第97話 消えゆく声、残る想い
冷たい闇がキザムの意識を完全に呑み込み、視界のすべてが深い底へと沈んでいった。
——音も、光も、気配もない。
そこは、存在の境界さえ曖昧な無機質の空間だった。
「……っ……。ここは……?」
キザムがぽつりと呟いたその声は、誰もいない空間にただ空しく吸い込まれていく。
圧倒的な冷たさと静寂の中、不意に、その魂の奥底を揺さぶるような懐かしい声が響き渡った。
『……私のチカラを、ようやくまともに使える様になってきたな……』
「その声は……っ! 【炎】の言霊かっ!」
キザムが声を張り上げると、暗闇の中にぼんやりと温かな光の揺らぎが浮かび上がった。
『あぁ、そうだ。キザムよ……お前はついに、我が全ての力を解放して戦った様だな』
「お前がこうして話しかけてくるってことは……。まだ俺は死んじまってねぇんだな!? くそっ、こんなところで時間を食ってる場合じゃねぇ! 戻らねぇと……あのツキノワを止めねぇと、みんなが……っ!」
『焦るな。だが、勘違いするなよ。仮にその身体で戻ったところで、もう二度とあの【炎】を使う事はできんぞ』
「なんだと……!? なんでだっ! 俺の左手がツキノワの硬さに耐えきれず、砕け散ちったからかっ!?」
『左手? あぁ……。そういえば、あの激突で肉体は限界を迎え、砕け散っていたな。だが、案ずるな。肉体の損傷など、我らの契約の前には些細な問題にすぎん』
「なら、なんで使えねぇって言うんだよ!」
『分かりやすく言えば……使い過ぎだ。私という存在の重みを、お前の未熟な魂がまだ背負い切れていない』
「使い過ぎだって……!? まだ数える程度しか……」
『忘れたか、キザム? 元々私のチカラは呪術に値する。これ以上、分不相応な力を無理に使い続けたところで、お前自身の命そのものを焼き尽くすだけだ。お前が死ねば、私も消える……』
「俺の命くらい……どうなったっていいっ!」
ふと、脳裏にクノの泣き腫らした顔が掠める。
『……お前は平気かもしれんが、遺された者の事も少しは考えろ。』
「それでも……! 今、ここで俺たちが負けたら、すべてが終わっちまうんだ! このままじゃ、どっちにしたってツキノワにみんな殺されるだけだろっ!」
『それでもなお、この【炎】を使いたいと言うのか……?』
「あぁ……! 俺にできることなら、なんだってする。たとえこの肉体がどうなろうとも、命を失おうとも……俺には、絶対に護らなきゃいけない人たちがいるんだッ!」
キザムの心の底から絞り出された揺るぎない決心に、【炎】の言霊は静かに、しかし深く頷いた。
『……分かった。そこまでの覚悟があるのなら、最後の一度だけ、使う事を許そう』
「本当か……っ!」
『ただし、対価は1つ。私を含む、お前の持つすべての【古代文字】に宿る言霊は、これで完全に消滅する』
「消滅……? それって、いったいどういう……」
『恐れることはない。お前の魂の代わりに、我々言霊の魂をすべて燃やし尽くし、最期の【炎】を発動させろということだ。お前自身の命を削る必要はない』
「言霊が消滅したら……お前たちはどうなっちまうんだよ!」
『完全に消えて無くなるわけではない。あくまで、術式としての『チカラ』を永遠に失うだけだ。まぁ、こうやってお前と会話する事も、二度とできなくなるがな』
「そんなの……俺のせいで……!」
『笑わせるな。お前の命を削って術を発動したところで、お前が先に死ねば、ツキノワに一太刀すら浴びせる前に絶命するだけだ。お前の命は、仲間のために使え』
「でも……っ!」
『迷っている暇はない。外の時間では、すでに一瞬の猶予もない。……必ず、一撃で決めろ、キザム』
そして、【炎】の言霊は静かに付け加えた。
『それとだ……。未熟だったお前の成長をこうして見守るのも、なかなか楽しかったぞ』
その言葉を最後に、【炎】の声は嘘のようにスッと消え去った。
――目を開けろ。
意識が現実へと引き戻される瞬間、キザムの耳に鋭い風切り音が飛び込んできた。
ザシュッ——!!
「キザムっ、危ないっ……!」
キザムが跳ね起きると、目の前では、ボロボロになりながらも必死に展開した翡翠色の障壁で、ツキノワの凶悪な爪を受け止めるクノの姿があった。
「キザム……っ! よかった、意識が……!」
クノは消滅しそうな障壁の強度を必死に緩めず、荒い息を整えながら、安堵の涙を浮かべてキザムを見上げる。
(あっちでのあの会話……現実の世界では、ほんの一瞬の出来事だったってことか……!)
「クノ! 助かったよ、ありがとう……!」
「ホント、無茶ばっかりして……! あんた、あの約束、ちゃんと守る気あるの……っ!」
クノの言葉に、キザムの胸が熱くなる。
それは、この戦争が終わったら、二人で静かに暮らそうと交わした大切な約束だった。
「当たり前だろ……。絶対勝って、生きて帰る!」
キザムは決意を込めると、ツキノワの圧倒的な気配の前で、砕け散ったはずの左手をゆっくりと掲げた。
その痛々しくひしゃげた掌に、彼は最後の【炎】の文字を丁寧に刻み込む。
——言霊たちの魂を代償に。
パァッと、白炎と黒炎が凄まじい勢いで混ざり合い、キザムの身体をふたたび二色の強烈な炎が包み込んだ。
しかし、先ほどまでの荒々しい拒絶感はない。それはあまりにも洗練され、キザムの魂と完全に一体化した「究極の炎」だった。
その異変を察知し、クノは瞬時に判断した。
彼女は自分の手から溢れる限りのチカラを込め、キザムの砕けた左手へと渾身の『治癒』を叩き込む。さらに、その両手を幾重もの柔らかな障壁で優しく、しかし頑丈に包み込んだ。
「これならもう、ツキノワの身体に直接触れても、二度と骨は砕けないでしょ……!」
クノは涙を拭い、満身創痍の笑顔をキザムに向けた。
キザムはしっかりと頷き、真っ直ぐにツキノワを見据える。
「クノ、行ってくる」
「うん……! いってらっしゃい、キザム!」
すべての想いと、仲間たちの魂の灯火をその両手に宿し、キザムはすべての理不尽を焼き尽くすため、最後にして最強の戦場へと踏み出した——!




