第41話
「……っ!」
ダイキリが防御の構えを取る前に、鈍い衝撃が走った。父の掌底が彼女の腹部を抉ったのだ。
ダイキリの身体は軽々と吹き飛び、腐った煉瓦壁に叩きつけられた。
「がはっ……」
肺から搾り出された呻き声と共に、鮮血の雫が地面に滴る。
「ダイキリ!」
私の叫びと同時にアルベルトが動いたけれど、父はその動きを読んでいたかのように視線だけをちらりと動かした。
「まあいい」
父が再び口を開いた。
その声音には、先ほどの嘲りとは別の何か、余裕と計算が滲んでいる。
「あの方が到着するまで、遊んでやろうではないか」
「遊び……ですって?」
私は唇を噛みしめた。
怒りが全身を焼くけれど、同時に脳裏には警戒の信号が走る。
(なぜここで時間稼ぎを? ダイキリを痛めつけても得はないはず……)
父が言う「あの方」とは誰なのか。
コロナリータが逃げる直前に言っていたMASTERのことなのか。
「ダイキリ!」
私は倒れた彼女を庇うように前に出る。
「無駄だ」
父がゆっくりと腕を組んだ。
「お前たちが束になっても、今の俺に傷一つ付けられん。それよりも───」
父は顎をしゃくり、遠くの霧深い路地へと視線をやった。
「お前らに、最高のハッピーエンドをプレゼントしてやろう」
その言葉が合図となったかのように。
路地の奥から、重く湿った空気を押し分けるような、異様な気配が漂ってくるのを感じた。
父の薄ら笑いがさらに深くなる。
「ほれ……本番はこれからだ」
ダイキリは必死に起き上がろうとしている。
アルベルトは油断なく周囲を警戒している。
私もまた、体内の魔力を最大限に研ぎ澄ませた。
「遊び」などではない。これは確実に、致命的な「戦闘」が始まる瞬間だった。
路地の奥から滲み出る気配は、まるでスラムの澱みそのものが意思を持ち始めたかのようだった。
粘つくような湿り気と腐敗臭が濃度を増し、肌を粟立たせる。
それは単なる瘴気ではない。
質量を持った「悪意」が、空気分子の隙間を埋め尽くしていく感覚だ。
ダイキリは腹部を押さえながら立ち上がろうとするものの、青ざめた唇は苦痛を吐き出すので精一杯だ。
「……ただでさえ頭がおかしくなりそうなのに……ハッピーエンドって、意味わかんない」
彼女の震える呟きが霧に飲まれる寸前、アルベルトの異常なまでに澄んだ声がそれを打ち消した。
「気配の密度が異様に偏っています……おそらくは『強力な魔術』───それも高位個体か複数体」
彼は静かに呟く。
その瞳は闇を見通す探照灯のように煌めいている。
「高位……?」
私の問い掛けに、アルベルトは少し身を翻し
片手で小さく手刀を作り、虚空に仮想的な軌道を描いた。
「ええ。コロナリータのユニーク魔法も厄介でしたが、今は純粋な『物理的な脅威』を感じます。…構えてください」
言い終えるや否や、ずしん、と大地が鳴動した。
先ほどまでの細やかな霧が、突然荒波のような圧力となってスラム街全体を揺さぶり始める。
すると、父が
「ユニーク魔法───『白昼夢』」
と唱えた瞬間、周囲が光に包まれた。
「きゃっ…!」
ダイキリが甲高い悲鳴をあげて顔を両手で覆った。
反射的に私も片腕で目元を遮り、強すぎる光から網膜を守ろうとする。
奇妙な光だった。
太陽光のように暖かくもなければ、魔法の照明のように理性的でもない。
生温かくて甘ったるい蛍光ピンクと毒々しい水色が混ざり合い、その中心に金粉のようなチカチカした光粒が舞っている。
「一体……なにを!?」
私は叫ぶ。光の中から父の歪んだ哄笑が響いた。
「お前たちが一番望んでいたものを与えてやる! この腐った世界で夢見た安寧だ!」
「……っ、くだらない!」
私は吐き捨てるが、視界が安定せず光の中で目眩すら感じる。
(ダイキリは? アルベルトは?)
辛うじて開けた片目で彼らを探す。
ダイキリは完全に腰を抜かし座り込み、両手で頭を抱えてガタガタと震えていた。
彼女には刺激が強すぎる。
アルベルトは片腕で顔を覆いながらも、もう片方の腕を前方へ伸ばして結界を展開しようとしている。
だが、その魔法陣は不安定に明滅していた。
(父の魔法が特殊とか……?それとも……)
思考を巡らせるうちに、光が少しずつ薄れ始めた。
完全に視界が確保される前に、私は警戒の魔力を全身に纏わせる。
光の中から漏れ聞こえる父の声が、耳障りなほど高揚していた。
「さあ、お楽しみの時間だ! この幸福な悪夢に溺れろ!」
光が収まるにつれ、まず感じたのは違和感だった。
鼻腔をくすぐる、甘い花の香り。
夕暮れの暖色に染まった空気。
そして、スラム街特有の金属の腐臭が一切消え失せていた。
(どういうこと……?)
私は顔を覆っていた腕を下ろし、周囲を見渡した。
そこに広がっていたのは、懐かしい実家のリビングだった。
父がまだ優しい笑みを浮かべ、母が台所から笑いかけてくれていた、あの日々の象徴。
古びた木造建築の匂い。
居間にある粗末だが愛着のある家具たち。
窓からは柔らかな西日が差し込み、埃っぽい空気がきらきらと金色に輝いて見える。
(……ありえない。これは、夢?)
脳が状況を拒否する前に、本能がそう叫んでいた。
私は唇を噛みしめ、ゆっくりと視線を正面に戻す。
そこに、母が立っていた。
生きていた頃のままの姿で。笑顔で。
「エカテリーナ? どうしたの?顔色が悪いわよ」
母は心配そうに私に駆け寄り、額に手を当てようとした。
その指先が触れる寸前で、私は反射的に後ずさってしまう。
「おかあ……さん?」
声が震えて掠れた。
喉がカラカラに乾き、うまく呼吸ができなくなる。
目の前の女性は確かに母だ。
私の記憶の中の姿そのままだ。
優しい声も、少し困ったように眉を寄せる癖も、すべて。
母が生きていた、ということ……?
「エカテリーナ? 怖い夢でも見たの?」
母が小首を傾げる。
「お母さん……なんで、ここに?」
言葉がまとまらない。
ダイキリとアルベルトはどうなった?
父のあの魔法は一体何を起こした?
「何を言っているの? 私はずっとここにいたじゃない。あなたと一緒に住んでるんだから」
母は当然のように言って微笑んだ。
その笑顔が、刃のように心臓を抉る。
父が言っていた「お前たちが一番望んでいたもの」。
それが私にとっては、母が生きて幸せに暮らしている世界ということか。
憤怒と希望がない交ぜになり、目の奥が熱くなる。
私は拳を握りしめ、平静を装って周りを見回した。
ダイキリとアルベルトの姿はどこにもなかった。彼らも同じように
別の「望む世界」を見せられているのだろうか。
それとも、この奇妙な光景の中に取り込まれてしまったのか────。
「あらあら、今日は本当に変ねぇ。熱でもあるんじゃないの? ちょっと座って休みなさい」
母は私の手を取り、強引に居間の椅子へ導こうとする。
その指先から伝わる温もりが、あまりにも心地よく、優しくて──
それが、なおさら私の神経を逆撫でする。
吐き気がするほど不気味だった。
父・ブロンクスが唱えたユニーク魔法『白昼夢』。
つまりこれは現実ではない。
私の精神の隙間に滑り込み
私が最も望んだ光景を見せつけて動きを止める、甘美で狡猾な欺瞞の牢獄。
「……お母さん」
私は母の手を優しく、しかし確固とした拒絶の意志を持って振り解いた。
「ごめんなさい。これは……夢なのよ。悪い魔法がかかってるみたい」
「魔法? 夢? 何を言っているの、エカテリーナ」
母の顔に、見慣れた戸惑いの色が浮かぶ。




