第35話
「……っ、私だって、殺したいぐらい憎いですよ! 不倫してたのも、私たちを偽りの家族として扱っていたのも、なにより……母を、母の心を裏切ったのが……っ!」
「……許せないのなら、私たちの目的は一つでしょ?」
私が畳み掛けると、ダイキリは真っ白な顔を強張らせながら、絞り出すように言った。
「……っ、分かりました。でも、もっと早く教えて欲しかったです」
ぷくっと頬を膨らませて唇を噛む彼女。
結局は、この泥沼のような状況を強引に自分の中で納得させるあたり、彼女の精神は私が思っている以上にタフで、そして既に壊れ始めているのかもしれない。
「悪かったわよ。でも、そうと決まれば翌週にはまた、あの『妹』さんのところへ行くわよ」
アルベルトは、まだ不愉快そうに口を結んでいたが、私はその横顔を見ながら、次のターゲット──
コロナリータの正体について、確信に近い疑念を抱いていた。
◆◇◆◇
翌日の夜
私たちはいつものように『バレンシア』のカウンターに身を預けていた。
昨夜、この場所で交わされた「殺人」にまつわる告白など
まるで煙のように消えてしまった悪い夢だったかのように。ダイキリは持ち前の驚異的な───
過酷な環境で生き抜くために身につけた、どこか歪なほどに鮮やかな切り替えの早さで、せっせと三合のグラスを用意している。
カラン、と氷が触れ合う涼やかな音が店内に響く。
復讐の作戦会議という、血の匂いのする会話が一区切りつき
三人の間に緩やかな、けれど氷の膜のように脆い沈黙が流れたときだった。
ダイキリがカウンターに身を乗り出し
思い出したように瞳に爛々とした好奇心を宿して私とアルベルトを見比べた。
「というか! 聞きそびれてましたけど、お二人って結婚してるんですよね? 書類上も、世間的にも、正真正銘の夫婦なんですよね??」
唐突に投げ込まれた世俗的な、あまりに「普通の」話題に、私はグラスに口をつけたまま眉を寄せた。
アルコールの熱がゆっくりと脳を侵食し始めていた私にとって、それはひどく場違いな問いに聞こえた。
隣では、大きな塊から氷を削り出していたアルベルトがその手を止め
事務的な、機械の歯車が回るような冷ややかな声で問い返す。
「……ですが?その事実が何か、作戦に支障をきたしますか?」
「ですが、じゃないですよ! 結婚してるなら、その……どこまでしてるんですか?! キスは?! その、えっちとかはしたんですか?!」
ダイキリの目は、恋バナに飢えた、ごく普通の平穏な少女そのものだった。
その瞳の輝きに、昨夜私が不用意に剥き出しにして植え付けたはずの「血の匂い」への恐怖は、どこにも見当たらない。
彼女は今、この殺伐とした、死と隣り合わせの共犯関係の中に
無理やりにでも「ときめき」という名の正常さを求めているようだった。
そうしなければ、立っていられないのかもしれない。
「ないわよ」
「ないです」
私たちは、示し合わせたわけでも
呼吸を合わせたわけでもないのに、完璧にシンクロした速度と無機質さで即答した。
コンマ一秒の狂いもない、あまりに無味乾燥な否定。
それを見たダイキリは、ぱあっと頬を染めて、嬉しそうに「ふふっ!」と高く笑い声を上げる。
「あはは!息ぴったり!本当に仲良いですね~、なんだか見ていて羨ましくなっちゃいます!」
「茶化さないで。大体、興味ないわよ。こんな、精密機械みたいに何を考えてるのか分からない鉄仮面男に」
私はグラスの中で溶けかけ、角の取れた氷を、コロンッ、と小気味よい音を立てて回しながら毒を吐いた。
強い酒が回り、思考のフィルターが甘くなっているせいか
自分でも口の端が少しだけ、不本意に緩んでいるのが分かった。
「おやおや、そこだけは気が合うようですね。安心しました。私も、貴方のような我の強く、身勝手な女性を、キスはおろか、抱きたいとは微塵も思いませんから」
アルベルトは、事も無げに、けれど確かな棘を込めた笑みを浮かべて返してきた。
いつもなら「機能的」と評するその涼しげな横顔を見た瞬間、酔った脳の一部がカチリと不穏な音を立てて鳴った。
「なっ……!あんたね、こんな美女を目の前にして、よくもまあそんな減らず口が叩けたわね?!」
私はアルベルトの胸ぐらをぐいと掴み、力任せに自分の方へ引き寄せた。
至近距離。
あまりに整いすぎた、けれど血の通っていない冷酷な貌が視界を占める。
「……すみません、よく聞き取れませんでした。お酒の臭いがきつくて、鼓膜が麻痺したようです」
アルベルトは、わずかに視線を逸らし、まるで耳障りなノイズでも聞いたかのようにそっぽを向いた。
その冷淡な態度が、私の自尊心に火をつけた。
「機械みたいなこと言ってるんじゃないわよ! アルベルトのくせに、いい度胸ね……。あんたが抱けないって言うなら、私が抱いてやるわよ!!」
自分でも何を言っているのか、論理的には破綻しているし、意味も分からない。
けれど、売られた喧嘩に対する幼稚な対抗心と、脳を焼く酒の勢いが私を突き動かした。
勢いよく立ち上がると、そのまま重心の不安定なアルベルトの肩を全力で突き飛ばし、カウンターの奥の床へと押し倒した。
ドサッ、と鈍く重い音がして、私の下でアルベルトが初めて見るような驚愕に目を見開く。
「きゃ~~~~ッ!エカテリーナさん大胆です~!!」
背後で、ダイキリの黄色い悲鳴が酒場に響き渡った。
彼女は手を叩いて、この異常な光景を特等席で楽しんでいる。
アルベルトは床に這いつくばった状態で、困惑と、わずかな呆れを混ぜた瞳で私を見上げている。
その瞳に映る私は、きっとひどく乱れていて、それでいてひどく滑稽なのだろう。
「……酔いすぎですよ。ほら、一度離れてください」
彼は溜息混じりに言いながら、私の身体を軽々と支え、まるで駄々をこねる子供をあやすような手つきで起こしてくれた。
その手の温かさは、彼の言葉とは裏腹に、驚くほど確かだった。
自分もひらりと立ち上がり、汚れ一つないはずの衣服の埃を丁寧に払う。
「まったく、エカテリーナ…これでは先が思いやられま……」
説教がましく続けようとした彼の言葉が、ふっと途切れた。
私は、彼に支えられた瞬間に、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れてしまった。
重い、重い、抗いがたい眠気が一気に押し寄せ、私の意識は急速に暗転していく。
……ああ、この男、案外暖かいじゃない。
彼の胸板の硬さと、石鹸のような微かな清潔な匂いを鼻先に感じながら。
私はそのまま深く、果てしない心地よい眠りの淵へと沈んでいった。
◆◇◆◇
それから数日後───
私たちは再びスラムへ足を踏み入れていた。目的は「妹」と名乗る少女・コロナリータへの聞き込み。
埃っぽく饐えた空気の中を歩きながら、ダイキリが小声で呟く。
「なんか……すごい見られてません?」
確かに、周囲の薄汚れた住人たちが、ちらちらとこちらを窺っている。
好奇心、警戒心、嫉妬……さまざまな色が入り混じる視線。
そんな中───
「こんにちはー! お待ちしてました!」
以前と同じ軒先で待ち構えていたコロナリータが、元気よく手を振ってきた。
周囲のザワつきを背負いながら、私たちは簡素な部屋へと案内された。
「さぁ、座ってください。今、お茶をお持ちしますね」
彼女が楽しげに言って席を立ったとき。
私が「今よ」と呟いたのを合図に3人で戸棚や本棚を物色し始める。
本棚を調べていると、奥まった場所に一枚の古びた紙切れを見つけた。
手に取ると、インクがかすれているが、確かに文字が書かれている。




