3 道程
姉が居なくなってから、ひとりでどうやってここまで来たのだろう。
気付けば、少年は一人でどこかの町の中に居た。市場の店先に並んだ食べ物を掴んで、逃げる。
少年は子どもだったが、勝手に人の物を取ってはいけないことくらい知っていた。
それでも、盗らなければ、自分が死んでしまう。
思い切り逃げたつもりだったが、大人はすぐに追いついてきた。大きな目の妖精族の男は、少年を見て一瞬怪訝な顔を見せ、それから大声で笑い出した。
市場に居たひとびとが集まってくる。
男は少年を指差して、言った。
「半妖精族」
その後、幾人かはその場から逃げ出した。
残ったのは下卑た笑いを浮かべる男ばかりで、いきなり顔を殴られた。物を盗ったことへの仕返しだと思って、少年は大人しくしていた。
だが、いつまで経っても、少年への暴行は終わらなかった。
***
翌日、ルカはサルムに頼んで、少し早めに仕事を上がらせてもらった。
いつものように、畑の畦道を歩いてイーメルと人族の子ども達が遊ぶ場所へ行った。普段より時刻が少し早いので、子ども達はルカを見て最初不思議そうな顔をした。
「まだ時間あるから遊んでろ。でもお姫さん借りるぞ」
ルカが言うと、子ども達は鬼ごっこの続きを始めた。
会話を聞いていたイーメルが、畑から畦道へ上ってきた。
「今日は早かったな。何か用か?」
「お姫さん、地図持ってねえかな。カザート全体地図」
「持ってはいるが、そなたには見えぬぞ」
どうしてそんな物を見たいのか、と言いたげな表情でイーメルが言う。
やっぱり石版か。でも、見えないってだけで、見てはいけないとは言わなかったよな。
「それ、借りられないかな。調べたいことがあるんだ」
「別に良いが、何を調べる?」
「俺の故郷、昔妖精族に滅ぼされた……って前にも言ったっけ?」
イーメルが首を横に振る。まだ言っていなかったらしい。
「その妖精族の軍隊を率いていたのが……」
イーメルが少し離れた場所から、自分を見ている。
言いかけて、ルカは気づいた。ルカの町を滅ぼしたイレイヤ公がカザートのヴォルテス王本人かどうかを、ルカは確認しようとしている。そして本人であれば、ルカはヴォルテス王を倒す。つまり、イーメルの父親を倒すということだ。
「あ、いや。俺の故郷が妖精族に滅ぼされたんだけど、俺自分の故郷の名前を思い出せなくて。もしかするとカザートの中の町だったかもしれないから、見たら何か思い出せるかなーと」
「ふむ」
イーメルが相槌を打った。
「その妖精族の軍隊を率いていたのが、我が父、つまりイレイヤ公だっのではないかと、そなたは考えておるのじゃな?」
「えっ、ああ、……」
誤魔化したつもりだったが、何の意味もなさなかったようだ。
「では明日、地図をそなたに貸そう。そなたでは見ることもできないであろうが、金を払えば図面にしてくれる者もおるだろう」
奴隷がそんな余分な金を持っているわけがない。どうせ見られないのだから、と思っているのだろうか。
「お姫さん、」
忠告はしておこう、と思う。イーメルは人族を甘く見ている。無用心だ。
「もし、それで俺の町を滅ぼしたイレイヤ公が、確かにこの国の王だと確認できたら、俺がどうするか分かるよな? 俺の故郷で生き残ったのは多分俺だけだ。女子ども関係なく殺された。町を火の海にされた。俺は戻る場所さえ失った」
イーメルは畑に戻りながら、ルカを振り返った。
「地図を貸すのは、いつも子ども達を送ってくれる見返りじゃ。別にそなたのために貸すわけではない。それに」
立ち止まって、唐突にイーメルがルカの方へ戻ってきた。
ルカの眼前に立って、イーメルが言い放つ。
「そなたの町を滅ぼした妖精族の名がイレイヤで間違いないと言うのならば、地図なぞ必要ない。ここ千数百年の間、イレイヤと名乗っていたのは父の家系のみ」
イーメルは、ルカが確認したいのは、ルカの故郷がカザートの一部となっていれば父がルカの故郷を滅ぼしたと分かるということだと思っていた。しかしルカは、滅ぼしたのがイレイヤという名前の妖精族だと知っていた。それならば、それ以上の確認は不要だ。
カザートは征服を重ねて大国となった。そこら辺の人族や妖精族はほとんどが征服した地の者達だ。以前の権利を失った者や、戦いで家族を失った者の中には、ヴォルテス王を恨む者が居て当たり前。
わらわらは憎まれて当然じゃ。
「それでも地図が見たいのであれば、約束通り、明日持って来よう」
笑い飛ばしたかった。
王を倒すなぞ莫迦げたことだ、そなたでは王に近づくことすらできぬ。
いつもならそう言っただろう。しかし今は、
わらわを利用する気だったのか。
その気持ちが強く出て、口を開けばそう言ってしまいそうだった。惨めな言葉だ。イーメルはルカに地図を貸すと言った。既に利用されているではないか。妖精族の王女が、なんということだ。
ルカがヴォルテス王がイレイヤ公だと知ったのがつい昨日のことだとは、イーメルは思いもしなかった。
「お姫さん」
ルカが言う。
「やっぱ地図貸してくれ。姉ちゃんが、あれはイレイヤ公の軍だって言った。だからきっとそれで間違いないんだと思う。けど、自分で確認したい」
イーメルはそれを聞き、頷いた。
イーメルに借りた地図は案の定というか、ルカには見ることができなかった。ルカが見ることができるのは、新しい物のみ。記録されてから一年も経つと見られなくなってしまう。古くなればなるほど、記録力が弱くなっていて見ることができない。それは純粋な妖精族でも同じだが、妖精族は保存状態の良い物ならば千年前の物でも見ることができると言う。
ルカは羊皮紙を数枚セイロンに用意してもらった。文字を書いて覚えたいと言ったらあっさりと貰えたのだ。
一枚に、ルカはサインを書いた。カザートに来て居住権を得る為の話をネルヴァとしていた時、ネルヴァが石版に記していたものを真似する。
ルカに読めない地図を誰に書き写してもらうか、ルカはネルヴァに頼むつもりだった。しかし、ネルヴァが住む寮は分かったものの、入り口で門前払いされてしまったのだ。それで、ルカは以前ネルヴァが使っていた署名を利用することにした。
前回と同じように、ルカは寮の門で呼び止められたが、素早く、ネルヴァの署名を真似たものが書かれた羊皮紙を門番に見せた。
「ネルヴァ様から、この通り特別な命令を受けまして。これが相手からの書状なのですが、ネルヴァ様に直接確認してもらわないと」
地図の石版の頭を少しだけ門番に見せる。
これだけしか見えないと、石版に何が書かれているのかは分からない。
「そっちを見せろ」
ルカが持つ石版を指して、門番が言った。
「とんでもない。相手の方から、ネルヴァ様以外には見せてはならないと言われております。わたしも当然中は見ておりません」
「お前は阿呆か。人族が見ても見えるわけがないだろう」
「おっと、そうでした、そうでした。ここだけの話」
ルカは声を潜めた。
「わざわざ人族であるわたしに使いをさせたのには、貴方様が仰いますように、どうしても書状の内容を見られたくなかったからではないでしょうか。相手の方はそれはそれは美しい女性の方でして……」
「ふむぅ。仕方ないな。ネルヴァ殿のサインもあることだし、今回だけ特別だぞ。次からはちゃんと手続きを取るよう、ネルヴァ殿に伝えておいてくれ」
話の分かる門番だ。
ルカは門番にお辞儀をしながら、寮に入った。
ネルヴァの住む部屋は確認済みだから、まっすぐにそこを目指す。部屋は番号順に並んでいて、ネルヴァの部屋は三号室。番号というのは左から小さい順に並べるのが普通らしいから、部屋番号が石版になっていてルカに読めなくても、大体想像がつく。
左から三番目の部屋の扉を叩く。
一瞬、部屋の外を確認する為の小窓が開いて、その後扉が開いた。
「早く入れ」
ネルヴァがルカを部屋に引き込む。
「ったく、なんでこんなとこに来た。それと、勝手に私の恋人を捏造するんじゃない」
部屋には窓があって、そこから先ほどの門番が見えている。それにしても結構な距離だ。
うわ。耳良過ぎだろ。
妖精族の聴力が優れているのは知っているが、まさかあの小声まで聞き取られるとは思わなかった。
「言っとくけどな、お前の嘘がバレなかったのは、偶然、私がついこの前、実際に同じことをしたからだ」
「恋人と逢び――」
「田舎のお袋が病気で! 今一応警備の待機中だろう。普段は親とだって一週間に一度か二度、手紙でしか連絡できないんだ。でも様態が良くないらしくて心配でな。まったく」
腕組みして、ネルヴァが言う。
「で? 何しにここまで来たんだ」
言われて、ルカは地図をネルヴァに見せた。
「この地図を、俺にも分かるようにこっちに写して欲しいんだ」
丸めて持ってきた羊皮紙も見せる。
「どれどれ」
拒否するわけでもなく、ネルヴァは石版を手に持って見た。
「これはまた……細かい地図だな。全部写すとなると相当時間が掛かるぞ」
「大雑把なところだけでいい。町の名前とか形とか、目立つ道とか分かれば」
ネルヴァにペンも渡す。
受け取ってくれたということは、地図を写す気があるということだ。
「ルカ、いつまでここに居られる」
「明日の仕事が始まるまで」
「朝帰りはよせ。私が変人扱いされるから」
「なるほど。じゃあ、日付が変わる前には終わるって事か」
「まあ、そういうことだ」
ネルヴァは石版を見ながら、まずはカザートから書き込み始めた。
ネルヴァの作業は手早かった。国境、それに町と町の境界線を引くのはすぐに終わった。それからいくつか点を打っていく。
それが終わると、ルカにペンを返した。
「地名はお前が書くんだ。私は人族の字を知らない。ここがカザートだ」
地図をルカの方へ向けて、指差す。
「こっちがチュンウ。ああ、上が北な」
国の名前を書き込んでいく。
「ここが『竜の洞窟』だ」
点を指してネルヴァが言った。
「竜の洞窟? なんだそれ」
「ああ、カザートでは結構有名な観光地だよ。名所を入れると分かりやすいかと思ったんだけど、そっか。ルカはこっちの人じゃないんだよな」
「ふぅん」
「大きな鍾乳洞さ。中には『竜の剣』っていう伝説の剣があるそうだ。まだその辺がカザートじゃなかったころは、結構竜の剣を探す冒険者とか居たらしい」
「なんで伝説なんだ」
「見た人が居ないからだろ。噂ではそれは竜の牙で出来ていて、一撃で百の妖精族を倒すらしい」
ネルヴァが言う。それほど関心はないようで、ネルヴァの言葉はどこか淡々としていた。
確かに、一撃で百とか、竜の牙を使っているとか、何とも嘘臭い話だ。
「で、こっちがラグナダスって書いてある」
言われた通りに、記入していく。元々知らない国。地名を聞いても何もピンと来なかった。
暫くそれを続けていたが、やっとネルヴァが
「これで大雑把なとこは全部だ」
と言った。それから小声になった。
「それにしても、どこでこの地図を手に入れたんだ? 私も知らないような道が細かく書き込んである。多分王族用の抜け道だ」
「え?」
この地図はイーメルから借りたものだ。だからネルヴァが言うような王族用の抜け道が描かれていてもおかしくはないが、地図の用途はイーメルに伝えたし、そこまで細かな地図が欲しかったわけではない。
「なんだ、知らずに持ってきたのか。まあいい。出所は詮索しないことにするよ」
「いや、これは」
おそらくネルヴァは、機密扱いの石版をセイロンがルカに渡したと思っているだろう。ネルヴァの親切は分かるが、勘違いによる気遣いは困る。
「イーメルが……」
何の為に? これしか地図がなかった? そんなはずはない。俺の目的をお姫さんは知っていた。俺の目的はなんだ? 俺の町を滅ぼしたのがヴォルテスかどうか確認し、間違いなければ。
「王……す為に……」
急いで口を噤む。小声だった。今度は間違いなく。声にすらなってなかったはずだ。だからネルヴァにも聞き取られていないはずだ。
「悪い、ネルヴァ。これは見なかったことにしてくれ。多分持ち主は、どうせ俺にこの地図は見られないと思って、あまり気にせずに渡したんだ」
ネルヴァが頷く。
「わかった。とにかく、あまり危ないことに首を突っ込むな」
ネルヴァの言葉を聞きながら、ルカは石版を袋に入れ、羊皮紙は丸めて手に持った。
「すまない、ネルヴァ。ありがとな」
ルカは礼を言って、ネルヴァが住む寮を後にした。
数日後、ネルヴァが入っている警備隊に、ラグナダス北へ駐屯する命令が下った。
先日ルカに見せてもらった地図のことを、ネルヴァは思い出す。確かラグナダスは結構広い地域だった。首都カザートから北西へかなり行った辺り。
実家へは少し近くなるが、駐屯命令中に家に帰れるのは休暇を貰えた日だけだ。
「それにしても何で今更ラグナダス地方なんだ」
廊下に荷物を出していると、同じように廊下に出ていた同僚達が立ち話をしていた。
ラグナダス地方はカザート建国の直前に平定され、今は完全にカザートの支配下にあると聞いている。ここ最近侵攻している地域とは方角も違う。
「これから寒くなるってのにな。おい、ネルヴァ、お前毛皮持ってるか? 無いなら貸すよ」
金色の髪をかなり短く刈上げた男が言った。
ネルヴァが答える前に、嵩張りそうな毛皮のマントがネルヴァの前に飛んできた。
「ありがとう」
毛皮を投げた男、ウルプスに礼を言い、ネルヴァはマントを丸めて荷物の上に一緒に縛り付けた。
カザートは砂漠の国と言われるが、その国土は広く、北側では雪も降る。毛皮のマントは警備隊への支給品だ。ネルヴァはこの警備隊に移動して間もないからまだ持っておらず、同僚の配慮がありがたかった。
ウルプスとはずいぶん昔からの知り合いだ。ネルヴァが成人して間も無く軍に入った時、同じようにウルプスも新人の軍人だった。軍を辞めて警備隊に入った理由は聞いていないが、おそらくもっとも一般的な理由――軍で思ったほど出世できなかったのであろう。
「まさか、さらに北へ攻め入ろうってわけじゃないよな。あれより北は年中氷が溶けない地域だって聞いてるぞ」
「西側を狙ってるのかもな。ラグナダスの西には葡萄酒の産地がある」
軍が北へ攻め入ろうとも、西へ攻め入ろうとも、今ネルヴァが参加している警備隊は直接戦争に参加するわけではない。名前の通り、警備が仕事なのだ。
「ネルヴァ、お前はどう思う」
ウルプスが言った。最近警備隊に移動したばかりのネルヴァを気遣ってか、よく話を振ってくれる。
「戦争にならないのが一番だがね。しかしヘルメイド准将が既に同じ方角に向かって出立したという話も聞く。装備品に葡萄酒は含まれなかったそうだ」
ヘルメイドは現在のカザート軍内で最も武勲を上げたとされる男だ。そのヘルメイドが北西へ向けて出立したことはネルヴァが言うまでもなく、ここに居る者なら誰でも知っていることだった。
「そこから、どう考える?」
「征服した地で酒を得るつもりだろうと、私は考える」
「なるほどな」
酒は妖精族にとって特別必要な物ではない。少量でも判断を鈍らせるし、多量に摂取すれば視界さえも悪くなると言う。しかし昔から勝利を酒で祝う風習があり、酒が美味なのも間違いないことだったから、軍の活動と酒は切り離せない関係にあった。
だからと言って、酒の為に西地域に侵攻するなど、あまりにも莫迦げた話だ。
ネルヴァは小さく溜息を吐いて、それから大きく息を吸った。
警備隊は、軍に入ったものの活躍できず名を売ることができなかった平民が、最後に行き着く場所だ。軍に比べて活躍の場は少ない。その上俸禄は軍馬を預かる馬屋の管理人よりも少ないが、平民であるネルヴァが生きていくにはそれくらいでちょうど良いと思うのだ。馬屋の番よりもやりがいはある。
まだルカくらいの年齢だったころは、貴族に憧れて、軍に入り名声を上げ爵位を授かろうなどと思ったこともあったが、貴族制度自体に疑問を持ってからはそう言った気負いもなくなった。
国の情勢が安定したら、そのうち警備隊を辞職して、妻を娶り実家で母親と暮らす。
ネルヴァはまだ辞職を考えるほど年を取っているわけではない。今年で八十六歳だ。急いで結婚を考える程でもない。しかし病気がちな母親を、戦争で死んだ兄達に代わって、自分が近くで支えたいのだ。
貴族でないネルヴァの家庭には奴隷が居ない。母親は田舎で一人暮らしをしている。自分が近くに居なければならないと気づくのに何年掛かったことか。
円満に退職する為には、妙なことには首を突っ込まない、文句を言わない。それが大事だ。
いちいち騒ぎを起こす人族の男を思い出す。
ルカだ。
どうにも、ルカが来てから、ネルヴァの予想と違った方向へ進んでいる気がする。しかし悪い方向へ進んでいるわけではないと思う。なぜなら、ルカがやることを正しいと思えるからだ。
ルカは王城の抜け道まで記された地図を持ちながら、その内容は追求しなかった。本当かどうかも聞かれなかったから、他へ売る気でもないらしい。信念を曲げることなく、純粋で、他人への思い遣りがあるように思う。
俺の勘が正しければ、だけどな。
ネルヴァは廊下にウルプスや他の同僚と並んで、点呼を待った。
ラグナダス地方へ旅立つ前に、ネルヴァは母親に宛てて手紙を書いた。手紙での連絡もこちらから出せるのは一週間に一度だけだ。
もちろん出す手紙は無作為に選ばれて検閲を受ける。だから、お互い当たり障りのないことしか書かない。それでは物足りないから、ネルヴァはこっそり母親からの書簡を受け取ったりしていたが、これから戦争を始めようとする地域では、手助けしてくれる者も居ないだろう。
兄が次々と戦争で死んだ後、残ったネルヴァは自分が偉くなることが母を喜ばせることだと思い、必死に軍で働いた。しかし平民であるネルヴァはどんなに頑張っても兵長止まりだ。それより階級を上げるには、死んで三階級特進を狙うほかない。
私は何をしていたのだ。
母が病で倒れた時に、死ぬことでしか得られない階級を追い求めていたことを激しく後悔した。兄弟が皆死んでしまうことこそ、母を悲しませる最大の事柄なのだと気づいたのだ。
『母上、私はこれからラグナダス地方の警備に向かいます。カザートよりもそちらに近いですから、折を見て会いに行きたいと思います。どうぞお元気でお過ごしください』
「お前ほんとにマザコンだな」
後ろから覗き込んだウルプスが言った。
「うるさいな。お前には関係ないだろう」
「すっごい美人の恋人が居るって噂はどうなったんだ?」
ああ、ルカが言ったことか……。
頭を抱えたくなったが、機転を利かせることにする。
「それは私の母のことだよ。私の母はほら私を見れば分かる通り、絶世の美女だから、きっと使者が勘違いを――」
ウルプスが最後まで聞かないうちに、首を竦めて首を左右に振った。話にならない、という仕種だ。
「そうかそうか。それじゃ、昔よく見かけた人族のガキがお前の恋人だったかな?」
「からかうのはもうやめにしてくれ。私は人族と必要以上に関わるつもりはない」
別に人族は嫌いではない。寿命と老化の速度が違うだけの、ほとんど同じ種族だと思っている。だから人族と友になることはできる。だが結婚相手を選ぶなら妖精族でないといけない。
「お前の口癖だったな。『寿命と老化速度の違いが考え方の違いを生む』」
ウルプスが言った。
ネルヴァが頷く。
「でも緑髪の医者が言ってただろ。『考え方は寿命や老化速度が作り出すものじゃない。ひとそれぞれ違うのが当たり前だ』って」
そう言っていたのはソルバーユだ。確かに、その考えにも同意できる部分はある。妖精族同士でもいがみ合うことはあるし、人族同士でも同じだからだ。
それでも、自分にそう言ったソルバーユの姿を見ると悲しくなるのだ。彼が連れている助手の女性は、彼が遥か昔に恋した人族の女性に姿を似せているのだと聞いた。
同じ時を生きられないことほど悲しいことは無い。
私は彼女と早いうちに別れて幸いだった。
「ま、ラグナダスにも美人はいるさ」
ウルプスはネルヴァの肩を軽く叩いて、先に歩いて行った。
ネルヴァが所属する警備隊は、六日掛けてラグナダス最北の駐屯地へ到着した。
先に出発していたヘルメイド率いる軍隊は、一部はこの駐屯地に残り、一部が先行して偵察に赴いていると言う。
ラグナダス地方は、今は冬が近く寒気に覆われているが、基本的には温暖な気候の地域だ。だが戦争の爪痕とでも言うべきか、妖精族や人族が暮らす集落は少なく、荒地が広がるばかりだった。
「残念だが美人は居ないようだ」
到着を歓迎して開かれた小さな宴の時、ウルプスがネルヴァに言った。
「最初から期待してないよ」
ウルプスが持ってきた酒を少しだけ注いで貰って、一気に飲む。
軍にはそれ専門の女性が配属されるが、警備隊にはそんな特典は付いていない。
あまり思い出したくない。
かわいそうだと思っただけだ。別に、彼女を伴侶にしたいと思ったわけじゃない。
母に会わせた時、二人で楽しそうに喋っていた。二人とも、こんなに普通に笑うことができるのかと驚いた。
「おい、ネルヴァ。まだ酔ったわけじゃないだろ。ほら、まだ酒あるぞー?」
ウルプスがネルヴァの前で手を振って、おどけた口調で言う。
宴が始まってからそれ程時間は経っていないが、ウルプスは相当酔っているように見えた。
「お。あの子かわいいんじゃないか? ほら」
ネルヴァの首を無理やりそちらへ向けて、歓迎の舞を見せている女を指差す。
「お前好みじゃないか? ああいうの」
ウルプスを煩わしく感じて、ネルヴァはその手を払いのけた。
「どうせ抱くならああいうのがいいね〜。大人しそうで、殴っても蹴っても何の反応もねえの。やりたい放題」
いくら酔っていると言っても、言葉が過ぎる。
「ウルプス、いい加減にしないか」
隣に座っていた同僚が、ウルプスの腕を引いて座らせようとしたが、ウルプスは立ったまま、酒瓶をネルヴァの前に置いて言った。
「エピデトにそっくりだ」
気づいたら、ウルプスを殴っていた。
殴った時の手の痛みで一瞬我に返ったが、どうせなら意識が飛んでいる方が後々弁解しなくて済む、そう思って再度怒りに身を任せる。
同僚達に取り押さえられて身動きが取れなくなってから、やっとネルヴァは完全に自我を取り戻した。
ウルプスも同僚に取り囲まれていたが、暫くして一人に支えられながら部屋から出て行った。
「お前も頭を冷やせ」
ネルヴァの頭上から声が降ってきた。見るからに位の高そうな凝った装飾の鎧を身に纏っている。
「ヘルメイド准将」
その鎧に入った紋章から、ネルヴァはそうと気づいて言った。
「お前達の任務は何だ? 来るそうそう酒に酔って暴れてここの規律を乱すのが目的か?」
ヘルメイドが大声で、その場に居る全員に聞こえるように言う。
「ここに居るのはお前達警備隊だけではない。これから戦いに向かう獅子達も居るのだ。士気を下げるような真似をするな! お前達の任務は、駐屯所を置かせてもらっているこの町を敵兵から守ることだ!」
先ほどまでざわついていたのが、一気に静かになった。
ネルヴァは縄を掛けられた。自分では意識していなかったが、相当暴れたらしい。暫く牢に入れられるようだが、それも仕方がないことだった。
ウルプスに悪いことをしたな。
牢の中でネルヴァは少し後悔した。ウルプスは酒を飲むと口が悪くなる。それはいつものことで、平常に戻ってから必ず謝りに来るのだ。
でもなんでエピデトの名前を知ってたんだ。
ネルヴァが軍に居た頃ウルプスも同じ部隊に居て、エピデトを見かけたことくらいはあっただろうが、名前までは知らなかったはずだ。あの頃、ウルプスに『名前くらい教えろ』と何度も言われた覚えがある。
牢に入ってからどれくらい経っただろうか。
食事が時々出てくるから、一日やそこらではないだろう。いくらなんでも喧嘩の罰にしては長すぎるが、食事を運んでくるのは軍人で、尋ねてもネルヴァの事情を知る者は居なかった。
「ネルヴァ、ウルプスがお前に謝りたいと言ってる。会うか?」
やっと同僚のひとりと会えた。その事にほっとする。
「ああ」
返事を返すと、その同僚と入れ替わりにウルプスが牢の前に立った。
「ネルヴァ、すまなかった。酒に酔っていたとは言え、お前に酷いことを言ってしまった」
「いや。私の方こそ、殴って悪かった」
ウルプスの顔にはネルヴァが殴った痕が残っている。何箇所か応急処置の跡が残っていた。
ウルプスが牢の柵を両手で握り締めた。
「今お前を牢から出してもらうよう、手続きを取ってきたんだ。お前は早く家に帰るんだ」
「は? どういうことだ。解雇ってことか?」
「違う」
ウルプスは柵に顔を押し付けて、少しでもネルヴァの近くへ寄ろうとしているようだった。
「俺が殴られて怪我をしたと聞いて、俺の親が動いた。お前の家族が危ない。早く家に帰って、お袋さんを連れて避難してくれ」
ウルプスの親が動く。それがどういう意味か、ネルヴァはすぐには分からなかった。ただ嫌な予感だけする。
「出て良いって」
少し離れたところから別の男の声がして、牢の前で待っていた同僚が牢の鍵を開けた。
「お前が一時隊を離脱する許可を隊長に取った」
ウルプスが言いながら足早に歩いていく。
ネルヴァはその後を追った。
「待て、どういう意味だ。お前の親が動いたら、なんで俺の家族が危なくなる」
ウルプスが立ち止まって、ネルヴァを振り返った。
「いいか。今度は怒らずに最後まで聞け。お前には気に食わない話かもしれないがな」
言われて、頷く。
「俺はお前と違ってこれでも貴族だ。貴族っつても下級もいいとこだけどな。でも俺の親は自尊心だけは上級気取りで、平民のお前に俺が怪我させられたって聞いてぶち切れたらしい。さっき通信員が俺の家の奴隷と一緒に来て、ネルヴァの家を潰しに行くから俺はネルヴァを片付けろってな連絡を寄越してきたんだ。もちろん俺はお前を殺したりしねえ。俺が悪かったんだしな」
「家を潰す?」
「ああ。文字通り、大勢で掛かって家に居る者皆殺しだ。こっちには仇討ちっていう大層な理由があるってな」
「莫迦な」
「ああ莫迦な話だ。でも止めようにも、こっちからの連絡が着く前に事は終わっちまってるだろう。だから、今からすぐにお前は家に戻るんだ。それなら間に合うかもしれない」
ウルプスがまた歩き出す。
駐屯地の外れに隊長が馬を連れて居た。
「ヘルメイド准将に言ったら、馬を貸してくれた」
ウルプスが言う。
「戻ったら礼を言うんだぞ」
隊長がネルヴァに言った。
ネルヴァは頷き、馬に跨った。
馬を走らせながら、ネルヴァはなぜ今自分が家に向かって急いでいるのか、もう一度考えた。
ウルプスがエピデトの名を出した。それで私がウルプスを殴った。おそらくその時点で宴は終わっただろう。それで私は牢に入れられた。そこまでは到着した当日のことだ。
ウルプスの家はカザートにあるから、同じ時刻に出発すればネルヴァが先に実家に着くことになる。多少あちらが早く出たとしても、身一つのネルヴァが先に着くはずだ。だが、あちらが出発したのが二、三日早かったとすると。
馬の足が遅くなった。体力がなくなってきたのだろうが、休ませる時間が惜しかった。しかしこんな早くに馬を潰すわけにはいかない。しかも准将から借りた軍の馬だ。
くそっ。
焦る気持ちを抑えて、ネルヴァは馬から下り短い休憩を取ることにした。
二晩越えた朝、ネルヴァは実家へ辿り着いた。ひとの気配はない。
門は壊されていた。壊さなくても普通に開くのに。
馬を壊れた柱に繋ぎ、ネルヴァはひとりで家に入った。
家の扉には鍵が掛かっていなかった。取っ手を回すまでのこともなく、蝶番が外れた扉はギイギイと音を立て、風を受けて開いた。
広間の天井にあった大き目の室内灯が無くなっている。地面に落ちているわけでもない。左の応接室を見ると、綺麗に整ってはいるが、ネルヴァの記憶よりもかなり地味だった。来客用の椅子や机には、母が好きだった薔薇の花の刺繍が施された覆いが掛かっていたはずだ。
他の部屋は見ずに、とにかく母の部屋へ急ぐ。
「母上」
部屋の扉の取っ手はやはり取れていて、扉と付近の壁には斧で切り付けたような傷もついていた。
血の臭いだ。
扉を押して、中に入る。既に希望は無いに等しかったが、ネルヴァは部屋を進み、母が眠る寝台を覗き込んだ。
顔もドレスも真っ赤に染めた母の体が、そこに横たわっていた。
「母上」
「……ネルヴァ?」
驚いて、ネルヴァは母の顔を見た。
薄く目を開け、ネルヴァを見ている。スースーと、息が別のところから抜けていく音が聞こえた。
「おかえりなさい。貴方は悪くないって言ったのだけど、あの人たち分かってくれたかしら」
消えそうな声で言う。
「母上、喋らないでください。医者を呼びます」
母は頭をわずかに動かした。首を横に振ろうとしたのだろう。
「ネルヴァ、立派になりましたね。貴方はわたしの自慢の息子です」
そう言って微笑む。
そのまま目を閉じ、開かない。
「母上!」
大声で呼びかける。
スースーという音はまだ聞こえていたが、やがてその音も消え去った。
親は自分より早く死ぬものだ。だがそれでも、寿命であれ失うのは怖かった。母は病気で、それで失うのも怖かった。しかし誰が、ひとに殺されることを考えただろう。
何で母上が。
戦争に出て死んだ兄達は仕方がない。けれど母は病気で、誰に迷惑を掛けるでもなく静かに暮らしていただけなのに。
息子を殴った私が憎いのなら、私を殺しにくれば良かったのに。
ウルプスは貴族で、ネルヴァは平民だ。平民は貴族に手を上げることは許されないのだろうか? 確かに怪我をさせたのはこちらが悪かったが、あれくらい同僚同士のただの喧嘩だ。親が出てきて相手の一家を惨殺するなど、あってはならないことのはずだ。
ネルヴァは鈍化していく感覚を何とか奮い起こして、母の葬儀の手配や、この事件の一部始終をまとめて報告するための準備に取り掛かった。
ネルヴァを落胆させたのは、母を殺した張本人を、ネルヴァが知ることができないということだった。いやそれ以前に、ウルプスの家がやったことは罪とはならなかった。
首都カザートでなら当たり前に開かれている裁判が、ネルヴァの田舎では貴族でないと訴えを起こせない。だから、罪を問うこともできなかった。
後日ウルプスが親を説得し、彼らから謝罪を受けることはできた。だが彼らの言い分は、実際に母を殺した奴隷を自分達で処分したから、もう水に流してくれということだった。納得できるわけがなかった。
しかし唐突に、ウルプスの家は没落した。
平民であるネルヴァは訴えを起こせないが、駐屯地に居たヘルメイドが代わりに訴えを起こしてくれたのだ。ネルヴァが以前馬屋で働いていた時ヘルメイドの馬の世話もしていたが、その礼だと言っていた。
せいせいしたが、逆にネルヴァはウルプスに謝る羽目になった。お互いの親のことと、自分達のことは切り離して考えたかったのだ。
「何、貴族じゃなくなってこっちも肩の荷が下りたよ」
結婚はせずに一生遊ぶんだと言って、ウルプスは笑っていた。
ルカはネルヴァに書き写してもらった地図を眺めていた。
あれから何度も何度も、自分が歩いた方角や距離を遡って辿っているが、記憶は過去に遡るほど曖昧になり、ここだと特定することができなかった。
ネルヴァはあの後、ラグナダスの北へ移動したらしい。
地図を見て、ラグナダスの場所を確認する。首都カザートとはかなり離れている。カザートは一年を通して乾燥し暑いが、このくらい北へ行けば温暖な気候になるだろうか。
ルカが生まれた町は、夏は暑いが冬は雪が降るほど寒くなる場所だった。カザートより南ではないだろうから、北側に絞って探している。
東はチュンウ。だがここは喋る言葉さえ違う。
西はイリアンルゥル。ここはカザートと同じで、至る所で戦争を起こして領土の拡大を図っている。以前この国に住んだこともあった。イリアンルゥルは海を挟んで上下に別れている。おそらく昔は陸も続いていたのだろうが、その部分をカザートが取ってしまったということだろう。
イリアンルゥルの北は小さな国がいくつもひしめいていた。その東もカザートの土地で、その辺りがラグナダス地方と呼ばれている。町の名前は二箇所にしか入っておらず、年表を照らし合わせて見ると、その二箇所とも、アルバノという国の町だったということが分かる。
でもここじゃない。
布団に仰向けに転がって、ルカは地図を目の前に持ってきた。
アルバノはチュンウの軍隊が侵攻した。後になってチュンウからカザートに委譲されたものだ。
だだっ広いだけで町がない。そんな場所は大体山か砂漠だ。山だろうが砂漠だろうが交通の要所なら町ができるが、そうではないのだろう。
なんで町がないんだ? 征服したってことは、征服すべき何かがここら辺にあったからだろ。単に西への足がかりにしたかったのか?
「ルカー、今日はお米貰ったから炒めてみたよ」
台所からセイロンの声が聞こえてきた。
「ああ。今行く」
米か。懐かしいな。
思って、ルカは立ち止まった。カザートでは米は主食ではない。玉蜀黍を加工したものが主食だ。イリアンルゥルでは小麦を加工して使う。米もあったが、何とか料理と言ってそれでしか食べなかった。
何とか料理って、何だ?
胸騒ぎがした。おそらく、それがルカが生まれた町に関係している。ルカが生まれた町でも主食は小麦から作るパンだったが、半々くらいで米も食べていた。米作りが盛んだった。
台所の扉を開けると、セイロンが大きな鍋から木の器に炒めた米を入れていた。
「なあセイロン、米使った料理のことを何とか料理って言うよな」
「何とか料理? えー? 急に言われてもなぁ」
鍋を流しに置いて、セイロンが席に着いた。
「確かに、どこかの地名が付いてたよ。どこだっけかなぁ。まあ食べようよ」
言われて、ルカは食事を始めた。
ルカは米の料理が好きだったが、ユディトは米が嫌いだった。食べる前に必ず一言文句を言ってから食べ始めるのだ。
「おいしい?」
セイロンに聞かれる。
「ん。まあな」
「すごい嬉しそうな顔してるよ」
思い出し笑いしていたらしい。ルカはわざとらしく咳払いをして、居住まいを正した。
「何とか料理……うーん。何だっけなぁ」
時々セイロンが呟く。
「あっそうだ。テリグラン料理だよ」
「ああそうそう、それだ。テリグラン。で、テリグランってのはどこのことだ?」
「えっ。あー。えっとね、一応カザートだよ。でもギリギリカザートだね。ほとんどシアラード」
シアラードはカザートやチュンウの北にある広大な国だ。面積だけならチュンウと同等かそれ以上だろう。
「じゃあ、ラグナダス地方ってことか?」
「うん、まあね。でもラグナダス地方は北側全体だからね。テリグランはその一部だよ。テリグランっていうのはシアラード語で西の山って意味だし、それ考えるとやっぱりシアラードにも掛かってるのかな、とは思う」
セイロンは外国語まで勉強してたのか。
未だに仮名文字さえ覚え切っていない自分と比べて、明らかに出来が違う。しかし今はそれに感心している場合ではない。
「じゃあ『テリ』が西で『グラン』が山ってことか?」
「うん。そうだね」
セイロンが頷いた。
道行く人が地図を指差しながら尋ねる。
『ここはどの辺りですか?』
『ここはテリグラン−テリですよ』
母が答えると、『ありがとう』と言って旅人は歩いて行った。
妖精族も人族も同じに暮らす山間の町。言葉はカザート、名前はシアラード。
だから『ユディト』は異国風な名前だってセイロンが言ったんだ。
テリグラン−テリ。西の山の西。
ルカは残っていた米をかき込んで、寝室に戻ると地図を広げた。
なぜ覚えていなかったのだろう。いや、テリグラン-テリという言葉を、ルカは自分が住む町の名前だとは思っていなかった。実際に、それは街の名前ではなく、単に『西の山の西』という表現に過ぎなかったはずだ。だが言語が違うカザートでは、それを地名と勘違いして、テリグラン料理などという妙な言い方をされているのだろう。
地図にはラグナダス地方と書き込んであるだけで、テリグランという名前はどこにも無い。ラグナダスという言葉は、西でも山でもないから、テリグランをカザートの言葉に訳したわけではない。
年表とヴォルテス王の活躍の記録を広げる。
ヴォルテス王、つまりイレイヤ公が征服に直接関わった町なら必ず載っているはずだ。
「あった」
声に出す。
『テリグラン−テリの反乱を鎮圧』
カザート建国の一年前のことだ。この年には他にも数多の武勇伝があるが、一応年代も合っている。
でも反乱を鎮圧ってどういうことだ?
イレイヤ公の軍は突然現れて破壊して行った。それ以前に反乱など無かったはずだ。
くそっ。やっぱセイロンに聞くしかないか。
あまり頼ってばかりなのもどうかと思うが、ここまで判明したのだ。ここで引っ掛かりたくはなかった。
「テリグラン−テリの反乱?」
セイロンが首を傾げながら言う。
「僕が生まれる前だよね。なんかいっぱいあったからなぁ。その年は。うーんと、これかな」
セイロンが巻物を一つ出してきた。
「テリグラン−テリでイレイヤ公の娘が、侵攻に抵抗していた住民達に捕まったんだ」
「お姫さ……イーメルが?」
「イーメル姫とは書いてないけど、娘って言ったらそうだろうね」
お姫さん、テリグラン−テリに居たことがあったのか。そしたら会ったこともあったのかもな。
「あれ?」
イーメルは母親が死んだ前後の記憶二十年分が無いと言っていた。イーメルの母が死んだのが二十五年前。テリグラン−テリが滅んだのが十六年前。その差は九年だ。イーメルの失った記憶の中に、テリグラン−テリでのことも含まれるのかもしれない。
「どうしたの?」
セイロンが声を掛ける。
ルカは手を振って、返事は返さなかった。
今考えを中断させたくない。引っ掛かるのだ。
町の人は皆殺しにされた。ルカと姉ユディトは生き残っていた。だが姉は居なくなった。
いやその前だ。
俺と姉ちゃんは生き残った。姉ちゃんは俺に、あれがイレイヤ公の軍だと教えてくれた。なんで姉ちゃんがそんなこと知ってたんだ? 教えてくれたのは本当に俺の姉ちゃんだったのか?
「何で……」
幼い自分の手を引く姉の顔が、イーメルに思えてきた。
記憶の中のその声までも、イーメルの声だ。
姉ちゃんだと思っていたひとがイーメルだった。あの時のショックで間違えた? そんなわけない。そりゃ今は顔忘れちまってるけど、当時はちゃんと覚えてたんだ。じゃあ、最初からイーメルが俺の姉ちゃんだったってこと……なのか?
頭がぐらぐらした。
イーメルはルカと違い純粋な妖精族だ。だから、姉なわけがない。
いや、そうじゃない。母さんの連れ子だったら、純エルフでも問題は無い。でも、だからと言って。
二十年近くの記憶がイーメルには無い。ルカが生まれる前からそこに居て、十六年前に連れ戻されるまでのテリグラン−テリで過ごした全ての記憶が無いのだとしたら。
人族の子どもと遊べば何かを思い出せそうだと言っていた。
ああそうだ。姉ちゃんはよく俺や友達と一緒に遊んでくれた。でも遊びはいつも鬼ごっこだった。
「なあセイロン、イーメルが実はヴォルテス王の子じゃないって可能性はあるのか?」
「は? いやそれは僕には分かんないよ。でもテリグラン−テリの反乱の時にわざわざ連れ戻してるんだから、本当の娘なんだと思うよ。他人だったらほっとくだろ」
「ああ。そうだよな」
落ち着け、俺。まだイーメルが姉ちゃんだと決まったわけじゃない。イーメルがあの時テリグラン−テリに居たと言っても、その前からずっと居たとはどこにも書いてないんだ。
「ルカ、大丈夫?」
セイロンが話しかけてきた。
「ねえ、テリグラン−テリがどうかしたの? もしかして、そこがルカの故郷?」
セイロンを見る。疑問系にはしているが、セイロンの笑顔は、ルカが故郷の名を思い出したことを確信して喜んでいると思われた。
「ああ」
「良かったね、ルカ。これでお姉さん探しも対象を絞れるよ」
満面の笑みで言われて、ルカは笑顔を返した。
もしかしたらイーメルがユディトなのかもしれない。それをセイロンに言っても信じてもらえるとは思えなかった。自分自身も半信半疑なのだ。
首に下げた小さなナイフを鞘ごと取り出して見つめる。
ユディトが記憶を失っていたとしても確認する方法はある。このナイフの柄頭の鳥模様。これと左右逆の模様が入った指輪を持っていれば、イーメルがユディトだということだ。
翌日、仕事を早く上がらせてくれとサルムに相談したが、つい先日も同じように頼んだばかりで、聞き入れて貰えなかった。
掃除と飼葉の交換が主な仕事で、それを終えさえすれば上がれるのかというとそうではない。それが終われば午前の組と一緒に馬屋の見張りをしなければならないのだ。先日は、サルムがひとりで残ったというわけだ。
「まあ、あと一回廻ったらルカだけ上がればいいさ」
サルムが言い、先日に比べれば遅い時間だったが、少しだけ早く帰ることができた。
急いで畑に向かう。いつもは歩いて行くのだが今日は走った。
「お姫さん」
休耕地で走り回っている影に向かって、ルカは声を掛けた。
いつもなら子どもの誰かがルカに気づくまで特に声は掛けないから、驚いた顔でイーメルがルカを見た。
「もう少し遊んでおれ。わらわはルカと話してくる」
イーメルが近くに居た子どもに言って、ルカの方へ歩いてきた。
先日から明らかに不機嫌なのだが、元々の態度が愛想良いわけでもなかったので、その差はルカには気づかれていなかった。
子ども達は気づいているようで、ルカがイーメルを呼んだ瞬間怯えた顔をしていた。それで硬くなりかけていた表情を和らげてみたものの、ルカに近づくにつれ、また表情は硬くなった。
「どうしたのじゃ」
目を合わせようともせずにイーメルが言う。
「お姫さん、これに見覚えないか?」
首に掛けずに手に持ってきた、曇った金色のナイフをイーメルに見せた。
イーメルが怪訝な顔で、それを覗き込む。
「なんじゃ、これは」
ルカはナイフをイーメルに渡した。
小さなナイフではあるが、自分が武器を持っていては、イーメルも良い気持ちはしないと思ったからだ。
ナイフを受け取った手を見ると、左手には複数の指輪がそれぞれの指にしてあった。大きくて彩の良い透明の石が入っていたり、金細工を施していたりする。だが右手には中指にひとつだけ、銀色の指輪が入っているだけだ。
利き手だからか?
なんとなく気になって、視線でその指輪を追う。
「お姫さん、ちょっと良いか?」
ルカはイーメルの右手を掴んで、軽く引き寄せようとした。
「何を……」
イーメルが右手を戻そうとする力を感じたが、ルカは気にせずに指輪をしている中指に触れた。
イーメルの左手に残っていたナイフが地面に落ちる。
ナイフは大切な親の形見だが、今はイーメルが姉かどうかを確認する方が大事だった。
指の内側は、ただの銀色の面だった。幅の広い指輪だ。
手のひらを内側に向けさせて、外側の面を見る。
「これだ」
鳥の模様。
ルカのナイフの柄頭とは左右逆を向いている。
イーメルは困惑した表情でルカを見ていた。地面に落ちた鞘に入ったままのナイフ。見たことがあるかと問われたが、見たことはなかった。だが、その柄頭の鳥の模様は、確かに自分の指輪と同じ模様だ。
でも、それが一体……。
ルカの手が熱い。ルカは一体何をしたいのだろう。
ルカの視線が、イーメルの指から顔へ移った。
「俺、姉ちゃん探してるって言ったよな」
確かに、ルカはそう言っていた。
イーメルが頷く。
ルカは地面に落ちていたナイフを拾い上げた。
「このナイフは親父の形見だ。ここんとこ、あんたの指輪と同じ柄だよな」
柄頭を指差して言う。
ルカの手が自分の手から離れて、イーメルは右手の指輪を見つめた。最初に見たときにも思ったが、ちゃんと見比べてもやはり同じ。左右は逆だが、あまり整っていない形や目の位置が少し上にあっておかしいと思っていたのも同じ。
イーメルはまた頷いた。
ルカが真剣な顔で短く息を吐き、それから息を吸い込んだ。
「お姫さんが、俺の姉ちゃんのユディトだ」
ルカの言葉が頭の中に響く。
この男は、なんて莫迦なことを、何でこんなに真剣に言ってるんだろう。
「無礼者!」
イーメルはルカの頬を平手で叩いた。
「えぇっ?」
「そなたは人族ではないか! なぜ人族とわらわが姉弟であるなどと考え付くのじゃ。わらわはイーメル。カザートの王女であるぞ」
イーメルの大声に、遊んでいた子ども達も立ち止まって二人の方を注目した。
居心地が悪くなって、ルカは言った。
「悪かったよ。きっと何かの手違いだ」
自分が実はハーフエルフだと白状したところで、イーメルの剣幕が収まるとは思えない。もしイーメルが力を使ってルカを吹き飛ばしでもしたら、せっかくイーメルと仲良くしている子ども達が、イーメルを恐れるようになってしまうだろう。
先ほどまで、イーメルがユディトだと思い込んで行動していたルカも、イーメルの剣幕で少し落ち着いて考えられるようになっていた。
指輪のことも、テリグラン−テリを襲ったイレイヤ公がユディトから奪ってイーメルに与えたのかもしれない。
そう考える方が自然だ。
だが、すごいお宝ならともかく、金物屋の父が趣味で作った指輪だ。細工は、息子であるルカが言うのもなんだが、正直言ってかわいくもなければ綺麗でもない。色は確かに銀色をしているがおそらくは合金であり、銀の含有量は少量と思われた。そんなものをわざわざ他人から奪って娘に与えるだろうか。
そしてそんなものを、今やカザートの王女となったイーメルが大切に身に着けたりするのだろうか。
「みんな、今日はこれで解散。ルカに家まで送ってもらえ」
イーメルがルカの側を離れて、子ども達に言っている。
「お姫さん」
呼ぼうとしたが、その前に子ども達が走ってきて囲まれてしまい、イーメルに近づくことができなかった。
子ども達が口々にイーメルに別れの挨拶をして、イーメルも子ども達に向かって手を振っていた。
「よし、じゃあ暗くなる前に帰ろう」
こうなってしまっては、今更イーメルを呼び止めることもできない。子ども達を放っておくわけにはいかないのだ。
いつものように、ルカは子ども達を引き連れて人族の集落を目指した。
家に帰ってから、ルカはずっと考えていた。
イーメル本人は、自分はユディトではないと言っていた。だが彼女には二十年近くの失われた記憶があり、その間ユディトとして生活していたがそれを忘れてしまっているという可能性は大いにある。
カザートの公式記録には、イーメルがいつ頃からテリグラン−テリに居たのかまでは書いていない。しかし、テリグラン−テリが反乱を起こしてイーメルを攫ったのであれば、イーメルは反乱と同時期にテリグラン−テリに来たと考えるのが妥当だろう。
あくまでも、カザートの公式記録を鵜呑みにして、テリグラン−テリが反乱を起こしたのを事実と仮定すれば、の話だ。
だが、おそらく反乱は事実ではない。いくらルカが当時幼かったと言え、国の代表の娘を攫ってまで起こそうとした反乱が実際に起こっていたなら、少しくらいは印象に残っているはずだ。しかし、ルカにはそんな記憶は無い。記憶にあるのは、ごく普通に暮らしていた町が、何の前触れもなしにイレイヤ公の軍隊によって壊滅させられた、ということ。
反乱は事実ではないが、イーメルが居たのは事実だろう。
幼いルカに、町を襲ったのがイレイヤ公だと教えてくれたのは、イーメルだったのだろう。最初は曖昧だった記憶も、今でははっきりしてきた。あの時、自分の側に居たのはイーメルで間違いない。
そして、自分はずっと、それを教えてくれたひとを姉だと思っていたのも間違いないのだ。
記憶違いの可能性もまだ捨てきれないけど、今の所は、イーメルがユディトだったとして、それで辻褄が合うか考えてみよう。
ルカは思う。
ルカはハーフエルフだが、イーメルは純エルフである。ルカの母が妖精族だったのだから、イーメルの母親がイレイヤ公と別れて、ルカの父と結婚したと考えられる。
でも、そうなるとイーメルの母親が二十五年前に死んだってのと合わないんだよな。
公式の記録では、イレイヤの妻つまりイーメルの母は二十五年前に亡くなっている。ルカが二十五歳以上なら計算も合うが、残念ながら二十二歳だ。
いや、二十五年前に死んだってのがイーメルの実母じゃなければ辻褄は合うのか。
イーメルの母はイレイヤ公と別れて父と結婚した。イレイヤ公は新たな妻を娶ったが、その妻は二十五年前に亡くなった。それならば何の問題もない。
イーメルがユディトではない可能性は、もちろんある。イーメルの態度を見る限りでは、むしろその可能性の方が高いかもしれない。
だが、その可能性について考える気にはなれなかった。
イレイヤ公は娘を取り戻すことを口実にテリグラン−テリに攻め入ったのだから、イーメルさえ居なければ町は滅ぼされずに済んだ、ということになる。逆に言えば、イーメルが居たせいで、町は滅んだということだ。
それでは困るのだ。仇討ちの相手として、ヴォルテス王の他にイーメルも加えなければならなくなる。仇討ちは崇高な物だ。自分の感情次第で、仇がころころ変わる物ではないはずだ。
だが姉ならば、大目に見ることもできる。血の繋がり。家族の絆。理由はどうでも、誰もが納得するようにつけられる。
あの指輪は姉ちゃんの物で間違いない。
銀色の指輪をはめたイーメルの手を思い出す。
あんなに細いのに、柔らかくてすべすべしてた。
指輪のことを考えようとしていたのに、指の方を思い出してしまった。
手を取った瞬間の、イーメルの表情もはっきりと思い出せる。あれは、弟と手を繋ぐ時の姉の表情ではないだろう。困惑で眉根をわずかに寄せ、その瞳はルカの顔を映していた。もちろん、イーメルはルカを弟などとは欠片も思っていない。
あれ? だったら俺、イーメルに何て思われてるんだ?
人族なのに、妖精族を姉だと言う。
唯の奴隷の一人か、もしかして変人だと思われてる?
奴隷はともかく、変人だと思われるのだけは勘弁して欲しい。明日会ったらもう少し話そう、そう思いながらルカは眠りについた。




