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レナードが帝都へと去った翌朝。私の目覚めは、この三年間で時より訪れる、爽やかな日々になるはずだった。
毎朝、私の目の前で「ああ! 今日も天使のまぶたが開かれた! 世界に光が戻った!」などと大騒ぎする夫がいない。それだけで、私の寝室には静寂という名の至高の安らぎが満ちていたのだから。
アンナの手を借りて着替えを済ませ、私は機嫌よく庭園の散歩へと繰り出した。初夏の風が心地よく、咲き誇るバラの香りが胸を満たす。
「なんて穏やかな朝なのかしら。レナードには悪いけれど、たまにはこういう息抜きが必要」
そう呟きながら、中央の噴水へと足を進めた瞬間だった。
ジャ、と妙な機械音が響いたと思うと、噴水の水柱が突如として形状を変えた。噴き上がる水の粒子が見事な水幕を作り出し、そこに朝日の光が屈折して文字を浮かび上がらせる。
『クラリッサ、今朝も無事に目覚めてくれてありがとう。私の心は常に君と共に。愛している』
「……またやったわね、あの男」
私は引きつった笑顔で額を押さえた。
帝国の技術を極めた最高峰の魔導噴水装置。本来なら要塞の防衛システムなどに使われる高度な水魔導の回路が、よりによって「留守中の妻への日替わり愛のメッセージ」のためという無駄遣いをされている。
「奥様、昨夜のうちに旦那様専属の魔導技師団が徹夜で調整していた代物でございます。『水幕の角度が甘い! これではクラリッサの美しい視線に届かない!』と、旦那様は出発の三時間前まで技師たちを叱責しておられました」
「技師たちが可哀想だから、今すぐその回路を切ってちょうだい」
「かしこまりました。……ですが奥様、あちらのバラ園もご覧になられますか?」
アンナが指さした先を見て、私は言葉を失った。
色とりどりのバラが咲き競う広大な花壇。その中央の品種だけが、見事な文字を描くように植え替えられている。上空から見下ろせば、間違いなく『愛しいクラリッサへ』と書かれているに違いない。
「……留守にする五日間のために、一体どれだけの庭師が夜なべをしたというの……」
呆れを通り越して、殺意すら覚えてくる。彼にとって、私への愛を表現することは呼吸と同義なのだ。そしてその呼吸のスケールが、一国の国家予算や国家権力と直結している点が質が悪い。
だが安らぎを脅かされたとはいえ、夫は不在だ。直接まとわりつかれないだけマシだと言い聞かせ、私は自室で読書を楽しむことにした。
午後の穏やかな陽気が部屋を満たし、静かに紅茶を嗜んでいた、その時。
廊下からバタバタと不穏な足音が近づいてきた。執事のジョセフが、普段の沈着冷静さを欠いた様子で部屋に駆け込んでくる。
「奥様! 大変でございます! ゴドウィン子爵が、大勢の供を連れて当家に乗り込んでまいりました!」
「ゴドウィン子爵……?」
私は眉をひそめた。
ゴドウィン子爵といえば、帝国の旧勢力に属する貴族で、新興でありながら皇帝の執愛を受けるレナードを極度に敵視している人物だ。実家のヴァロア伯爵家が財政難だった頃、しつこく私を後妻に迎えようと圧力をかけてきた嫌な記憶もある。
「レナードが不在であることを聞きつけてやってきたのね?」
「はい……『公爵不在の折、残された若き夫人の後見人として助言に来た』と称し、強引に第一応接室へ上がり込んでおります。明らかに当家を舐めた態度で……」
「なるほど」
私は静かに本を閉じた。
冷徹な氷血の処刑人がいない隙を狙い、若い妻を脅してローゼンベルク家の利権を揺さぶろうという腹積もりだろう。あるいは、自分の思い通りにならなかった私に意地悪でもしに来たのか。
「わかりました。私が応対します」
「奥様、危険でございます! あの者はかなり粗暴な私兵を連れております!」
「心配いりませんわ、ジョセフ。私はこう見えてもローゼンベルク公爵夫人です。夫の威光を傘に着るわけではありませんが、一過性の脅しに屈するほどヤワではありません」
私は立ち上がり、ドレスの裾を整えた。
レナードの過剰な愛には毎日閉口しているが、だからといって外の有象無象にこの屋敷を汚されるのは胸糞が悪い。たまには公爵夫人らしい働きをして、あの暑苦しい夫に貸しを作ってやるのも悪くないだろう。
私は凛とした足取りで、第一応接室へと向かった。
重厚な扉を開けると、そこには絢爛豪華なソファに深く腰掛け、不躾な笑みを浮かべる中年男――ゴドウィン子爵がいた。その周囲には、鋭い眼光をした私兵たちが五人も立っている。
「やあ、クラリッサ殿。いや、今はローゼンベルク公爵夫人とお呼びすべきかな?」
ゴドウィンは下品な笑みを浮かべ、ねっとりとした視線で私を舐め回すように見つめた。
「公爵が不在とお聞きしてね。若い君が広い屋敷で不安に苛まれているのではないかと心配し、親切心から駆けつけたのだよ」
「お気遣い感謝いたします、ゴドウィン子爵。ですが、当家は至って平穏です。用件がお済みでしたら、どうぞお引き取りを」
私が冷ややかに言い放つと、子爵は「ハハハ!」と下品な大声を上げた。




