第37話
その一室が、なぜこれほどまでに塵一つなく、不自然に清潔なのか。
まるで、誰かが今日この日のために「演劇のセット」を組み上げたかのようだ。
コロナリータはそそくさと布団を運び終えると
「それではお先に、おやすみなさい!」と言い残し、スキップでもしそうな軽やかな足取りで隣の部屋へと戻っていった。
残されたのは、荒れ狂う嵐の咆哮と、私たちの間に流れる微妙に気まずい沈黙だけ。
「……行ったみたいね。アルベルト、さっきの紙切れ、もう一度見せてちょうだい」
私は小声で命じた。
アルベルトは無言でポケットから、あの忌まわしい記憶の断片を取り出し、そっとテーブルに広げた。
部屋のランプが、黄色い光でその紙を照らし出す。インクの滲み具合、紙の酸化の程度……。
察するに、これは二十年前の遺物ではない。
せいぜい数年前。
そこに躍る、スペイン語、フランス語、そして冷徹な番号付きの名前リスト。
「とりあえず、上から解読していきましょう」
私の言葉に、ダイキリが怯えた仔犬のような顔で私を見上げた。
「じゃあ、まずはこの『Juguete de reutilización creativa』ですけど……これ、なんて読むんですか……?」
「スペイン語で『創造的再利用玩具』という意味です」
アルベルトが、感情を排した声ですぐに応じる。
「『Remade Toy』は英語で【作り変えられた玩具】……。どちらも、血の通った人間を指す言葉とは思えないわね」
「気になるのは、この番号付きのリストです。最初の二つは『GIMLET』と『DAIQUIRI』……どちらもお酒の名前ですが……」
アルベルトが、傷跡をなぞるように指で紙面を追う。
「【創造的再利用玩具】という項目を冠している以上……これは単純にカクテルの名前ではなく、ダイキリ、そして貴方の母親であるギムレットさんのことを指していると見るべきでしょう」
「わ、私とお母さんが……?おもちゃ? そんなの、意味がわからないですよ!」
ダイキリが悲鳴に近い抗議の声を上げる。
私は彼女を宥めることもなく、アルベルトに先を促した。
「根拠は?」
「エカテリーナ、貴方の父……ローゼンタール伯爵は、ダイキリの母が営んでいた酒場『バレンシア』を『お気に入り』だと公言していました。私が独自に調査を進める中で、彼が遺した日記の切れ端を発見したのです」
「は? 初耳なんだけど。そんな大事なこと、どうして今まで黙っていたのよ」
「…言うのを躊躇うほど、おぞましかったからです」
アルベルトの言葉に、私は毒気を抜かれた。
「はぁ……まあいいわ。それで、続きは?」
「ええ。そこにはこう記されていました。『今夜もバレンシアの灯をともす。この店を訪れる女たちは、一様にこの場所をお洒落な隠れ家だと信じ込んでいる。愚かで、愛らしい獲物たちだ。……ここは酒場ではない、私にとってのお気に入りの処刑場だ』と」
その内容に、私は喉の奥がせり上がるような吐き気を覚えた。
処刑場。
父は、あの優雅な琥珀色の空間を、女たちの尊厳を解体し、壊して愉しむための屠殺場だと考えていたのか。
「……その……私の母の『バレンシア』を……? そんな風に……?」
ダイキリの声が震えている。
彼女は両拳を白くなるまで握りしめていた。
母が愛し、彼女を育てたあの場所さえも、あの男にとっては単なる「殺しの舞台」に過ぎなかった。
その屈辱と怒りが、彼女の小さな身体を震わせている。
「そうです。ダイキリ、貴方の名をカクテルから取ったのも、両親だと言いましたね? つまり、あの男は家族さえもカクテル言葉やレシピのパーツに見立てて遊んでいた」
「…そんな……っ!」
「このリストの筆者が貴方の父、あるいはその極めて近い協力者であることは明白です」
ダイキリが、祈るようにぎゅっと胸元を押さえた。
「じゃあ……私の名前もお酒の名前なのは、全部、全部偶然じゃなかった……? 私は、お母さんみたいに、いつか壊されるための『玩具』として名付けられただけなんですか……っ?」
その瞳に浮かぶのは、底知れない悲しみと、出口のない虚脱感。
私は咄嗟に彼女の肩に手を置こうとして──
その指先を止めた。
安っぽい同情や慰めは、今の彼女にとっては劇薬でしかない。
絶望の深淵にいる人間に、「大丈夫」なんて言葉は刃と同じよ。
「……まだ、そうと決まったわけじゃないわ」
私は自分に言い聞かせるように、紙切れの続きに目を走らせた。
【Remade Toy】の項目に並ぶ、番号付きの呪われた名前たち。
007-CORONARITA
005-BRONX
010-REDEYE
「……直訳すれば、作り直された玩具…または【改造された玩具】…ですね」
「嫌な言葉ね……だけど、これも全部お酒の名前みたいよね?」
「しかも全てビアカクテルの種類ですよ!」
「この名前の順番や番号にも意味がありそうよね」
アルベルトは顎に手を当てて考える。
「単純に誕生順……あるいは製造順? いずれにせよ、丁寧かつ楽しんでいるでしょう、書き手は」
アルベルトの冷徹な指摘。
「じゃあ……コロナリータさんも、誰かに【改造された玩具】…人間じゃない何かにされちゃったっていうことですか?」
ダイキリの言い方は冷静だったが、声はわずかに震えていた。
母親の秘密が暴かれた衝撃。それを彼女なりに受け止めようとしている。
「その可能性は極めて高いわね。彼女の『昔の記憶がない』という証言、そしてあの異常なほど整った生活習慣。何より、「なにかをされた」という発言もそうだけど……」
「あの子の赤い瞳がたまに青く光るところを見たの。あれは、後天的に植え付けられた『識別票』のようなものかもしれないわ」
(なら……あの妙な明るさも演技なのか、それとも…洗脳でもされているのかしら…)
私がそう推測すると、ダイキリはさらに血の気を引かせた。
「……そうだ、それならコロナリータさんがさっき、タバコの匂いがしたって言ってたのも、私たちの父っぽいですよね……?」
「ええ……。日記の記述、コロナリータの証言からも、その線は濃厚だと思うわ」
「で、でも待ってください! もし【再利用の玩具】が私のことなら……私も、いつかあんな風に、記憶を消されて改造されちゃうってことなんですか……!?」
「それは、分かりませんが…貴方がたの父親がダイキリを『予備』として、あるいは『新しい素材』として泳がせている可能性は否定できません」
アルベルトの非情な肯定が、ダイキリの心を粉砕する。
そして、彼は紙切れの最後、血のような暗い色で綴られた一文に目を向けた。
"Vous n'êtes que les jouets d'un verre où vous devez vous noyer, car ce monde est ma recette."
「んー…アルベルト、これ、なんて書いてあるかわかる?」
私が問いかけると、アルベルトは淀みなく、その呪いの呪文を翻訳した。
「はい。【あなたたちは溺れるべきグラスの中の玩具に過ぎない。なぜなら、この世界は私のレシピなのだから】と書かれているようです」
「私の、レシピ……?」
まるで神にでもなったかのような、身の毛もよだつ傲慢さ。
これを書いた人物は一体何者なのか。
彼女たちを「玩具」と呼ぶ理由は何なのか。
フランス語の詩的なフレーズ。
しかしその意味するところは、ぞっとするほど支配的で歪んだ思想を感じさせた。
まるで、人間を自身の創作物の一部として消費することを楽しんでいるような口ぶりだ。




