第8話 隠された真実1
イメージを文章に変換する作業は、楽しいですが難しいものですね。
昔から坂の上にある館の姿は、在りし日の風景のように人々の目に馴染んできた。館そのものは、明治時代に或る建築家が建てたものだ。ネオバロック様式のデザインは、緑青を吹いた青銅の屋根や赤煉瓦と石造りの壁が特徴であり、定礎から百年近い月日を経て、独特の風格を見せていた。
しかし、現在の館の景観は、ぼろぼろで古色蒼然としていた。敷地内にある大きな楡の木を見れば、誰の手も入っていないことがわかるだろう。敷地内の植物相は伸び伸びとして、自然の力の偉大さを端的に表していた。
館をぐるりと取り囲む壁にも、一部蔦が生い茂っている状態だった。壁から正門へと伸びた蔦は、鉄製の門を半ばまで覆い、何者をも拒んでいるようだった。
その門が、今朝は開かれていた。久しぶりの来訪者が、館を訪れていた。
正門から玄関に至る長いアプローチには、石畳が敷かれている。そこには、成人男性と比べると一回り小さな雨に濡れた足跡が残されていた。
足跡が進む先には、館の玄関がある。そして、そこには一人の少女の姿があった。
まだ陽も明けやらぬ早朝に、館を訪れたのは支倉沙樹その人であった。
その顔にはくすんだように、深い疲労の色が見えた。私服のまま寮を飛び出してきたのか、ほとんど身一つのままだ。両腕で身体を抱え込むように擦って、寒さに耐えていた。その顔色は青褪めて、力の無い視線が不安な心を映しているようだった。
沙樹は玄関に着くなり、鍵を取り出して扉を開けた。
僅かに数歩、中に進んだところで彼女は立ち止まった。
「ママが住んでいた家……」
深い安堵の気持ちか、それとも懐かしむような気持ちが彼女に言わせたものか。彼女の生家がここであると、彼女自身が告げていた。
建物の窓から漏れてくるがガラス越しの光が、暗くくすんでいた室内に幾筋もの光りを灯していく。彼女の眼前で、朝日の輝きと共に懐かしい情景が広がっていった。
「変わってない」
赤絨毯が美しいロビーから、再び奥へと歩き出した沙樹は、館内部の景観に感心していた。
「うん、これもあった……」
館内に配置された家具類や時代を感じさせる骨董品の調度品も全て見知ったものばかりだ。メインの大広間にあるゴブラン織りのタペストリーも変わらぬ存在感を放っている。
以前、目にしたことのあるものに、少しずつ沙樹の感情が綻んでいく。
「なんで、避けてたんだろ? こんなに懐かしいのに……」
不思議な安堵感が込み上げる。
自分がそこにいることを認めて貰えるのは、やはり家族が一番なのだろう。既に無い幻のようなものでも、今の彼女にとっては有難かった。
いつしか時間を止めたような館の内部が、彼女の存在だけで輝きを取り戻していくようだった。
過去の自分と対面しているのか、沙樹は全てを時間をかけて見ていった。
応接間には、幼い彼女の写真があった。壁の一部に飾られたそれは、彼女の周囲の誰もが、幸せだった頃のものか。奥にあるキッチンや戸棚の場所でさえ、昔見た光景を鮮明に思い出させてくれる。
客間らしい部屋に行くと、そこで調度品の一つに目が止まった。
「……これだけ新しいみたい?」
黒革の装丁が施された一冊の本。室内の調和を乱さないように設えられた白い大理石のテーブルに置かれたそれは、一つだけこの空間にそぐわなかった。
いったい誰のものなのか、興味を持って彼女が其を手にした時、不意に身体から何かが抜けていくような虚脱感が彼女を襲った。そして何処からか響いた声を倒れ込む沙樹は聞いてはいなかった。
「ククク……。現世の宿主に栄光あれ」
暖かい暖炉から火がはぜる音で、沙樹は眠りから覚めていた。目覚めた彼女が最初に目にしたのは、真新しい室内の天井と壁、そして飾られた花束だった。バロック様式の建物に合わせた洋風の壁紙や窓際のドレープカーテンが、この館の住人の落ち着いた趣味を示していた。
自分が気を失ってからどれだけ時間が過ぎたのか、この最初の不安感で、沙樹は完全に目を覚ました。
「私、眠ってた……。誰がここに?」
沙樹の疑問に答える代わりに、それは視界の端から現れた。
白と黒が織り成す色彩の魔術が、沙樹の眼前で発動した。驚きが沙樹の意識を支配するより速く、周囲の空間に円の軌跡が現れる。素早く移りかわる軌跡に残されたのは錯視の円。
見つめることで事象が継続する魔術に、沙樹は軽い悲鳴を漏らした。上書きされ続ける錯視の円が、やがて蛇という長い姿を晒す。
「我が名は蛇。或る魔術師の記憶を転写されし存在。主よ、我のことは“蛇”と呼ばれるがよかろう」
蛇の姿を執ったそれは、沙樹の目の前にゆっくりと停止した。見つめる蛇の姿は、輪郭が上手く定まらなかった。
彼女が困惑しているのを見てか、蛇は続けた。
「さて、主よ。先ずは聞かせてもらおうか? どのような危機に遭遇しているのか」
蛇の詰問に、沙樹が無意識にベッドシーツを手にする。自分を取り巻く錯視の結界が、油断なく蠢き続けている。緊張した場を壊したのは、凛とした声であった。
「よせ、蛇よ。沙樹様を混乱させてなんとする?」
部屋の隅、縞斑の結界の後ろから気配が沸き立つ。影より暗い闇が、近づいて来る。明らかな強者の気配に、蛇は下がった。円形のサイドテーブルに自らの居場所を定め、そこに姿を移す。沙樹の視界が晴れた代わりに、闇が小さな形を現してくる。
沙樹のいるベッドの前に進み出たのは、鮮やかな毛並みの黒猫。緑色の双眸が真っ直ぐに彼女を見ていた。
猫が恭しく頭を垂れて、沙樹に話し掛けた。
「永く、お待ち申し上げておりました。我が名はメフィストフェレス。あなた様のお母様にお仕えしておりました、使い魔にございます」
つい、と顔をテーブル上の蛇に向けて猫が更に続ける。
「こちらの蛇も、使い魔のひとつ。今後は沙樹様にお仕えすることでしょう」
信じられない展開に、沙樹はごく素直な反応を示した。手にしたシーツが胸元まで上がっている。
「ね、猫がしゃべった……?」
「永く魔術の園から離れておいでだったのです。無理もありません。これから、ここで世界の真実を学ばれるが宜しいでしょう」
猫はそう言うと、傍らの蛇に言った。
「蛇よ、戻れ」
言うが早いか、蛇の姿は円形のサイドテーブル上で一冊の本と成った。黒革の装丁が施されたそれは、沙樹の記憶にあったものと同じだ。あの時、彼女が好奇心から手にした本が蛇のもうひとつの姿だった。
「沙樹様、失礼いたします」
猫はそう言うと、すっと飛び上がりベッドの上に乗った。しなやかな身のこなしは、猫類特有のもの。鮮やかな毛並みと透き通るほど美しい碧眼が近寄って来る。
沙樹は困惑している自分と、それを冷静に観ている自分を感じていた。何が現実で、何が現実でないのか。昨夜から感じた事が、頭の中でぐるぐると回っていた。
怯える沙樹の様子を認めた猫が立ち止まる。そして、自らの近くにあった彼女の手に寄る。
猫が沙樹の手に頬を擦り付ける温かい感触が、彼女の心に火を灯した。
「……これって、夢じゃないんだよね? 私、なんでこうなっちゃったのかな?」
「ご心配には及びません。蛇の言葉ではありませんが、如何な危機が迫ろうと全て我等にお任せを」
黒い宝石のような毛並みを持つ猫の体躯が、誇らしげに胸を張った。
「あちらに席をご用意しております。詳しい話しは、そちらでいたしましょう」
猫の言葉に、沙樹は否もなく頷いた。
一階の客間の一つに、沙樹は招待された。正確には、彼女の生家なのだから案内と言うべきだろう。海老茶色の革張りソファに、勧められるまま深く腰掛ける。柔らかく、弾力のあるソファの感触が彼女を包んだ。
白磁のティーセットに、香り高い紅茶が出された時には、沙樹はもう驚かなくなっていた。
猫は沙樹を下に置くことなくもてなし、彼女が人心地ついたところを見計らって、核心的な話を切り出した。
「さて、沙樹様。今後の事ですが、この館にお住まいになりませんか?」
この提案に、沙樹は猫を見る眼を見開いた。
「何故ならば、この館は既に沙樹様のものだからです。正式な継承は成人された後となりますが、この館の継承者は沙樹様をおいて他にありません。また、あなた様はお母様の血を継いでおられます。魔女として、類い稀な才能と正しい資質をお持ちです。魔術を学ぶためにも都合がよろしいでしょう」
猫の提案を聞きながら、沙樹の脳裏には懐かしい母との思い出が込み上げていた。寄る辺を無くした子が、再び母の胸へと還ってくるような郷愁にも似た感情だった。
「……私、ここにいていいの?」
「勿論。いつまでも、です」
猫は、沙樹を包む魔力の波動が活性化しているのを見ていた。魔術の心得がある者なら、沙樹が放つ魔力の波動に驚嘆していたことだろう。濃密でいて、歪なところなど何一つ無い完全な波動だった。だが、この波動も導く者がいなければ止まない保証はないのだ。
猫の双眸が、真っ直ぐに彼女を見ていた。
「……お願いして、いいの?」
「お命じ下さい。我が主よ」
奇妙な二人組が主従の絆を結んだ頃、館の一室では錯視の蛇が這い出ていた。可視領域における光の波動を操る蛇は、自らの姿を隠していた。
蛇は、万感を込めて呟く。蛇にとって、沙樹こそ現世の主であり宿主であった。
「力と恐怖こそ魔術の真髄。我が主に捧げるは、悪鬼羅刹の骸にするか死霊の魂か……」
暗闇の中、蛇の眼が赤く光る。
「扉を開く鍵が、再び一族から出た。あとわずかで到達するだろう……」
かつて、長崎半島に初めて居を構えた魔女がいた。その美貌と誉れ高い魔術の数々は、魔法界においても群を抜いて優れていた。彼女を知る多くの者達は、彼女のことをアジアの真珠と呼び称えた。
ある時、悪辣と名高い西の魔女は彼女の力を恐れるが故に、彼女に戦いを仕掛けた。彼女が産まれて間もない愛し子を連れている時に。
友人達の力を借りて一度は退けた彼女だったが、西の魔女は受けた屈辱を忘れなかった。
傷が癒える時を待って、再び彼女に戦いを仕掛けた。
彼女は、愛し子を高位精霊である使い魔に託し、迫り来る西の魔女との対決に応じた。
我が子は、いずれ血の力により魔女として目覚める、その時まで人界に匿い、育てよと言い残して。
そして、彼女は帰らぬ人となった。
この日、秘密の扉を開けた選ばれし22人の一人が消え、ナンバーズの一枚が永遠に失われる事となった。




