第39話
「あの酒場『バレンシア』は、カクテル言葉の『お気に入り』をなぞるように、父の執着を満たすためのお気に入りの処刑場と化していたと話していたわよね?」
「ええ、間違いありません」
「……それに、ダイキリの母であるギムレットもそう。植物状態にされ、二度と戻らぬ意識の底へ突き落とされた」
「それはまさに、ギムレットのカクテル言葉……『長いお別れ』そのものだったわ。あの男は、意味のないことはしない」
私の言葉に、アルベルトの眉間に深い溝が刻まれる。
彼は、父がいかに残酷な一貫性を持っているかを、その身を持って理解しているからだ。
「コロナリータが貴方の父に何かをされたのだとすれば……彼女の存在そのものも、その名に付随するカクテル言葉通りの運命を辿っている、と?」
「ええ……でも、おかしなことに、コロナリータという酒にそんな言葉があったかしら。私の記憶にはないのだけど」
アルベルトは歩みを止めず、視線を虚空へ泳がせて思考の海に潜った。
機械のように精密な彼の知識が、情報の断片を瞬時に精査していく。
「……コロナリータというお酒自体に、独立したカクテル言葉は存在しません。ですが、ひとつだけ、気になることが」
「気になること?」
「これはあくまでも、推測ですが……」
アルベルトの声が、一段と冷徹な響きを帯びる。
「コロナリータとは、以前も説明した通り、フローズン・マルガリータのグラスに小瓶を『逆さま』に突き刺した奇抜なカクテルです。……もし、その『逆さま』という構造そのものに意味があるとしたら」
「……どういうこと?」
「もしかすると、彼女の言っていることはすべて『逆』。あるいは、攻撃を仕掛けてくるならば、因果を反転させるか、認識を裏返してくるような魔法を繰り出す可能性が極めて高いということです」
「……アルベルトにしては、随分と飛躍した推測ね。けれど、今のあの子の胡散臭さを考えれば、的外れとも言い切れないわ」
「……でも、だとしたら、今私たちが案内されているこの道も、安全な出口どころか、最悪の罠に嵌められている最中っていうことじゃない?」
背筋を氷の指でなぞられたような戦慄が走る。
そこへ、私たちの後ろを所在なげに歩いていたダイキリが、空気を読まない明るい声で割って入ってきた。
「ちょっとぉ! お二人で何をさっきからコソコソ話してるんですか〜? 私を仲間外れにしないでくださいよ!」
「ダイキリ、静かに。……さっきからもう何分も歩いているのに、景色が全く変わらないことに、違和感を感じない?」
「言われてみれば? 確かに変ですけど……霧のせいじゃないんですか?」
「そうかしら。ずっと先が見えないし、足音も反響しすぎている。やっぱり何かの罠に嵌められているのかも───」
私がダイキリの方を向き、警戒を促そうとした、その時だった。
前方を歩いていたコロナリータの背中が、霧の中に溶けるようにして不自然に静止した。
彼女がゆっくりと振り返る。
その顔には、先ほどまでの無邪気な笑顔が嘘のように消え失せ
代わりに、上下が逆さまになったような、歪で、狂気的な笑みが張り付いていた。
「……あは。バレちゃいました? でも、遅いですよ。ここはもう、あたしのグラスの中なんですから」
刹那、世界が鳴動した。
足元の地面が泥濘から、粘り気のある琥珀色の液体へと変質し始める。
私の警告は、霧に溶けるより早かった。
「───ッ!?」
突然、胃の底を持ち上げられるような強烈な浮遊感に襲われた。
視界がぐにゃりと歪み、重力の紐が断ち切られたように足元が消失する。
泥濘を踏んでいたはずの私の足は、今は何もない虚空を蹴っていた。
「わわわっ! 何、これ!? どっちが上なの!?」
ダイキリの悲鳴が聞こえるが、その声がどこから響いているのかさえ分からない。
見上げれば、いや、そこは「下」だったのかもしれない。
スラムの腐った地面が頭上に広がり、逆さまになったコロナリータが、重力を無視して天井からこちらを覗き込んでいた。
「ふふっ、どうですか? あたしの魔法──『倒錯する聖杯』。この中では、右は左、上は下。皆さんの『感覚』は、グラスに突き刺した小瓶のように、全部逆さまになっちゃうんです」
コロナリータのユニーク魔法。
アルベルトの推測は、最悪の形で的中した。
「……くっ」
アルベルトが空中で体勢を立て直そうとするが
右へ動こうとすれば身体は左へ流れ、踏み込もうとすれば後退する。
戦いの天才であろう彼でさえ、脳が処理する情報と肉体の挙動が完全に乖離し
まるで生まれたての小鹿のように不格好に手足を動かすことしかできていない。
「エカテリーナ、危ない!」
アルベルトの叫び。
直後、逆さまの地面から、巨大な氷の礫が降り注いできた。
……いや、違う。下から上へ突き上げてきているのだ。
「しまっ……!」
回避しようと右へ飛ぶイメージを描く。
だが、私の身体は左へと無様に転がった。
頬を鋭い氷の角がかすめ、熱い血が流れる感覚がする。
けれど、その痛みさえもどこか遠く、「痛み」という感覚が脳に届くルートさえも歪められているのが分かった。
「あはは! ほらほら、踊ってください! 逆さまのマヌケさんたち!」
コロナリータが指を鳴らす。
すると、霧の中から関節があらぬ方向に曲がり、首も180度回転した「死体」たちが這い出してきた。
彼らはこの狂った法則に馴染んでいるのか
四足歩行の獣のように壁や天井を縦横無尽に駆け巡り、私たちを包囲する。
「……冗談じゃないわ。こんなところ、すぐに抜け出すわよ、アルベルト、ダイキリ!」
私は必死に吐き気を堪え、逆さまになった空に向かって手を伸ばした。
指先を動かす方向さえ混乱する中、私は無理やり魔力を練り上げる。
「来なさい……『死体操作』!!」
私は迫り来る死体たち目掛けて術式を繰り出す。
重力に逆らって浮遊する瓦礫に、強引に魔力の糸を繋ぎ止める。
自分の平衡感覚が死んでいるのなら、いっそ「物」の動きを自分基準にしてしまえばいい。
だが、ダイキリに視線を向けると、彼女は真っ逆さまに「昇り」続け、完全にパニックに陥っていた。
「ダイキリ! 落ち着きなさい!」
「無理ですよぉ!! どっちを向けばいいのかも分かりません……!」
彼女の魔法が揺らげば、私たちの能力も底をつく。
「なら、ダイキリはユニーク魔法を……『全自動支援』を止めないで! それさえあれば、感覚が狂っていても出力で押し通せる!」
「わ、わかりましたああ!!」
四方八方から迫る逆さまの死体たち。
「ふふふふっ!!そんなことしたって無駄なのに!」
コロナリータの嘲笑。
そして、脳をかき混ぜられるような三半規管の地獄。
私は逆さまに流れる血を拭いながら叫んだ。
「アルベルト……! 何か、手はないの!?」
その時、アルベルトの瞳の奥で、無機質な「黒い光」が、かつてないほど激しく明滅した。
「……なるほど。構造は、理解しました」
その一言が、狂気に塗れた空間に不協和音として響き渡る。
「……私に考えがあります。エカテリーナはそのまま死体を維持し動かぬよう、ダイキリは支援魔法を送り続けてください」
アルベルトの低く、地を這うような声が上から響いた。
重力も方位も攪拌されたこの極限状態において、彼の声だけが唯一、絶対的な座標を持っているかのように冷たく、鋭い。
「分かったわ……何か考えがあるのね? 任せたわよ!」
私は叫び、視界が裏返る不快感を奥歯で噛み殺した。




