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悪役令嬢と悪役令息、地獄行きのディストピア  作者: 猫塚ルイ


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第42話

その表情を見るだけで、胸が張り裂けそうになる。


けれど、私は立ち止まるわけにはいかない。


「私にはやらなければならないことがあるの。行かなくちゃ」


「行くって…どこへ? また、私を一人にするの? 夫のように……」


その言葉が、私の心臓を凍りつかせた。


死に際に見た母の顔が脳裏にフラッシュバックし、目の前で穏やかに微笑む母の姿と重なる。


息が止まった気がした。


血の気の引いた青白い頬。


二度と光を映さない、開いたままの虚ろな瞳。


震える唇から漏れた、かすれた最期の言葉。


それが今、幸せそうに笑うこの「母」の顔に、呪いのように焼き付いている。


喉の奥から何かがせり上がり、目の奥が熱くなった。


違う。これは違う。


私の求めていた母じゃない。


こんな歪な形で蘇ってほしいわけじゃない


「……お母さん」


声が震えた。


私は一歩後ずさり、拳を強く握りしめる。


爪が掌に食い込む痛みだけが、これが夢だという事実を辛うじて繋ぎ止めていた。


「ねえ、また……私を置いていくの?」


母の声が細く途切れ、彼女の瞳に深い悲しみの影が落ちる。


その表情は、その声は、あまりにもリアルで、私の決意を激しく揺さぶった。


───あのときと同じだ。


病床で、何度も何度も聞いた言葉。


死にゆく母を前にして


無力な子供でしかなかった自分への呵責が、どす黒い濁流となって蘇る。


だが、ここは現実じゃない。


父が作り出した、幸福という名の檻だ。


母の冷たくなった亡骸を抱きしめた、あの絶望的な冷たさこそが私の「真実」だ。


この温もりは、私を堕落させるための偽物に過ぎない。


「違う! これは夢よ……!」


自分自身に叩きつけるように叫び、私は大きく息を吸い込んだ。


熱くなる目頭を無理やり押さえつけるように、一度顔を伏せる。


脳裏には、父のあの傲慢な嘲笑がこびりついている。


『お前たちが一番望んだもの』


私の望みが、母との偽りの再会に溺れること?


舐めないで。


私が望んでいるのは──


(父への復讐。ダイキリとアルベルトとの共闘。そして、この世界の真実を暴くことよ!)


私は顔を上げた。


「ごめんなさい……でも行かなくてはいけないの。ごめん、お母さん」


声はまだ細かったが、その芯には鋼の意志があった。


母が悲しげに眉を下げ、私を追おうとする。


「なんの話をしてるの……?」


その困惑の表情に胸が締め付けられる。


それでも、私はゆっくりと首を振った。


「絶対に、絶対にお母さんの仇を取るから。もう少しだけ、天国で待ってて……。いや、私はもう、そっち側には行けないかもしれないわね…悪役令嬢以上に、人の心がないことをしてしまったんだから」


その瞬間、空間全体にヒビが入るような、鋭い音が響いた。


柔らかな西日が歪み始め、居間の机や椅子が陽炎のように揺らめく。


父の魔法が揺らいでいる。


私の精神が、この「幸福」を拒絶し、抵抗を始めた証拠だ。


母の、不安に満ちた顔。


本当なら、今すぐ駆け寄ってその不安を拭ってあげたい。


けれど、今はできない。


この温かい欺瞞の世界から抜け出し、本当の敵を討ち倒さなければ、私は私を許せない。


(父は……どこにいる?)


屋敷の中に父の気配はない。


あの男は今頃、外側で私たちがこの夢に溺れて死ぬのを、愉快そうに眺めているのだろう。


私は一度、深く息を吸い込んだ。


もし、本当の母が生きていたなら、きっと「無茶はやめなさい」と心配して止めるだろう。


けれど、現実は無慈悲だった。


母はもういない。


それは、幼い頃に血を吐くような思いで理解した事実だ。


あれを悪い夢だと思い込もうとしたこともあったけれど、現実から逃げても母は戻らなかった。


なら、私は今、こんな偽物の愛に惑わされてはいけない。


「お母さん……ありがとう。幸せな夢を見せてくれて」


私は深く頭を下げた。


その拍子に、ぽたりと床に雫が落ちた。


これは私の涙じゃない。


悲しみでもない。


戦うための、覚悟の重みだ。


再び顔を上げたとき、母の姿は霧のように薄れかけていた。


彼女は何かを言おうと口を開いたが、その声は音にならずに風に消えていく。


母は、最後に寂しそうに微笑み、私の頬を優しく撫でるような仕草をした。


「大丈夫よ」と囁かれた気がした。


それが父の魔法の残滓か、それとも母の魂が届けてくれた言葉なのかはわからない。


けれど、母は私のために「生きて」と言ってくれていた。


空間が激しく歪み、机や椅子が粉々に砕け散り、足元の床が崩落していく。


私は一歩、前へ進む。


夢の崩壊という名の激流に抗いながら、現実という名の戦場へ戻るために。


「エカテリーナ!」


崩れる世界の端から、母が必死に手を伸ばしてきた。


その手を取ってしまいたいという強烈な衝動。


だけど私は、もう一方の手でその腕を、強く払い除けた。


「私は──前に進まないといけないから、ごめんね」


現実へ。


ダイキリとアルベルトのもとへ。


そして、すべての元凶である父と、その黒幕の元へ。


床が完全に砕け散った瞬間、私の身体は猛烈な落下感に包まれた。


重力が戻り、肺に冷たく湿った現実の空気が流れ込む。


意識が急速に覚醒していく。


目を開ければ、そこは腐った泥と鉄の臭いが立ち込めるスラム街だった。


隣には、アルベルトとダイキリがいた。


二人とも肩で息を弾ませ、現実に戻ったことへの困惑と安堵が入り混じった表情を浮かべている。


彼らもまた、自らの幸せな偽物から、自力で這い上がってきたのだ。


「無事でしたか!」


アルベルトが、いつもの冷静さをかなぐり捨てたような安堵の色を見せた。


「お姉さん! 今なら……っ、アルベルトさんがお父さんに致命傷を与えてくれたおかげで、トドメを刺すだけです!」


ダイキリが叫ぶ。


私は頷き、周囲を見回した。


そして、数メートル先の泥濘に倒れている人影を見つけた。


父・ブロンクスの姿だ。


全身に無数の切り傷を負い、血が噴き出している。


魔法を強制的に破られた反動か、その呼吸は浅く、表情は苦痛に歪んでいた。


「エカテリーナ……」


父の濁った目が私を捉えた。


そこには剥き出しの憎悪があったが


それ以上に、私の覚醒に対する驚愕と悔しさが強く滲んでいた。


「お前が…この夢から……抜け出せるわけ、が……っ……」


彼の声は弱々しく、死の影が濃く落ちている。


私は胸に残る母への想いと、内臓をかき乱されるような虚脱感に耐えながら、一歩ずつ前に出た。


(母との再会は……確かに、死ぬほど切なかった)


けれどそれは、私を絡め取るための偽物の幸福。


私が乗り越えなければならない、最後の試練に過ぎなかった。


今度は決して、目を逸らさない。


父の罪を裁くため。母の魂を正しく弔うため。


「終わりよ」


私は父を見下ろした。


彼の息遣いはもはや虫の息。


放っておいても長くは持たないだろう。


けれど、私は私の手で幕を引かなければならない。


「母を殺したこと。その心を壊したこと。許すつもりなんて、微塵もないわ。絶対に」


自分の声が、自分でも驚くほど冷徹に響く。


「貴方が望んだハッピーエンドじゃなくて…残念だったわね」


私は腰のポケットから、二丁のリボルバーを抜き放った。


無駄な装飾を削ぎ落とした、殺戮のための鉄塊。


母の形見でも何でもない、ただの兵器。


それを、父の傷だらけの胸板に向けて、迷いなく構えた。セーフティはとっくに外れている。


「ふっ…殺れるものなら……殺ってみろ……っ」


父が嗤った。


血と吐瀉物に塗れた唇が、歪に吊り上がる。


「お前は必ず後悔するぞ……ははっ……あの女と同じ、感情に任せて……暴れる未来が見える……」

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