第32話
アルベルトは、最初から異様だった。
スラムの境界線を越えた瞬間から、彼の歩幅は、あのミリ単位の正確さを失い
視線は彷徨うように周囲の崩れかけた瓦礫を追っている。
その瞳は、何かを見つめているというより、見えない亡霊を探しているかのようだった。
「アルベルト、大丈夫?」
私の問いかけに、彼は答えない。
ただ、肺の奥まで抉るように、この街の澱んだ空気を深く吸い込んでいる。
まるで、体内の血液をこの街の毒で入れ替えようとしているかのように。
「……雨の、匂い」
「え?」
「雨が降る直前の、埃が舞う匂いと……焦げたパンの、臭い。……知っています、ここを」
彼の声が、僅かに震えていた。
さらに奥へ進むにつれ、街並みは崩壊の度合いを増し、道は狭まり、空は低くなる。
家々と呼ぶにはあまりにも粗末な小屋が、互いに寄り添うようにして腐敗を待ち
まるで巨大な獣に喰い散らかされた残骸のようにも見えた。
そんな絶望の極地のような場所で、ひと際異質な存在感を放つ一軒の建物があった。
周囲の瓦礫の中で、その建物だけが微かに、だが確かに「生活」という体温を持って息づいている。
外壁は青白い蔦に覆われ、窓には色褪せたレースのカーテンが掛かり
扉の取っ手には無造作に引っ掛けられた小さな鈴が揺れていた。
それは、かつて誰かの日常を、帰宅を告げるための優しい音だったのだろう。
「待ってください、ここ……見覚えがあります」
アルベルトの呟きに導かれ、私たちは錆びついた門扉を開け、庭へと足を踏み入れた。
広さにして十五メートル四方程度の庭。
荒れた地面には不格好な木のベンチが置かれ
壁際に設置された壊れかけの鉢植えには、萎れた名も知らぬ植物が逞しく根を張っていた。
そして──その中心に、時間が止まったかのような異空間があった。
庭の真ん中に置かれた木製の椅子とテーブル。
風化し朽ちかけているはずなのに、それらはまるで昨日設置されたかのように清潔で
埃一つ積もっていない。
椅子の脚が泥で汚れていないのも、この環境下では異常なほどに不自然だった。
さらに奇妙だったのは、周囲の荒廃とは裏腹に
花壇の一角だけが宝石のように丁寧に手入れされていたことだ。
紫と青の鮮やかなグラデーションを描くデルフィニウムが、折れた支柱に健気に支えられるようにして
静かに、だが傲慢なほど美しく咲いていた。
「これは……」
ダイキリが花を指さし、首を傾げる。
「どう見ても最近誰かが世話をした形跡があるわ。スラムのこんな奥で、こんなに綺麗に……」
「定期的に手入れをするほど、ここに執着する人間がいるのか……それとも」
私は言葉を濁す。
もし仮に誰かが住んでいるなら、それは我々のような侵入者を拒む、警戒すべき存在かもしれない。
「……」
アルベルトは言葉を発しなかった。
いや、言葉を失っているようだった。
彼の目は庭の一点を見つめたまま、凍りついたように動かない。
焦点は遠い過去にあるようで、また今すぐ目の前にある真実を恐れているようでもあった。
と、唐突に家の中から音が聞こえた。古びた床板が軋む、高く乾いた音。
ぎぃ……。
重たい木製のドアがゆっくりと開き、逆光の中に一人の影が姿を現した。
十八歳前後と思われる、若い女性だった。
黒髪は腰まで長く伸び、瞳は深い茜色。
頬は少しこけて見えるが、それでも顔立ちは驚くほど整っており
その美しさはスラムの泥の中に咲く蓮の花のようだった。
着ているのは薄手の白いシャツに綿のズボン。
シンプルでありながらも、清潔感のあるその姿は、この場所ではあまりにも不釣り合いだった。
「どなたですか?」
彼女の声は小さく掠れていたが、凛とした響きを持っていた。
私たちが答えようとする前に、彼女は足元を確認するように庭を見渡し─────
そして、視線を上げた。
その視線の先には、アルベルトがいた。
「!お兄ちゃん……?!」
時間が止まった、と確信した。
彼女の瞳孔が驚きに大きく見開かれ、薄い唇がかすかに震えている。
一方のアルベルトは、彫像のように硬直していた。
目を見開き、呼吸さえも忘れたかのように立ち尽くしている。
「お兄ちゃんだよね?!まさか……お兄ちゃん……生きてたの……っ?」
彼女の声には、狂おしいほどの歓喜と、それを打ち消そうとするほどの恐怖が混じり合っていた。
「お兄さん……私が……?」
かろうじて絞り出した彼の声は、ひどく掠れ、震えていた。
「お兄ちゃん……! 私! コロナリータ! ずっと探してた……! あたしのこと、分かるでしょ?!」
コロナリータと名乗る女性が、堰を切ったように駆け寄ろうとしたとき
私は反射的にアルベルトの前に身を乗り出した。
私の「盾」を守るための、本能的な防衛。
「待ってください。彼は今、極度の混乱状態にあります」
「あ、あなたは……? だって、本当にお兄ちゃんでしょ……? 生きてたんだ……すっごく、嬉しいよ……っ」
涙ぐむ彼女の目から溢れる感情の濁流は、嘘を吐いているようには見えなかった。
しかし、アルベルトの表情はそれとは決定的に違っていた。
彼の顔には、驚きと戸惑い以外の何ものもなかった。
実の肉親と再会した喜びなど微塵もなく
まるで鏡に映った自分ではない何かの像に驚くような、根源的な拒絶に近い表情。
「コロナリータ……と言いましたか。 貴方は……私の、実の妹なのですか?」
彼の、他人を突き放すような冷徹な問いかけに、彼女は言葉を詰まらせた。
「何言ってるの……? 忘れちゃったの? あたしが、たったひとりの妹だって……! それに今……お兄ちゃんの口調がお兄ちゃんじゃないみたい……」
アルベルトの眉が、ピクリと動いた。
「妹……っ、いたような、いなかったような……ごめんなさい。よく、覚えていません」
その瞬間、アルベルトの膝が糸の切れた人形のように折れ、彼はその場に崩れ落ちた。
「あっ、アルベルトさん!?大丈夫ですか?!」
ダイキリが悲鳴を上げて駆け寄り、彼の体を支える。
アルベルトの記憶が欠落しているのは百も承知だ。
だが、目の前の女が彼の名を呼び、妹だと語る。
それなのに、アルベルトの様子は、感動の再会とは程遠いものだった。
瀕死の状態で正体不明のモンスターに遭遇したかのような、生理的な忌避感。
アルベルトの眼は、決して〝最愛の妹を見る目〟ではなかった。
私は、心配そうにアルベルトの顔色を伺うコロナリータという女を、冷ややかな視線で観察した。
「ねえ、悪いのだけど、少し中で休ませてくれる? アルベルトも混乱しているでしょうし、貴方にも……少し、尋ねたいことがあるの」
「は、はい!もちろん! さぁ入ってください」
彼女が、弾んだ、けれどどこか空ろな声を上げて家の中へと私たちを招き入れる。
「アルベルト……歩ける?」
「はい……。ありがとうございます」
アルベルトの声はまだ不安定だったが、ダイキリに肩を貸され、かろうじて立ち上がることができた。
私たちは薄暗い廊下を通って、部屋へと案内される。
外観同様に内部もかなり老朽化し、建材が腐りかけた匂いが鼻をつくが、驚くほど手入れされていた。
廊下には埃がほとんどなく、家具の上にも塵一つ積もっていない。
まるで、誰かがここで「正常な日常」を演じ続けているかのようだ。
「ここを使ってください! あたしの、お父さんが昔使ってた部屋なんだけど、今はあたしが使ってるんです」
コロナリータが示したのは小さな個室だった。
簡素なベッドと小さな机、数冊の本が入った本棚。




