。
さっきから雪城がポンポン放ってきているのが、魔法だとして、それは意味がわかる。でも、俺が使っていたと言われてもピンとこない。
そもそも、魔力というものがなんだかわからないし、そんなものを使った覚えもない。雪城の勘違いなんじゃないのか。
疑問を口にしようとすると、雪城がため息を吐く。
「今日、色々と変だと思わなかったの?」
言われてハッとする。今日一日、確かにおかしかった。
クラスで女子の声がハッキリ聞こえたこと。
屋上にいる雪城がハッキリ見えたこと。
着地ができないほど、前に跳んでしまったこと。
魔法を避けられたさっきだってそうだ。細かいことを言い出せばきりがない。
おそらく俺は魔力というものを気づかずに行使しており、そのおかげで色々と強化されてしまった。
考えれば考えるほど、つじつまが合ってくる。
突きつけられた事実に呆然としていると、雪城の顔が険しくなった。
「そりゃあ、思い当たるわよね……当然よ。それだけ垂れ流しているんだもの」
「だ、だったら、その魔力とやらを使わないようにすればいいのか? 方法はわからないから、教えてくれればなんとかするよ!」
俺の言葉を聞いて、雪城は顎に手を置いて考え込む。しかし、それは長くは続かなかった。
雪城はふいにピクッと身体を揺らすと、誰もいない隣を見て嫌な顔をする。そして、何を思ったのか、雪城はそのまま右手を伸ばす。
その手にはなぜか刀が握られていた。どこから取り出したんだろう。
高度な手品に驚いていると、雪城は恨みがましい顔で、俺を睨みつけてきた。
「こいつがアンタの魔力にいちいち反応して、面倒なことになっているのよ。もう私の言うことなんて訊きやしない!」
感情を発散させるように叫び、乱暴に刀を地面に突き刺す。
その刀を見て、昨晩、俺が使った物だと気がつく。そうか、話が見えてきた。
おそらく、俺が勝手に使って、壊してしまったのだろう。
雪城を守るためとは言え、大事なものを壊したのなら怒らせるのも無理はない。だけど、それで俺を殺さないといけないほどなのか。
弁償とかで解決方法もありそうだ。あまり高い金額は厳しいが……
「話はわかった。だったら、弁償するってことじゃダメか? 一括じゃ無理かも知れないけど、必ずなんとかするから……」
俺の提案を聞いて雪城は目を丸くする。
そして、破顔すると声を上げて笑い出した。
「さっきから面白いことばかり言うのね。お金なんかで解決できることなら、こんな真似はしないわ。アンタの命でしか解決できないことなのよ」
「ど、どういうことだ?」
「……昨日さ、自分の力だけで人形を倒したとか、勘違いしてない?」
あの人形がすごい力を持っていたのは覚えている。
だが、刀に話しかけられた辺りから、驚異を感じなくなった。
それはつまり――
「急激にパワーアップしたのは、その刀となにかあった。そういうことか?」
「正解。刀には、契約者の基礎能力を高める力があるのよ」
契約者。そんなものになった覚えは全くない。
だが、力を貸してくれたと言うことは、俺がソードと契約をしてしまったのだろう。
「悪かったな、本当にすまない……」
「ううん。謝るのはこっち。だって、アンタを殺すことしか、解決方法を見つけられなかったんだから……巻き込んでごめんなさい」
ウソみたいな優しい声で雪城は呟いた。
その声を聞いて、俺はゴクリと息を呑む。
雪城の中で完全に覚悟が決まっている。どうあっても俺を殺す気だ。
迷っている暇はない。雪城は今、手を下ろしている。逃げるなら今しかない。
体中に力がこもり、いつもより速く動けそうな気がする。これが魔力というヤツなのか。これなら逃げられるかもしれない。
俺は雪城に背を向け、一目散に逃げようと踵を返す。
しかし、次の瞬間、人間離れした速さで雪城が回り込んできて、蹴りを放ってくる。それをまともに喰らって、俺は吹き飛ばされた。
背中から壁に激突し、ずるずると崩れ落ちる。腹部に猛烈な痛みが襲って来て、今にも吐きそうだ。
「無駄な抵抗はやめて。逃がすわけにはいかないのよ……」
「……た、助けてくれ! だ、誰か! 助けてくれ!」
俺は声の限りに叫ぶ。こんなわけのわからない状況で殺されてたまるか。
ここは住宅街だ。俺の声に気づいて、誰かしら顔を出してくれるはず。そうなれば、雪城も諦めてくれるだろう。
そんな淡い期待をしたが、雪城の顔に焦りは見えない。
「無駄よ。ここは結界によって隔離してあるわ。どれだけ騒いでも他の人間には気づかれない。観念なさい……」
冷たい声を響かせながら、雪城が近づいて来ている。
逃げ場もなく、いや、仮に逃げ場があったとしても、雪城には簡単に追いつかれてしまう。
やばい。やばい。やばい。警告音が頭の中でひたすら響き続ける。
目の前が真っ暗になった。待っているのは死だけだ。
死にたくない、と首を横に振る。
しかし、近づいてくる雪城の顔には確固たる決意が滲んでいた。
「ごめんなさい。せめて痛みを感じないように、一撃で葬ってあげるから、大人しくしてて、ね」
すでに十分な痛みを与えられているが、それはカウントしないらしい。
少しだけ哀愁を漂わせた顔で、雪城が俺を見下ろしている。
腕をまっすぐこちらに向けられ、死を覚悟し目を瞑った。
瞬間、何かと繋がったような気がした。
いつまで経っても痛みは感じない。ゆっくり目を開け、見上げる。
――地面に刺さっていた刀が、雪城から俺を守るように浮かんでいた。
「ど、どうなってんだよ、これ!」
「だから、魔法の力だって! っていうか、なんでそいつの味方をしているわけ!?」
「マスター。ご指示を……」
突然聞こえてきたあの声。
俺に向けられた声。
――透き通った優しい声。
「お、俺を助けて、くれるのか?」
「はい。我が力の全ては、あなたのためのものです。マスター」
俺の質問にどこまでも頼もしい声で応えてくれた。
どうやら、この刀には本当に意思があり、俺を助けてくれるようだ。
「あ、相手が……雪城でも、いいのか?」
「もちろんです。それがあなたのご指示なら……この刀にすべてお任せ下さい」
頭を垂れるように、月明かりに照らされた刀が妖しく光る。
「わかったソード。だったら、よろしく頼む! 雪城から守ってくれ」
俺は立ち上がり、ソードをつかむ。
体中に湧き上がってくる不思議な力は、昨日感じたものと同じ。いや、それ以上に頼り甲斐のあるものだった。
さっきまで朧気だった魔力というヤツを、全身に感じる。
夢なんかじゃない。これは現実の話なんだ。構えなきゃ殺される。
生き残るため、大好きな人、雪城に刃を向けた。
「やっぱりこうなったか……」
刃先を向けられた雪城は諦めたような声を出し、顔を一度伏せる。
次に顔が上がったときには、覚悟が込められていた。
「俺は戦いたくない。見逃してくれるなら――」
「さっき、キライじゃないって言ったわよね。本当のことを教えてあげるわ。――大嫌いよ。殺したいほどにね……」
胸の奥で密かに温めていた期待が、その一言で粉々に砕け散った。
相手のためを思ってやったことがすべて空回り。
守ったつもりだったのに、気づけば嫌われて、殺されかけている。なにを間違えたんだろう。
俺という存在そのものが、雪城にとって『排除すべき敵』になっていたようだ。
そう悟った瞬間、足から力が抜けた。
# ボツ
仲良くなりたいと思っていた。
でも、雪城はおそらく、俺に対して良い印象をもってないだろう。嫌われていると言うべきか。
昨晩コンビニでのことや今日の学校でのことを思い出すと、どうして嫌な想像しか出てこない。
コンビニでの出来事は夢で片づけたいところだが、雪城の態度から昨晩のことが夢じゃないのは明らかだ。
しかし、コンビニで本当にあんな出来事があったんなら、どうして誰も覚えていないのだろう。事件にならないのも不可解だ。
いや、そんなことよりも、雪城のケガが一晩で治ったことについて、どうやっても説明ができない。
リアルに感じた生々しいあの血が、見間違いでもない限り。何ひとつ、答えを出せずに、頭の中はずっと疑問形だった。
そうこうしているうちに、バイトも終わり。戸田と一緒に帰っているところだ。
解決しない悩みに、ただただ、ため息を漏らす。
「おいおい、今日は朝からおかしかったけど、バイトが終わってもそれかよ。何か悩んでんなら相談に乗るぞ?」
バイト中もどこか上の空で身が入っていない俺を見かねたのか、戸田が珍しく真剣な顔をしていた。
昼休みに起こした暴力事件で、放課後も生徒指導室で絞られ、バイトにも遅刻して店長にも怒られたヤツに心配されている。
結構ヤバい状況だと思われているかも知れない。いや、実際、おかしな出来事が続いてヤバい状況ではあるが……
そもそも、戸田が覚えていれば、俺だってこんなに悩んでいない。
なんとかして、思い出させる方法はないモノか。
そんなこと考えていると、戸田が急に立ち止まり、コンビニを見て、目を大きく開けた。何か思い出したような顔だ。
もしかしたら、昨晩のことかも知れない。
「どうした? 何か思い出したのか?」
「ああ。思い出した。昨日発売の週刊誌のマンガ、読んでなかった。いつもなら絶対に発売日に読んでんのにな……なんでだ? お前、読んだ?」
「……なんだ。そんなことか。読んだよ読んだ。つーか、お前も読んでたぞ」
「はあ、いつだよ?」
「だから、昨日のコンビニに寄って、読んだんだって。お前は覚えてないみたいだけどな……」
「また、その話かよ……お前もしつけえな!」
「だって、本当のことだからな!」
「……とにかく、俺は読んでから帰るわ。雑誌が売り切れると面倒だからな。お前も行くか?」
戸田がコンビニを親指で指し、笑顔を見せる。
家に帰りたがらない戸田からのいつもの誘い。
普段なら二つ返事で寄っていくところだが、別れ際に雪城に言われたことを思い出す。
『――今日はコンビニに寄ったりしないようにね』
なんだか、嫌な予感がする。やめておくか。
「うーん。今日はいいや。なんだか疲れてるし、このまま帰るよ」
「……そっか、わかった。危ねえ薬やってんなら早くやめろよ?」
「やってねえから! いや、マジで!」
「無理強いはしねえけど、悩みがあるなら、いつでも聞くからな?」
戸田はそれだけ言うと、颯爽とコンビニに向かっていく。
何度、尋ねても、絶対に思い出さない昨晩のこと。それでも、戸田の後ろ姿を見ていたら、一縷の望みを掛けてしまう。
「――もしも、マンガ読んで、何か思い出したら、連絡くれよ!」
俺の声を受けて、戸田は肩を竦め、振り返ることなく、手を上げて答えた。
戸田を見送り、とぼとぼと帰路につく。商店街を抜け、住宅街に入る。
少し歩いていると、背後から誰かに見られているような気がして、振り返った。
だが、そこには誰もいない。弱い街灯が寂しげに、住宅街の細い道路を照らしているだけだった。
気のせいか。頬をポリポリとかいて、前を向こうとする。
「惜しいわね。こっちよ」
不意に上空から声が降ってきて、慌てて見上げると、五メートルほどの高さに、見覚えのある黒い服を着た女がいた。雪城だ。
目が合い、ただならぬ雰囲気にえも言われぬ恐怖が襲って来て、思わず数歩、後退る。そんな俺を静かに眺め、雪城はニコッと微笑む。
「赤羽君、こんばんは」
「こんばんは――って、なんでそんな場所に立てるんだ?」
雪城は浮かんでいるのでなく、見えない足場があるかのように、しっかりと立っている。あまりにも奇妙な光景に、何度も目を瞬かせた。
「あら、これがそんなに不思議?」
不思議も何もあり得ないだろう。
必死に考えて、一つの可能性を口にする。
「――糸か? ピアノ線とかそういったものを使ってるんだろ?」
「ふっ、本当にそう思う?」
雪城はスッとさらに十メートルほど上昇してみせた。
驚いている俺の顔を見て、一気に落下してくる。
「ちょっ――!」
地面にぶつかる寸前、雪城の体がぴたりと制止する。
今度は地面から一メートルくらいの辺りだ。
雪城は俺の顔を見て楽しそうに笑い、悠々と地面に降りた。
「正解、ピアノ線よ。すごいでしょ?」
自分で口にした話ではあるが、ありえない。
ピアノ線ではどうやっても反動を殺せないのだから、ぴたりと動きを止めるなんて無理だ。そもそも、それらを操っている機械もない。
明らかなウソに顔をしかめてしまう。
「やだな、そんな顔しないでよ。冗談よ冗談」
顔は笑っているが、その目は非常に鋭く、学校で見かけるような愛嬌と親しみなどを全く感じさせない、冷徹とした雰囲気を纏っていた。
いつもの雪城とは違う、この時間の雪城だ。




