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2 魔族来襲

 強大な軍隊が少年の町を襲った。目的は食料と衣料。奴隷は必要なかった。

 特有の力で触れることなく攻撃できる妖精族(エルフ)は、圧倒的な強さで町を征服して行った。

 人々は見付かるとその場で老若男女関係なく殺された。

 逃げ惑う人々。

 それまで戦争など知らなかったこの町の人民は、戸惑い、皆が狂ったように騒いでいた。その状況にさらに油を注ぐように、町の一角から火の手が上がった。

 強い風と乾燥した空気が手伝って、火はどんどん燃え広がっていった。

 必要な物を取り尽すと残った余分な物は全て燃やしてしまうのが、あの妖精(エルフ)のやり方だった。

 一緒に逃げていた町の人々の人数が次第に減ってゆく。火から逃げ切れなかった者が多く居た。また、妖精族に殺された者も居た。

 そんな中で、なぜか少年とその姉だけは、運よく火からも敵からも逃れる事ができた。

「母さん、いやだ。母さん、父さん!」


   ***


 翌日、ルカはセイロンに案内されて馬屋に行った。セイロンが言うには、昨日ルカが戻ってくる少し前に別の役人が来て、この馬屋が仕事場になると告げて行ったそうだ。

「この馬屋はネルヴァ様が担当していたんだ。でも今日から別のエルフが担当するみたい」

 馬屋の手前で、セイロンが言った。

「ふーん」

「『ふーん』じゃないよ。ルカの居住許可出したのがネルヴァ様だったろ。そのルカが問題を起こしたから、ネルヴァ様はここの仕事を降ろされたんだよ?」

「あっ、そうか。そこまで気が回らなかったよ」

 昨日はパロスを懲らしめることしか考えていなかった。ネルヴァにしてみればとんだとばっちりだったろう。

「次に会ったら謝らなきゃな。でも会ってくれるかな……」

 謝る前に殺されるかもしれないが。

 言いながら、どちらかと言えばその可能性の方が高いと思う。この馬屋の担当というのがどれ程価値のある仕事だったのかは分からないが、仕事を剥奪されることは恥に違いないのだ。

 突然、隣を歩いていたセイロンが走り出した。

 何事かと思ってセイロンが走る先を見ると、そこにネルヴァが立っていた。

「ネルヴァ様、昨日はルカが、申し訳ありませんでした」

 ルカよりも前に、セイロンが謝る。

「おはよう、セイロン。それにルカも」

 ネルヴァが笑顔でルカを見る。

「迷惑をかけてすまない」

 ルカもネルヴァに向かって頭を下げた。

「いいよいいよ。昨日のあれを見てスカっとしたのは私だけじゃないだろうし。ここだけの話、パロスの態度にはうんざりしてたんだ。私がやると、私の家族まで処刑されかねないから、ルカがやってくれて良かったよ」

 笑いながら、ネルヴァが言う。

 言っていることは冗談かもしれないが、特に怒っていないということは分かった。

「今日は引き継ぎに来たんだ。だから私はもう帰るよ。ルカ、君の気持ちは分かる。けれどあれでも総督だし、これ以上の反抗は君の命を縮めることになるだろう。お姉さんを探しているんだろ。死んだらもう会えなくなるぞ。妙なことはせず、この国で暫くは大人しく暮らすんだ。いいな」

「分かってる」

 大人しく暮らせる人間なら、各地を転々としてはいないだろう。

 そうは思うが、返事だけはしておく。

 セイロンが言うように、ネルヴァは悪いエルフではない。

 『暫くは』大人しくしていよう。

 ルカは思った。

 馬屋に着くと、その入り口近くの小屋の中までセイロンに案内され、それからセイロンは先に帰ってしまった。ここで仕事内容の説明を聞いてから、実際に働き始めるのだそうだ。

 足音が二つ近付いて来た。

 すぐに小屋の扉が開いて、人族と妖精族が一人ずつ入ってきた。

「なんだ、おまえか」

 妖精族の男が言う。

 こっちの台詞だ。

 ネルヴァの代わりにこの馬屋の担当になったのは、パロスだった。

 パロスはルカを見てその一言を発し、すぐに後ろに立っている人族の男を振り返った。

「わしは来たばかりで疲れておる。後はおまえがやれ」

 人族の返事があったのかなかったのか、ルカからはわからなかったが、パロスはそのままルカを見ることなく、小屋から出て行った。

「俺はここでかれこれ三十年働いてる、サルムってんだ。あんたは俺と組んで馬の世話をするわけさ」

 男はサルムと名乗り、ルカが自分の名を教えると、「ついてきな」と外を顎で指して言って、歩き出した。

「二、三人ずつで組んで、午前と午後交代で馬の世話と番をするのさ。馬の世話ってのは餌をやること。番ってのは、盗人や魔族に馬をやられないように見張ることさ。ここでは軍馬も預かってるから、居なくなったらおおごとさ」

 外を歩きながら、サルムが言う。

 馬屋に居るのだから、馬の排泄物の臭いがするのは当たり前だとは思うのだが、前を歩くサルム自身からも酷い臭いがした。

 周りの馬小屋からは馬の(いなな)きが時折聞こえてきた。

「預かってた軍馬を引き渡す時は、キレーに洗わなきゃならねえ。妖精族ってのは鼻が利くからな」

 サルムはそこまで言ってから、急に声を潜めた。

「俺が前に組んでた男はな、真面目で良い奴だったよ。でもその真面目さが命取りさ。前回の引き渡しの時に、奴は馬も自分も、キレーにして渡しに行ったのさ。しかし妖精族がな、馬が臭いって言って、奴の首を刎ねた。もう一度洗えと言われたから、俺が引き取りに行って、翌日何もせずに同じ妖精族に渡した。だが俺は死ななかった。なぜだか分かるか?」

 神妙な面持ちで話しかける。

「俺が臭かったからさ」

 言って、サルムは笑い声を上げた。

「馬が臭いって言われてもな、『臭いのは俺だ』って繰り返したんだよ」

 それからまた、神妙な面持ちに戻って続けた。

「あんた真面目そうな顔してるが、前の相棒の二の舞にはなるなよ。この国で必要なのは心じゃない。ここさ」

 自分の頭を指差す。

 襤褸(ぼろ)を着ていてあまり褒められた外見ではないが、これも計算の内ということらしい。

「あんたのことは聞いてる。パロス総督に手を上げたそうじゃないか」

「ネルヴァが言ったのか?」

「妖精族を呼び捨てかい? 聞いたまんまだな、あんた」

 馬小屋に入って、床を洗うブラシをルカに手渡しながら、サルムが笑って言う。

「ネルヴァ様は良いひとさ。でも階級は妖精族の中でも下っ端で、上の者に何か言われても俺達を庇うことはできない。あんたもやり過ぎないことだ」

 妖精族の中にも階級があるということは、朧げながら知っている。イーメルのような王族。パロスのような貴族。貴族はさらに細かく分かれているという話だが、自分のことではないからよく分からない。ネルヴァは平民で、階級が貴族より上になることはない。

「床掃除は適当でいいからな。どうせまたすぐ汚れるんだし」

 床を流す為に三度目の水汲みから帰ってきたルカに、サルムが言った。

「それからその水、こっそり取っておけ。飲み水になるからな」

 言われて、床に撒こうとしていたのを止める。

「水を自由に使えないのか?」

 前に住んでいた国では、そんなことを言われたことがなかった。水は限度を超えなければ好きなだけ使えたし、普通に生活する上で限度を超えるようなことはまず無かったからだ。

「あんた外から来たんだろうが。見ての通りこの周りは全部砂漠さ。水が少ないのは当然だと思わないか?」

「なるほど」

 町の中には熱帯の植物が繁っている場所も、田畑もあり、そのことはすっかり忘れていた。おそらく雨は滅多に降らないのだろう。

 古い飼葉をどけて新しい飼葉をやり、馬にも水をやる。

 他の馬小屋へ入ってそこでも同じように餌と水をやり、それで半日の仕事は終わりだった。

 ルカが着いたのが昼前だった為、今日やったのは午後の仕事分だけということになる。明日は午前中に、今日と同じように餌やりをし、午後は今度は馬屋を巡回して見張りをするということだった。

 ルカは帰路についた。

 今日は馬には全く触っていないが、馬屋全体についている臭いがルカにもうつっている気がした。ルカ自身の鼻は莫迦になってしまって、自分では判断が付かないのだ。

 馬屋からルカが暮らすことになったセイロンの仕事場までは一刻ほど掛かる。途中は緑が生い茂った畑と、まだ何も植えていない茶色い地面が見えた畑とが交互に並んでいた。

 何も植えていない畑では、その広場を利用して人族の子ども達が遊んでいた。

 それに混ざって、子ども達よりも頭三つ四つ分背の高い大人も一人居る。最初は子どもの母親の誰かかと思っていたが、道を歩いて近付く内に、妖精族の女性だと分かった。

 妖精族が何でこんなとこで人族のガキと遊んでんだ?

 疑問に思いつつもさらに進むと、やがて顔もはっきりと見えてきた。

 お姫さんじゃねえか。

 夕日の色を反射して赤く見える白い髪、金銀で作られた首飾りや腕輪などの装身具。質の良い長いスカートは裾が泥で汚れてしまっていた。

「お姉ちゃん、またねー」

 子ども達が口々と言って、イーメルに手を振っている。

 子どもの母親と思われる人族が、地面に顔を擦り付けているんじゃないかと思うほど深く、イーメルに向かって頭を下げていた。

 それから、子どもの手を取り、イーメルに背中を向けるのが失礼だと思ったのか、後ずさりながら去って行った。他の子ども達はそれぞれ好きなように走って帰って行く。

 子ども達の背中に向かって手を振っていたイーメルが、暫くして手を振るのをやめ、ルカが居る畦道に歩いてきた。

「お姫さん」

 声を掛ける。

 イーメルが顔を上げた。

「なんじゃ、ルカ。居たのか」

「いや、通りかかっただけで。てか、何してたんだ?」

「子ども達と遊んでいた」

 見たままだ。

 イーメルがルカから視線をそらし、軽く溜息を吐いた。子ども達と遊んでいる間は楽しそうに見えたのだが、どうしたのだろう。

 いやそもそも、妖精族の姫が人族の子どもと遊んでいていいのだろうか。

「子どもの元気について行けなくなったのか?」

 ルカが言うと、イーメルがルカを見て声高に言った。

「何を言うか。わらわはまだそれ程年を取っているわけではない。だいたいわらわは妖精族だぞ? あれしきで疲れることがあるものか」

「じゃあさっきの溜息は何だ?」

 ルカが言うと、イーメルの表情が曇った。

「母親が、酷く怖けておってな。まるで魔族でも見たかのような顔で近付いて来て、わらわが『イーメル』だと知ると、地面に額を擦り付けて謝るのじゃ」

 イーメルが歩き出す。

 ルカもそれの後を付いて歩いた。

「なぜ謝るのか、わらわは知っておる。王が人族を恐怖で支配しているから、人族は何があってもとりあえず最初に謝るのじゃ」

「恐怖で支配?」

 裁判の後の厳重注意の時にイーメルは、妖精族が魔族を倒すことで人族を守っている、というようなことを言っていた。その話と、今のイーメルの話はかなり違う。

「そなたはまだこの国に入ったばかりだったな。例えばそなたは、自分が死ぬのと、自分の家族が死ぬのと、どちらが良い?」

 問われて、ルカは小さな短剣を服の上から握り締めた。家族のことを言われると、嫌でも思い出す。

「王への反逆を企てた者が居たら、その者を一番最後に、家族から一人ずつ処刑していく。一人殺して、その者が心を入れ替えたならよし、そのつもりがなければ次の一人を殺す。そうしたことは噂になり、人族の耳にも届く」

 イーメルがルカを振り返った。

 夕日を背にしていて、イーメルの表情は見えない。

「地方では人族の反乱が起きていると言ったな。このカザートではそのようなことはあり得ぬ。人族はわらわらを必要以上に恐れる」

「人族から嫌われるのが嫌なのか?」

 イーメルからその答えはなかった。けれどそういうことなのだろう。人族を奴隷として扱っているくせに、イーメルはその奴隷から嫌われるのが不服らしい。

「でも、子ども達はお姫さんを嫌ってなんかなかっただろ?」

 別にさっきの子ども達のことをルカが知っているわけではないが、遊んでいる様子を遠目に眺めていた限りでは、少なくともイーメルと遊ぶことを楽しんでいるようだった。

「わらわの記憶は欠けておるのじゃ」

 今までの話とまるで関係のなさそうなことを、イーメルが言い始めた。

「必要の無い記憶だから思い出さないのだと、わらわの専属医は言うのだが、どうしても引っかかって。二十年近くもの間の記憶がごっそりと抜け落ちているのじゃ。しかも母が亡くなったのもその期間だというのに、それを必要の無い記憶だと言う医者の言うことも信じられぬ」

 医者が言う通りだとすると、母親の死が、イーメルにとって思い出さない方が良い程衝撃的な物だった、と考えられる。

 しかし、それでは二十年もの間の記憶が無い理由にはならないだろう。

「確かに、二十年っていうと長いよな」

「そうであろ?」

 ルカの同意を得て、イーメルの瞳が輝く。

「人族の子ども達と遊んでいると、何か思い出せる気がするのじゃ。だから、そなたも協力せよ」

「へ?」

「わらわはあのように、へこへこされるのは好かぬ。だから、夕刻になったらそなたが子ども達をそれぞれの家まで送り届けるのだ。そうすれば、わらわは人族の親に会わずに済む」

 これでもかと言うほどの笑顔で言われて、ルカは一瞬思考が停止した。

 その後に、大量の思考が押し寄せる。

 その笑顔はなんだ? そんなに妙案だと思ったのか? 人族の親に会うのがそこまで嫌なもんか? てかなんで俺がそんなことやらなきゃならないんだ? つうか、こいつ妖精族の姫なんだよな? 遊んでていいのか? いや姫だから遊んでていいのか。いやいや遊んでていいわけないよな?

「お姫さんは、仕事とかないの?」

「ある。王が不在の時は王の代わりもするし、普段から会計もしておる。だがそれがどうかしたか?」

「いや、別に……」

 馬屋の仕事の後に余計な仕事を増やされることの怒りを表そうとしたが、その前に話の順序を間違えたらしい。ルカは許諾の意思を示すしかなくなった。


 帰ってから、セイロンにルカは聞いた。

「なあ、ここの王様の奥さんって、いつ死んだんだ?」

「ヴォルテス王の? だったら、カザートができる前の話でしょ。確か、二十五年前のことだよ」

 セイロンが机に向かったまま答える。

「うん、確かに二十五年前だ」

 手元にあった巻物状の物を広げて、セイロンが言った。

 イーメルが失っている記憶は、二十五年前かその前後の物らしい。

 俺すら生まれてないし。

 ルカは思った。

 イーメルは人族の子どもと遊んでいたら思い出せる気がすると言っていたが、当時子どもだった人族は、今は立派な大人になっていることだろう。

「それ、見てるのって年表?」

 セイロンが机に置いた巻物を指して言う。

「うん。そうらしいよ」

 『らしい』って……。

 ルカはそれを手に取って広げた。それ程長いわけでもない。文字は読めないが、目立つように色を変えている部分が、恐らくカザートが建国された年なのだろうとは思う。それより下は数行しかなく、それより上に数十行あった。

「なあ、セイロン。俺でも文字読めるようになるかな」

 これには色々なことが載っていそうだ。しかし知りたいことがある度に、セイロンに尋ねるのも気が引ける。

「うん」

 言いながら、セイロンがルカに分厚い紙の束を渡した。

「これで勉強しなよ。僕、ルカは肉体労働派だと思ってたから、嬉しいよ」

 笑顔で言われる。

 確かに俺は肉体労働派だよ。

 そこまで本格的に勉強したかったわけではないのだが、大量の教科書(?)を渡されたルカは、渋々とそれを自分の枕元に積み上げた。


 ルカがカザートに来てから一週間が経った。カザートでは日曜日を起算とする七日間で一週間という括りになっている。日曜日は休みで、ルカの馬屋の仕事もない。日曜日の前日の晩に、二日分の餌をぶち込んでくるのだ。もちろん、それで放置しておくわけにもいかないから、実際は誰かが代わりに見に行っているのだろう。

「こんにちは」

 元気な声が聞こえて、マギーが家に入ってきた。

 手には花束を持っている。

「もう花はいらないよ。どうせすぐ枯れるし」

 セイロンが言うと、マギーは頬を膨らませた。

「せっかくわたしが育てた花なのに」

 そう言えば、ルカがここに来た日も窓際の花瓶に花が飾られていた。あれもマギーが持ってきた物だったのだろう。セイロンが言った通り、二日ほどで干乾びていたが。

 セイロンが横で色々言っているが耳を貸さずに、マギーは干乾びた花を捨てて新しく持ってきた花を生けた。

 台所まで花瓶を持って行って、水を入れている。

「ここなら水がいつでも使えるんだから、お花の水が減ったらちゃんと足しておいてよね」

 マギーが言う。

 サルムが水は貴重だと言っていたがルカにピンと来なかったのも、この家の台所ではいつでも水が使えるせいだ。水道が町中を走っていて、栓を空ければ蛇口から水が出る。しかしここ以外の人族が住む地区では、井戸を掘って雨水を溜め、そこから汲み上げているのだそうだ。

「なあ、なんでここだけ水道がついてるんだ?」

 ルカが聞く。

「多分、前はここで妖精族が働いてたからだと思うよ」

 セイロンが答えた。

 セイロンはここで町に出入りする人の記録をしているが、それには文字の読み書きができなければならない。カザートで、妖精族と人族が言葉以外で意思疎通するために開発された文字があるのだが、それを扱える人族はそう多く無いそうだ。だから、どうしても適任者がいない場合は妖精族が来るのだろう。

「ねえ、おじさん!」

 マギーがルカの側に立った。

「見て見て」

 言って、スカートの裾を摘まんでかわいらしく持ち上げる。

 しかし、何を見て欲しいのかルカには分からなかった。おそらくはスカートの何かなのだろうが、靴かもしれないし、新しいお辞儀を覚えたということなのかもしれない。

 お姫さんも難しいけど、マギーもよく分からないな。

 先日、イーメルのスカートの裾が泥で汚れていることを指摘したら、汚れるのは別に構わないと言った。それなのに翌日、上着を取って渡そうとしたらルカの手が泥で汚れているから服に触るなと怒られたのを思い出す。

「どうしたの?」

 セイロンが言って、ルカの横からマギーを見た。

「ああ、エプロン新しくしたんだ? おばさんに作ってもらったの?」

 さすが兄。一目見て分かったらしい。

 マギーが頬を膨らませる。

「お兄ちゃんが言っちゃ駄目なの」

「なんだよ。見て欲しかったんだろ?」

「もうっ」

 スカートを摘まんでいた手を離し、マギーはくるりと回ってルカの側から離れた。

 厚い生地のスカートは、あまり風に揺れることもない。まだ白いエプロンは、明日には牧草地での作業で汚れてしまうだろう。

「お兄ちゃん、これ貰って行っていい?」

 いつの間にか台所へ移動していたマギーが言っている。

 セイロンも台所へ行き、マギーと何か話し始めた。

 台所と寝室の間の壁に開いている小さな窓から、二人の様子が見える。マギーは保存用の肉を少し貰って行くようだ。セイロンはあまり肉を食べない。しかし、配給される保存肉はセイロンの仕事内容が重要なためか、ルカが貰う分よりも多かった。

 貯蔵用の木箱には明らかに古くなっている肉もあり、ルカはどうしようかと思っていたのだ。マギーが持って行ってくれるなら丁度良い。

 台所からマギーとセイロンが戻ってくる。

「ねえ、おじさん。おじさんのお姉さんが見つかったら、おじさんはどうするの?」

 マギーが尋ねた。

「そうだな。姉ちゃんと一緒に自分が生まれた町に戻って暮らしたいとこだけど、もう町に住んでる人も居ないだろうし。どうしようかな」

 ルカが答える。

 町が滅んだだけで人が生きているならば、またあの町は以前のような穏やかな町になっているかもしれない。けれど、ルカが住んでいた町を滅ぼした妖精族の軍隊は、見つけた住民を老若男女関係なく殺していた。仲良くしていた近所の子ども達も、死体になって道端に倒れていた。

 だから、今戻っても町は廃墟のままだろう。

「おじさん、居なくなっちゃうんだ……」

 マギーが呟く。

 ルカは否定しない。姉が見つからなければ姉を探すために、姉が見つかれば永住できる場所を探しに、どちらにしろ、いつかはこの町を出るつもりだった。

「でも、ここ一、二年の間にユディトって人はこの町には来ていないみたいだよ」

 セイロンが言う。

 セイロンは時折入出者のリストを見て、ユディトを探してくれていた。一週間もしない内に二年分のリストを見ているのだから、見落としもあるかもしれないが、ここはセイロンが言うことを信じるしかない。

 ルカがこの町のそういう資料を見る訳にはいかないだろうし、第一、もしルカ自身でリストを見るとなると文字を覚えるところからやらなければならなくて大変だ。

「年齢が、ルカよりもすごく年上の人だったら居たけど。さすがに今四十五歳ってことはないよね」

「それはないな」

 ルカのおぼろげな記憶の中の姉は、十代の中ほどだったように思う。確か、ルカの倍以上は生きていると言っていた。当時のルカが六歳だったから、当時十二歳以上だったということは間違いなかった。そして、母親より若かったのも確かだから、二十歳も年が離れているということはないはずなのだ。

「わたし、もう帰るね」

 マギーが言って部屋の扉を開ける。

「おじさん、お姉さんが見つからなかったら、ずっとここに住む?」

 開けた扉の向こう側から、マギーが言った。

 見つからなかったら?

 この町を出て、次の町へ行って姉を探すだけだ。けれど、いつこの町を探し終わったと分かるというのだろう。今まで町から町へ、国から国へと転々としてきたのは、明確に姉が居ないと分かったからではなかった。ちょっとした問題を起こして、その場所に居られなくなったからなのだ。 

 本当は、俺に姉ちゃんを探す気なんて無いのかもしれない。

 本気で探そうとしていたなら、問題を起こさないように気を付けながら暮らしていたに違いない。それを、事あるごとに妖精族と対立して騒ぎを起こしてしまうのは、姉探しよりも、妖精族の言いなりになることの問題の方が、ルカにとって重要だったからだ。

「マギー」

 声を出したのはセイロンだ。

「早く帰らないと、魔族が出る時間になるぞ」

「え、ああ、うん。じゃあ、またね」

 ルカが答えをすぐに返さないのは、マギーが望まない答えを出したからなのだろう。

 セイロンはそう思った。

 マギーは、ルカにここに居て欲しいと願っている。最初からルカのことが気になっているようではあったが、今日のことではっきりした。

 でも多分、ルカはここに長くは居ない。いや、居られない。

 ここは、妖精族の住処に近過ぎる。はっきりと妖精族を敵視しているルカが、長い期間住めるとは思えなかった。

「ねえルカ、お姉さんと同じ名前のユディトって人が居たとして、どうやって本人って確認するの? ルカはお姉さんの顔を忘れてて、生まれた場所の地名も分からないんでしょ。当時はルカの方が小さかったわけだし、お姉さんだってルカを見て分かるとは限らないよ?」

 セイロンが尋ねる。

「ああ、それは」

 ルカは首に下げたナイフを鞘から抜いてセイロンに見せた。鎖ごと首から外しても良いが、鞘から抜くだけの方が簡単だ。刃が出るので危ないかもしれないが、相手はセイロンだし、触って怪我をするということもないだろうと思ったのだ。

「ここに模様があるだろ」

 ナイフの柄頭を指差す。

 ナイフがかなり小さいので、セイロンからはどこを指しているのかよく分からなかったが、とりあえず頷いて見せた。

「親父が、これをそのまま押し付けて模様を取った指輪があるんだ。それはお袋から姉ちゃんに譲られた。俺はこのナイフを親父から貰ったんだけど。だから、この模様と左右逆の模様の指輪を持ってるのが、俺の姉ちゃんだ」

「見てもいい?」

 セイロンが言って、ルカが持っているナイフを手に取った。

 それほど細かい装飾がされているわけではない。鳥の形だろうか。鳥の模様が入った指輪となると数多いだろうが、多少歪な形だから、逆に限定されるかもしれない。

「ありがとう」

 ルカに返す。

「ま、ここまでしなくても、お袋や親父の名前とかで分かるんじゃねえの?」

 ルカが言った。

「顔覚えてないのに名前だけは覚えてるんだ」

 セイロンが呆れ口調で言う。

「んなこと言われても。顔ってなんか皆似てんだろ?」

「似てないって。兄弟とかなら似てるかもしんないけど、双子でもない限り、見分けが付かない程似ることはないから」

「ふーん、そっか。言われてみればそうだよな。でも、見分けるのと覚えるのって、また別な話だろ」

「うん」

 当たり前だ、という顔でセイロンが頷く。

 セイロンはルカより年下だが、話していると、自分が年下のような錯覚を起こしそうになる。

 カザートでは、人族であっても優秀な者は役職を得られるという制度を取っているのだそうだ。セイロンが言うには、文字を全て覚え自由に筆記、及び朗読ができることが最低条件で、その文字を使った筆記試験で良い成績を収めれば、晴れて国の役人になることができ、その上身分も奴隷から平民に変えられるらしい。

 その為に、セイロンは必死に勉強をしている。それで蓄えた知識は、ルカが身を持って経験し、得た知識よりも多い。そのせいで、セイロンが年上に思えてしまうのだ。

 しかし、筆記試験を作るのも採点するのも妖精族だ。結果なぞどうにでもできるだろう。セイロンは疑ってもいないようだが、その制度は形骸的な物と考えてよさそうだった。

 けれど、嬉しそうに知識を披露する時のセイロンを見ると、それを言う気にはなれない。形骸化しているというのは、ルカの思い過ごしである可能性もある。実際に人族を政治に取り入れるのであれば、それはルカが思い描く、人族と妖精族とが平等な社会の始まりになるかもしれないのだ。

 そうなると良いのに。

 そうはなりそうにない、と思う。

 ルカはナイフを鞘に戻した。


 いつものように馬屋の仕事を終えて、途中の何も植えていない畑に寄る。

「お姫さん」

 声を掛けると、イーメルと一緒に遊んでいた人族の子ども達が、イーメルより先に走ってきた。

 遊んでいる時は楽しそうなのだが、ルカが来るとルカに付いて大人しく帰る。とても良い子達だとは思うが、ひとりくらい、まだ遊びたいと言い出しても良さそうなものだ。

 人族の子達はいつも同じ顔ぶれというわけではない。いつも見かける子も居れば、初めて見る子も居た。

「またね」

 誰かがイーメルに向かって手を振ると、他の子達も手を振り始めた。

「じゃあ、行こうか。一番近いのは誰の家だ?」

 ルカが尋ね、名乗り上げた子か、指差された子の家から順に送る。

 遊びに来る子達が日に日に増えて、送るのに時間が掛かるようになった。それで、ルカはイーメルと言葉を交わす間もなく、子どもを送るのに歩き出すのだ。

「お前ら、もっと遊びたいとか思わないのか?」

 足元を騒ぎながら歩く子ども達に向かってルカが聞く。

「遊びたい! けど、早く帰らないとお母さんに叱られるし」

 一番近くに居た女の子が答えた。

「妖精族は夜になると魔族になるんだよ」

 別の女の子が、その女の子と顔を見合わせながら言う。周りの子どもも何人か頷いている。

 なんだ、それは?

 ルカは怪訝な顔をした。妖精族は妖精族で、時間帯で魔族になったりはしない。凶暴になるということもない。

 魔族はほとんどの場合夜間に出没するから、昼は何をしてるんだ、ということになって、じゃあ昼は妖精族なんだ、という連想なのだろうか。

「んなわけないだろ。どうやったら、あんな綺麗な妖精族が魔族になるってんだ」

「綺麗?」

「綺麗?」

 いくつかの声が重なる。

「でも暗くなると、眼が真っ黒になって、光るんだよ。怖いよ。あの眼は魔族と一緒だよ」

 言われて、やっとルカは子ども達の発想に納得した。妖精族の眼は猫と同じで、暗くなると丸く大きくなる。確かに、魔族の眼も同じだ。光るわけではないが。

「ま、暗くなると本物の魔族が出るかもしれないからな。明るいうちに帰るのが一番だ」

 近くに居る子どもの手を引き、ルカは道を進んだ。

 全ての子どもを送って、ルカは自分の住む場所へと急いだ。

 魔族と言っても、人族や妖精族とは異なり、ひとつの種族を指しているわけではなく、姿形も様々だ。

 人族や妖精族が集落を作っている場所まで来ることは滅多にないが、それでも集落と集落を繋ぐ人通りの少ない道を歩く時は緊張する。

 後ろから気配を感じる。

 いや、まさかな。

 子ども達と魔族の話をしたせいで、些細な事が気になる。

 少し足早に、ルカは家へと急いだ。

 後ろから足音が聞こえてくる。さすがに、気のせいとは言えなくなってきた。

 同じ方向へ向かう人だろう。きっとそうだ。

 後ろを振り返らずに歩く。

 でもこの先は、俺らの家しかないけどな。まあ、妖精族って可能性もあるし。

 ――ルカ。

 呼ばれた気がしたが、無視だ。ルカの名前を知っているのは、ここではセイロンかマギー、イーメル、ネルヴァ、パロス。せいぜいそのくらいだ。こんな声ではない。

 そっと、胸の短剣を取り出しておく。

 魔族は幽霊ではない。隙を突いて攻撃を掛ければ大抵は追い払える。

「ルカ!」

 真後ろのちょっと低い位置から声がして、肩を掴まれる。

 ルカは振り返りざまに、ナイフを上げた。

 暗闇に、眼が二つ光って……。

「あれ?」

 どうみても魔族ではなかった。暗くて良く見えないが、妖精族ではなく人族だろう。しかも、まだ十二、三歳の少女だ。

 ルカは急いでナイフを手の中に隠した。一旦背を向けて、見えないように鞘に戻す。

 それから、もう一度振り返った。

「誰?」

「サラ! おじさん、怖がりね」

 サラと名乗った少女は、白い歯を見せて笑った。

 話を聞くと、サラはマギーの友達であるらしい。セイロンの所へ向かったマギーが暗くなっても戻ってこないので、迎えに来たのだそうだ。

 ルカとは初対面だが、マギーから、片目を包帯で隠している男だと聞いていたから分かったらしい。

 家に近付いて、その明かりでやっと、サラの顔が分かった。どうりで眼だけ光って見えたはずだ。サラは南の地方の人種で、肌の色は褐色を通り過ぎて黒と言っても良いくらいだった。

 ルカが家の扉を開ける。

 マギーは台所で鍋を洗っていたが、物音に気付いて扉を見た。

「あ、おじさん、おかえりなさい」

 鍋を流しに置いて、エプロンで手を拭いてからルカを出迎える。

「マギー、居る?」

 サラがルカの後ろから、家の中を覗き込んだ。

「サラ?」

 マギーに呼ばれて、サラはルカを押しのけるように家の中に入った。

「もう。何してるのよ。おばさんも心配してたよ」

 サラが言う。

 セイロンが奥の部屋から出てきた。

「マギー、誰と話してるんだ?」

 そう言ったセイロンの視界に、マギーの向こうに立つサラの姿が飛び込んできた。見た事のない人だ。

「あっ、あなたがマギーのお兄さんのセイロン?」

 サラが言った。

 少し肉厚の唇から紡ぎだされた声は、想像通りかわいらしい。

「わたし、サラ。マギーと一緒に羊の世話してるの」

「ああ、よろしく」

 マギーからサラの名前くらいは聞いた事があったが、まさか、南大陸の移民だとは思っていなかった。

 南大陸の移民がカザートに入っていることは知っていたが、力強い彼らは、ほとんどが重労働を請け負うと聞いている。だから勝手に、大人ばかり来たのだと思い込んでいた。

「やっぱりマギーのお兄さんだけあって、かっこいいわぁ」

 サラがマギーに向かって言う。

「そんなことないよ」

 マギーは否定しているが、兄を褒められて嬉しそうだ。ついでに言うと、サラの台詞は遠まわしにマギーも褒めていることになるから、それもあるかもしれない。

「って、そんなこと話してる場合じゃないわ。もう外は真っ暗よ」

 サラが言う。

 マギーとセイロンが窓の方を見た。ルカも釣られて外を見た。確かに真っ暗だ。

 セイロンが奥の部屋に引っ込んだ。

 暫くしてから出てくる。

「ランプ貸すよ」

 台所の竈から火を取って、ランプをマギーに渡す。

「ありがとう、お兄ちゃん」

 マギーは言って、サラと一緒に帰って行った。 

 

 その日は、朝からマギーが家に来ていた。サラも一緒だ。

 時折、サラがマギーに何か耳打ちをしているが、女の子同士の会話だろうし、ルカはそれについて聞こうとは思わなかった。

「ごはん、わたしが作るね」

 マギーが腕捲くりして言う。

「この前みたいに焦がさないでくれよ」

 セイロンが困り顔で言った。

 先日マギーが遅くまでここに居たのは、セイロンの夕食を作ると言って料理を始めたは良いが酷く焦がしてしまい、鍋にこびりついた焦げを取るのに四苦八苦していたからだった。

「生のまま食べるよりいいじゃない」

 サラが隣で、しれっとした顔で言う。

 サラは、焦げた料理に慣れているのかもしれない……。

「わたしも手伝うわ」

「ありがとう、サラちゃん」

 セイロンが泣きそうな顔で感謝の言葉を述べている。

 この前の料理とやらをルカは食べていないが、セイロンがサラの手伝いを泣いて喜ぶくらいだ。おそらく他人に食べさせられない程のできだったのだろう、と今になって思う。

 あん時居なくて良かった。

 ほっと胸を撫で下ろす。この後、やはり地獄が待っているわけだが、この時はまだ知らなかった。


 地獄からの生還おめでとう。

 と、セイロンが言ったかどうかは分からないが、少なくともこの時に飲んだ水はまさに奇跡の水。今までに飲んだどの酒よりも旨かった。

「あの世が見えた」

 台所で後片付けに励む二人の後ろ姿を遠目に見ながら、ルカが言う。

「気のせいだよ」

 セイロンが隣で空笑いしている。

 何をどうしたらあの味になったのか、ルカには検討が付かない。焦げているのが最大の原因だろうが、あれは炭の味ですらなかった。

 まだ十代前半の子どもが作る料理だから、ある程度下手でも仕方ない。ある程度ならば。

「おい、お前ら」

 ルカが立ち上がる。

「次作る時は、俺も混ぜろ。いいな?」

 お前らが作る料理は、料理じゃねえ。料理は粘土こねるのとは違うんだ。

 と続けて言いたかったが、さすがにそこまで言うのはまずい。まだ子どもだが、女性である。こんな早いうちから自信をなくしてもらっては困る。

「あのさ、マギー、……次から僕達に出す前に、味見してみなよ」

 セイロンが力なく言う。

「自分で作ってるんだから、味見なんかしなくても分かってるわよ」

 何を分かっているのだろうか。まずいと分かっているというのだろうか。ありえない。

「次もし来たら俺が教えるから、心配すんな」

 ルカはセイロンに言った。

 セイロンはマギーの兄だから、マギーの料理から逃げ出す術がない。残念ながら、助けになるかに思えたサラにも料理の知識が無いようだ。

 繰り返すうちに上手くなると言うが、放置していてはその前に殺されかねない。

「でもまあ、生のまま食うよりは死ぬ確率低そうだよな」

 うっかり口に出してしまったが、少女二人には聞こえなかったようだ。

 セイロンとルカの手には、水が入ったカップが握り締められている。これが命の水だ。水が無くて死にかけていた時に貰った水よりも、この水の方がおいしい。何か間違っている気もするが、それがルカが感じたことだった。

 後片付けを終わらせた二人が戻ってくる。

 サラがマギーを肘で突付いて、マギーがおずおずと、ルカの前に歩いて来た。

「あのね、おじさん。おじさんに、これあげる」

 マギーが両手で持っているのは革でできた何かのようだった。

「ん?」

 ルカはそれを手に取る。

 広げてみて、それが眼帯だと分かった。

「ありがとう」

 世辞ではなく、素直に礼を言う。

 マギーが嬉しそうに微笑んだ。

 ルカの右目は、怪我か何かで光に当ててはいけないということにしている。実際は怪我も病気もしていないわけだから、いちいち包帯を巻くのも面倒なものだった。これがあれば、かなり楽になるだろう。

 料理は下手だけど、

「マギーは親切だな」

 最初の言葉は言わないでおくことにした。

 昼が過ぎて、マギーとサラは帰って行った。

 いつもマギーがこちらへ来るが、ルカやセイロンがマギーが寝泊りしている集落に入ったことはない。

 マギーが寝泊りしているのはマギーの仕事場である羊飼いの村の中の宿泊所だそうだ。マギー以外にも、親の居ない子が何人か暮らしているという。

 その話をセイロンから聞いた時、やっぱりセイロン達には親が居ないのか、とルカは思った。

 そこに住むほとんどの子どもは、親を魔族に殺されているとも言っていた。ということは、セイロンの親も魔族に殺されたのかもしれないが、本人に直接聞くのは躊躇われた。自分も、他人に両親が死んだ理由を聞かれるのが嫌いだ。だからルカの場合は、機会があれば聞かれる前に自分から言ってしまうが。


 夕方になってからだった。

「セイロン、居るか!」

 聞き慣れない声が、窓の下から聞こえてきた。切羽詰った声に、ルカは窓から下を見下ろす。

 セイロンもすぐに来た。

「慌ててどうしたんだ、ジャン」

 セイロンが、窓の下の赤毛の少年に向かって言った。

「大変なんだ! 魔族がっ」

 自分が今来た道の方を指差す。

「魔族が、羊飼いの村に!」

「なんだって?」

 セイロンが聞き返した。あれ程の大声だから、聞き取れなかった訳ではない。

「もう皆避難してる。セイロンもルカも、早く逃げるんだ!」

 ジャンは言って、また走り出した。

「なあ、セイロン、羊飼いの村って」

 マギーやサラが働いている場所だ。

「うん。でも、村まで魔族が来るなんて滅多に無いのに」

 セイロンが呟くように言う。

「マギー達は大丈夫なのか?」

「どうやって確認するんだよ!」

 窓枠に置いたセイロンの手が震えている。

「きっと、マギーもサラちゃんも、皆と一緒に避難してるよ」

 言葉とは裏腹に、セイロンの顔色は悪い。

 羊飼いの村は歩いてもそれほど時間は掛からない距離にある。走ればすぐだ。

 人々が、ジャンと同じように息を切らしながら走ってくる。まだここでも危険だから、妖精族が住む城下町まで走るのだろう。

「こんなところに居たの? 大丈夫?」

「早く走れ!」

「わたしは大丈夫。でも、サラが友達とはぐれたって、」

「危ないから立ち止まるな!」

「お母さん、どこ?」

 人々の喧騒の中から、知った名前が聞こえてきた。他の音と声で、その後の話はわからない。

「セイロン、お前は避難しろ」

 ルカは言って、窓から下へ飛び降りた。

 人々の流れに逆らって走る。羊飼いの村へ行った事は無いが、この人波と逆に行けば辿りつくだろう。

「ルカ! 危ないよ」

 セイロンがルカに声を掛ける。しかしルカは振り返りもせずに走って行ってしまった。

 セイロンは窓から人波を見下ろした。目を凝らして、その中に妹とその友達が居ないか探す。しかし背が高い大人ばかりが見えて、マギーくらいの身長の子どもは、居るのか居ないのか分からなかった。

 セイロンは緊急時の為の荷物を抱えて、家から出た。

 避難した方が良い。僕が行っても何もできない。

 分かってはいても、足は人波に逆らって羊飼いの村を目指していた。

 

 次第に人がまばらになる。

 向こうからサラが走ってきた。

「おじさん! わたしマギーと一緒に逃げてたんだけど、途中でマギーとはぐれて」

 サラが叫ぶように言う。

 さっきの女性達の話から結構な時間が経っているのにまだこんな所に居るということは、はぐれた後、マギーを探していたのだろう。

「魔族がすぐ近くまで来てて、だから絶対に一緒に逃げようって言ったのに」

 サラがマギーを心配しているのは分かる。しかしここに居ては危険だ。

「ルカ」

 後ろから声がして、ルカは振り返った。セイロンだ。

「セイロン! ごめんなさい。マギーが、マギーが」

 サラがセイロンの前まで行って、泣き出してしまった。

「良いとこに来てくれた。セイロン、サラを連れて避難するんだ。俺はマギーを探してみるから」

 一人で放っておくと、サラはマギーを探すためにこの辺りに残ろうとするだろう。セイロンに任せれば、ちゃんと安全な場所まで連れて行ってくれるに違いない。

 セイロンが頷く。

 泣いているサラに向かって、セイロンは言った。

「マギーはおじさんが探してくれるから大丈夫だよ。それに、マギーは先に避難してるかもしれないし。だから僕らも早く避難しよう」

 サラを抱きしめる。

 サラは紛争地域から難民としてカザートに来た。セイロン達と違って両親共に健在だが、友達を失う悲しみはよく知っていて、だからマギーが居ないのが不安なのだろう。

「大丈夫だから」

 走っていくルカの後ろ姿を見送る。本当なら、ルカも避難させなければならない。けれど、ルカの行動を止めるのが難しいことはもう分かっていた。

 セイロンはサラと一緒に、他の人族の後を追った。

 ルカは牧草地に入った。見覚えがなんとなくあるのは、ルカがこの町に来て最初に見た風景と同じだからだろう。

 しかし、緑の牧草は至るところで地面ごと削られて、土が露出している。何か大きな物が動いた跡のように、それは蛇行していた。

 その跡にそって、視線を右へ動かす。

「巨蠍」

 ルカの視線の先には、甲殻に覆われた体と尾があった。

 背の部分には人族女性に似た形の物が乗っているが、あれは人族を誘う為の罠だ。つまり、主食は人族。

 巨蠍は普通、住処の近くで罠を張って、じっと餌となる人族が近付くのを待っている。しかし最近は人族が魔族の生息地息を把握し、近寄らなくなった。こんな人里まで来るということは、相当長い間餌が取れなかったのだろう。

 巨蠍の向こうに、人が何人か重なって倒れているのが見えた。他に逃げようとしている人もちらほらと見える。

「マギー、居るか?」

 辺りへ向かって、大声を出す。

「マギー!」

 反応はなかった。

 ここには居ないのか? それとも、もう……?

「おじさんっ」

 声が聞こえて、ルカはそちらを見た。

 巨蠍の足元から、マギーが走って来るのが見えた。

 良かった。

 心底ほっとする。

 しかしルカの元に辿り着く前に、マギーが躓いて転んだ。

 ドジだなあ、などと笑っていられる状況ではない。巨蠍はマギーに背を向けているが、いつ気付くとも知れないのだ。

 ルカはマギーに駆け寄った。

 転んだままのマギーを担ぎ上げる。そのルカの頭上を巨蠍の尾が掠めた。

 気付かれた!

 正面を向いたまま、後ろへ跳んで巨蠍から離れる。背を向けて逃げてしまったら、攻撃を避けることができない。しかし後ろ向きに走っても速度が出ない。ましてやマギーを抱えているのだ。逃げ切れるとは思えなかった。

 首に下げたナイフを右手で鞘から抜く。

 巨蠍が体をこちらへ向けた。その両腕の鋏を見て、自分が持つナイフがどれだけ頼りないかを頭に刻み込む。

 このナイフは父が作った。手入れも欠かしていない。巨蠍の甲殻でも切ることができる。しかし刃は小さく、相手に致命的なダメージを与えることはできない。

 巨蠍が鋏を振り上げた。

 下りてきた鋏を、ナイフで受ける。そのまま鋏で押し潰そうとしているのを、ルカは手首を返してナイフの刃を鋏に突き刺した。

 押し潰そうとする力が少し弱まった。

 ナイフを右へ振り切る。

 巨蠍の鋏に横一線の傷が付いた。鋏の大きさにすれば小さな傷だが、痛みは感じたのか巨蠍が動きを止めた。

 鋏の下から抜けたルカは、鋏の付根の細い部分を狙ってナイフを振り下ろそうとした。

 だが、ナイフが巨蠍に触れるより先に巨蠍が鋏をルカに向かって振り上げた。

 このままでは、マギーにも巨蠍の鋏が当たる。マギーを担いだ左肩ではなく、右肩で受けるように、ルカは左足を軸足にして回転した。

 ルカが思った通りに、右肩に巨蠍の鋏が当たった。

 倒れたらマギーが下になってしまう。だから、倒れるわけにはいかない。

 その思いとは裏腹に、ルカの足は衝撃を支えきることができずにバランスを崩した。

 しかし、ルカもマギーも、地面に触れることはなかった。

「よく頑張った」

 ルカを支えて、声を掛けた者が居る。

「後はわたし達に任せて、君達は避難するんだ」

 ネルヴァだった。

 ルカが倒れそうになった一瞬の間に、十名程の妖精族が巨蠍を包囲していた。

 もう、背を向けて逃げても大丈夫だ。

 ルカはマギーを下ろし、手を引いてその場から離れた。

 離れた所から、妖精族が魔族を退治する様子を眺める。眺めていられるのも、妖精族が魔族を退ける時の手際の良さを知っているからだ。

「マギー、大丈夫だったか?」

 ルカと一緒に走ってここまで来たのだから酷い怪我はしていないのだろうが、一応聞いてみた。

 マギーが声を出さずに頷く。

 マギーの瞳は巨蠍に向かったままで、ルカに顔を向けようとしなかった。いつもの元気なマギーではない。

 相当ショックだったんだろうな。

 ルカは近くで見たわけではないが、巨蠍の向こうに見えた人の山、あれは恐らく、巨蠍が巣へ持ち帰る為に集めた人族の死体だろう。あんな物を間近で見たら、マギーくらいの年頃の子どもがショックを受けないわけがない。

 巨蠍が仰向けに倒れて、土煙が舞う。妖精族が巨蠍の退治に成功したのだ。後の対処は国によってまちまちだが、どこかへ死骸を捨てに行くか、その場で解体して甲殻などの素材を採るために各々で持ち帰るかのどちらかだ。

「終わったみたいだ。マギー、もう大丈夫だよ」

 セイロン達と合流しようと思い、ルカは立ってマギーの肩を叩いた。

 座ったままで、マギーはルカを見上げた。涙がマギーの頬を伝う。

「ルーシーも、フィオーネも、ケビンも、みんな殺されたの。ミアはあいつに踏み潰されて。まだ小さいのに。わたしが守らなきゃいけなかったのに!」

 知らない名前が並ぶ中に、知った名が混ざる。ミア。妖精族は夜になったら魔族になると言った子だ。まだ六歳だった。

 マギーのように逃げ遅れるのは珍しいのだと思っていたのに、実際には多くの子どもが犠牲になっていた。

 もっと早く妖精族が来てくれれば。

 そう思ったが、ルカはそれを否定するように頭を振った。

 違う。妖精族に頼ってばかりじゃ駄目なんだ。人族だけでも魔族を追い払えるようにならないと。

 マギーの涙を拭くための布を、ルカは持ち合わせていなかった。

「怪我でもしたか?」

 不意に、低い男の声が降ってきた。

 見上げると、白い服を着た緑の髪の妖精族の男が、夕日を背にマギーを見下ろしていた。

 男はマギーの前に座って、白い布をマギーに差し出した。

「涙を拭きなさい。それから痛い所があったら言いなさい。わたしは医者だ」

 マギーが顔を上げて、男を見た。

「ありがとうございます、ソルバーユ様。でも、治療が必要なほど酷い怪我はないので大丈夫です」

 しっかりした口調で答える。さっきまで泣いていたのは演技かと思う程の変わりようだが、セイロンと同じで妖精族に対する礼儀を何より大事だと思っているのだろう。

 この男がソルバーユか。

 ルカがこの町に来た時に、ルカを診察したという医者。

「他に生きてるやつは居なかったのか」

 ルカはソルバーユに聞いた。

「……居ないようだ」

 男は首を左右に振って、それからルカの方に顔を向けた。

 逆光に目が慣れて、男の顔が次第に分かってきた。

「あんた……」

 見覚えのある顔だった。

 でも、あの時はソルバーユなんて名じゃ……。

 困惑するルカを横目に、ソルバーユは立ち上がって言った。

「二人とも、巨蠍の毒が入ってないか検査するから、わたしの研究所へ来なさい」

 ソルバーユに付いて妖精族が住む区画まで歩いた。途中、元居た場所に戻ろうとする人族の波とすれ違ったが、セイロンやサラは見当たらなかった。

「まずはお嬢さんからだ」

 ソルバーユが言う研究所に着いてから、先にマギーが検査を受けることになった。

 腕から血を抜いて、それに特殊な薬剤を入れて反応を見ることで毒があるかないかが分かるのだそうだ。そういう説明を、マギーの検査をしている間に助手の女性から聞いた。

 マギーが奥の部屋から出てくる。

「問題無いって。良かったぁ」

 マギーが嬉しそうに言った。

 マギーくらいの年齢に達すると巨蠍の毒で死ぬことはまずない。もちろんルカもだ。ただし体の一部が麻痺するなどの症状が後で出る事があるため、人族も妖精族も、巨蠍と係わった後は毒の検査を受けるよう勧めているのだそうだ。それも、助手の女性から聞いた。

 マギーと交代で、ルカが奥の部屋に入った。

 ソルバーユの前にある椅子にルカも座る。

「右手を出して」

 言われた通りにする。

「なあ、あんたミケシュだよな?」

 ソルバーユは作業を続けていたが、ややあって口を開いた。

「よく覚えていたな」

 注射針を抜いて血液を別の容器に移す。その容器に別の液体を入れて蓋をした。

 それからルカを見た。

「目の調子はどうだ。見た限りではよく馴染んでいるようだが」

 手を伸ばし、ルカの左目の下瞼を親指で少し下げた。

「充血もないな。瞳孔も変化していない」

 ソルバーユが言う。

 彼がミケシュだというなら、最初に診察したときにセイロン達に、ルカの右目について嘘を伝えたのも分かる。

「久しぶりだな、ルカ。改めて自己紹介させてもらうよ。わたしは医師のソルバーユ。君も知っての通り法に触れる行いをしていたからね、名前を偽っていたのは悪かったよ」

 確かにミケシュだ。声など忘れてしまっていたが、聞けばそうだと分かる。

「懐かしいな。あんたに会ったのはずいぶん前だった」

「ああ、君の左目と両耳を手術したのは八年も前のことだ」

 時折、ソルバーユは血液が入った小さな容器に目をやっている。ルカも見てみるが、特に変わった様子は無かった。そもそも巨蠍に刺されていないので、毒が入っているはずがない。

「後悔はしてないのか?」

「何を」

 全てに対して後悔がないのであれば、聞き返す必要は無い。

「『外見を人族にしたことを』だよ。まあ、文句を言ってきたわけでもないし、後悔はしてないみたいだな。良いことだ。あの時は金が無いとかで左だけになったが、どうだ? 今金があるなら、右目も変えてやるぞ」

 言われて、ルカは隠した右目を眼帯の上から触った。

「……いや、このままでいい」

 少し考えてから言う。

 金が無いのも理由のひとつだが、せっかく母親から受け継いだ瞳を両方とも失うのは嫌だった。

「まだ妖精族に拘っているのか。人族にもなれず、妖精族にもなれないなら、君は何も変わらないぞ。死ぬまで魔族の子『半妖精(ハーフエルフ)』のままだ」

 ソルバーユが厳しい目でルカを見ている。

「分かってるよ。半妖精の居場所がないことくらい、身を持って知ってる。でも、だからって自分の存在を偽らなきゃ生きられない社会なんて、そっちの方がおかしいだろ」

 声は殺している。マギーには聞かれたくないからだ。

 自分を生んだ人族の父と妖精族の母のことは恨んでいない。種族の差を越えて愛し合い、自分を生み育ててくれたことをむしろ誇りに思っている。

 けれど、自分が半妖精であることは、他の人には知られたくない。知られれば、人族は自分を奇異の目で見るだろう。マギーもセイロンもそうだ。今は同じ種族だと思っているから優しくしてくれるが、半妖精だと知れたら手のひらを返されるだろう。

「前々から思っていたけれど、やはり君は変わってるね。小声で話すのは外に居る人族の娘に聞かれたくないからか。正体を知られることを恐れるなら、整形手術を受けるべきだ。それなのに君はそのままにしたいと言う。それは君を認めなかった妖精族への恨みを忘れないようにするためか?」

 ソルバーユが静かに言う。

 半妖精は人族と妖精族の両方の血を引く者のこと。しかし妖精族は、人族と妖精族の血が交われば魔族が生まれると言い、生まれた半妖精に人権を与えず奴隷にすらなることを許されず、生きる資格さえ奪おうと、発見次第処刑する法まで作った。

 半妖精を匿うとその一家も同様に処刑されるから、人族も妖精族も、半妖精を嫌う。本当に魔族の子だと信じる者も出てくるほどだ。

 ルカが生まれた町には、ルカ以外にも半妖精がたくさん居た。それを気にしないひと達が集まって作った町だった。妖精族の軍隊が町を攻めて来た時、もしそこが半妖精が住む町でなければ、皆殺しにしようとはしなかったのではないかと時折考える。

「別に、妖精族全体を憎んでるわけじゃない。良い奴もいっぱい居るしな、あんたも含めて」

「そうか」

 ソルバーユが笑ったように見えた。いつも眉間に皺を寄せているため顔全体で笑っているのは見た事がないが、表情が無いわけではない。

「では、君が憎んでいるのは君の存在を認めないこの社会そのものというわけか」

 問われて、ルカは少し考えた。

 社会という言葉は自分も使いはしたが、実の所はっきりとその内容を理解しているわけではない。しかし、何かに対して悔しいと思っているのは確かで、その対象は個人ではない。となると、社会以外にルカには適当な言葉が思い当たらなかった。

「まあ、そんな感じだろうな」

「そうか」

 ソルバーユが頷いた。

 部屋の扉を叩く音がして、助手の女性が入ってきた。

「先生、マギーさんが帰らなければならないようなので、送ってきます」

 明るい室内に居たため気付かなかったが、日は完全に沈んでいた。

「わかった」

 ソルバーユが答えると、女性は部屋から出て扉を閉じた。

 助手の女性は、八年前とそう変わっていないように見える。人族のはずだが、女性だからそんなものだろうか。

「あの人、八年前も居たよな」

 ルカは聞いてみた。

「ここもあの時の手術室と同じ感じだし、あんたも、あの人も変わってないな」

 ソルバーユが手元にあった血液の容器を後ろの机に避けた。

「彼女は妖精族だからね」

「へ?」

「君にしたのと同じことさ。目を変えて、耳を削った。ああ、彼女の場合は歯も抜いたかな。もちろん彼女の同意は得ている。いやむしろ、彼女が希望したのかな」

 奇怪な話だ。半妖精がどちらかの種族に外見を似せるのは、生きていく上で仕方なくやっている。逆ならまだ分かるが、純粋な妖精族が人族に姿を似せて、何の得があるのだろう。

「おっと、これは他のひとには秘密だからな」

 珍しく、ソルバーユがいたずらっぽい顔で言った。

 それから、またいつものようにしかめ面に戻る。

「君は社会を憎んでいると言ったが、わたしも同じだ。この社会を憎んでいる」

「何で?」

 生きることを許されない半妖精や、奴隷としてしか生きられない人族ならば、この社会を憎むのも分かる。なぜ恵まれた立場に居る妖精族が社会を憎むのだろう。

「わたしの研究を認めないからだよ」

 研究? そう言えば、この場所のことをソルバーユは研究所と言っていたが。

 ルカは部屋を見回した。壁に設けられた棚には、いくつもの瓶が並んでいて、ソルバーユの向こう側に小さな窓が見えている。机の上には先ほどの血液が入った瓶と、それに混ぜた薬品、それに石版が何枚も立てて置いてあった。

「何の研究だ?」

 聞いてもよいものなのか分からなかったが、言いたくなければソルバーユは言わないだろうから、とりあえず聞いてみた。別に、研究内容に興味があったわけではない。単なる世間話程度に会話を続けようと思ったのだ。

 だがソルバーユの答えは、世間話とするには常軌を逸していた。

「人族を不老長寿にする研究だ。だが、実際に人族で試そうとした時に国から待ったが掛かった。体を提供したがる者は多く居た。居なかったとしても、わたしの奴隷を使えばそれで良かった。そこまで来ていたのに、わたしの研究資料と論文は全て没収されてしまった。運悪く国はカザートの侵攻を受け、国が保管していたはずのそれらの書類は行方知れずとなった」

 一体ソルバーユが何を言っているのか、ルカは一瞬理解できなかった。

 人族を不老長寿にする? 妖精族のようにか?

 それは成功すれば素晴らしいことだと思える。しかし国がそれを否定したのだという。

「何であんたが居た国は、研究を続けさせなかったんだ?」

 ルカが問うと、ソルバーユが笑った。

「君は、実験が失敗したらどうなると思う?」

「え、どうって……どんなことするのか知らねえけど、最悪死ぬんじゃねえのか?」

 ソルバーユは頷いた。

「その通りだ。実験に使った人族が死んでしまう、もちろんそれも問題だ。だがそれよりも国にとっては、実験が失敗し続ける限り使われる薬品の費用のことが問題だった。『人族はいくらでも増えるから長寿にする必要は無い。そんなことに使う予算はない』そんなことを言っていた」

 ソルバーユが遠くを見るような目をして言う。

「国がカザートに併合された後、一度イレイヤ公に会った時に、押収した品にわたしの研究資料がなかったか聞いたのだが、調べておくと言われてそれっきり何も言ってこなかった」

 聞き逃すところだった。

 ルカはソルバーユの今さっきの台詞を頭の中で反芻した。

 確かに彼は、『イレイヤ公に会った』と言った。

 『イレイヤ』は、ルカの町を滅ぼしたエルフの名だ。幼かったルカに姉から知らされたのは町を襲った軍隊を率いていたエルフの名だけだった。それがどこから来て、何のために町を襲ったのかまではその時に言わなかったし、ルカも聞かなかった。

「ソルバーユ、あんたイレイヤ公と会ったのか?」

 ルカが聞くと、ソルバーユは怪訝そうな顔を見せた。

「何か不思議か? わたしがカザートに居るのは、彼に呼ばれたからだよ。自分の専属医になれと言われてね。もっとも、彼のせいでわたしの研究成果は永遠に失われることになったのだから、彼の言いなりになるつもりはなかったがね」

 何だ? イレイヤ公っていうのは、今カザートに居るのか? カザートのどこに?

 ルカは服の上からナイフを握り締めた。

 居場所はおそらくソルバーユが知っている。イレイヤ公の方はルカのことを知らないだろうから、こっそり近付いて復讐を果たすこともできるはずだ。

 いきなり居場所を聞いたりしたら、ソルバーユに不審に思われるか? いや、何か言ってきても昔やってたことを暴露すると言えば黙るはずだ。

「イレイヤ公は、今どこに……?」

 声を絞り出す。

「ん、今は戦争に出てるんじゃないかな? 彼は戦争が好きらしい。難民を救う為だとか言っているが、そのせいで余計難民が増えていることは気にならないようだしね」

 ソルバーユが答える。

 イレイヤ公はカザートでは相当な階級にあるのだということが、ソルバーユの話ぶりから分かる。

 ソルバーユが言葉を続けた。

「君がなぜイレイヤ公を探しているのかは知らないが、もしそれが復讐のためだと言うのなら諦めるべきだ」

 ルカが考えていたことをそのまま当てられて、ルカはソルバーユを凝視したまま、何も言えなかった。

「イレイヤ公は十五年前、カザートを建国した。つまり、ヴォルテス王がイレイヤ公なのだ。君は王を殺せると思うか?」

 ソルバーユが言う言葉は、ルカの耳にひとつ残らず入っていた。しかし、にわかには信じ難かった。いや、ソルバーユの言葉を疑う必要は無い。けれど、信じたくない。

 ソルバーユが言う通り、王は厳重に警護されているだろうし、ルカがこっそり近付くことは不可能だ。第一、王を倒すということは国を滅ぼす事と同義だ。

 せめて、もっと普通の階級のエルフだったら。

 脳裏に、ルカの町が焼かれている情景が浮かぶ。炎を背景に、戦車の黒い影が軋んだ音を響かせて走っていく。

 そうだ。王でも関係ない。俺が生き残ったのは、町の皆の仇討ちをするためだ。俺しか居ないんだ。

「ありがとう、ソルバーユ」

 ルカは立ち上がった。

「あんたがやってたことは、誰にも言わない」

 そう言って、ルカは診療室から出て行った。

 ソルバーユがルカの後姿を頼もしそうに見送る。

 ルカが、ソルバーユの分まで復讐を果たしてくれるだろう。そう思えば、残りの生涯をカザートで暮らすのが楽しみになる。

「先生、今戻りました」

 研究所の入り口から、助手の声が聞こえてきた。



「おかえり」

 家に帰るとセイロンがごく普通に出迎えた。

「魔族と戦って無事に帰還したんだぞ。もっとこう、喜べよ」

「だいぶ前にマギーがトキメさんと一緒に来たから、ルカがソルバーユ様のとこに居るのは知ってたし、だったら別に心配する必要はないでしょ」

 トキメはソルバーユの助手の女性だ。セイロンが『様』付けで呼んでいないから、セイロンは彼女を人族だと思っているらしい。

「マギーは? 先に帰って来たんだろ?」

 ルカが問うと、セイロンが溜息をついた。

「今何時だと思う? マギーはもうおばさんの家に帰ったよ。大体、僕は結構長い間サラちゃんと二人で待ってたけど、マギーもルカもどこに行ったか分からないし、サラちゃんはマギーを心配してずっと泣いてるし、大変だったんだ」

「サラちゃんが飯作るとか言い出さなくて良かったじゃないか」

 机の上に出ている干し肉をつまみながら、ルカは言った。

 振り返ってセイロンを見ると、不機嫌そうな顔をしている。ルカは急いで話を変えることにした。

「そんなことよりセイロン、ヴォルテス王が元はイレイヤって名前だったっていうのは本当か?」

「ああ、本当だよ。ていうか、それくらいなら前ルカに渡した年表にも書いてあったでしょ」

 溜息を軽く吐いて、セイロンが言った。

「そっか。ちょっと見てくるよ」

 言って、ルカは寝室に入った。

 ヴォルテスが元はイレイヤだったということは、機密でもなんでもなく常識らしい。

 セイロンの言葉からそう思う。

 巻物状になっている年表の紐を解き、それを広げた。多少は文字を読めるようになっているが、音を表す字はともかく、意味を表す字は多様で覚えきれるとは思えなかった。特に人の名前は意味を表す字を並べて音で読ますから、読み辛い。

 それでもカザートが建国された年を全部読みきった。この年表をセイロンから渡された時は、建国より前のことに興味があったから、建国以降のことはあまり見ていなかったのだ。

 別の資料も見てみる。こちらはヴォルテス王の活躍を宣伝する為の簡単な読み物のようだ。

 カザートの貴族イレイヤ公爵家に生まれ、十代のうちから軍人になり戦場で活躍を見せたらしい。当時カザートは小国だったが、付近の同様の小国との連合を拒み、東側で隣接している大国チュンウと同盟を結んだ。チュンウの同志となり共に付近の小国を征服。しかしカザートの王は滅ぼした小国の残党に殺され、チュンウの指導でイレイヤ公がカザートの暫定代表となった。その後チュンウは北にある別の大国との戦争になり、カザート付近の侵攻を進めることができなくなった。その際、チュンウから、征服した西地域の統治を命じられたのがイレイヤ公だった。

 カザート代表として統治するのではなく新しい国家の王となるため、イレイヤ公は数百年前蛮族に滅ぼされたとされるヴォルテス家こそが自分の祖先であると言い、名前をヴォルテスと変えた。

 それが十五年前のことだ。

 ルカが生まれた町が滅ぼされたのは十六年前のこと。

 あれ? ってことは、俺が生まれた町は、今はカザートの一部になってるってことか……?

 イレイヤ公が町を滅ぼしたのは領土拡大の為だろうから、その可能性が高い。

「セイロン」

 寝室から台所へ戻って、セイロンに声を掛ける。

「何?」

「地図とかって持ってないか?」

 セイロンは少し考えていたが、首を横に振った。

「ルカに見せて良いものにはないよ。というか、僕には見えないから、それがどんなものなのか分からないんだけどね」

 ルカに見せてはいけない、セイロンは内容を確認できない。セイロンも見てはいけないという物ではない。見ても良いが、見ることができないということだ。

「妖精族の石版か」

 呟いて、確認の為にセイロンを見たが、セイロンは何の反応も返してこなかった。どうせルカにも見ることができないのだからと気軽に見せてくれるかと思っていたが、そういうわけにもいかないようだ。

「なんだよ。地図くらいいいじゃないか」

「そんなに見たいんだったら、パロス総督に聞いてみればいい。総督ならこの辺りの地図を持ってるよ。だって一応総督だからね」

「なるほどね」

 納得したようにルカは言ったが、パロスがルカの頼みを聞いてくれるとは到底思えなかった。

 そうなると、やはりセイロンが持っている石版の地図を盗み見るのが早そうだ。しかし、ルカにその石版を読めるとは思えない。とすると、ソルバーユか誰かに頼んで紙に書き写してもらわなければならない。

 ソルバーユが盗んだ石版を写すということをやってくれるだろうか。

 ソルバーユが地図を持っていれば何のことはないんだが……。

 ルカは考える。

「あっ」

 ルカが声を出したので、セイロンがルカを見た。

「何でもない」

 セイロンに言う。

 明日、仕事が終わったらお姫さんに会えるじゃないか。お姫さんなら地図持ってそうだ。

 セイロンが預かっている石版に手を出す必要はなさそうだった。


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