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悪役令嬢と悪役令息、地獄行きのディストピア  作者: 猫塚ルイ


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第45話

父の動き。


雨の雫。


すべてが静止したかのように緩慢に映る。


私は、駆け出した。


もはや人の領域を超えた、音をも置き去りにする速度。


紅い残像を曳きながら、私は父の懐へと飛び込み


そのゼロ距離で、人差し指にありったけの殺意を込めて引き金を引いた。


轟音と共に、世界のすべてを焼き尽くす一撃が放たれる。


「ぐ、ぁぁぁああああっ……!!」


父の咆哮は獣のそれだった。


魔女の領域に足を踏み入れた私の五感は、異常なほど、そして残酷なほどに研ぎ澄まされていた。


降りしきる雨の一滴一滴、泥が跳ねる音


そして父の放つ弾丸の軌道すら、まるでコマ送りの映像のように明瞭に捉えることができた。


避けられないはずの、死を運ぶ軌道上の弾丸が、肌を僅かに掠めただけで弾かれ、無効化される。


体内で暴走する、あまりにも膨大で禍々しい魔力が不可視の鎧となって私の全身を覆い尽くしていた。


それはもはや魔法という概念を超え


物理法則そのものを足元から捻じ曲げるほどの圧倒的な「力」の奔流だった。


(これが……魔女と呼ばれる存在の力……?)


理性のかけらが、脳の片隅で一瞬、冷めた疑問を投げかける。


だが、すぐに心臓の奥から湧き上がる


どす黒く純然たる破壊衝動がそれを無慈悲に塗り潰した。


「グッ…お前は、ここで確実に仕留める! 出来損ないの母親と同じように!!」


父は血走った目を見開き、掌から漆黒の魔弾を狂ったように連射してきた。


その一発一発が、先程までのものとは比較にならない威力を秘め


掠めるだけで周囲の廃墟を塵へと変えていく。


しかし、今の私にとって、それは頬を撫でる微風も同然だった。


私は空間を歪めるほどの超速で疾駆した。


迫り来る魔弾の嵐を、紙一重の演舞のように縫い、掻い潜りながら、一気に父との距離を詰める。


「な……!? この速度は……ッ!?」


初めて父の表情に、隠しきれない動揺と恐怖が走る。その隙を、私の本能は見逃さなかった。


私は渾身の、いや、存在そのものを注ぎ込んだ魔力を右拳に集束させ、迷いなく振り抜いた。


掌底ではない。


相手を「殺す」ためだけに特化した、純粋な暴力を象徴するような拳。


それが父の腹部へと吸い込まれるように突き刺さった。


ゴッ!!


肉がひしゃげ、骨が粉々に砕ける鈍い衝撃。


父の巨体は、木の葉のように軽々と後方へ吹き飛び、積み重なった瓦礫の山へと轟音を立てて激突した。


舞い上がる粉塵、降り注ぐ瓦礫の破片。


その中心で、父は口から大量の鮮血を吐き出しながらもなお、こちらを呪い殺さんとする目つきで立ち上がろうともがいている。


その、かつて畏怖の対象であった男を冷酷に見下ろしながら、私はリボルバーを構え直した。


「……これで、今度こそ終わりよ。地獄でお母さんに謝ってきなさい」


狙いは、父の歪んだ頭部。


正確に眉間を照準に収め、私はゆっくりと引き金を絞ろうとした。


その瞬間。


左頬に、焼けるような鋭い違和感を覚えた。


ふと、近くに落ちていた、鏡のように磨かれた金属片に自分の顔が映り込む。


それを見た瞬間、私は全身の血が凍るような戦慄に襲われた。


さっきまで透き通るように白かった私の肌が、左頬の端から、まるで黒いインクを零したように変色し始めていた。


「……ッ!?」


息を呑む暇もなかった。


今度は左手の指先から、あの悍ましい黒が染み渡っていく。


熱い。肌の表面ではない。


肉の奥、骨の髄、魂の芯から、何かが焼け付くような、内側から細胞一つ一つを喰い荒らしていく悍ましい熱と痒み。


魔女化の代償。


人間であることを止めるための、終わりの始まり。


「……時間が無い。早く仕留めないと、私が私でなくなる」


私は忌々しげに、自分に言い聞かせるように独りごちた。


蝕まれていく恐怖を怒りに変え、今度こそ確実に息の根を止めるべく、這いつくばる父へ接近した。


父は溢れ出る血を拭うこともせず


死を悟ったかのような、それでいて勝利を確信したかのような不敵な笑みを浮かべていた。


「笑っていられるのも今のうちよ」


父の挑発を、私は鋼の意志で無視した。


そして、その頭蓋に、熱を帯びた銃口を力任せに押し当てた。


これで全てが終わる。


母の仇。ダイキリの無念。


そして、私自身の呪われた運命。


引き金に指をかけ、力を込める。


その、刹那だった。


ガクッ!


突如として、全身から全ての力が、まるで栓を抜いたかのように流れ出した。


糸が切れた操り人形のように、私の体は膝から崩れ落ちる。


(っ…?!体が……動かない……?)


右手から力が抜け、使い慣れた相棒であるリボルバーが、虚しく湿った土の上に落下する。


重い金属音が響く中、私は大地に膝をつき、そのまま顔を泥に伏せてしまった。


自由が利かない。指一本、瞼一つ動かせない。


自分の肉体でありながら、何者かに支配権を奪われたような、あまりにも不気味な隔絶感。


否応なく理解せざるを得なかった。


限界など、とっくに超えていたのだ。


神にも等しい絶大な力の代償は、私の脆弱な「人間」としての器を粉々に砕くほど大きすぎた。


「ぅ……ぐあああああぁぁぁぁぁぁッッ!!」


次の瞬間、全身を内側から掻き毟るような、筆舌に尽くしがたい激痛が私を襲った。


体内で捌け口を失った膨大な魔力が、行き場を求めて暴走し始める。


内臓を引き裂き、骨を細かく砕き、血管を千切り、神経を一本ずつ焼き切っていく。


痛い。


痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!


「…が、はっ……あ…ッ、ぁぁぁあああああああああああああああああああッッッ!!!!」


もはや言葉にならない、断末魔のような絶叫が喉から迸る。


理性なんてものは、この痛みの激流の中では木の葉よりも脆かった。


この世のものとは思えない苦悶に苛まれ、私の意識の核は、音を立てて崩壊していった。


「クックック……やはり、それが魔女化の末路か。実に美しい崩壊だ」


遠くで父の嘲笑が聞こえた気がしたが、もはや反応する余裕など一分もない。


脳裏には、名状しがたい悪魔のような影が蠢き


崩れた自我の隙間を埋め尽くそうと黒い手を伸ばしてくる。


(……嫌だ……まだ、死ねない……殺さなきゃ……)


かろうじて残っている意識の残滓の中で、必死に闇に抗おうとする。


けれど、それは荒れ狂う嵐の海で藁を掴むような、あまりにも虚しい抵抗だった。


抗えど、抗えど。


エカテリーナとしての意識は、底なしの深い闇の中へとゆっくりと沈んでいく。


世界が遠のく。


音も、熱も、憎しみさえもが消えていく。


そして、私は


静寂という名の闇の中に、飲み込まれていった。

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