第33話
生活の気配は、確かにそこにあった。
「ありがとう」
私は短く礼を言い、部屋の隅に鞄を置いた。
「お茶淹れてきますね! 少し待っていてください!」
コロナリータが足早に去ると、室内には重苦しい沈黙が降り積もった。
アルベルトは壁に背を預け、苦悶に満ちた表情で目を閉じていた。
ダイキリはソファに浅く腰かけ、落ち着かない様子で窓の外の荒野を見つめている。
「大丈夫?」
問いかけると、アルベルトはゆっくりと重い瞼を開いた。
「ええ……少し落ち着きました。申し訳ありません……見苦しい真似を」
「謝ることはないわ」
「ただ……頭の中に、分厚い霧がかかっているようです」
彼は、自身の存在を確かめるように額に手を当てた。
「あの方が……本当に、私の血を分けた妹なのかどうかも、今の私には分からない。けれど、なぜでしょう……あの顔を見ていると、胸の奥が、焼け付くように痛くて仕方がないのです」
ダイキリが、縋るような目で振り返る。
「あんなに良さそうな人なのに……ですか? やっぱり、思い出せないこと自体が、痛みに変わっているのでしょうか」
アルベルトの目は虚空を見つめ続けた。
「分かりません。ですが……この家の中に入ったとき、急に景色が歪んだ気がしました。……現実が、偽物に置き換わるような、そんな感覚です」
そのとき、控えめな、けれどどこか粘り気のあるノック音が響いた。
「お茶ができました。入ってもいいですか?」
コロナリータの声だ。私たちは互いに視線を交わし、私は一つ頷いた。
「どうぞ」
扉が開き、彼女がお盆を持って現れた。
その瞬間、部屋の空気が微かに冷え、密度が増したような気がした。
テーブルにティーセットを並べていく彼女の手つきは、流れるように滑らかだった。
カップに注がれる琥珀色の液体からは、芳醇な香りと共に湯気が立ち上っている。
「熱すぎない温度だと思いますけど……苦手でしたら、言ってくださいね」
彼女の笑顔は親しみやすく、同時に、今にも消えてしまいそうなほど儚げだった。
「ありがとう。いただくわ」
私がカップに手を伸ばすと、アルベルトもゆっくりと姿勢を変え、ダイキリもお茶を受け取る。
「それで……皆さんはどうしてここに?」
コロナリータが、探るような、けれど柔らかな口調で尋ねてきた。
「……貴方、アルベルトのことを兄と呼ぶけれど……今の彼には、過去の記憶が一切無いの。もしかして、故郷であるスラムに行けば、家族に会えば、記憶を取り戻すんじゃないかと思ってここに来たのだけど……」
私は事実を、毒を含ませないように柔らかく伝えた。
「そっか……そうなんですね……」
彼女は、すべてを諦めたような寂しげな微笑みを浮かべた。
「いいんです……私も、昔のことはちょっとしか記憶がないですから。似たもの同士、ということかもしれませんね」
「え、貴方も? 昔って……いつごろの記憶?」
私の追求に、コロナリータは視線を落とし、ぽつりぽつりと語り始めた。
「あれは……確か私が13歳ぐらいのころで……。家で父と母とお兄ちゃんと、家族団欒の食事をしていたときです。突然、知らない男が3人ぐらい、土足で家に入ってきて……」
「『こいつを買い取る』って、お兄ちゃんが連れ去られそうになったんです」
「突然の事で、私は何が起きてるのか、理解もできなくて」
彼女の指先が、カップの縁をなぞる。
「悲鳴をあげた母は、その場でナイフで心臓を一突きされて……。兄と私を守ろうとした父は、幼い私を庇って、銃で撃たれて、その場で……」
「……なるほど。貴方も、凄惨な過去をお持ちのようね。心中お察しするわ」
私が短く返すと、コロナリータは弱々しい愛想笑いを浮かべた。
「その頃の治安は……誘拐されて、どこかで改造される孤児もいるような時代でしたから。私は……まだ、いい方かもしれません」
ダイキリは絶句し、開いた口が塞がらないようだった。その目には同情の涙が溜まっている。
「……でも、そのとき。兄は結局連れていかれて……机の上には、いくらかの小切手が置いていかれて。でも、出ていく直後。その中の1人の男が、私になにかをしたんです」
「なにか?」
「……分かりません。記憶が曖昧で。でも、それ以来……私、自分の名前に、妙な違和感があるんです」
「違和感?」
「そうです、コロナリータって名前が……どこか人工的で、おかしい感じがしませんか?」
ダイキリも、その違和感に即座に同意した。
「分かります……! コロナリータなんて、お酒の名前ぐらいでしか聞いたことないし、すごく珍しい響きの名前ですもん!」
コロナリータの目が、一瞬だけ鋭く曇った。
「それだけが、ずっと引っかかっていることです。……もしかすると、私も兄のように、何かをされていたり、なんて」
「アルベルトのように?」
「あっ、いえ! ……ところで、お兄ちゃん。昔の記憶は、本当に、何一つ思い出せない感じですか?」
コロナリータが不自然に話を切り替え、明るい声でアルベルトに尋ねる。
アルベルトはしばらく、死人のような沈黙を貫いたあと、突き放すような低い声で答えた。
「……記憶がほとんどないもので……。今の貴方の話が真実なら、これは感動の再会なのでしょうが」
「……申し訳ありませんが、どうも、貴方を受け入れられない。……あまり、親しげに此方を見ないで頂けますか」
記憶がないから喜べない。
その理屈は分かる。
だが、それはあまりにも冷酷な、拒絶の意思が剥き出しになった返答だった。
相変わらずの鉄面皮ね、と私が思うよりも先に、ダイキリが身を乗り出した。
「い、今の言い方はさすがに冷たくないですか?! 実の妹かもしれない人を、そんな、化け物を見るみたいに拒絶するなんて……!」
「ふふっ、いいんです……。本当に、こうして生きていてくれただけで、私は……嬉しいですから」
ダイキリを宥めるように微笑むコロナリータ。
その健気な姿に、誰もが絆されるはずだった。
けれど、その瞬間。
私は、見てしまった。
彼女が目を伏せた拍子に、その赤色の右目が、一瞬だけ───ノイズが走るように消え、冷ややかな青色に変わったのを。
「え……」
思わず声を漏らしてしまったが、もう一度彼女の瞳を凝視しても、そこには変わらぬ赤色があるだけだった。
見間違いかしら。
この街の淀んだ空気と、不気味なほどの静寂が、私の視覚を狂わせているのだろうか。
(……少し、疲れているのかしら)
その後、コロナリータとアルベルトの間には、砂を噛むようなぎこちない会話が続いた。
彼女はアルベルトの忘却を責めることなく、どこまでも献身的に、優しく接していた。
しかし、アルベルトはどこか落ち着かない様子で、何度も何度も、窓の外のあの手入れされたデルフィニウムを見つめていた。
私はその行動に、得体の知れない違和感を感じたが、それを直接口にすることはしなかった。
しばらくすると空は血のような夕焼けに染まり
ダイキリが「もう遅いので、今日は帰らないといけませんね」と重い腰を上げた。
コロナリータは心底残念そうな表情を見せたが、最後は快く、私たちを門まで見送ってくれた。
別れ際、彼女はアルベルトの背中に向かって、呪文のようにこう囁いた。
「また来てくださいね……。どんな姿でもいいですから……。会えて、本当に、本当に嬉しかったです、お兄ちゃん」
その言葉に、アルベルトは振り返ることもなく、何も答えなかった。
帰り道。
スラムの影が私たちの背後から伸びてくる中で、私はふと呟いた。




