第34話
「……本当に妹だったら、貴方にとっても、救いだったんじゃない?」
アルベルトは、深い奈落の底を覗き込むような沈黙のあと、短く答えた。
「…そうですね」
その声には、何の感情も、体温も宿っていなかった。
スラムを抜けると、遠くに見える中央区の街灯が
眩いほどに、そして吐き気がするほど煌々と輝いていた。
◆◇◆◇
『バレンシア』の閉店後。
表の通りを歩く酔客の足音も疎らになった深夜
薄暗い琥珀色の照明の下で、カウンターの上にはスラムでの奇妙な再会の余韻が、濁った澱のように沈殿していた。
ダイキリがカウンターの拭き掃除をしながら、ふと手を止めて考え込むような表情を見せる。
その瞳には、いつもの天真爛漫な輝きではなく、湿り気を帯びた困惑が混じっていた。
「ねぇ、お二人とも!コロナリータさんが言っていた『自分の名前が人工的で違和感がある』っていう言葉、覚えてますか?」
「ええ、耳に残っているわ。あんな埃っぽい場所に似つかわしくない、響きだけは無機質で洒落た名前だったわね」
私がグラスを磨きながら応じると、ダイキリは我が意を得たりとばかりに、ポンと指を鳴らした。
「『コロナリータ』って、実は実在するお酒の名前なんですよ」
「お酒の名前……。そういえば、あの時もそんなことを言っていたわね。一体どんなお酒なの?」
私の隣で、いつものように背筋を伸ばし、影のように座っていたアルベルトが、微かに眉を動かした。
「……ここは私が」
カクテルに関しては、まさに血肉に刻まれた知識を持つ彼が、静かに、しかしどこか忌々しげに頷く。
「コロナリータとは、フローズン・マルガリータのグラスに、小型のコロナビール──通称『コロニータ』の瓶を、そのまま逆さに突き刺したビジュアルカクテルのことです」
「非常に派手で、奇抜で……まさに、作為的に作られた華やかさを持つ、悪趣味な酒です」
その説明を聞いた瞬間
私の背筋に、氷の刃でなぞられたような冷たい戦慄が走った。
「……そういえば、ダイキリも、貴方の母親であるギムレットもそうよね?」
私はダイキリに冷徹な視線を向ける。
彼女は「あっ」と声を漏らし、自分の名を確認するように小さく頷いた。
私の疑問は、そのままアルベルトへとスライドする。
「名前以外に共通点があるとしたら……エカテリーナとダイキリ、お二人の父親と接点がある、ということぐらいでしょうか?」
アルベルトは深く考え込むように目を伏せた。
彼の冷静な分析は、いつだって最悪の真実への最短距離を指し示す。
「たしかに!」
ダイキリが身を乗り出す。
その勢いで、カウンターに置かれたショットグラスが微かに鳴った。
「そういえば、コロナリータさん、知らない男に何かをされたって言ってましたよね。もしかして、それがエカテリーナさんと私の父親だったとか?」
「まさか」
私は鼻で笑って流そうとしたが、ダイキリの瞳は真剣そのものだった。
「……だって、彼女の証言通り『男三人組』だとしたら、アルベルトさんを誘拐した主犯がアルベルトさんの養父だった説は濃厚ですし」
「そこに同行していたもう一人の男が、彼女に『何か』をした……。それが私たちの父だとしたら、すべてが繋がる気がしませんか?」
ダイキリの推測は、この血塗られたパズルに恐ろしいほど合致していた。
だが、私はあえて慎重に、感情を殺して言葉を紡ぐ。
「でも、私たちの父がコロナリータに直接接触したっていう確たる証拠はないわ。例えば、何かあの子の記憶に残るような特徴があるなら……」
「父の特徴と言ったら……あの人、いつだって胸が焼けるような安タバコの臭いがしませんでした?」
「ふっ、よく分かっているじゃない。……あの子も『知らない男』としか言っていなかったけれど、特徴までは語らなかった。これは、もっと彼女の口から昔のことを……根掘り葉掘り聞き出す必要がありそうね」
「……」
その言葉を吐いた直後、アルベルトがビクッと目に見えて肩を震わせた。
彼はギョッとしたような、これまでに見たこともないほど露骨に「嫌悪」を剥き出しにした目で、私とダイキリを交互に見た。
「え……まさか、またあそこに行くおつもりで……?」
「あからさまに嫌そうな顔をするわね……」
私はジト目で、椅子から転げ落ちそうな勢いの彼を見つめ返した。
いつも鉄面皮を崩さない男の、あまりの狼理ぶり。
ダイキリも不満そうに、アヒルのように唇を尖らせる。
「何がそんなに嫌なんですか? 思い出そうとして、また頭が痛くなっちゃうからですか?」
「……いいえ。あの、妹と名乗る方……どうも、生理的に受け付けないのです。殺意が湧くほどではありませんが……あの張り付いたような笑顔が、気持ち悪い」
アルベルトにしては珍しいほどの、剥き出しの猛毒。
その徹底した拒絶に、私は呆れ果てて、深い、深いため息を吐き出した。
「これも記憶を取り戻すためだと思って、我慢しなさいよ。大体、人一人殺してる男が、こんな程度のことで震えててどうするのよ?」
私の口から、ごく自然に、澱みなくこぼれ落ちた「爆弾発言」。
刹那。
店内の時間が、薄氷が割れるような音を立てて静止した。
「え……?」
ダイキリが、手に持っていたダスターを握りしめたまま、石像のように固まった。
「……エカテリーナ、貴方ね」
アルベルトが冷徹な、けれどどこか隠しきれない焦りを含んだ声で私を制する。
「私の犯行をほのめかす今の発言……聞いていたのが、もしダイキリではなかったら、私はまた手を汚さなければいけなかったのですよ?」
「……あら、ちょっと口が滑っただけよ」
私は肩をすくめて平然と言ってのけたが
目の前の彼女の反応は、そんな軽口で済ませられるものではなかった。
「え? え……? 殺し……?」
ダイキリの瞳から、いつも宿っているはずの陽気な輝きがみるみる消えていく。
彼女は動揺を隠しきれない様子で、震える指先を自身の胸元で組み
私とアルベルトの顔を、何度も、何度も交互に見比べた。
「聞いてないです……! さ、殺人とか…さすがに、悪い冗談ですよね……?」
恐る恐る、何かの間違いだと言ってくれと縋るような彼女の声。
私はその視線を真っ向から受け止めながら、自分が今、この無垢な「妹」の世界を
決定的に、そして完膚なきまでに壊してしまったことを悟った。
だけど、私は引き返さない。
「冗談なわけないじゃない」
低く、冷たい声で、私は残酷に現実を突きつけた。
それに続くように、アルベルトも感情を削ぎ落とした言葉を紡ぐ。
「……それに。私が犯した殺人は、あの養父……つまり私の人生を弄んだ実施者への復讐でした。ダイキリ、貴方だって実父への復讐を誓って、私たちと手を組んだのでしょう? 今更、怯えないでください」
「そっ……それは、そうかもしれませんけど……」
ダイキリは、まだ完全には飲み込めていない顔で、激しく動揺していた。
しかし、「復讐」というキーワードが
彼女の中に辛うじて残っていた覚悟の芯に触れたようで、膝の震えを抑えるように小さく頷いた。
「でも、私は、人殺しなんて……」
「……お母様をあんな生ける屍の状態にした男を、笑って生かしておけるほど、貴方に余裕があるの? 慈悲があるの? ──もし復讐の瞬間に銃を渡されて、絶対に引き金を引かないって、今ここで誓える?」
私の追い打ちに、ダイキリは息を呑んだ。




