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レナードは軍用ブーツを踏み鳴らし、まるで風のような速さで食卓へと歩み寄ってきた。洗練された身のこなしで私の椅子の横に膝をつくと、革の手袋を素早く脱ぎ捨て、私の手を取って手の甲に情熱的なキスを落とす。
「ああ、私の太陽、私の輝く一番星! 今朝の君もまた、息を呑むほどに美しく、神々しい! おはよう、私の愛しい妻よ!」
「……おはようございます、レナード。朝の警備巡回、ご苦労様でした。手袋を投げるのはやめてください。あと、ラグに埃が落ちます」
私が氷のように冷ややかな声で応じると、レナードはぞくぞくと肩を震わせ、恍惚とした表情を浮かべた。
「素晴らしい……! 朝一番の、この底冷えするような冷酷な眼差し……! 私の体内の血液が歓喜で沸騰しそうだ! クラリッサ、君のその冷たさこそが、私の荒んだ魂を癒やす唯一の薬なのだよ!」
「……褒めていませんわ。ただの注意です」
私は呆れ果てて、淹れ直された『月銀の滴』を一口飲んだ。
この男には、私の蔑みも冷遇も、すべて最高の『ご褒美』として変換されてしまう。防御力が機能していないのだ。
「ところで、レナード」
「何だろう、我が愛しき女天使よ! 君の望むものなら、隣国の領土だろうと皇帝陛下の冠だろうと、今すぐ奪って捧げよう!」
「ぶ、物騒な冗談はやめてください。不敬罪で首が飛びますよ。……私が聞きたいのは、あの壁の絵のことです」
私がすっと人差し指で北側の壁を指さすと、レナードは満足気に胸を張った。
「ああ! 気に入ってくれたか! 素晴らしい出来だろう! 昨夜の君の、あのあくびの瞬間だ! 無防備に開かれた唇、少し涙ぐんだ目元、そして無警戒に緩んだ眉根……! マスター・ヨシュアは完璧な仕事をした! 彼は我が領地の終身宮廷画家に任命し、給料を三倍に増やしておいたよ!」
「許可なく人の寝室に絵描きを忍ばせるのをやめてと言っているのです。プライバシーという言葉を知っていますか? それに、あの顔……私、ひどい顔をしているじゃないですか。あんな間抜けな顔を、よりによって来客も通すような食堂に飾らないでください」
「間抜けだなんて、とんでもない!」
レナードは力強く立ち上がり、熱弁を振るい始めた。その姿は、帝国議会で演説する最高司令官そのものだが、語っている内容は極めて低次元である。
「完璧に飾られた美しい君も素晴らしい! しかし、誰も見ることができない、私だけに向けられた(厳密にはヨシュアも盗み見したのだが)無防備な君の姿こそ、至高の芸術! 飾り気のない、人間らしい生々しい美しさなのだ! 見てごらん、あの愛くるしい口元を! あの絵を見ながら食べるパンは、普段の百倍は美味い!」
「私は、自分の変顔を見ながら食べる朝食で、紅茶がまずくなりそうなのですが」
「なんと……! 君がまずいと感じている表情すらも、実に愛くるしい……!」
「……会話にならない」
私は諦めてスコーンにイチゴジャムを塗った。
本当に、この男の脳内はどうなっているのだろうか。
社交界では「淑やかで完璧な公爵夫人」として振る舞うことを求められる私が、この屋敷の中ではただの「夫の信仰対象」に成り下がっている。愛されているといえば聞こえはいいが、これはもはや愛というよりは、新興宗教の狂信に近い。
「ああ、そうだ。クラリッサ、悲しい知らせがある」
急にレナードの表情が影を帯びた。先ほどまでの熱狂が嘘のように、深い絶望に満ちた顔で私の手をとる。
「なんでしょう」
「北方境界の小競り合いについて、皇帝陛下から至急の呼び出しがあった。今日から五日間、帝都の宮殿に滞在し、軍事会議に出席しなければならない」
「まあ!!」
私は思わず、心の底から叫びそうになる歓喜を押し殺した。
(五日間! 五日間も、この重すぎる愛から解放されるの!?)
自由だ。自分の顔の彫刻に囲まれているとはいえ、あの四六時中「クラリッサ!」「私の太陽!」とまとわりついてくる巨大な愛情の塊がいない五日間。静かに本を読み、静かに紅茶を飲み、羽を伸ばすことができるのだ。
私は極めて不器用に、落胆したような表情を作ってみせた。
「それは……大変残念ですね、レナード。でも〜公務ならば仕方ありませんね。どうぞお気をつけて行ってらっしゃいませ」
「クラリッサ……! 君もそんなに寂しがってくれるのか……!」
「え? ええ……とても寂しいです」
レナードの瞳に感動の涙が浮かぶ。私は内心でガッツポーズをした。完璧な妻の対応だ。これで彼は安心して帝都へ向かうだろう。
だが、私の甘い考えは、次のレナードの言葉によって無惨にも打ち砕かれた。
「安心するといい、クラリッサ! 君が寂しさのあまり押し潰されないよう、手配は完璧に整えてある!」
「……はい?」
嫌な予感がして、背筋に冷たい汗が伝った。
レナードはパチンと力強く指を鳴らした。すると、食堂の重い扉が再び開き、ゾロゾロと何人もの執事や下男たちが入ってきた。彼らが抱えているのは、巨大な木箱や、布で覆われた怪しげな物体だった。
「これは……何ですか?」
「君が私を恋しがって泣かないための、特効薬だ!」
レナードが誇らしげに布を払う。
現れたのは――等身大の、精巧極まりない『レナード・ローゼンベルクの蝋人形』であった。
しかも、一つではない。
笑顔のレナード、剣を抜くレナード、切なげに手を伸ばすレナード、そしてなぜか半裸でポーズを決めるレナード。計五体の、気味の悪いほどリアルな夫の蝋人形が、食堂にずらりと並べられた。
「……な、何ですか、これは……舞台の小道具ですか!?」
「君専用の、私の分身たちだ! 職人に命じて、私の型を取り、髪の毛一本に至るまで本物と同じ造形で作らせた! 私が不在の間、この分身たちを寝室や執務室、庭園のベンチに配置しておくといい! いつでも私を感じることができるだろう!」
「いりません!!!!」
私は人生で一番大きな声を張り上げた。
気品も淑女の嗜みも吹き飛んだ。
「いりません! こんな気味の悪いもの、即刻処分してください! 半裸のあなたの蝋人形と一緒に寝ろとでも言うのですか!?」
「なんと! 私の肌のぬくもりが恋しいというのか!? ならば、この服の中に抱き枕用の湯を仕込めるように改修させよう!」
「そうじゃないですって! 話を聞いてください!」
「ああ、クラリッサ! 恥ずかしがっている顔もまた、この世の何よりも美しい……! 分かっている、分かっているさ! 本当は私の旅立ちを引き止めたいのだろう!? だが許しておくれ、これは皇帝陛下の命なのだ……!」
レナードは一人で勝手に納得し、感動に打ち震えながら、私の身体を力強く抱きしめた。固い甲冑の感触と、彼特有の香木の香りが私を包み込む。
「絶対に無事で帰ってくる! 帰ってくるからな! そして帰ってきたら、今回の帝都訪問の記念に、君の姿を象った巨大な金箔の像を中庭に建設する計画を皇帝陛下に申し出てみるよ!」
「絶対に余計なことを言わないで下さい!」
「では、行ってくる! 私の愛しいクラリッサ!」
私の悲痛な叫びを「愛の拒絶という名の照れ隠し」と都合よく変換したレナードは、満足気な笑みを浮かべると、颯爽と風のように食堂を去っていった。
バタン、と重い扉が閉まる。
静寂が訪れた食堂。
残されたのは、私と、老侍女のアンナと、壁一面の私の妙な肖像画たちと――そして、五体の等身大レナード蝋人形であった。こっちを見ている気がしてならない……。
「……奥様」
アンナが静かに歩み寄ってくる。
「旦那様の蝋人形ですが、どちらに配置いたしましょうか? 半裸のものは、やはり寝室でしょうか?」
「アンナ。今すぐそれらを地下の倉庫の奥底に封印して、上から厳重に鍵をかけてちょうだい。二度と日の目を見ないように」
「かしこまりました」
私は深く、深く溜息をつき、冷めきってしまった『月銀の滴』を飲み干した。
冷酷無比の『氷血の処刑人』と、彼を心底鬱陶しがっている冷めた妻の私。
社交界の誰もが羨む(あるいは同情する)ローゼンベルク公爵夫妻の日常は、今日も果てしなく噛み合わないまま、激しい温度差と共に過ぎていくのだった。
(……はぁ。本当に、この先どうなってしまうのかしら、私の人生は)
壁の上の、あくびをしている自分の肖像画と目が合い、私はナイフを突き刺して破きたい衝動を抑え、もう一度大きな溜息をついた。




