第6話 忍び寄る影2
その日、陽光が沈みゆく空は美しいばかりで、陽によって朱に染まる稜線と、移ろいゆくように形を変える雲間から漏れる赤光が、世界を今という瞬間に染め上げていた。黄昏時の景色は、わずかな時間に訪れる自然の芸術でもあった。
息を飲む茜色の輝きが、次第に雲間から遠ざかり、徐々に力を無くしていく。目映い程の夕陽が千々に途切れ、静かに落ちていく夕暮れの中、闇が足下から濃くなってきていた。
建物の陰、木々の合間、握る掌の中でさえ暗い影が存在する。いつの頃からか、この町で闇夜は怖いと誰もが感じるようになっていた。本能的な恐怖心を揺さぶられる、そんな原初の闇があった。
逢魔ヶ刻。現代と、この世ならざる場所とが最も近づく刻限になろうとしていた。
家路を急ぐ人々の姿が小さくなっていく。夕陽が地上に映す影が、細長く軋んでくる。
夜をさ迷う者が姿を現すのも、決まってこの刻限だった。
それは形を持ちながら、生命を持たなかった。最初に人が気付いた時には、見ることができず、声があれば気配を消した。臆病者が不安に思う程度には、存在を主張した。何かを害するでもなく、誰かに取り付くでもなく、ただ夜の町をさ迷っていた。
朧気な姿が目撃されるようになった頃、それは人の住む場所の近くに現れていた。人を恐れないばかりか、夜の帳を隠れ蓑に、現れては消えた。一晩のうちに、何度も……。
やがて遠く離れた場所に、ほぼ同時に目撃されるようになり、人々に群れからなる群体ゆえの恐怖心を惹き起こした。まるで幽霊のように突如として現れる其れは、この世に迷い出た理由こそ分からなかったものの、出没する場所には明らかな偏りがあった。そのため、最初の目撃から一週間も経つころには、ある噂が流れていた。
それは、先日市内で発生した女子高校生四人が死亡した放火殺人事件の被害者の魂が、無念のあまり犯人を探してさ迷っている、友達に助けて欲しいと泣いているというものだった。
噂が噂を呼び、市内の各高校のサイトには噂の真偽を話し合う携帯端末ネットワークが出来たほどだった。
この噂を裏付けるように、高校付近での目撃証言がインターネットの掲示板を席巻した。中には、なんとも判別し難い心霊写真なるものまでが寄せられ、SNS上で批判コメントが殺到して関係箇所は炎上した。
まことしやかに囁かれる噂は独り歩きしていたが、四人の被害者が死亡している点についてはいずれも一致していた。
そんな噂を、支倉沙樹も耳にしていた。
自分と指して年齢が変わらない少女四人が犠牲となった事件の話は、連日テレビやニュースでも流れ、学校でも噂になった。
しかし、彼女も事件のことを詳しく知っている訳ではない。亡くなった四人の被害者の無念も、どちらかというと縁遠い話であった。
寮室内で、一人窓辺に座る彼女の顔は曇っていた。まだ朝夕は寒さが残る時期だけに、少女は黒の部屋着の上に、肩から白いショールをかけていた。考えに耽っている間に、もう陽は翳り始めていた。
室内の明りで彼女の姿が窓に写りこみ、ロッキングチェアが僅かに揺れているのが判る。外の景色と自身の姿が薄くなって硝子の上で溶け合っている。思考の海を漂うように、少女の気持ちもまた揺れていた。
彼女が住むこの学生寮は、市内の一等地にある高等学校の学生寮である。併設こそされていないが、学校に近い場所に建てられていた。通学の便が良く、設備も真新しいことから学生にとっても人気の高い寮だった。
沙樹の住む部屋などは、家具類も備え付けられていた。おかげで、日常生活に不自由はしなかった。彼女の部屋は、シンプルさをコンセプトにして設えているようだった。必要なものは、其処に有り、不必要に物を配置しない。質素であり、過不足ない印象を与える配置を沙樹は好意的に受け止めていた。
共同施設に目を向けてもテレビやインターネットが各部屋に常備され、遠方から来ている学生にとって、見知らぬ土地で長期間滞在することにストレスを感じないように考慮されていた。
また、坂が多いこの町らしく、小高い丘の一角にあるため上階からの眺望は素晴らしかった。毎年、入寮する生徒達にも上階からの眺めは人気だった。
沙樹の部屋は、三階の南側端にあり、特に毎朝の日の出が見える眺望は素晴らしかった。
しかし、いま彼女の頭の中は、どうにもならない問いで占められていた。昼間職員室に呼ばれた件が頭痛の種となって、引き摺っていたのだ。彼女を悩ませているものとは、進路に関する問題であった。進学率が高い現代、各学校は競って学生の将来を豊かなものにしようと専門性の高い教育を幾らでも準備している。ただ、本人達にとって考える時間が足りないだけなのだ。卒業まで二年以上はあるものの、自分の行き先を考えるとなると、それでも足りないとも思える。
「考えても仕方ないのかも知れないけど……」
自嘲気味に呟く少女の瞳には、迷いと悲しみの色が入り交じっていた。
「ママ、どうしたらいいと思う?」
傾げた首に、美しい黒髪が流れる。外の景色は夕闇に溶けて、彼女の問い掛けすら、音も無く包み込んでしまうようだった。
窓の外では、風が木々の枝葉を揺らしていた。音も無く揺れる様は、何処か現実感が無かった。
そんな寂寥感が胸の奥に去来した刹那、辺りを静寂が支配した。ふと、遠くで騒ぐような気配が起こる。
「何かしら?」
僅かな気配に気付いた沙樹は、立ち上がった。廊下に出るため、近くにあるテーブルから自室のカードキーを手にする。現代的にオートメーション化された設備があるため、あまり不便さを感じないが、セキュリティ面における安心は、同時に十代の少年少女には煩わしいとも感じる事がある。しかし、彼女は気にした風もなく、手にした薄いカードキーを上衣のポケットにするりと落とした。
1LDKの室内から共同通路に出ると、扉は干渉装置のお陰で、彼女の背後で音も無く閉まった。
通路の奥まで見通せる明るい照明に、沙樹は物音がしたように感じた方向へと歩いて行った。
先程の話ではないが、最近になって市内の各高校で低級騒霊の目撃証言が相次いでいた。目撃されたのは、いずれも夕方から深夜の時間帯である。仮に被害者の無念が霊となってさ迷い出て来たとしても、果たしてこのような短期間で騒霊となるだろうか。将来に希望を持ち、毎日を楽しく過ごしていた自分がもし突然亡くなったなら、悔やみきれないほど無念だろう。しかし、世を恨む霊となるには、強い妄執が必要なのではないか。沙樹には、そう思えてならなかった。
突然の死に対する不条理感はあっても、現世に残す未練が薄いのではないかと漠然と考えていた。そんなリアルな思考回路を冷めた自分が分析しているとかんがえながら、沙樹は共同通路の奥に歩を進めた。
怪談の類いは、彼女にとって驚異や畏怖の対象ではなかった。現実主義者には必要がなかったとも言える。
つまり、彼女の歩んできた道筋は決して平坦ではなかったし、きっとこれからもそうなのだろう。
彼女の中の自覚を促す暗い部分には、甘えを許す選択肢など始めから無かったのだ。
突き当たる廊下の端で、沙樹は安堵の吐息を漏らしていた。この時間、学生寮にはまだ人は少なかった。寮生の多くは県外から来たスポーツ特待生が多いため、まだ部活動で帰って来ていないようだった。
思わず漏れたのは、彼女自身の安堵の息だった。
「そうよね、馬鹿みたい……」
学生寮の三階を見回った結果、何の異変も危険もないと確認できた。自嘲的な笑みを浮かべて、少女は踵を返すことにした。
「色々と気にし過ぎだったかな……」
まだ照明が無くとも明るい廊下には、少女一人だけの影があった。
元々、彼女とて予感ほど確かな確信ではなかったのだ。最近の夢見が悪かったため、多少神経質になっていた。部屋へと戻る足は自然と速くなった。
しかし、暫くすれば本格的に暗くなってくる。その暗闇から逃れるように、少女は自室へと戻ろうとした。
だが、ここでふと、日常の学生寮での生活が頭を過った。緊張感が解けて、一気に普段の行動パターンが浮かんでくる。この時間だと、間もなく夕食という名のバトルが始まる。
今度は、別の意味での緊張感が頭をもたげてきた。
「早めに食堂に行くべきかな? みんなが帰ってからだと、争奪戦だもんね」
まるで一人暮らしが苦にならないかのような思考回路で、沙樹は日頃の寮生活を振り返った。この年頃の娘には、珍しい自律性と言える。
男女合わせて数十名が暮らすこの寮は、やはり食事時ともなれば飢えた少年少女子達が集まってくる。寮での生活は、毎日が賑やかな反面、十代には寂しいような、自由気ままで気楽でもあるような、一人だけの時間を多く与えるものだった。
沙樹は考えを纏めると、再び部屋に戻るための歩を速めた。
「……」
この時、彼女の視界に入らない隅で、何かの気配が揺らぐように動いた。音も無ければ、姿も見えない。だから気付かなかったのだ。彼女の予感が正しく、危険が迫っていることに。
それ以上、気配に動きがないことも沙樹の判断ミスに拍車をかけた。
やがて何事も無かったように陽が傾き、冷たい風が夜の訪れを告げた。
その日の夜、沙樹は寝苦しさに幾度もうなされた。
眠りは浅く、意識が浮かんでは沈むなか、狂おしい衝動が彼女を急き立てる。何かを訴えるような、胸を掻き毟るような焦燥感が彼女の世界を浸食していた。
熱に魘された時のような苦しさが、何度となく不快な波となって彼女自身の内から押し寄せてくる。季節的にも夜と思えないような熱さを感じて、沙樹は真夜中に目を覚ましていた。彼女にとって初めての経験だった。
寝苦しさで夜中に起きたという事実より、不快感が酷かった。深夜ということもあってか、少女も眉をしかめていた。
汗ばむ肌に、沙樹は額の汗を手で拭った。ベッドの上で起きあがり、座り直す。疲れたのだろうか、両手をベッドについて大きく息を吐いた。
ベッドの傍らにある窓は、厚いカーテンが半分開いており、外は暗く、何も写していない。すぐ側の壁に掛けられたスクリーン型の目覚まし時計は、深夜2時00分過ぎを表示していた。
着替えようとして、沙樹はベッドから降りようと視線をクローゼットのある方向へと向けた。気力が湧かないのか、動きも緩慢だった。
張り付く髪の毛を後に流すと、沙樹は気を持ち直してベッドから降りた。
沙樹が部屋の中を歩きはじめてすぐに、ひりとした寒気を彼女は感じた。そして、何かがガラスを踏みしめるような音が部屋中に響いた。
途端、沙樹は足取りがおぼつかないようにふらついたかと思うと、そのまま膝をついて倒れた。倒れたまま、両手で頭を抱えている。激しい痛みに見舞われたのか、その肩が小刻みに震えている。
「なに!? 頭が、痛い……」
突如、激しい頭痛に見舞われて、沙樹は踞るしかなかった。頭を押さえる彼女の周囲で、ガラスを割るような音が断続的に鳴り続ける。
何かが壊れるわけでもなく、ただ激しい音だけが鳴り響く。
急激に室温が低下しているのか、部屋中の窓ガラスが白く霜が降りたように変わっていく。沙樹の吐く息が白く染まる。有り得ない現象が、この部屋で起こっていた。
沙樹が痛みに耐えて周囲を見回そうとした時、その全身が大きくびくりと震えた。
危機を告げる本能が、沙樹の頭に警鐘を鳴らす。大音量で鳴り響くかのような危険信号に、彼女の意識は、逆に冷めていった。
背後の空間に何かの存在を感じて、沙樹は動きを止めていた。いや、動くことが出来なかった。
動けない沙樹の四肢に、何かが触れている。触れる形は人の手の形であろう。幾つもの手が、沙樹に絡み付くように触れている。だがそれは、彼女に食指を伸ばしてきた複数の存在が、すでに部屋の中に入って来ていることを示していた。
しかし、部屋の中には何も異常はない。沙樹以外、誰もいないのだ。
床に倒れたままの沙樹にとって、危機的な状況が組み上がりつつあった。
誰もいない筈の室内で、目に見えない何者かに手足を掴まれている自分がいた。
しかも、柔らかく触れているだけのような体で、まるで万力で締め付けたかのような力で身体を固定されている。突然の怪奇現象に、少女は亀のように手足に力を込めて、精一杯引き付けることしかできない。顔色はとうに青ざめていた。
しかも、見えない手に掴まれた身体が引きずられていくではないか。これには沙樹も狼狽えた。
見えない手は、少女を部屋の入口ではなく、窓側を目指して引き摺っていく。力を込めて抵抗しているというのに、見えない何者かが歩くごとにズルリ、ズルリと床を引き摺られていく。
(なに!? 何が起こってるの?)
声にならない恐怖から、沙樹は思考が追い付かなかった。見えない手が袖を掴んでいる。
でも何も見えない。目を凝らしても、周囲には誰もいない。着衣に何の変化もない。
しかし、身体は自由を奪われ、翻弄されているではないか。
引き摺られる少女の身体が、勢い良くドンと壁にぶつかった。
冷たい空気が上から降りてくるヒヤリとした感覚に、沙樹は言い知れない悪寒を感じた。
身体が持ち上げられていく感覚に、沙樹の感情を恐怖が埋め尽くしていく。振り切れるほど高まった恐怖に堪えきれず、沙樹は助けを呼ぼうと必死に周囲を見回す。左右に視線が泳ぐ。艶やかな黒髪が乱れる。
現状を打開する方策が見つからないまま、身体が宙に浮く。有り得ない現象の影響なのか、部屋の家具がカタカタと揺れ始めている。
いまだ現状に理解が追い付かないまま、沙樹の身体は足が床につかなくなっていた。何故こうなったのか分からなくとも、ギシギシと音をたてて壁の向こうへと引っ張る何者かが、彼女に食指を伸ばしてきたことだけは確実だった。
いまや小刻みに振動する部屋中の家具は、ガタガタと音をたてている。次第に大きくなる振動に、沙樹の心が追い詰められていく。
(誰かっ、助けて!)
叫んだ声は、誰に届くこともなかった。力なく息が漏れているかのように、虚空に消えた。
助けを求める手段すら消えて、少女の感情は恐怖に染まった。
(お願い、誰か助けて!)
悲痛な叫びが虚空に吸い込まれた直後、彼女の世界が反転した。不意に重力の楔を打たれたがごとく、沙樹の身体は床へと堕ちた。足がもつれ、着地できずに派手に倒れこむ。いつの間にか、部屋中の揺れは収まっていた。
倒れた少女の顔が痛みに歪む。口元には赤い血が滲んでいた。拭った手の甲に、赤色の染みがはっきりと見て取れる。
「夢じゃない……」
思わず漏れた言葉は、小さく震えていた。
「夢じゃないんだ……」
口元を拭った手に、僅かにこぼれた血の赤と口のなかに広がる錆びた鉄のような血の味が、先程の恐怖が現実だったと告げている。
沙樹の感じた確かな感覚が、彼女自身に逃れようのないリアルを突き付けていた。
「ああっ、逃がしたじゃないか。なんてことを!」
薄暗い部屋の片隅で、低い嗄れ声が叫んだ。曲がった腰、深い皺の刻まれた肌。白い髪の毛は艶も無く、その出で立ちは老婆のようであった。その身を包むのは、細かい幾何学紋様が入った生成りのローブだ。
「私の幽鬼達も消されちまった。辺鄙な極東の島国と思っていれば……」
水盤に映る影が四散して、細密画のような風景が消えていく。ゆっくりと溶けていく影は、近代的な建物の一室を映していた。
「しかし、神にかけて誓えるが、とんでもない幸運が舞い込んで来たよ。あたしにも運が向いて来たね。こんなところで、こんなに早く魔術師の血統が見つかるとは……」
薄暗い室内で、老婆は笑みを浮かべて言った。
「必ず手に入れるよ。お前の生命は、あたしのものさ」




