第40話
魔力の糸がどの方角へ伸びているのかさえ定かではない。
それでも、私はダイキリの支援によって強制的に引き上げられた魔力出力を一点に注ぎ、周囲の瓦礫と死体たちを強引に固定した。
空中、あるいは水中、あるいは虚無。
コロナリータの哄笑が、グラスの縁を叩く音のように反響して耳障りだ。
「あはは! 無駄ですよぉ、そんなに踏ん張ったって! グラスの中のチェリーがどれだけ暴れても、最後はあの方に飲み干される運命なんですから!」
逆さまの天井を軽やかに跳ねるコロナリータが、さらに魔法を重ねようと指先を突き出す。
だが、その瞬間だった。
アルベルトの瞳が、底なしの深淵を湛えた黒い光──「虚理」を暴く異形の輝きに塗り潰された。
彼はもはや、肉眼で世界を見てはいない。
この「ディストピア」を構成する歪んだレシピの
その不格好な「継ぎ目」を、神の視点から俯瞰している。
「……小瓶の口は、そこか」
アルベルトが虚空の一点を指差した。
何もないはずの霧のただ中。
「暴け──『概念の不動標』」
彼が吠えると同時に、世界が鳴動した。
それは物理的な破壊音ではない。
世界の理そのものが、無理やり正位置に矯正される際の「悲鳴」だ。
アルベルトの周囲から、漆黒の鎖のような魔力が全方位へと射出される。
それはこの術式そのものに直接干渉し、強制的にその定義を書き換え始めた。
「な、なんなの!? あたしの魔法が…効かない!? 逆さまが……戻っていくんだけど!?」
コロナリータの声が初めて動揺に震えた。
彼女の足場となっていた偽りの地面に亀裂が走る。
アルベルトが放つ「概念の不動標」は、この空間におけるすべてのベクトルを「真実」へと固定していく。
「う、わあああ!? 落ちるぅぅぅ!!」
ダイキリの悲鳴。
刹那、視界が激しく暗転した。
ジェットコースターの急降下のような重圧が全身を襲い、内臓がせり上がる。
次の瞬間、私の足裏を打ったのは、冷たく、硬く、泥に塗れた本物の地面の感触だった。
「がはっ……、ゲホッ、ゲホッ……!」
肺に溜まった霧を吐き出すように咳き込む。
見上げれば、そこには正しく、どんよりと曇った空が広がっていた。
スラムの腐臭、湿った土の匂い。
五感が、現実へと帰還した。
「……地上に、戻ったのね」
私は膝をついたまま、震える手で泥だらけの地面を確かめた。
感覚のすべてが、今、正しい位置にある。
隣では、ダイキリが地面に突っ伏して「もう一歩も歩けません……」と涙目で喘いでいる。
そして、私たちの中心で、アルベルトだけが静かに立っていた。
その瞳から黒い輝きは失われていたけれど、肩で荒い息をするその姿からは
今の一撃がいかに彼の精神を削ったかが痛いほど伝わってきた。
「……アルベルト、助かったわ。まさか、領域の法則そのものを上書きするなんてね」
「……いえ。彼女の魔法は『逆さまのカクテル』という不完全なレシピに基づいたもの。であれば、その小瓶の口という特異点さえ突けば、崩壊させるのは容易いと気づいたのです。……貴方が敵を食い止め、ダイキリが支援魔法を送り続けてくれたおかげでしょう」
彼は淡々と言ったが、その指先はわずかに震えていた。
「あ、あああ……っ! あたしのグラスが! あたしの、綺麗な世界がぁ……!」
数メートル先。
魔法を強制解除された反動か、コロナリータが泥濘の中に倒れ込み、狂ったように頭を掻きむしっていた。
彼女を包んでいたあの「無邪気な守護」は剥がれ落ち、そこには精神をズタズタにされたような「壊れた玩具」の姿だけが残されていた。
泥にまみれた彼女は、私たちを呪わしげに睨みつけると
「……こんなので、勝ったと思わないことね!! 私の領域から抜け出せたところで、MASTER様の世界からは抜け出せないの!」
と絶叫し、そのまま脱兎のごとく霧の彼方へ逃げ出した。
(……MASTER?)
父の名前なんて、興味がなさすぎて記憶の隅に追いやっていたけれど
突如出てきた、聞いたこともないその名に父以外にも黒幕がいるのかと疑念がよぎる。
咄嗟に彼女を追おうとしたそのとき、巨大な影が私の行く手を塞いだ。
見上げれば、そこには──忌まわしくも、見覚えのある男が立っていた。
「……エカテリーナ、久しいな?」
「……っ!」
私は思わず息を飲み、言葉を失った。
だがダイキリは違った。
「貴方まさか…お父、さん……っ?」
と、父親を見るような安どではなく、侮蔑に等しい
信じられないものを見るような眼差しでその男を射抜いていた。
ダイキリの視線に気づいてか
父はまるでもう興味のないガラクタに触れるような口調で言った
「……ん、ああ。あの女の代わりに酒場を継いだ娘か。ダイキリだったか?」
私はダイキリの震える肩を察しながら、父の言葉に応じる。
「ダイキリに近寄らないでちょうだい。それよりも、やっぱり……裏で糸を引いていたのはあんたなのね」
努めて冷静を装ったけれど、胸の内で憎悪の炎が燃え盛るのを隠しきれない。
父が私とダイキリにとっての仇敵だと確信しながら、私は感情を押し殺して言葉を投げた。
「コロナリータって女に、何か変なことをしたのもあんたなの?」
「ああ、あの玩具ならお前らをここに誘い出し、始末するための案内人に過ぎん。良いユニーク魔法を持っていたからな、できたら骨のひとつでもへし折って遊んでやれとは言ったが……俺がここにいるということは、あいつも結局は使えない女だったというわけだ」
父は、さらりと、なんの感慨もなく答えた。
「あんたね……っ」
「……ふっ、そんなに俺が憎いか? 実の父なんだ、名前くらい呼んでくれなきゃ悲しいだろう?」
父が眼前に立ち塞がった瞬間
私は背筋を奔る寒気と、心臓を鷲掴みにされたような苦しさを覚えた。
「父親面をしないでちょうだい……あんたの名前なんか、とっくの昔に忘れたわよ」
それを悟られまいと奥歯を噛み締め、両脚を強く踏みしめる。
「俺も元の名前は忘れたな。今の名はブロンクスだ……ダイキリやコロナリータと同じでな、カクテルの名前だ。俺も、あの方に改造してもらった一人というわけだ」
「は……っ?改造?」
あまりの衝撃に言葉が詰まった。父自身が「改造された」と言う。
「どうしたエカテリーナ、驚くことか?昨日、見たはずだろう。あの方が残してくれた面白い玩具リストを」
「?!……っ、それを知ってるっていうことは…全部、手のひらの上だったってわけ……?」
父は楽しそうに頷く。
しかし、ダイキリは父の言葉を聞き、怒りで顔を紅潮させていた。
「あなたは……っ、あなたのせいで、お母さんがどんな目に遭ったか、知っているでしょう! どうして平気でいられるの!?」
だが父は、小指の爪ほどの興味も示さずに鼻を鳴らした。
「小娘の泣き声など、豚の嘶きと同じだ。聞き飽きた」
その一言だけで、ダイキリの理性は決壊した。
「この……ッ!」
彼女が短剣を握り直した瞬間、その刃が父の喉元を目がけて閃いた。
しかし──虚無。
父はまるで幽霊のように、一瞬で彼女の斬撃を回避していた。
ダイキリが必死に距離を詰めようとすればするほど、その動作は滑稽なダンスに成り果てる。
父は嗤った、嘲るように。
心底愉しむかのように。
「ふん、まだ学習せんのか。お前ごときの刃がこの俺に届くとでも? 改造を受ける前の俺ですら、お前など赤子同然だったがな」
「黙れぇぇっ!」
ダイキリの叫びが、虚しくスラムの湿った空気に吸い込まれていく。
その隙を逃さず、父が踏み込んだ。




