第91話 二色の炎、交錯する覚悟
冷徹な静寂を切り裂くように、無数の「ツキノワの分身」が黒い影となって迫り来る。圧倒的な包囲網の中、サンズイは愛刀【紅葉】と【緑葉】を杖代わりに、必死にその身を起こそうとした。
「トウコ、もう一度アレを……ッ!」
だが、先ほどの激闘で肉体は完全に限界を超えていた。蓄積した疲労と出血が神経を蝕み、サンズイの膝はガクガクと激しく痙攣したのち、再びその場に崩れ落ちる。
「サンズイはん、あきまへん! もう動けへんやないか……。それやったら、ウチが……!」
トウコは夫の代わりにと、震える手で刀を受け取ろうと差し出す。しかし、サンズイはそれを自らの血にまみれた手で強く制し、かぶりを振った。
「ダメだ……。この術自体、二人で修行はしたものの、トウコ、お前にはまだ術の片鱗すら見えていなかった……。これを扱えるのは、俺しか……!」
トウコの瞳に悔し涙がにじむ。しかし、サンズイの膝はもはや自重を支えることすらできず、力なく折れ曲がったままだった。
「万策尽きたか。これで幕引きだ」
嘲笑うようなツキノワの声とともに、幾重にも重なる分身たちの手刀が一斉に振り下ろされる。死の影が、まさに二人を呑み込もうとしたその瞬間——。
ゴォォォンッ!!
凄まじい爆発音が戦場の空気を揺るがした。
ツキノワ達の手が一斉にピタリと止まる。あと一瞬でも遅ければ、冷酷な刃がサンズイとトウコの肉体を貫いていたであろう死の淵。その爆煙を切り裂いて現れたのは、傷だらけでありながらも不屈の闘志を宿したキザムとクノの姿だった。
「まだ生きていたか……。まぁいい。たとえ生きていたところで、術の正体も分からぬ者など、何度やっても結果は同じだ」
ツキノワは冷ややかに鼻を鳴らすと、標的をサンズイたちから、新たに現れたキザムへと切り替えた。無数の分身が、一斉に恐ろしい殺意を纏ってキザムへと群がり始める。
「クノはサンズイ達を頼む! コイツらは俺に任せろ!」
「わかった……っ!」
キザムは仲間たちが追撃されないよう、自らわざと大股で敵を引きつけながら、戦場の外縁へと大きく飛び退いた。ツキノワの分身たちは、その動きに釣られるように一斉にキザムを追って移動していく。
その一瞬の隙をついて、クノはサンズイとトウコの元へ全速力で駆け寄った。
彼女の掌から眩い光が放たれ、限界を迎えた二人の肉体へと渾身の『治癒』の術式が注ぎ込まれる。
「クノ、助かったぞ……!」
「ホンマにありがとう、クノはん……!」
治療を施しながら、クノは何も言わずにただ静かに、強く頷いた。その瞳には、恐怖の色は微塵もない。勝っても負けても、これが自分たちの最後の戦いになる——。仲間たちの最期まで、この目にしっかりと焼き付けなくてはならないという、揺るぎない決心の表れだった。
「キザム1人にはしておけん……! トウコ、頼む!」
体力がいくらか戻ると、サンズイは鋭い視線を戦場の中心へと向けた。トウコは迷うことなく頷き、先ほどと同じようにサンズイの背に手を当てて、青く輝く【wind】のスペルを付与する。
そして、顔の前でしっかりと両手を合わせ、切なる祈りを捧げた。
「トウコ……行ってくるぞ」
「……いってらっしゃい」
トウコの声は震えていなかった。覚悟を決めた妻の穏やかな送り出しに背中を押され、サンズイは再び戦場へと舞い戻る。
その足元からは、風の奔流と激しい白波が複雑に混ざり合った、新たな術式が轟音とともに浮かび上がっていた。
(待っていろ、キザム! もうお前を1人にはさせん……ッ!)
一方、キザムは無数のツキノワの分身たちに囲まれ、完全に退路を断たれていた。しかし、その顔色に焦燥や恐怖の色は一切ない。むしろ、彼の瞳の奥には静かで激しい闘志の炎が灯っていた。
「これだけ離れれば、クノもトウコも巻き添えにはならないだろ……」
「巻き添え……? 誰1人として、この空間から逃がすはずがないだろうが」
冷酷な嘲笑を浮かべ、ツキノワの分身たちが一斉に牙を剥いて襲いかかる。
だが、キザムは慌てず落ち着いた表情でゆっくりと息を吐き出した。
——覚悟を決めた男の指が、静かに動く。
キザムは自身の右手の親指を歯で強く噛み切り、鮮血を滲ませたその指で、左手のひらに深く、力強く【炎】の文字を刻み込んだ。
文字の上半分【火】には、クノやトウコ、そして愛する里の人々を「護る」という温かな想いを込める。
文字の下半分【火】には、仲間を弄び、理不尽に命を奪おうとするツキノワに対する、底知れぬ「憎悪」と怒りを込める。
キザムの手のひらで、言霊が激しくうねり狂い、新しい【炎】がその姿を現した。
——それは、左右で全く異なる色を放つ異常な炎だった。
右の掌にはすべてを焼き尽くすような漆黒の黒炎が渦巻き、左の掌にはすべてを浄化するような神々しい白炎が激しく燃え盛る。一つの術式に込められた相反する強大な想いが、かつてない奇跡のチカラを引き出していたのだ。
「――お前たちの相手は、俺だ」
二色の炎を両手に纏い、キザムは圧倒的な絶望の群れに向かって、その足で大地を強く蹴り飛ばした。




