第55話 『クソオヤジ』
「言い忘れていたんだが、伊織の保護者を名乗る人物が、先ほどこちらの修道院に来ていた」
尊が真顔で告げる事実。だが、それに対して、雪穂はある疑問が浮かんだ。
「えーとその…伊織の保護者の方?というのが、私と何か関係ある…?」
別に早く帰してくれというわけではないのだが、確かに自分とは無関係の話だ。
「一応同僚として知っておいてほしいという話だ」
「あー、そういうこと…?」
伊織と夜空は、この修道院に住んでいる。
おそらく、悪魔祓いとして仕事をする代わりに、家族として住まわせてもらっているというような立場なのだろうか。
「保護者の態度次第では、引き取ってもらってここを離れることになる」
「あー…だよね」
元々この仕事は、時に命に関わるほどには危ない仕事だ。
それに、彼ら兄妹はまだまだ子供である。
引き取ってどこかで幸せに暮らせるのなら、それが自然な形だろうと、雪穂は思った。
「…尊。お前はまた大事なことを省略してる。もうちょいちゃんと説明してくれ」
「どれだ?」
「しょうがねえ、俺の口からはあまり言いたくないけどな。せっかくだし雪穂の方にも言っとくか」
相変わらずに口下手な尊に対し、伊織が前に出る。その面持ちは、どうも沈んでいるように、雪穂には見えた。
「俺たち兄妹はな、"あのクソオヤジ"から逃げてきたんだ」
『俺たちはもともと、妹の夜空、そして父と3人で暮らしていた。
母は双子を産んだ負担が大きかったからなのか、俺と夜空が生まれてから、すぐに亡くなってしまった。
最初は、少し貧しいながらも、平穏で幸せな暮らしをしていた。
2人を養うために仕事をしながら、保育園の送り迎えにもしっかりと向かい、父はまさに理想的な父親だった。
だが、伊織たちが小学校に上がった頃から、父の様子がおかしくなった。
酒浸りになり、子供たちに向き合う時間が減った。
様子がおかしくなった夜空が止めに入ると、頭をひっぱたいて無理やり言うことを聞かせた。
折檻と称して、檻のような場所に入れられて、ご飯を抜かれたこともあった。
火のついたタバコを肌に押し当てられたこともあったし、顔や身体は痣や火傷の痕だらけでどんどん醜くなった。
そんな父に反抗すればするほど、父の虐待はどんどんエスカレートしていった。
やがて、そんな日常が当たり前になっていくにつれて、俺の心はどんどんそれに慣れていってしまった。
夜空も俺も、どんどん心が凍り付いていった。
今思えば、あいつは悪魔に憑かれていたのだと思う。
けれど、そいつのせいで全てが地獄に塗り替わったのは、事実だ。
だから、俺はあの『クソオヤジ』を許さない』
訳アリだろうということは察していた。
だが、あまりにもその過去は、壮絶なもので。
雪穂は、それを聞いて絶句するしかなかった。
「…どう思うよ?今更親父がノコノコと戻ってきたところで、俺は今までの暮らしには絶対戻りたくない」
「あたしが伊織の立場でも、絶対同じこと言ってるな。だって、そこまで暴力振るってきたってことだし、それに…逃げてきたって……」
「…ああ。そういうことだよ。爺さんに拾われるまで、俺は人間の心ってもんを完全に忘れてた。
見ろよ、この右眼だって、あのクソオヤジのせいで潰れたんだぜ?」
伊織はそれと同時に、眼帯をつけた右眼を指差した。眼帯の奥に隠された右眼は、きっと見るも無残な状態になっているだろうと、雪穂はしたくもない想像をした。
「ところで、夜空はどうしてる?」
「夜空か…あいつは今、爺さんと一緒にテレビでも見てんじゃねーの」
「今どき珍しいねテレビなんて。あたしもうテレビなんて全然見ないもん」
今では、テレビのない家庭というのも珍しくないという。
八坂家にはテレビこそあるが、テレビをつけても映しているのは、ほぼニュース番組か野球中継、サッカー中継くらいのものだ。
当然、スポーツ観戦など趣味ではない雪穂にとって、それは視界の外でしかなかった。
「俺以上にあいつの方が、爺さんには懐いてるからな」
「あー……」
雪穂にはどことなく、腑に落ちるものがあった。というより、伊織があの老人に対して、心を開いているさまが想像できなかったのだが、何となくそれを口に出す気はなかった。
「この恰好も、もともと夜空を守るために、わざと服装を変えて入れ替わったことがあってな。
何となく定着しちまったから、今もそれを続けてるんだよ」
「ここに来た時には既にそうだったな」
となると、この兄妹は、もうだいぶ長い間この恰好を続けているのだろうか。
ある意味、自分たちを守るための象徴的なものである、それを。
「最初はどういう事情があんのかと思ってたけど、何とか納得したよ」
「重たい背景がないと納得できなかったか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどさ、ここの人は皆ワケありって聞いてたから」
「なんだ、紛らわしいこと言うんじゃねーよ」
伊織は少々機嫌を悪くしていたが、その理由は、雪穂にはわからなかった。
「ほら帰れ帰れ、もう時間も遅いだろ」
「はいはーい」
気づけば、時刻は18時を過ぎていた。外はすっかり真っ暗だし、この時間は一人で歩くには危ないだろう。
「伊織」
「なんだよ」
目線を下に合わせる尊に、なおも伊織はばつが悪そうに返す。
「何を焦っている?」
「焦ってねえが」
「いや、焦っているように見える。彼女に聞かせたくないことでもあるのか」
「そうだとして、お前に何か不都合があるのか?」
「ある」
「…あのー、あたしもう帰っていいですか?」
一触即発の空気に、雪穂は気まずくなり、修道院から帰ろうとする。
「だから早く帰れって言っただろ」
「はいはい」
何か詮索されたくないことでもあるのだろうか。
きっとこれ以上聞き出してしまっては、伊織を怒らせてしまうだけだろう。
そう察した雪穂は、そのまま修道院から出て、家に帰ろうとする。
一体、何があったというのだろうか。
伊織が語った過去の中に、何か隠していたものでもあったのだろうか。
帰り道を歩いていた中、雪穂はそんなことを考える。
雪穂が去った後、静かになった修道院の中で、2人はまだ向き合ったままだった。
「…ああ、それは話してもらいたくはないだろうな」
尊がよく響く低い声で、ひっそりと呟く。
「お前の父親が、悪魔に憑かれてなどいないことを」




