致死量の愛
朝の光が、彩られたステンドグラスを透過して、純白のテーブルクロスの上に美しい斑模様を描いている。
私は気品ある手つきで磁器のカップを持ち上げ、ゆっくりと鼻孔をくすぐる香りを堪能した。最高級茶葉『月銀の滴』。一口含めば、爽やかな柑橘の香りと重厚なコクが口いっぱいに広がる。帝国の極東に位置する限られた領地でしか採れず、金と同等の価値で取引される逸品だ。
本来ならば、この上なく優雅で満ち足りた朝食の時間を過ごせるはずだった。
――目の前の壁一面に、自分の『ひどい顔』さえ飾られていなければ。
「……はぁ」
私はカップをソーサーに戻し、小さく息を吐いた。
広い食堂の北側の壁。そこには重厚な額縁に入った油絵が、隙間なくびっしりと飾られている。枚数にして、ざっと二十枚以上。
そのすべてが、私――クラリッサ・ローゼンベルクの肖像画であった。
中央に飾られているのは、まあ良いとしよう。結婚式でのドレス姿を描いたもので、画家の腕も確かだ。凛とした表情の美しい公爵夫人として描かれている。
問題は、その周囲を埋め尽くしている、異常なバリエーションの数々だった。
右隣の絵。それは、私が庭園でクシャミを噛み殺そうとして、凄まじく顔を歪ませた瞬間のスケッチだ。
左隣の絵。極小のハチが紅茶のカップに飛び込んできそうになり、目を丸くして身を引いた時の間抜けな一瞬。
さらにその上の絵に至っては、昨晩の不覚を描いたものだ。深夜の読書に熱中するあまり猛烈な眠気に襲われ、口を半開きにして生あくびを噛み殺している、およそ貴族の淑女とは思えぬ無防備極まりない顔である。
「奥様、お茶の注ぎ足しはいかがいたしましょうか?」
静かに歩み寄ってきた老侍女のアンナが、何事もないかのように声をかけてくる。私は壁の絵を指差し、うんざりとした心地で尋ねた。
「アンナ。あの……あくびをしている私の絵は、一体いつ増えたの?」
「は。今朝方に画家のマスター・ヨシュアが納品にまいりました。昨夜、旦那様が自らヨシュア氏を寝室のカーテンの陰に潜ませ、執筆中の奥様の姿を写生させたそうでございます」
「カーテンの陰……? 私の寝室に……?」
一瞬、自分の耳を疑った。つまり私の夫は、私が読書をしている最中、気配を殺した絵描きをカーテンの裏に潜ませて、妻の生あくびをキャンバスに写し取らせていたということか。プライバシーという概念が壊滅している。
「旦那様は『完璧だ! 無防備なクラリッサの、この地上で最も尊い一瞬が完璧に表現されている!』と、ヨシュア氏に金貨五十枚を投げ渡しておられました」
「無駄遣いだわ……」
私はこめかみを指で押さえた。頭が痛い。
しかし、恐ろしいのはこれが「食堂の壁」だけに留まらないという点だった。
このローゼンベルク公爵邸は、いまや私の肖像と意匠で埋め尽くされている。
大階段の手すりには、私の横顔を模した繊細な木彫り細密画が隙間なく刻まれ、廊下に敷き詰められた最高級の絨毯は、一見すると美しいアラベスク模様だが、上から全体を俯瞰すると私のシルエットが浮き上がるように計算して織られている。
庭園に立てば、私の実物大の銅像が春夏秋冬の装いで四季折々の花壇の真ん中にたたずんでおり、さらには回廊の柱の彫刻、ドアノブの形状、果ては私が使うチェスセットの『クイーン』の駒まで、すべて私の顔が精巧に彫り込まれていた。
家中のどこへ行っても、自分に見つめられている。
あるいは、自分に見つめられている「夫」の存在を感じざるを得ない。
――理由なら、本人の口から嫌というほど聞かされていた。
『クラリッサ! 君が公務や身内のお茶会で留守にしている間、私は胸が張り裂けそうなほどの孤独に苛まれるのだ! だが、屋敷のどこにいても君の視線を感じることができれば……君が私を見守り、時に冷ややかな目で私を蔑んでくれていると思えれば、私はどんな過酷な執務にも耐えられる!』
そう熱弁した夫の、輝かんばかりの瞳を思い出し、私は再び深い溜息をついた。
そもそも、私と彼――レナード・ローゼンベルク公爵との婚姻は、完全なる政略結婚だった。
私の実家であるヴァロア伯爵家は、歴史こそ古いが財政難に苦しんでいた。一方、若くして公爵位を継いだレナードは、北方の外敵を次々と退けた凄腕の軍人であり、皇帝からの信頼も厚い帝国の英雄だ。しかし、彼の家系は新興勢力であり、歴史と格式を持つ貴族家との繋がりを求めていた。
お互いの利害が一致しただけの、ビジネスライクな結婚。
婚姻が決まった当初、世間は私を同情の目で見た。
『あのレナード公爵は“氷血の処刑人”と呼ばれているのよ。戦場では一切の容赦がなく、冷酷無比。感情というものを母親の胎内に忘れてきた男だわ』
『可哀想なクラリッサ様。冷え切った冷たいお屋敷で、一生を終えることになるなんて……』
社交界の淑女たちがささやき合っていた言葉を、私は今でもはっきりと覚えている。
私自身も覚悟していたのだ。会話もほとんどなく、お互いに干渉せず、ただ公爵夫人としての義務を果たしていく、温度のない冷徹な生活を送るのだと。
……それが、どうしてこうなったのか。
初夜の晩、血も涙もないはずの“氷血の処刑人”は、部屋に入るなり私の前に跪き、私のドレスの裾に恭しくキスを捧げると、ボロボロと大粒の涙を流しながらこうのたまったのだ。
『ああ……シャラゼリス(愛の女神)よ、感謝します。私の生涯のすべてを捧げるに値する天女が、いま目の前にいる……! クラリッサ、君のまつ毛から髪の毛一本に至るまで、私は生涯をかけて愛し、崇め奉ることを誓おう!』
引いた。本気で引き倒した。
あまりの熱量に、私の心の中の温度計は一瞬で凍りついた。
それ以来、三年。
彼の重すぎる、深すぎる、そしてベクトルのおかしすぎる愛は衰えるどころか加速度的に増悪し、いまやこの大邸宅を「クラリッサ・ローゼンベルク聖堂」へと変貌させてしまったのである。
ズシ、ズシ、と廊下から力強い靴音が響いてきた。
重厚なオーク材の扉が左右に押し開かれる。
現れたのは、帝国の誰もが恐れ敬う最高司令官、レナード・ローゼンベルク公爵その人であった。
背が高く、無駄のない筋肉に包まれた身躯。鍛え上げられた身体に纏うのは、金糸の刺繍が施された漆黒の軍服だ。流れるような銀髪に、氷河を思わせる鋭い青の瞳。彫刻のように整った凄絶な美貌は、確かに“氷血の処刑人”の名にふさわしい威厳と圧倒的な圧迫感を放っている。
……そう、私を見るまでは。
「クラリッサぁぁぁっ……!」
私と視線が合った瞬間、彼の青い瞳から冷徹さが雲散霧消した。
代わりに灯ったのは、ご主人様を見つけた大型犬のような、狂おしいまでの歓喜と熱情である。




